第十三話 限界突破の使いみち
空色の紋様を素早く浮かべ、咲弥は叫んだ。
「水の紋章、僕に力を!」
紋様が砕け、四つの青い渦が咲弥の付近に生まれる。
渦は回転の速度を増し、破裂音を響かせて水弾を放った。
間違っても、男の子に当てるわけにはいかない。とっさの判断ではあるが、大柄なゴブリンの下半身に狙いを定めた。
ほんの刹那の気の迷い。それが、いけなかった。
水弾を避けられ、奥の小柄なゴブリンに水弾は命中する。
(くっ……!)
紋章術での攻撃が失敗に終わり、咲弥の目もとが歪む。
そんな咲弥の隣を、ネイが凄まじい速度で追い抜いた。
ネイからの風圧に驚き、咲弥はつい足を止める。
どうやら固有能力、疾風の舞を発動しているらしい。
ネイは短剣を逆手に持ち、ひらりと斬撃を繰り出した。
男の子を掴んだゴブリンは、巨体のわりに動きが素早い。
ネイの短剣が空を斬る。
大柄なゴブリンが、ネイに向かって槍を突いて反撃した。
すっと回避してから、ネイは投げナイフで反撃に転じる。
ほかのゴブリン達とは、明らかに毛並みが違う。大きさも装備も、何もかも一体だけが、異質な雰囲気を纏っていた。
(きっと……ボス格かなんかなんだ)
咲弥はそう分析しつつ、別の場所へと視線を滑らせた。
咲弥の判断は、少しばかり遅い。
ボス格はネイに任せ、ゼイドはほかのゴブリン達を次々に仕留めている。自慢の大斧で、一度に二、三体のゴブリンを薙ぎ払っていた。
再び、ネイに視線を――そのときであった。
ネイのずっと先にいる影に、咲弥は目を丸くする。
別の大型ゴブリンが、大槌を持って飛び上がっていた。
大槌を天高く振り上げ、一気に地面へと打ちつける。石の地面が豪快に砕かれ、その破片がネイのほうへと飛ぶ。
ネイはひらひらとかわし、投げナイフを放ちつつ離れた。
次第に地響きが激しさを増し、鳴りやまなくなる。
突然、あちこちで落盤が発生した。
「ネイさん! ゼイドさん!」
激しい崩壊の音に、咲弥の張った声がかき消される。
少しずつ視界が薄暗くなり、咲弥は即座にネイから貰った紋章具の蓋を開いた。
光球のお陰で、見違えるほど場が明るく照らされる。
落盤は落ち着いたものの、誰からも反応はない。
不安を胸に募らせ、咲弥は奥歯をぐっと噛み締めた。
男の子を掴む、ゴブリンボスだけが目の前にいる。
胸の内側に湧く恐怖を、咲弥は噛み殺すように声を紡ぐ。
「その子を……離せ!」
ゴブリンボスは、不気味に嘲笑する。
いまだネイ達から、なんの反応もない。
落盤に巻き込まれ、死んだとは思いたくなかった。だから動けないぐらいの怪我を負ったか、崩れ落ちた瓦礫のせいで来られない――二つの可能性が浮く。
いずれにしても、すぐに来られるわけではない。
戦慄とともにやってきた焦燥感を、必死に抑え込んだ。
男の子を救えるのは、今は咲弥をおいてほかにはいない。
「僕が……やるしかない……!」
咲弥は自身にそう言い聞かせ、心を奮い立たせた。
まずは一歩を、前に踏み出そうと――
「あぐぁっ! あっ! あっ……!」
突然、男の子が悲痛な声でうめいた。
咲弥は瞬間的にびくつき、ゴブリンボスを睨みつける。
咲弥の動きを敏感に察し、男の子の首を強く締めたのだ。
下手に動けば、男の子の首がへし折られるかもしれない。
人質という概念を持つ魔物が、とても恐ろしく思った。
(どうする……どうすれば、助けられる……)
咲弥は必死に、思考を働かせた。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
ネイはやれやれと、深いため息をついた。
(……困ったもんね)
岩石の一部に触れながら、ネイは心の中で呟いた。
崩落を起こした主犯は、もうどこかに姿を消している。
ただ抜け道に近い通路が、一つだけ残されていた。
わざと道を残し、誘っているつもりなのだろう。
唯一の通路の前に立ち、またため息が漏れた。
先には、嫌な気配が色濃く充満している。
待ち伏せ、または無数の罠が待ち構えているに違いない。
「しゃあない……」
オドを多少消耗するが、それは諦めるしかない。
右手を胸の辺りに引き寄せ、若草色の紋様を顕現する。
「風の紋章第一節、暴虐の風神」
紋様が砕けると同時に、ネイは右手を前へ伸ばす。
荒々しい強風が吹き、瓦礫をも巻き込んで流れていった。
奥のほうから、いろいろな音が飛んでくる。
予想した通り、罠が次々に発動しているようだ。
とはいえ、油断などできない。
ネイは再び、若草色の紋様を虚空に描きだした。
「疾風の舞」
固有能力を発動して、風が流れ込むように先へ進んだ。
道中、待ち伏せていたゴブリンの群れを発見する。
素早く投げナイフを放ち、ゴブリン達の額に刺していく。
罠を壊されたからか、どの個体も激しくうろたえていた。
戦意を喪失した獲物は、欠伸が出るほど狩りやすい。
少しして、穴だらけの広い空間に出た。
不出来な矢が、途端にネイの視界に入る。
「……おおっと?」
ネイの速さを見事に捉えた、正確な攻撃であった。
付近に、格の高いゴブリンがいる。
ネイは広い空間の、中央付近で立ち止まった。
視線を流して、同時に気配も探る。
数ある穴の一つ――醜い容姿のゴブリンを見つけた。
大槌を背負ったゴブリンが、大弓を引き絞っている。
大槌もそうだが、人の作った武器を使っていた。おそらくどこかで拾ったのか、はたまた奪ったのか――ただ矢自体はお手製らしい。
不出来な矢を射るなり、すぐに穴の奥へと引っ込んだ。
(こんなの、当たんないけれど……面倒なやつだわ。これ)
ゴブリンが姿を現すたびに、ネイは投げナイフを放った。
即座に身を隠したゴブリンが、また別の穴から矢を射る。
お互い無傷のままだが、ネイはオドを消耗し続けていた。
そのうえ、投げナイフの数にも上限はある。
「あぁああああ、もう! 鬱陶しいっつぅーの!」
いら立ちを募らせ、ネイは疾風の舞を解除する。
それから、合計八本の投げナイフを指の間に挟んだ。
ネイは自身のオドを、投げナイフに纏わせる。
投げナイフは、紋章効果が宿された武器ではない。しかしオドを纏うことによって、速度と威力が格段に増すのだ。
「おい、うざゴブ! 次、姿見せたら殺すから!」
言葉が通じないと理解したうえで、ネイはそう伝えた。
多大にオドを消耗するが、長期戦になるよりはいい。
「私の本気を、最期に見せてあげるわ」
若草色の紋様を浮かべ、ネイは力強い声を紡いだ。
「疾風の極意」
輝く紋様が砕け、ネイを中心に激しい風が巻き起こった。
吹き荒れる風に投げナイフをあずけ、また紋様を描く。
ネイは静かに、そのときを待つ。
神経を研ぎ澄まし、ひたすら気配を探り続けた。
「……来た! 雷の紋章第三節、天翔ける雷神」
ネイは口早に唱えた。
黄金色に輝いた紋様が、豪快に弾け飛んだ。
バチッと短い放電の音が、連続して鳴り続ける。
ゴブリンの姿を視界に捉え、ネイは指を差した。
「おしまい」
吹き荒れる暴風が、雷を纏う投げナイフを吹き飛ばした。
瞬時にゴブリンを貫いた直後、激しい雷鳴が轟く。
凄まじい雷撃が襲いかかり、ゴブリンは地に伏した。
ただ自身のオドを纏わせただけでは、きっと確殺までには至らない。だから、疾風の極意でさらに上乗せをして、だめ押しに雷の力で体内から焼いたのだ。
やや黒焦げたゴブリンの傍に、ネイは詰め寄る。
深く突き刺さった投げナイフの一つを、ぐっと引き抜く。
刃の部分も含め、ぼろぼろと崩れ落ちてしまった。
「はあ……また新しい投げナイフ、たくさん買わなきゃ」
ぱんぱんと、手についた焦げをこすり払った。
(さて……早く戻らないと、私の荷物持ち君が心配ね)
男児を掴んでいたゴブリンが、この巣の親玉に違いない。そんな親玉と咲弥が対峙していた場合、非常に危険だった。
ゼイドと一緒であれば、それほど問題はないとは思える。
だが、もし咲弥一人であれば、殺される可能性は高い。
それほどまでに、彼はあまりにも無知過ぎるのだ。
紋章者のわりに、あれこれについての知識がまるでない。大部分の記憶を失っていると、そう勘繰ったほどであった。
しかし、どうやらそういうわけでもない。
単純に知識が乏しいだけなのだと、接してみてわかった。
だからおそらく、彼は知らないだろう。
本当に格の高い魔物が、どんな存在なのか――とはいえ、ネイがほんの少し本気を出せば、それで終わる話ではある。
さきほどのゴブリンは、かなり腹立たしかったから本気で駆除したが、本来なら仕事外であまり力を使いたくはない。
二人を救出したあとは、ゼイドに任せてもいいと考えた。
「……それにしても、魔法って見たことあんのかな?」
少し悩んでから、ネイは戻れる道を探した。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
無駄に時間だけが過ぎ去った。
首を掴まれた男の子は、まだかろうじて無事ではある。
咲弥の頬を、一筋の汗が流れ落ちた。
何も光明を見出せず、その場からまったく動けない。
ゴブリンボスもまた、仕掛けてくることはなかった。
人質を殺せば、敵が行動すると理解しているのだろう。
(くそっ……どうすればいいんだ……)
水の紋章の発動には、少しばかりの時間を要する。
紋様を描き、必ず声にして唱えなければならなかった。
無言では、ただ思うだけでは――紋章術は発動しない。
同様の理由から、固有能力の発動もまた封じられていた。そこに加えて、発動後の代償があまりにもでか過ぎる。
倒しきれればいいが、倒せなければ無防備になるのだ。
あの手この手を考えるが、奇策は何も思い浮かばない。
一人では、限界がある。
一人では、何もできない。
ネイのように素早く動けたらと、咲弥は心から嘆いた。
(……ん?)
本日のネイの行動を振り返り、何かが引っかかった。もう少しで、一筋の光が射し込みそうな感覚が胸につかえる。
ネイは短剣と投げナイフを、駆使して戦っていた。
投げナイフは、まさに稲妻のごとく速い。あの細腕から、あれほど凄まじい速度を出せるのは、少々不可解に感じる。
(腕力以外……? なんだ……? 何がある?)
疑問への解答を、咲弥は心の中で模索する。
(……疾風の舞……疾風の舞を、投げナイフに……?)
固有能力は自身に使うものだと、勝手に解釈していた。
実際、自身に使えるのだから、間違ってなどいない。
だからこそ、その先にまで考えが至らずにいた。
それが正解かどうか、試さなければわからない。
ある一つの想像が、咲弥の脳裏をよぎる。
(試してみたい……でも……)
果たして上手くできるのか――自信がない。失敗すれば、いたずらに男の子の命を危険に陥らせる結果となるのだ。
しかも相手は、咲弥の様子をうかがい続けている。
こちらが動けば、ゴブリンボスもまた動く。
放たれた雰囲気から、肌にじわじわと伝わってきていた。
(何か、きっかけが……きっかけさえあれば……)
そのとき――
瓦礫の一部から、激しい衝突音が響き渡った。
一定の間隔で、ずっと鳴り続けている。
ゴブリンボスの意識が、不意にそちらへと流れた。
なかば弾かれるように、咲弥は空色の紋様を瞬時に描く。
「水の紋章を限界突破! 僕に力を――!」
バチンッと強烈な音が響き、紋様が豪快に砕け散った。
恐ろしい速さで青黒い渦が生まれ、水弾が放たれる。そう認識した瞬間に、もうゴブリンボスの右肩に命中していた。
その巨体が、ぐらりと大きく揺らめく。
悪足掻きにも近い賭けは、無事に成功したらしい。
限界突破を自身に使用したときとは、明らかに違う。
視界も何もかもが、通常時の状態が続いている。
ただ、喜びに浸っている暇はなかった。
ゴブリンボスの耐久力など、何も把握できていない。
限界突破の代償が、まだこないとも限らないのだ。
咲弥は即座に、ゴブリンボスとの距離を縮める。
男の子を掴んだ腕に飛びかかり、力任せに指を離させた。
「離せぇえええ――っ!」
ぼとっと男の子が地面に落ちる。
「げほっ! げほっげほぉっ!」
咲弥は即座に、むせ込んでいる男の子を抱えて逃げる。
突然――目がぐるりと回り、視界が渦を巻いた。
全身から力が一気に抜け落ちる。
まるで張り詰めた空気が、しぼむような感覚に近い。
そのまま咲弥は倒れ込み、男の子に覆いかぶさった。
「兄ちゃん! 兄ちゃん!」
(そうか……そういうことか……)
紋章術に、限界突破を扱った場合の代償が判明した。
紋章術とは、自身のオドを使用して発動する。つまり限界突破により、限界を超えて桁違いのオドを消耗したのだ。
アンカータ村の診療所にいた、老婆の言葉を思いだした。
(尽きれば、昏睡――最悪、死ぬこともある……)
結局のところ、自身に使用した場合とさほど変わらない。
状況のせいもあるが、そこまで考えが至らなかった。
吐き気が酷くなり、視界がずっと渦を巻いている。
咲弥は力を振り絞り、ゴブリンボスのほうを向いた。
かろうじて見えるその形相は、怒りに満ち溢れている。
えぐれた右肩を、槍を持つ手で押さえていた。
「ツノダッ! ズットオニヘワク!」
ゴブリンボスは、謎の言葉を発した。
何かを喋っているが、天使の翻訳は機能していない。
その事実に、咲弥は少なからず驚かされた。
ゴブリンボスは、後ろに大きく跳躍する。
片手で槍を巧みに振り回し、また謎の言葉を吐きだした。
「ツアセッ! カダシタイク!」
咲弥は我が目を疑った。
それは、人が虚空へ描きだす紋様ではない。
咲弥のいた世界では、魔法陣と呼ばれそうな代物だった。
赤く光る魔法陣が、ゴブリンボスの前に描かれる。
(なん、だ……それ……)
とても嫌な予感がした。
咲弥は力を振り絞って伝える。
「……逃、げて……」
「兄ちゃん! ごめん! 僕……僕!」
赤く光った魔法陣から、大きな火の玉が発射された。
咲弥達のほうをめがけ、猛火の塊が飛んでくる。
咲弥は、まったく動けなかった。
どれほど力を振り絞ろうと、震えることしかできない。
(ここまで、なのか……こんな……こんなところで……)
咲弥は悔しい思いを抱える。
両親の顔が頭に浮かびながら、静かに死を覚悟する。
(ごめん……母さん、父さん……帰れそうにないや……)
「うぉおおおおおお!」
野太い男の声が、咲弥の耳に届く。
吹き飛ぶ大きな瓦礫が、炎の塊に激突した。
ついでに、ゴブリンボスにも命中する。