第十二話 狩るものと狩られるもの
鬱蒼とした森の中に、ネイの透き通った声が響いた。
「ほら、そっちのミュルクス!」
ミュルクス――カンガルーらしさを兼ね備えた、兎に似た大きな魔物だ。口の前に立派な牙が、二本長く伸びている。
ミュルクスは素早く飛び跳ね、脱兎のごとく撤退した。
木陰に隠れていたゼイドが、大斧を振り下ろす。
ミュルクスの胴が大きく裂かれ、黒い血しぶきが飛んだ。
「咲弥君!」
危機感を宿したゼイドの声を聞き、咲弥に緊張が走る。
咲弥の死角から、ミュルクスが迫ってきていたのだ。
目にもとまらぬ速さで、ネイの投げナイフが直線を描く。
脳天を貫かれ、ミュルクスは激しく転がってから倒れた。
(あ、危なかった……)
冷や汗をかきつつ、咲弥はさっと周囲を警戒した。
そのとき、魅惑的なネイの肢体が視界に入る。
すっと樹上から飛び降り、彼女は華麗な着地を見せた。
「まあ、もうこんなもんでいいかしら」
「今のやつで、三十五体目だな」
ミュルクスの牙をがっしりと掴み、ゼイドが寄ってくる。
ネイがこなれた手つきで、また牙の摘出をし始めた。
摘出作業をぼんやりと眺めつつ、咲弥はしみじみと思う。
まず二人の狩りの仕方が、本当に感心の連続であった。
連携もそうだが、それよりも個々の能力値がかなり高い。
ネイはとても身軽で、それこそ忍者を連想させた。樹上を軽快に飛び移り、駆け抜け、投げナイフを放つ。そうして、獲物を確実に仕留めていた。
ゼイドはサポート役に徹しており、散らばる魔物の行動を先読みしては、討ち漏らすことなく命を奪っていたのだ。
ネイから預かった大きな鞄を背負いながら、咲弥はついていくだけでも精一杯だった。足場も悪く、荷物も結構重い。
危険と隣り合わせの世界に生きてきた者と、平穏な世界で暮らしていた者――
そんな明確な差を、心の底から思い知らされた。
「レイガルムの角よりは、格段に値が落ちるけどね。これも結構、いい素材になるのよ。はい、荷物持ち君の仕事っ!」
摘出したミュルクスの牙を、ネイが放り投げてくる。
たどたどしく受け取ってから、咲弥は質問をした。
「こういうのって、どういう品物に変わるんですか?」
「装飾か武器、あるいは道具だな」
代わりに答えたゼイドに、咲弥は続けて問いかける。
「道具、ですか?」
「例えば……そうだな。削って作られた針とかだな」
「あ、なるほど……裁縫ギルドの方々が使う道具ですね」
「そっ。物は使いよう、加工のしようってこと」
言いながら、ネイは腰にある小さな鞄に手を突っ込んだ。
これまで以上に、ネイの手にある物が一番の驚きだった。
この世界での文明力が、本当によくわからない。
ネイは機器の背を左手で掴み、右の指先で操作している。
「あの……それって、スマホ……ですよね?」
「スマホ……? これは通信機。完了の合図を先に送れば、戻ったときに、報酬を即座に支払ってくれるのよ。ちなみに超過分の素材とかは、個人の利益になるわ」
「へぇ……そうなんですか」
「そうでもしなきゃ、儲けられないこともあるもんな」
ゼイドの声には、落胆めいた響きがこもっていた。
送信を終えたのか、ネイが通信機を鞄に入れ戻す。
「今回の人件費や道具一式とかは、依頼人持ちだけれどね。なんだかよほど、ミュルクスの牙が欲しかったみたい。数が多くなければ、別の依頼も並行したのに」
「そうそう。もし同時に遂行できそうな依頼があれば、掛け持ちしたりもする」
「はあ……なるほど」
咲弥は感嘆のため息をつき、相槌を打った。
効率を重視すれば、無駄なくお金を稼げるのだろう。
「しっかり考えて、依頼を受けなきゃだめなんですね」
「そんなのは、やってれば自然と身に着くわよ」
「知らないよりは、知っているほうがお得ではあるな」
咲弥は小刻みに頷いた。
「はい。そうですね!」
「それじゃあ、そろそろ帰りましょうか」
ネイの発言中に、咲弥はふと草むらに視線を移した。
何か動いた気がしたのだが、特に変化は見られない。
「ありゃあ……あの小僧……」
ゼイドが見ている方角に、咲弥も目を向ける。
小さな子供――その後ろ姿には、見覚えがあった。
昨日、ゼイドが追い払った男の子に間違いない。
「フネカルル山……あっ。ここに廃坑があるんですね?」
「ああ。ここより、もう少し上がったところにある」
「あそこって、もう魔物の巣窟じゃなかったっけ?」
「そうだ……ったく、困った小僧だ……」
咲弥の心臓が強く脈打つ。
じわじわとした不安が、胸の中を埋める。
「危険……ですよね?」
「そりゃそうだ。ただの一般人じゃ、殺されるだろうな」
「ほうっておいても、大丈夫じゃない? どうせ入口付近の様子を少し見れば、怖くなって戻って来るでしょうよ」
ネイはお気楽な口調で言い放った。
だが、咲弥の不安は解消されない。
「でも、もし……戻って来なかったら……」
咲弥は背負っていた荷物を、ネイの足元に置いた。
「すみません。僕、止めてきます。すぐ戻ってきますから」
そう伝えるや、咲弥は全速力で男の子の後を追う。
「お優しいこと」
ネイの呟きが聞こえたが、それよりも心配が先立つ。
男の子が向かった方角を、咲弥は急いだ。
だがどれほど走っても、男の子の姿がどこにもない。
間違った方向に進んだのではと、不安ばかりが募る。
やや斜め左の方向に、妙にひらけた空間が見えた。
廃坑への出入口らしく、気味の悪い雰囲気が漂っている。
岩壁に大穴があり、付近には警告を知らせるかのように、動物か何かの遺骨が、オブジェとして置かれていたのだ。
何が出て来るのかわからない。
咲弥は木陰に身を潜め、視線を巡らせる。
やはりどこを探しても、男の子の姿は見られなかった。
追い越してしまい、先に辿り着いたとは考えられない。
そうだとすれば――
(まさか……もう、中に……?)
「たぶん中に入っちまったな」
途端に背後から男の声が飛び、咲弥の肩が大きく跳ねる。
肩越しに振り返ると、ゼイドとネイの姿があった。
「荷物持ちが、荷物を置き去りにするってどういうこと?」
「すぐに……戻るつもりだったんですが……」
「あんたは、私の荷物持ち君。はい」
ネイは押し付けるように、大きな鞄を手渡してきた。
「はぁ……仕方ない。少しだけなら、手伝ってあげる」
「え? いいんですか?」
「あの子の親から、護衛料をふんだくってやれるからね」
これにはもう、苦笑するしかない。
ゼイドは半目で、ネイのほうを見つめる。
「なんていうか、オメェ……商売根性逞しいな……」
「なぁに言ってんの。そんなの、当然でしょ?」
「まあ、オメェらしいっちゃ、オメェらしいか」
二人のやり取りを聞いてから、咲弥は疑問を口にした。
「ほら穴の付近にあるアレって……動物の頭蓋骨ですか?」
「ああ、そうだ。どの大陸でも、だいたいそうなんだが……あの目印のある付近にいるのは、ゴブリンって場合が多い」
その名前には聞き覚えどころか、耳にタコができるぐらい知っている。アニメやゲームにも、よく登場する名だった。
とはいえ、そのまま知っているゴブリンとも限らない。
「いったい、どんな魔物なんですか?」
「小鬼――と言えばわかるか? 知能の高い厄介な魔物さ。下手に巣を荒らさなければ、わりと平気なんだがなぁ……」
「それはどうかしら。最近、奴ら妙に活発化してるからね」
「ああ。まあ……確かに、うん……それも、そうだな」
ネイの指摘に、ゼイドは納得した様子だった。
瞬間――空を切り裂くような音が鳴る。
「危ねぇ!」
ゼイドの大きな手で、咲弥は地面に頭を押しつけられる。
ザクッと、不穏な音が耳へと届く。
咲弥の視線の先には、不出来な矢らしきものが見えた。
「狙われているぞ!」
「樹上からよ!」
「ここじゃあ、いい的だぜ!」
早口で告げるなり、ゼイドが咲弥を小脇に抱えた。
ほら穴のほうを目指し、先にネイが中へ身を投じる。
ゼイドが斧腹で矢を弾き、そしてほら穴へと入った。
「ここなら、大丈夫そうね」
「すみません、ゼイドさん。ありがとうございます」
「おう。怪我はねえか?」
「はい!」
ゼイドの脇から下ろされた咲弥は、深く頭を下げた。
ネイのほうから、なにやら物音がする。
廃坑内は暗く、ネイの姿はぼんやりとしか見えない。
突然、ぼわっとした明かりが照らしだされた。
周辺の赤黒い岩肌が、鮮明なぐらい綺麗に確認できる。
「夜道用に持ってきた紋章具が、まさか役立つとはね」
紋章具と呼ばれた道具から、光の玉が生まれたらしい。
ネイの周囲を、ふわふわとした光球が漂っている。
「あんた達も、念のために持っておきなさい」
ネイから手渡されたのは、発煙筒に似た代物であった。
白い筒には、妙な模様が刻まれている。
「これ、どうやって使うんですか?」
「蓋を開けるだけで、中に入った光の紋章術が発動するわ」
紋章ギルドでの見学で、似た品を見た気がする。
背後のほうから、ゼイドの舌打ちが飛んだ。
「ちっ……樹上から、こっちの様子をうかがってやがるぜ」
岩陰に隠れつつ、ゼイドは出入口のほうを観察していた。
「進むしかないわね。出入口は、一つじゃないでしょう?」
「おそらく、だがな」
「あの、すみません……こんなことに巻き込んでしまって」
咲弥の謝罪に、ゼイドは短く笑った。
「咲弥君のせいじゃないさ。あの小僧には、もっとがつんと言ってやらんとな」
「ついでに、親からお金をたんと貰いましょうね」
咲弥を元気づけようとしての言葉か、またはただの本心に過ぎないのか、ネイの発言の本質まではわからなかった。
一応、お礼だけは伝える。
「お二人とも、ありがとうございます」
「それよりも、進むわよ。ここにいても、仕方がないし」
「そうだな」
一同、奥へと向かって歩き始める。
当時の光景を彷彿とさせる物が、廃坑内は多々とあった。
廃坑のはずだが、まだ人がいるような妙な気配を覚える。おそらくは、ゴブリンが住処としているからなのだろう。
ところどころにある古びた照明具に、火が灯されている。
そして時折、ひどい獣臭さが咲弥の鼻を突く。
しばらく歩き続け、徐々に不安が膨らんだ。
廃坑内は、かなり複雑に入り組んでいるようだ。もしまた来た道を戻れと言われても、もはや不可能に近い。
そして――何度目かの広い空間が、前方に見えてきた。
「あっ……ちょい待って」
ネイが細い左腕を横に伸ばして、咲弥達の動きを制する。
彼女は右手を少し上げ、若草色をした紋様を宙に描いた。
「風の紋章第一節、暴虐の風神」
紋様が砕け、ネイの右手から激しい風が生まれた。
小石をも巻き上げ、暴風が奥へと流れ込んでいく。
縄を引っ張る音、鉄がこすれ合う音、空を切り裂く音――さまざまな音が同時に響き渡り、広い空間が大きく荒れる。
罠を仕掛けられていた事実に、咲弥は我が目を疑った。
「これ引き返したら、やばいやつかぁ……」
「らしいな……」
二人の会話の意味が、咲弥にはよくわからない。
「どういうことですか?」
「ある一定の距離に入るまで、仕掛けた罠が作動しないって仕掛けがあるんだ。その一定が、目の前にある空間だな」
ゼイドは首を横に振り、深いため息をついた。
事情を呑み込み、咲弥は嫌な汗をかく。
つまりこれは、巨大なネズミ捕りにほかならない。
「え……? ど、どうするんですか?」
「この場合は、戻るよりも進むほうがマシかもな」
「どうせゴブリンの奴ら、待ち構えているでしょうね」
ネイの補足に、ゼイドはうんざりとした声を投げた。
「やれやれ……俺らが狩られる側かい」
「捕らえたのが愛らしい小動物じゃなく、猛獣だってことを教えてあげましょ?」
「ああ。だな」
どちらも、いやに落ち着き払っている。
こういう状況に、きっと慣れているのかもしれない。
その事実が、信じられない気持ちにさせた。
自分より遥かに多くの場数を踏み、実力も圧倒的に上――それなのに、ネイ達の等級は最低から二つ上程度らしい。
ネイの言葉を鵜呑みにすれば、中級の実力がすでにある。
そこからさらに上の存在など、想像すらもつかない。
ゼイドが〝化け物〟といった言葉を、より深く理解した。
(僕は……)
本当に使命を果たせるのか、少し自信を失いつつある。
そんな化け物達ですら邪悪な神を討てないから、わざわざ別世界の住人を、この世界へと送り込んだに違いないのだ。
咲弥を選んだのは、天使の人選ミスとしか考えられない。
「どうしたの? 行くわよ」
「あ、はい。すみません」
間近で見れば、罠はとても原始的なものだった。
足を絡め取る縄、捕らえ損ねた場合の矢、さらに失敗した場合での鉄器――これらの罠を、魔物が設置している。
いくら原始的とはいえ、咲弥はただ恐怖した。
「あの、一つ疑問があるんですが……」
「ん? なあに?」
「ミュルクスは、レイガルムよりも格下ですよね?」
「ええ。そうね」
「それなら、ゴブリンはどれぐらいなんですか?」
その問いには、ゼイドが先に答えた。
「個体か団体かで変わるな」
「あ……なるほど」
「団体であれば、圧倒的にゴブリンのほうかしらね」
「個体なら、だいたいはレイガルムかもだな」
だいたい――その言葉が意味するのは、一つしかない。
ゼイドは続けて声を紡いだ。
「だいたいとぼかしたのは、個体といっても個体差がある。上位種やなんやと、一概に個体なら格下とは言えないんだ」
なんとなく、察してはついていた。
嫌な想像がどんどんと巡る。
「待って……あれ!」
ネイが向いている方角に、咲弥も目を向ける。
随所に火が灯された空間には、いくつかの影があった。
小鬼――赤い肌をした魔物は、枯草か何かで作った腰巻をつけている。体格自体は、ほとんど咲弥と差がないようだ。
しかしその中で唯一、一体だけ大柄なゴブリンがいた。
男の子の首を掴み、鋭利な木製の槍をかざしている。
「いけない――っ!」
確実に間に合わないほどの距離があった。
それでも咲弥は、我知らず荷物を肩から外して駆ける。
大柄なゴブリンへと、とっさに距離を縮めていった。