第十三話 新時代の力
一筋の冷や汗が、ネイの頬を伝って落ちていく。
眉間に力がこもり、険しい顔になっていることだろう。
だが、気は抜けない。ネイは、ただ一点だけを見据えた。
眼前には、とても奇妙な代物がある。
上下に並ぶ黄色と赤色の液体――よく観察すれば、少しも混ざり合ってないというわけではなかった。二色の境目が、ほのかに緑色へと変化している。
ネイは息を呑んだ。小さなグラスを指で抓む。
どこか恐怖を抱きながら、口の中へと一気に流し込んだ。
かなり酸っぱい。だが次第に、味わい深い甘みが広がる。
果実特有の甘味と香りが、口と鼻を同時に支配した。
「うっ……美味ぁああああいっ!」
「だろう? 女性には結構、人気の酒なんだ」
酒場の大男が、にっこりと微笑んだ。
「これって、なんの果実を使ってるの?」
「シルグレイド大陸にある地方に、中身まで紅い苺みたいな形をした林檎がある。その果実を使用して作った酒だよ」
ネイは小首を傾げた。
「あの黄色いのは?」
「実は、それも同じ果実だよ。成熟する前は、まだ黄色い。同じ果実を使っているのに、まったく別々の味になるのが、この酒のいいところだ」
「はぁん……ちょっと気に入っちゃったかも。今度は通常のサイズでちょうだい」
「はいよ」
さすが港町だけのことはある。
自国では見られないような、珍しいお酒で溢れていた。
本当はがぶ飲みでもしたいが、それは自重しておく。
まだ日が高い。酔うには早過ぎる。
しかし、まだ一杯目にも満たない量のはずだった。
それなのにもう、すでにほろ酔い加減となっている。
正直、理性を保たせる自信などない。
「ほいよ」
さきほどのお試しではなく、通常サイズのお酒が来た。
陽気に鼻歌を歌いながら、ネイはお酒を楽しむ。
「いやいや、マジだって! 俺、すぐ傍にいたんだぞ!」
「ふぅん……」
「暗雲が扉になって、そこから黒剣っぽい片翼をした神様が通ってきたんだ!」
酒場ならではの与太話も、案外いい肴になる。
ちびちびとお酒を嗜みつつ、ネイは耳を傾けた。
「そこで、俺の近くにいたジオ様って兄ちゃんのご登場だ。その兄ちゃんが、空を見つめながらこう言ったんだよ」
『へっ――いきなり呼び出されたってのに、わざわざ律儀に来てくれちゃってまあ……心の底から申し訳ねぇと思うが、早々にお帰りいただくとすっか』
語る男は、真似だと思われる物言いをした。
それから、今度はやや緊迫した声音で続ける。
「そんときは俺も混乱してたってのもあったから、あんまり意味がよくわからなかったんだが……その兄ちゃん、翼人の坊やを背に空へと飛んでったんだ。そんででっけぇ黒い拳を作って、バカでかい声でこう叫んだんだ」
『ジオ流必殺奥義! とっとと帰りやがれパァアアンチ!』
語る男は、どうやらまた口調と声を真似たらしい。
少しの間、沈黙が広がる。
語る男は意を決したような、重い声を紡いだ。
「正直、俺は人生で初めて、開いた口が塞がらねぇってのを思い知ったぜ。一人の人間が神様ぶん殴って、雲の扉の奥に押し返したんだ。全員、唖然だったぜ?」
「……ふむ。お前、病気かもしれねぇな。医者、行くか?」
「いや! だからマジなんだって! カァーッ! 目撃者がもっといりゃあな!」
実にばかばかしい、空想的な与太話であった。
ただ、ほろ酔い気分のネイは考える。
神殺しの獣――
(うちの荷物持ち君も、似たことはできるかもね……)
いったいなんの神で、どんな存在なのか、話からでは何もわからない――ただ、どんな神であれ、限界突破を併用した黒白ならば、可能かもしれないと思えた。
ネイは少し、そんな妄想を漠然と働かせる。
ほどなくして、不意に背後で荒々しい物音が飛んだ。
今度は別の場所で、男二人の言い合いが始まる。
「紋章術なんて、もう時代遅れだって言ったんだ」
「んだとぉっ?」
「試しに紋章術、撃ってみろよ?」
なにやら、物騒な気配を感じ取る。
ちらっと目を向けると、船乗り二人が揉めているらしい。
「やれやれ……やるなら、余所でやってくれよ」
酒場の店主が、ため息まじりに言った。
しかし、男達は耳を貸さない。
「後悔すんなよ」
「おう。来いよ」
紋章者の船乗りが、淡青をした紋様を浮かべた。
「水の紋章第二節、飛魚の快進撃」
魚の形となった水が、煽った男へと直撃する。
ネイは一気に、ほろ酔いが醒めた。
男は平然としており、服が濡れた程度に過ぎない。
その様子は、まるで――
「ガッハッハッ! あぁ~。ちべてぇ、ちべてぇ」
「んな……」
紋章術を放った男が、怪訝な顔でたじろいだ。
水に濡れた男は颯爽と前を進む。
「ほんの少し、お返ししてやるぜ」
対立していた男の肩に左手を置き、水に濡れた男は不敵に微笑む。それから男のお腹へと、そっと右手を向かわせた。
その瞬間――激しい破裂音が響き渡る。
「がはっ……!」
途端にお腹を抱え、男は床に膝をついてから倒れた。
水に濡れた男は腰に両手を置き、豪快に笑い飛ばす。
「ガッハッハッ! どうだ? これが、新時代の力だ!」
周囲の男達と同様、これにはネイも震撼するほかない。
紋様も詠唱もないままに、紋章術らしき力を使ったのだ。
国際大会決勝戦での出来事が、ネイの脳裏によみがえる。
焦りから、見落としたのだと思っていた。だが、違う。
耐性が高いと、そう睨んでいた。それもまた、違う。
今さらになって、その不可解な謎が晴れた気がする。
新時代の力を、決勝戦の相手も持っていたに違いない。
ネイは席を立ち、水に濡れた男へと歩んだ。
「ねえ。その新時代の力とやら、私にも教えてよ?」
「あん?」
水に濡れた男が、訝しげに振り向いた。
まるで舐め回すような、いやらしい目つきへと変化する。
男は唇に嫌悪感を抱く笑みを乗せてから言った。
「冒険者か? へっ……一晩付き合うってんなら――っ?」
ネイは言葉を待たず、まずは体術で男を床に転がした。
取り押さえた状態で短剣を抜き、男の首元に添える。
「私を誰だと思ってんの? いいから、吐きな?」
男の顔に、焦燥の念が宿る。
付近にいた男が、たどたどしく呟いた。
「国際大会優勝者……無敗の女帝じゃないか……?」
「ああ、確かに……見た記憶があるや」
その言葉から、男の顔はさらに引きつった。
今度は、ネイが不敵に笑って見せる。
「さあ、ご自慢の新時代の力、話してもらおうかしら?」
「くっ……」
ネイは余すことなく、力ずくで男を問い詰めていく。
やはり国際大会で戦った者と、よく似た代物だと思える。
その点に関しては、納得のいくものであった。
だが不可解な疑問は、また新たな疑問を呼び込む。
まるで少しずつ、奇妙に侵食されているような――
そんな漠然とした不安が、ネイの胸に募った。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
咲弥は気を取り直した直後、ある事実に気がついた。
撃たれる前に現れた者の気配が、もうどこにもない。
視線で探るや、すぐにその理由を呑み込めた。倒れている様子から、オリヴィアが背後から斬って処理したらしい。
(まずい……)
頭痛も収まらず、また額から流れる血も止まらない。
何度も目に入りかけるせいで、視界が著しく狭まった。
「おい」
オリヴィアが、自身の腰にある布を細剣で裂いた。
そして細くした布を、迅速に咲弥の額に巻きつけていく。
「うっ……すみません。大切な衣服を……」
「気にするな。無事で本当によかった」
「ありがとうございます」
負い目を感じたものの、それに浸っている暇はない。
頭痛はやまないが、流れる血は止められた。
咲弥は気を引き締め、オリヴィアと前を進む。
道中に何名か盗賊が現れたが、空裂きで対処していく。
そうしてやっと、木造船の付近にまで辿り着いた。
「やはりこんな玩具じゃ、紋章者にゃ通じづらいやな」
野太い声とともに、甲板から男三人が飛び降りてくる。
アジトの親分だと思われる男と、その側近達に違いない。
禿頭の男が、険しい顔で睨みつけてきた。
「アジトを滅茶苦茶にしやがって……ただじゃおかねぇぞ」
「奪った積荷、返してもらおうか」
オリヴィアが、毅然とした態度で臨んだ。
寡黙そうな男と禿頭の男が、一歩を前に出る。
「頭領。ここは、俺らが引き受けるぜ」
男二人は腰に帯びた湾刀を抜き、斜に構える。
片手で湾刀を、前に突き出した。
咲弥は黒白を構え、オリヴィアに告げる。
「オリヴィアさん。気をつけてください」
「ああ。わかった」
オリヴィアの了承を聞き、咲弥は先陣を切った。
相手の男二人もまた、向かい来る。
盗賊の頭領は動かない。事の成り行きを見守っている。
当然の話だが、傍観に徹するとは決して思えない。
妨害はしてくる――そう断定しておくほうが賢明だろう。
同時に襲いかかってくる二つの湾刀を、咲弥は頭領を気にかけながらも黒白でいなした。そのまま流れるように片方へ黒爪を送り、もう片方に白爪を振るう。
だが、届かない。湾刀で黒白が弾かれる。
見た目からも鋭利そうな爪を、かなり恐れているようだ。
どちらも剣士としての熟練度が高い。また判断力もある。
背後から滲む気配を覚え、咲弥はいったん身を引いた。
予想通り、オリヴィアの勇ましい声が響く。
「風の紋章第一節、疾風の乱舞!」
淡い黄緑色をした風が、オリヴィアから激しく流れた。
擦り切れた音を轟かせ、暴風が男二人へと吹き荒れる。
この瞬間、咲弥の目に信じられない光景が飛び込む。
まず頭に思い浮かんだのは、魔人のニギルであった。だが彼らは魔人とは違い、エーテルを纏っていない。いくらまだ未習得とはいえ、それは一目瞭然だった。
漠然と、しかし鮮明なくらい、過去の記憶がよみがえる。
(ラグラオさんと……同じ?)
訳がわからない展開に、咲弥は困惑する。
ラグラオは、耐久力の優れた獣人であった。
ただ眼前の男達は、それこそ普通の人間にしか見えない。それなのに、攻撃系統の風の紋章術をまともに受けながら、勢いよく前進してきている。
咲弥は眉をひそめた。男達の動きに変化がある。
おそらくは、こちらの数を減らす算段だと呑み込んだ。
一呼吸の間もなく、オリヴィアを護るため黒手を振るう。
「黒爪空裂き!」
だめ押しのつもりで、オリヴィアの風に空裂きを乗せる。
男達の目の色が代わり、同時に湾刀が空を断裂した。
斬られた空裂きを見ながら、オリヴィアの前に移動する。
咲弥が黒爪を扱い、男達の進行を阻害した。
そのとき、上空から野太い叫びが飛ぶ。
「雷の紋章第六節、破滅の雷光」
睨んだ通り、盗賊の頭領が参戦してきた。
まるで亀裂のごとく、無数の雷撃が落ちてくる。
攻めか守りか――白爪を振る余裕はない。
咲弥は咲弥はオリヴィアを連れ、大きく後ろに飛び退いた。
そこで再び、咲弥は眼を剥く。
「はっはぁ! 雷拳でもくらいやがれ!」
頭領が詠唱もなく、いきなり紋章術を発したのだ。
白い雷球が凄まじい音を轟かせ、落下のごとく迫る。
かなり広範囲と思しき紋章術に、咲弥は肌が粟立つ。
即座に白爪空裂きで、雷球をかき消そうと試みた。
男二人が左右から、湾刀を薙いで邪魔をしてくる。
一斉攻撃に、咲弥はなすすべがない。
やはりおかしい。このままでは、雷球は仲間にも当たる。
しかし男達は、気にした様子がない。
片方の湾刀を黒爪で弾き、白爪を雷球へ向かわせる。
禿頭の男が放つ剣技の軌道が、途端に蛇みたいに変わる。
咲弥の白爪を、湾刀で叩き落とした。
「んなっ!」
もう白爪は間に合わない。直感的に悟った。
ひどく焦った咲弥の脳裏に、多くの思考が激しく巡る。
オリヴィアの想い、そして願い――
彼女の目的、それから覚悟――
このままでは、自分もろとも彼女もやられてしまう。
そんなとっさの思考が、自然と咲弥の体を動かした。
咲弥は背後に強く飛び、オリヴィアに背で体当たりする。
「あっ……」
吹き飛ぶオリヴィアから、驚きの声が発せられる。
そのすぐ後のことだった。
雷球は男達もろとも、咲弥へと直撃する。
全身の神経が縮むような、強烈な熱と痛みが生じた。
「ぐぁああああっ――!」
「咲弥ぁあああっ!」
ついには、耳もやられたらしい。
オリヴィアの悲鳴が重なって聞こえた。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
リックスとベティナルを背後に、紅羽は洞窟内を駆ける。
本当は、咲弥のもとへ早く駆けつけたい。しかし頼まれた以上、二人を置き去りにはできなかった。その結果、男達の進む速度に足並みを合わせている。
不意に背後から、深いため息が聞こえてきた。
「はぁ……お嬢、大丈夫っすかね」
「何かあったら、周りの奴らからリンチされるだろうな」
「うへぇ……だから、やめとけって言ったっすのに……」
「咲弥様が傍にいる限り、何も問題ありません」
リックスとベティナルの会話に、紅羽も加わった。
紅羽は肩越しに、青髪と金髪の男達を振り返る。
「むしろ危ないのは、彼のほうかもしれません」
「えっ?」
男二人は驚いたのか、目を丸くして声を発した。
紅羽は前を向き直り、そのままの姿勢で補足する。
「少し頼りなく映るかもしれません――ですが、彼は誰かのためともなれば、死ぬ寸前まで頑張ってしまいますから」
「ああ……そんな雰囲気は、確かにあるっすね」
リックスの呟きに、ベティナルが短く笑った。
「それに関しちゃ……ある意味、俺らも負けてねぇかもな」
「まっ……俺もベティナルも、軍人上がりっすからね」
「負けていない――どういうことですか?」
紅羽は振り返らずに、疑問を述べた。
ベティナルが、事情を簡潔に語っていく。
それはオリヴィアの父親から、今現在に至るまでの話だ。
紅羽はやや視線を落とし、漠然とした嫌な予感を覚える。
もし咲弥がこの話を聞けば、確実に命を張るに違いない。
そこが彼のいいところでもある。ただ不安は尽きない。
国際大会後、あの瞬間――紅羽の胸に欲が湧いた。
それがだめなものだと、紅羽自身しっかり自覚している。だが膨れ上がる感情を抑えきれず、彼と口づけをかわした。のちに、深く自省する。
抑え込まなければならない感情だと、そう己を律した。
彼の最終目標となる、邪悪な神――魔神を討ち果たす日がくるまでは、浮ついた気持ちでいてはいけない。
おそらく、それぐらい重大な使命に違いないからだ。
ただガルス族ジークとルアンダの件から、また欲が湧く。
去り行く二人を眺め、心から羨ましいと感じた。
紅羽の頭と心に、齟齬が生じている。
本音を言えば、彼に危険な道など進んでほしくない。
どこか安全な場所で、ひっそりと二人で日々を送りたい。
そんな感情が溢れ、胸の奥がひどく痛んだ。
当然、彼は決して立ち止まらない。
それは紅羽も、重々承知している。
両親と再会するといった願いを、彼は持っているからだ。
そこが少し釈然としないが、使命を果たさない限り、彼の願いは叶わない。
だからすべてが終わったあとに、想いを打ち明けるのだ。
きっと彼は、受け入れてくれるだろう。
二人で世界中を見てまわり、戦いのない平穏な日々を――
そんな未来への夢想が、尽きることはない。
紅羽は自身を窘め、また前を向く。
今は妄想に浸っている場合ではない。
帝国式ではないが、銃を所持した者が複数いるのだ。
咲弥も紋章者として、仕上がってきてはいる。それでも、当たりどころが悪ければ、呆気なく死んでしまうだろう。
エーテルを纏えば、おそらくそこまで大事には至らない。
しかし彼はまだ、その域に達していなかった。
(咲弥様……)
不安を胸に抱え、紅羽の足はつい速さを増した。
そのとき――遠くから、いくつかの銃声が聞こえる。
「すみません。急ぎます!」
やや遠くなってしまった二人に、紅羽は口早に伝えた。
洞窟内を進み、やがて大空洞を見下ろす場所へと出る。
まるで港町の一部を切り取ったかのような、かなり複雑な構造をした木製の施設には、人の気配が点々と滲んでいた。確かに、隠れ家らしさがある。
紅羽は迷うことなく、その目で咲弥の姿を捉えた。
ほぼ同時に、大きな雷の塊が彼へと落ちる。
彼の体は痙攣したかのごとく、宙へと大きく跳ねた。
紅羽はぞっとする光景に、息を呑む。
瞬間的な速さで、事態を把握するや――
「咲弥様ぁあああっ!」
それは叫びというよりは、悲鳴に等しいものだった。
手摺りを踏み砕き、紅羽は咲弥のもとへと飛ぶ。