第三十九話 いつの日かきっと
国際大会の閉幕後、咲弥は紅羽の少し後ろを歩いていた。
銀髪をふわりとなびかせ、紅羽は黙々と前を進む。どこへ向かっているのか、何も聞かされていない。ただついてきてほしいとだけ、そう頼まれたのだ。
石造りの路地を抜けた先に、寂れた小さな広場があった。
久しく人が訪れていなかったらしく、中心にある苔むした噴水はかろうじて機能してはいるが、雑草や落ち葉によってかなり荒れ果てた空間となっている。
そんな人の気配がない場所に、たった一人――
黒衣を着た銀髪の美女が、樹を背にして佇んでいた。
(……五號)
未来の紅羽だと思える女の姿に、咲弥は静かに戸惑う。
閉幕式のときにはもう、五號の気配はどこにもなかった。だから咲弥が昏睡している間に、この場所で五號と落ち合う約束を交わしていたに違いない。
咲弥達の存在に気づいたのか、五號が優美に振り返った。
印象的な紅い瞳が、咲弥達のほうへと据えられる。
「来たか」
五號の前で、紅羽は立ち止まった。
事情は知らないが、いつでも動ける準備はしておきたい。
紅羽の斜め後ろを陣取り、素早く空色の紋様を浮かべる。
しかし紅羽が、すっと左手を横に伸ばした。
「問題ありません」
「……大丈夫?」
「はい」
紅羽は短く応答してから、五號に問いかけた。
「オドで場所を知らせましたね? なんの用ですか?」
紅羽の発言に、咲弥はやや引き気味に驚く。
そんな方法でやり取りしたとは、夢にすら思わなかった。
五號は感情のこもっていない、淡々とした声を紡いだ。
「じきに、ここを立つ」
「そうですか」
「その前に少し、言っておきたい」
「なんでしょう?」
「あそこがどうなっているのか、知っているのか?」
「私にはもう、何も関係ありません」
「そうか」
「はい」
「お前がいた頃よりも、ずいぶん迷走している」
「そうですか」
これほど淡々と――感情の欠片もない会話は珍しい。
まるでAI同士の会話を、咲弥は聞いている気分だった。
「本題を話してくれませんか? 時間の無駄です」
紅羽が冷たく言い放った。
五號は眉根一つ動かさない。
「――強くなったな」
「私には、咲弥様がいますから」
「だが、私よりも上は――もはや異次元だ」
紅羽に負けたとはいえ、五號はとてつもなく強い。
そんな者が、さらに強い者がいると示唆した。
信じられないといった気持ちを、咲弥はこっそりと抱く。
「特に、一號――あれはもう、神の領域に踏み込んでいる」
「そうですか」
「忠告しておく。ロヴァニクス帝国には戻ってくるな」
咲弥は、ふと首を捻る。
ここ最近、どこかで聞いたことのある国名であった。
咲弥が記憶の糸をたぐっている最中、紅羽が五號に問う。
「一號は、あそこに?」
「ああ。紋章兵団第一将軍をやっている」
咲弥のほうへ、五號の紅い瞳が流れてくる。
「関わりがあるのかは知らないが、ついでに教えておこう」
「……え?」
「そこの、第四将軍――ルニス・アニマという黒髪の女だ」
今度は、初めて聞くはずの名であった。
咲弥は閉口したまま、五號の言葉を待つ。
「お前と同様、天使を模した紋様を持っている」
咲弥は総毛立った。
まさかの情報に、一瞬だけ思考が完全に停止する。
「因果関係は知らないが、聞いて損はなかったか?」
「あ、はい……」
「一號は、あの女を存在として認識しているのかあやしいが――あの女の腹は、かなり黒く淀みきっている。充分、気をつけることだ」
五號の助言に驚きながらも、咲弥はお礼の言葉を告げた。
「あ、ありがとうございます」
「なぜ……?」
紅羽は短い問いを発した。
五號は顔色一つ変えずに答える。
「他意はない。ただ、なんとなくでしかない」
その言葉を最後に、しばしの沈黙が流れる。
紅羽には、何か思うところがあったのだろう。
そんな思考の間を経て、紅羽が口を開いた。
「咲弥様の力を使えば、あなたの呪縛を解除できます」
「呪縛……?」
「心の中にある、私達を制限している呪縛です」
「ふむ。そうか。しかし、遠慮しておく」
「なぜ?」
「私はもう、手遅れだ。必要ない」
五號は、きっぱりと紅羽の提案を突っぱねた。
紅羽はどこか、寂しげな表情が浮かぶ。
「心は、お前のように強くもさせれば、弱くもさせるのだ。私はこのままでいい」
「そうですか」
「話は終わりだ」
五號は去ろうとしたが、紅羽が両手を広げて止める。
「待ってください」
「なんだ?」
「私はいずれ、あそこを破壊しに行きます」
唐突すぎる紅羽の予告に、咲弥は驚愕するほかない。
五號は淡々とした声で応える。
「そうか。ならば、そのときはまた――敵同士だ」
「もう二度と、私達のような者が造られないために――今も無理矢理生かされ続けている、私達の母を長い生の呪縛から解き放ちたいんです」
紅羽の言葉を聞き、咲弥はそれとなく理解した。
普段は心情を明かさないが、紅羽もいろいろ考えている。
「好きにすればいい」
「はい。あと――」
「なんだ」
「とあるお方から、あなたへ言伝があります」
五號から初めて、戸惑いの雰囲気が感じ取れた。
「……? 誰だ?」
「初代白銀の戦姫からです」
「あれはもう、人としての体をなしていない」
「白銀の戦姫が、まだ生きていた頃――ある仲間の一人に、私達へと向け、言伝を頼んだようです」
「ほう」
「『心の赴くままに、自由に自分の人生を歩めばいい』と」
五號は閉口した。
おそらくは、母からの言葉に何か想っているに違いない。
しばらくしてから、五號は勇ましい声を紡いだ。
「そうか」
「はい」
「わかった」
五號は颯爽と歩いた。
咲弥の横を通り過ぎる、その瞬間――
「妹を頼んだ」
不意の耳打ちに、咲弥は驚きをもって振り返る。
少しばかり、五號を誤解していたのだと気づいた。
心のない人間などいるはずがない。たとえどう育てられていようとも、ただ押し殺されているだけに過ぎないのだ。
五號の言葉から、それがよくわかった。
紅羽にしたことは、とてもひどい仕打ちであった。だが、五號なりに、何か考えがあっての行動なのかもしれない。
それを未来永劫、彼女はきっと語らないだろう。
それでも、そう思わせてくれるだけの言葉はあったのだ。
五號が去ったのち、紅羽が疑問を述べる。
「何を言われたのですか?」
「え……?」
五號は知られたくないから、耳打ちしたのだろう。
それをそのまま告げていいのか、咲弥は少し悩んだ。
「ああ……まあ……いいお姉さんだね。って、ことかな」
「意味がわかりません。ただの敵ですが?」
「ははは……」
咲弥は苦笑で誤魔化しておいた。
「それに……ネイ達はそこで、何をしているのですか?」
一瞬、紅羽の言葉の意味を、咲弥は呑み込めなかった。
紅い瞳が流れたほうへ、咲弥も視線を投げる。
隠れていた様子の、ネイとゼイドが姿を現した。
「ネイさん……それに、ゼイドさんも」
「いやあ、さすが紅羽。バレちゃってたかぁ」
「俺の気配の殺し方が、まずかったのかもしれん」
少なくとも、咲弥はまったく気づかなかった。
紅羽の察知能力が、ずば抜けて高いだけだと思える。
ネイは紅羽の前で足を止め、両手を腰に置いた。
「何があるかわからないでしょ? だから、念のためにね」
「まあ、取り越し苦労だったな」
ゼイドは腕を組み、いかつい顔に苦い笑みが張りついた。
紅羽は顔を少し伏せてから、ネイ達のほうを見据える。
「そうですか。ありがとうございます」
「その時が来たら、私達も力を貸すよ?」
「いいえ。しかしこれは、私の問題ですから」
遠回しに突っぱねるや、ネイが紅羽と肩を組んだ。
「私達の間柄が何か――言ってごらん?」
「……仲間です」
「だったら、もうわかったわね?」
紅羽はしばし閉口してから、柔らかに微笑んだ。
「はい。そのときは、よろしくお願いします」
「ほい。了解」
呆然と眺めていると、ネイが青い瞳を向けてくる。
「それはそうと……あんたらは、もっと練度を高めな?」
ゼイドと一緒に、苦笑が漏れる。
全勝者からの言葉に、反論する余地などどこにもない。
紅羽が胸に手を据え、静かに、しかし力強い声を紡いだ。
「私も……もっと、もっと強くなります」
「よし! それじゃあ、明後日からみんなで修業しますか」
ネイは笑みを浮かべ、けらけらと笑った。
ゼイドが虚空を見上げ、顎を指で撫でる。
「明日は、王城に招かれるんだよなぁ……緊張するぜ」
ゼイドの言葉に、咲弥は不安げに問う。
「僕、正装なんかないんですが……どうしましょう?」
「いらないでしょ。今のままの格好でいいんじゃない?」
ネイの適当な発言に、咲弥は頬を少し引きつらせた。
「えぇ……絶対、何か問題ありますって」
「大丈夫。なぁんも問題ないって」
咲弥は悩んだが、今から正装を用意するのは難しかった。
恥を覚悟で、臨むしかない。
「それじゃあ、今日は二人でお祭りを楽しんでおいでよ」
「お前ら初めてなんだろ? 初めて同士わくわくしてこい」
ネイとゼイドの提案に、咲弥ははっとさせられた。
折角のお祭りなのに、いまだまったく楽しめていない。
咲弥は紅羽を見据え、笑みを作ってから訊いた。
「どうする?」
「はい。行きましょう」
紅羽は小首を傾げながら、そっと微笑む。
ネイはうんうんと頷き、人差し指を立てて言った。
「明日の朝、またみんなで集まるわよ。遅刻厳禁ね!」
「はい!」
「おう」
「了解しました」
そして、次第に日が沈んでいく――
夜の王都は、イルミネーションで彩られていた。
さまざまな色が煌めき、幻想的な光景が広がる。
「わぁあああああ……凄いや」
咲弥は感嘆の声を上げ、周囲をゆっくりと眺めた。
初めて王都に来た頃の記憶が、ぼんやりとよみがえる。
そんな場所で、こうしたお祭りは初めての出来事だった。
隣にいる紅羽が疑問を口にする。
「咲弥様。これから、どちらへ行かれるのですか?」
「適当に歩けば、何か見つかるかも? まあ、歩くだけでもたぶん、普通に楽しめるよ。お祭りの楽しみ方の一つだね」
「了解しました」
咲弥は紅羽と並び、ゆっくりとした足取りで進んでいく。
ただでさえ、普段から王都には人が多い。しかし、昨日の大会の予選に向け、他国からさらに人が流れてきている。
警備兵の数も多く、普段の数倍は強化されているらしい。
出店の大半は食べ物だが、中にはミニゲームもあった。
見たことのあるゲームもあれば、内容が掴めないゲームもたくさんある。その一つに指を差して、紅羽に声をかける。
「紅羽、あのゲームやってみない」
「ゲーム? なんですか?」
「きっと輪投げだね。離れたとこから輪を投げる遊びかな」
「了解しました」
咲弥達は輪投げ屋を前にした。
普通の輪投げとは、少しばかり内容が違う。
輪投げは輪投げだが、ボーリングに近い形式であった。
「お? 大会優勝者の二人じゃないか!」
店主に言われ、咲弥は苦笑で応えた。
「映像でだが、ちゃんと応援してたよ」
「あ、ありがとうございます!」
「一回、五〇スフィアだが、やっていくかい?」
「はい! 二人分です」
咲弥は一〇〇スフィアを、店主に手渡した。
「五つの輪を投げて、棒を倒すんだ。合計の数が多いほど、景品も豪華になるよ」
店主から輪を受け取り、咲弥は指定の位置に立つ。
紅羽も並び、じっと咲弥のほうを見据えてくる。
「よし。それじゃあ、僕からいくよ」
少し遠めの棒に、咲弥は輪を投げる。
想像した以上に届かず、棒の手前で落ちた。
「あ、あれ? もう一度!」
今度は力を入れて投げるが、あさっての方向に飛ぶ。
もはや、苦笑で誤魔化すほかない。
結局、倒せた棒は三つであった。
「えぇえ……難しいなぁ……これ……」
「ははは……残念だったねぇ。はい、三つ倒した景品だ」
店主から、飴玉の入った袋を一つ受け取る。
咲弥が肩を落とすや、紅羽が投げ始めた。
最初から最後まで、すべてパーフェクトで終える。
「……こりゃあ、驚いたなぁ。さすがチームリーダーだったお嬢ちゃん。かなりの腕だねぇ。パーフェクトの景品は……治癒の紋章具だ。持っていきな」
かなり豪華な賞品が用意されていた。
紅羽は治癒の紋章具を受け取る。
無表情ではあったが、どこか困った雰囲気を感じ取れた。
「凄いね、紅羽!」
「ありがとうございます。これ、いりますか?」
「ははは……紅羽には確かに、そうだね。ありがとう」
咲弥は紅羽から、治癒の紋章具を貰った。
それから、またあてもなく歩き始める。
道中――買い食いをしながら、ゲームの出店を眺めた。
サイコロやコインを扱うゲームのほか、中には玉転がしに釣り的なものまである。ゲームの種類は本当に豊富で、ただ見ているだけでも飽きない。
紅羽が楽しめそうなゲームを見極め、咲弥もそこで一緒になって楽しんだ。
咲弥と違い、紅羽はだいたい豪華景品を獲得していた。
自信のあった型抜きでさえ、咲弥は敗北を喫する。
ふと気づけば、いつの間にか見慣れた公園に辿り着く。
「だいぶ歩き回ったし、少し休もうか」
「はい」
王都を訪れてから、よく座っていた長椅子に腰を下ろす。
夜空を見上げ、咲弥はお祭りの余韻に浸る。
穏やかな雰囲気の中――紅羽が呟くように口を開いた。




