第二話 野宿
薄暗い森の中に、小気味よい音を立てる綺麗な川がある。
咲弥は樹上の一部に潜み、漆黒の籠手を高く掲げた。
生命の宿る宝具、黒白の籠手――最初の頃は、手首程度の長さしかなかった。それが肘までに至り、今となっては肩に達するほどの長さにまで進化している。
正直、まだ籠手と呼んでもいいものか疑問ではあった。
咲弥は漆黒の籠手にオドを流し込み、片方だけ解放する。
黒と赤が交じる、どこか悪魔を連想する獣みたいな手――これも最初は、モヤに近いものに過ぎなかった。だが進化を経て、光沢感と鮮明さを増している。
そんな黒爪にオドを込め、咲弥は攻撃の準備を整えた。
ただじっと、そのときを待つ。
川音を聞きながら、漠然と視界いっぱいに川を見つめる。
「黒爪空裂き!」
凄まじい切れ味を持つ黒爪が、虚空を強烈に引き裂く。
細く長い衝撃波が空中を駆け抜け、狙っていた川の一部に到達した。その瞬間、五つの爪痕が川の水に刻まれ、激しい水しぶきを上げる。
空裂きはまさに、飛ぶ斬撃ともいえる代物だった。
跳ね上がった水が、やがてまたもとに戻る。
すると気絶した魚達が、ぷかぷかと川を流れていく。
その先には、ゼイドが両手を広げて待ち構えている。
「ほいっ! ほいっ!」
流れる魚を、ゼイドが次々に陸へと手で弾き飛ばした。
獣人ゼイドは、見た目からして少し熊っぽい。
そのせいか、鮭を捕る熊の光景が脳裏をかすめ、より一層それらしく思えた。
そんな感想を抱きつつ、咲弥は樹上から飛び降りる。
ゼイドが打ち上げた魚のほうへ、ゆっくりと足を進めた。
どの魚も、三十センチ程度の大きさがある。
(結構大きいから、これだけあれば大丈夫かな……?)
食料の調達係りは咲弥とゼイド、調理関連は紅羽とネイが担当することになっている。いつもは町や村で食料を馬車に積み込み、そして野宿していた。
だが突発的な事故が起きたために、今回は自然から食料を入手する必要がある。
野宿での役割は、これからもこれで固定となるだろう。
自分の役割を全力で果たそうと、咲弥は腕を組んで悩む。
さすがに魚しかないのも、少し寂しい気がした。
(魚以外となると、あとは木の実とか野草くらいかな)
ただどれが可食となり得るのか、正直よくわからない。
しかしゼイドなら、そういった分野も詳しそうではある。
咲弥が考え込んでいると、ゼイドが歩み寄ってくる。
「大漁だ大漁だ! ちと締めて、血抜きでもしておくか」
ゼイドが、小型ナイフと細長い針を取り出した。
魚の脳天をナイフで砕き、細長い針を刺し込む。それからエラと尾にナイフの刃先を入れ、川の水で血を抜いていく。魚が好物だからか、かなり手際がいい。
軽快な作業を眺めていると、ふと小さな気配を捉えた。
咲弥は背後を振り返る。走る鳥が木々の隙間を横切った。
(ニワトリ……? お肉があれば、ネイさん喜ぶだろうな)
少し黙考してから、咲弥はゼイドに伝える。
「ニワトリっぽいのがいたんですが、捕えておきますか?」
「おっ? 任せた。俺は魚を、野営地に持っていっておく」
「はい! わかりました!」
ゼイドと頷き合い、咲弥は素早く行動に移った。
目と気配で探りながら、ニワトリの後を追う。
川沿いにある森の中は、ひどく自然に満ち溢れている。
辺り一面に枯葉が落ちており、草花はところどころにしか生えていない。その代わり苔むした樹木の太い根が、まるで縄張り争いのごとく複雑に絡み合っていた。
数年、あるいは数十年、人が踏み入った形跡がない。
人はいなくとも、魔物や猛獣がいる可能性は充分にある。
咲弥は注意深く警戒しながら、森の中を進んだ。
「確か、こっちのほうに……」
ほどなくして、前方に極々わずかな気配が滲んでいた。
咲弥はぴたりと足を止める。じっと息を潜めた。
自然と同化するように、纏ったオドを溶け込ませていく。
自分の気配を、こうして可能な限り絶つのだ。
この隠密術に関しては、実はネイが一番上手い。
ずば抜けた察知能力を持った紅羽ですら、目視するまでは認識できなくなるようだ。もはや暗殺者の域だと、訓練中にゼイドが笑っていたことがある。
そんなネイから、咲弥は隠密術を習っていた。
才能がないからか、正直そこまで上手くはない。それでも紅羽やネイみたいな、特殊な相手でない限りは、一定以上の効果は期待できるはずだった。
気配は遠退かない。咲弥の存在に気づいていないのだ。
咲弥はゆっくり、進み続ける。
ついに、ニワトリみたいな鳥の姿を目でも捉える。
(焦らない……焦らない……)
団体で生活をする生物らしい。結構な数がいた。
二、三羽ほど捕えられれば、食事はかなり豪華にできる。
咲弥はタイミングを――不意に、小枝を折った音が響く。
ニワトリ達の顔が、一斉に咲弥へと向いた。
「げっ……」
「グギャギャァッ!」
咲弥は慌てて、逃げ出したニワトリ達を追った。
空裂きの選択が浮かぶが、あまり効果的な方法ではない。
さきほどの川みたいに、広々とした場所ではないからだ。
樹海で空裂きを放ったところで、木々に遮られてしまう。
しかも思いのほか、ニワトリ達はとても素早かった。
一匹も捕えられないのは、さすがにまずい。肉料理好きのネイの耳に入れば、確実に小言が飛んでくると思われる。
食べ物の恨みは、なるべくなら避けたほうが賢明だった。
「うぉおおおおっ!」
咲弥はなかば無理矢理、飛び込んでニワトリの脚を掴む。
かなり焦ったものの、なんとか一匹だけは捕えられた。
咲弥はほっと、安堵の吐息をつく。
ニワトリの足を、左手で持ち直した。
「グギャァッ! グギャァッ!」
逆さまにしたニワトリが、逃げようと必死に暴れ回る。
食事をもっと、彩り豊かにしたい――
それは、咲弥側の勝手な理屈ではあった。ニワトリに待ち受けている運命を思えば、かなり心が痛む。だが魚と同様、これも貴重な栄養源の一つには違いない。
これまでもどこかの誰かが加工してくれた肉を、それこそ数えきれないくらい食べている。だから憐れみや憂いなど、筋違いもはなはだしい感情なのだ。
だからといって、苦い思いを抱かないわけではない。
咲弥にできるのは、ただ心を殺して食べるしかないのだ。
「ごめんね」
咲弥はデコピンの要領で、黒指をパチンッと弾いた。
ニワトリの頭を打ち、失神させておく。
咲弥は一度、ざっと周囲に視線を走らせた。
「……えぇっと」
まず川から進んだ方角を考え、漠然と現在地を把握する。
咲弥は野営地の位置を、大雑把に割り出してから進んだ。
しばらく歩くと、極わずかに水の音が聞こえてくる。
きっと近くに滝がある――そこで、ふと気配を捉えた。
それは魔物というよりは、人のものに近い雰囲気がある。
ただ野営地は、まだ先にあるはずだった。
もしかしたら、噂に聞くガルス族かもしれない。
咲弥は念のため、こっそりと忍び歩きをする。
大きな木の陰に潜み、気配がした場所を覗き見た。
「――いっ!」
咲弥はうめいた口を、慌てて右手で押さえ込む。
素早く大樹に背をもたれ、進んできた方角を向き直った。
心臓が破裂しそうなくらい、ばくばくと鼓動している。
覗いた先には、森に囲まれた綺麗な滝つぼがあった。それ自体は別に動揺するほどのものではない。だが、そこの水辺付近で、紅羽とネイが水浴びをしていた。
ほんのわずかに過ぎない。すぐに目を逸らしたのだ。
しかし魅力的な二人の裸体が、脳裏に焼きついている。
ただ紅羽もネイも、髪が腰に届くほどに長い。
そのお陰で胸の辺りが上手く隠れていた。さらにいえば、陽光を眩しいくらい跳ね返す水だったため、腰から下はほぼ何も見えていない。
だからといって、覗きがバレたらややこしい事態になる。
咲弥は考える間もなく、立ち去ろうと一歩を踏み出した。
「おい?」
「ひぇっ……」
咲弥の肩が飛び跳ねる。即座に視線を滑らせた。
大樹の裏側から覗くかたちで、ネイが顔を出している。
ネイの目は据わっており、険悪な雰囲気が醸されていた。
悪寒を覚えるくらい、ネイは低い声音で言う。
「乙女の水浴びを覗くなんて、案外度胸あんじゃない?」
(いつ……? 早い……気取られた……? 気づかなかった……やばい……)
咲弥は完全に、錯乱状態へと陥っていた。
しかし一周まわって、逆に冷静さを取り戻す。
「違っ……誤解ですよ。これは、ただの事故なんです」
「ふぅん?」
咲弥は、捕ったニワトリを少し高く持ち上げる。
「証拠に……獲物を捕った帰りです」
「へぇ?」
「そうしたら、たまたまここに着いちゃっただけなんです」
「ほぉん……?」
相槌を打ってはいるが、雰囲気も表情も和らがない。
言葉が空虚に消えていると気づき、咲弥は閉口する。
ネイの青い瞳は、まっすぐ咲弥へと向けられていた。
「言い訳は、おしまいか?」
「……えっと……」
ネイの右手付近に、ふわりと若草色の紋様が浮かんだ。
咲弥はぎょっとする。
「ちょ――」
「風の紋章第四節、自在の旋風」
まるでガラスが割れたみたいに、ネイの紋様が砕け散る。
すると激しい風が吹き、咲弥の全身を軽々と持ち上げた。
「わっ……わわわぁっ! ちょ、ネッ、ネイさん!」
何度やられても、奇妙な浮遊感には慣れない。
「とりゃぁあ!」
ネイが大樹の裏に引っ込むなり、妙な掛け声が聞こえた。
同時に、咲弥の体が滝のほうへ向かって吹き飛ぶ。
「おわぁああああ――っ!」
咲弥は青々とした滝つぼへと突っ込んだ。
水はそれほど冷たくはない。むしろ心地よい温度だった。
ただ服が全身に張りつき、かなり重たい。
まずは懸命に、水面を目指した。
「ぷはぁっ!」
水面から顔を覗かせるや、咲弥はまたぎょっとする。
陽の光を浴びる、白く滑らかそうな肌を持った銀髪の少女――女性らしいメリハリのある身体は、おそらく同性ですら羨望の眼差しを向けるくらい綺麗だった。
美の極致とも言える女神のごとき彼女が、紅い瞳でじっと咲弥のほうを見据えてきていた。顔は無表情ではあったが、どこか睨んでいるような気がする。
なかば放心状態へと陥るさなか、ネイの高笑いが飛んだ。
「覗くんなら、隠れずしっかり前から覗いたらんかい!」
咲弥は自然と、ネイを振り返った。
いつの間にか、体に大きなタオルを巻いている。
また紅羽に視線を戻しかけ、咲弥はぐっと堪えた。
彼女はネイと違い、タオルを巻く暇などない。
だが脳が勝手に、紅羽の裸体を思い浮かべてしまう。
咲弥は一気に熱を発する。同時に、血の気も引いた。
「ご、誤解なんですってば――っ!」
咲弥はそう言い訳をして、力の限り泳いで逃げる。
滝つぼから這い上がり、一目散に野営地を目指した。
ずぶ濡れの状態で戻ると、ゼイドに奇異な目で見られる。
「な、なんだ……? 服のまま水浴びでもしたのか?」
「はぁ……はぁ……」
全力で走り続けたため、咲弥は肩で息をする。
乱れた呼吸も次第に鎮まり、かろうじてゼイドに告げる。
「い、いえ。その……獲物を捕らえたあと、ネイさん達の、水浴びに、遭遇しちゃいまして……事故だったんです……」
「あぁ……そりゃあ、まあラッキーだったな」
ゼイドは冗談まじりに、そう言ってから軽く笑った。
咲弥は、げんなりとしたため息が漏れる。
少ししてから気を取り直し、まずは捕えたニワトリを木に繋いでおいた。それからさらに木と木を縄で繋ぎ、簡易的な物干しを作る。
ずぶ濡れの服を脱いで軽く絞り、バサバサッと広げてから縄にかけた。
ラフな格好に着替えたあと、ゼイドの手伝いを始める。
しばらくして、ネイと紅羽が戻ってきた。
気まずい空気が漂う。紅羽が一直線に向かってきた。
咲弥は固唾を飲み、ただじっと展開を待ち受ける。
「咲弥様」
「あ……うん……」
「捕えた獲物は、どこにありますか?」
「え? ああ、魚はあっち。ニワトリは、木に繋いでるよ」
「了解しました」
覗きに関しては触れられないまま、紅羽はニワトリっぽい鳥へと歩み寄った。
「さて、と……そんじゃあ、日が暮れる前に、ちゃっちゃと準備しちゃいましょ」
ネイがそう呟き、咲弥は改めて謝罪をする機会を失った。
なんとも言えない気持ちを抱えたまま、作業を開始する。
ネイが魚やニワトリを解体し、紅羽が調理していく。
その間に、咲弥とゼイドは寝床を作った。
夜が訪れ、辺りは暗い闇に包み込まれる。
手頃な倒木を椅子代わりにして、全員で焚火を囲んだ。
「そんじゃ! いっただきぃー!」
まずはネイが、颯爽と骨付き肉に手を伸ばした。
それから各々、適当に食事を始める。
ネイが大口を開け、がぶりと肉に噛みついた。
「んぅ~! 裸を覗かれたあとの飯は美味いぜ!」
「グフォッ!」
咲弥はつい、口の中にあるものを噴き出す。
時間差攻撃か、ネイはいまさらになってぶり返してきた。
少しむせ込んだあと、咲弥はネイに目を向ける。
「いや、だから……申し訳ないと思ってはいますが、本当に事故なんですよ」
「紅羽、言ってやりな」
咲弥の視線が、倒木にちょこんと座っている紅羽に移る。
紅羽も印象的な紅い瞳で、咲弥のほうを見据えてきた。
「咲弥様の、えっち」
「なに変なこと教えてるんですかっ!」
咲弥の苦言に、ネイはからからと笑った。
咲弥は両手を合わせ、少し頭を下げる。
「いや……事故とはいえ、本当にすみません」
「いいえ。特に気にしていません」
紅羽はそう言い、串焼きにした魚をぱくりと齧った。
紅羽の様子に、咲弥はこっそりと安堵のため息をつく。
ネイが食べ終えた肉の骨を、咲弥へと突きつけてきた。
「てか、あんた隠密下手過ぎ。自然と一体化するようにって教えたでしょうが?」
「気配が突然湧き、また途絶えました。それは逆に存在感が色濃くなります」
「どうせ私達の裸を見て、動揺でもしたんじゃないの?」
「気配を殺すのであれば、無心に努めるべきです」
「ははは……」
ネイと紅羽から交互に指摘され、咲弥は苦笑いが漏れた。
ネイが骨を焚火に投げ入れ、いたずらな笑みを見せる。
「覗くんならさ、もっと練度を高めな?」
「練度はもちろん高めますが、別に覗きとかしません」
「どうだか……あんた案外、むっつりだからね」
肩を竦めるネイに、それ以上は何も言い返さない。
あまり下手に反論すると、ぐいぐいと詰められるからだ。
ゼイドが途端に、思いだしたような声を上げる。
「そういえば、近くにいる零級の魔物ってなんだ?」
「それがね、調べてもよくわからないのよね」
「わからない?」
「いるということ以外は、どこにも情報が載ってないの」
「へぇ……変な話だな」
ゼイドが頬を、ぽりぽりと指先で掻いた。
ネイは肉を食べながら言う。
「まあ、別に問題ないっしょ。討伐するわけじゃないし」
「そりゃそうだ」
「目指す港町とは逆方向ですから、通る必要もありません」
紅羽の補足を経て、咲弥も会話に加わる。
「ル・ダ村というところで、馬車が借りられるといいけど」
「まあ、ほぼ確実に無理だぞ」
ゼイドが呆れ声で告げてきた。
聞く限り、確かに難しい話なのかもしれない。
いずれにしろ、明日にはル・ダ村へと辿り着けるだろう。
実際に会い、目にしてみなければわからないこともある。
「無理だったら無理で、しばらくは野宿が続くわね。あっ、覗き禁止の立て札でも、あとで作っておこうかなぁ?」
ネイが不敵な笑みを浮かべながら、横目に睨んでくる。
彼女のからかいに、咲弥はその対処に困り果てた。
「そのお肉で、覗きの件は手打ちにしてくださいよ」
自然と呟いた言葉に、咲弥はしまったと失言に気づく。
ネイは座ったまま、紅羽の隣へと詰め寄った。
「聞いた聞いた? 私達の裸はたったこれっぽっちのお肉と等価だってさ」
「いや、そういうことじゃ……! ただの言葉の綾です!」
慌てて言い繕うが、ネイは深いため息をつく。
その日の夜――
女二人から送られた視線は、ただただ痛かった。
役割の辺りを、少しだけ修正しました。