第三十八話 その先に見たもの
咲弥は呼吸を必死に整え、次の行動を模索する。
まだラグラオに二度、白爪をくらわせたに過ぎない。
「はぁ……はぁ……」
ラグラオは胸に添えた手を落とし、ククッと笑った。
「使い物にならねぇはずの腕を、鞭みてぇに扱ったのか……一回戦の試合を観たときにも思ったが、なるほどな……お前、相当イカレてやがるぜ」
「ただ……必死なだけです」
「つまらねぇ大会だと思ったが、面白れぇ。出てよかった」
固有能力が切れたのか、ラグラオの体が縮んだ。
首筋に手を当てて、ラグラオは首をコキッと鳴らす。
「俺は獣人だ。だから手負いの獣が、どれぐらいやばいのか知ってる。気なんか抜かない。お前を全力で叩き潰すぜ――絶対の王者!」
言いながらに浮かべられた黒い紋様が、激しく弾け飛ぶ。
再びラグラオの体が、一気に巨大化した。
ラグラオの言葉は、相手への最大の賛辞だったと思える。
しかし咲弥はもう、立つことすらも困難な状態にあった。
水の精霊が脳裏をよぎったが、特に反応は感じられない。
おそらく、手を貸す気などさらさらないのだと思われる。
(それでも、僕は……)
奥歯を噛み締め、咲弥は震えながらに立ち上がる。
血を流し過ぎたからか体が冷え込み、視界が霞んでいた。
咲弥の胸の中に、さまざまな思いが駆け巡っていく。
最終的な話でいえば、それは自分のためではあった。
天使から与えられた使命を果たす。その前にできる限りの準備をしておかなければならない。つまり優勝して、等級を少しでも上げておく必要があるのだ。
ただそれとは別の想いが、咲弥の胸の大半を占めている。
この広い世界の中で奇跡的に巡り会い、日々を一緒に駆け抜けてくれている大切な仲間達――自分はいったい、どんな恩返しができるのだろうか。
応えなくてはならない。立ち上がらなければならない。
仲間達の頑張りを、無駄にできるはずなどないからだ。
手助けをしてくれている、仲間達の恩に報いるため――
「僕は絶対……負けられません!」
咲弥は自身を鼓舞してから、漆黒の腕を構える。
ラグラオは豪快に笑った。
「いいぞ! 獣同士――どっちが生き残るか決めるぞ!」
ラグラオが咲弥のほうへ、全速力で向かってきた。
くっと息を詰め、咲弥はただラグラオを注視する。
一撃でもくらわせられれば、御の字に違いない。
最後の最後まで――咲弥は諦めない。
「さあ、始めるぞぉおおおっ――!」
ラグラオの鋭い爪が、咲弥の眼前に迫る。
もはやそれは、無意識での出来事であった。
ひらりと風に乗るネイのように、咲弥は爪撃を回避する。
ラグラオの攻撃はやまない。もう片方の手が振るわれた。
今度は紅羽みたいに、紙一重でラグラオの力を受け流す。
そしてゼイドに近い構えを取り、全力で黒拳をラグラオの腹に叩き込んだ。
「ぐぉはぁっ……!」
きっとそれは、ただの見様見真似だったのかもしれない。
極限状態に陥った先に見たものは――仲間達の姿だった。
(まだ……僕は、戦える……)
ラグラオの攻撃を受け流し、かわし、反撃に打って出た。
あらゆる感覚が、どんどんと遠退いて消えていく。
負った傷のせいで、体力が急激に奪い取られていたのだ。
無音の世界に陥り、視界は針の穴程度しか見えない。
それでも、着実にラグラオへダメージを与えている。
どれほどの時間が経ったのか、もう何もわからなかった。
「やはりな! 手負いの獣ほど、怖いものはねぇよなぁ!」
ラグラオの声が、ずいぶんと遠く聞こえた気がした。
少しでも止まれば、もう二度と動けない。
そんな予感を感じながら、咲弥は最後の一撃を目論んだ。
咲弥は空色の紋様を虚空に描いた。
ラグラオもまた、黒い紋様を顕現する。
「闇火の紋章第二節、黒龍の襲撃」
闇と火属性の合成紋章術――
ラグラオの右手付近から、凄まじい黒炎が放たれる。
黒炎は範囲が広く、咲弥に避ける力は残っていない。
灼熱が肌を焼き、身が竦むような激痛に咲弥は襲われる。
あまりに激しい熱のせいで、呼吸すらも上手くできない。
ジッ、ジリッ――と、そんな音が聞こえた。
咲弥は肺に残った空気を絞り出し、禁断の言葉を唱える。
「げん……かぃ……とっ……ぱ……」
それはまるで、世界の停止にも等しい空間であった。
痛みや苦痛がすべて消え、咲弥はラグラオの横へと移る。
本気でやれば、殺してしまいかねない。だから致命傷にはならない程度の威力で、ラグラオの肩を黒拳で殴りつけた。
(吹き飛べ……!)
咲弥は即座に、固有能力を解除する。
確実に訪れる全身の激痛を、わずかでも緩和したかった。
しかしそれが、判断の誤りであったとすぐに気づく。
「ぁ……」
「ぐぉおおおお――っ?」
ラグラオを黒拳で打った衝撃が、爆風を巻き起こした。
吹き飛ぶラグラオと同様、咲弥も大きく弾き飛ばされる。
意識がそこまで、至らなかった。
予想外の出来事に対処する力が、もう残っていない。また限界突破で消えていた痛みが、まるで思いだしたかのようによみがえってきたのだ。
咲弥は火傷を負った目を、必死に見開く。
そして、最悪な光景をまのあたりにする。
咲弥は限界突破の力加減を見誤った。想像を遥かに超え、巨大化で体重が増していたに違いない。ラグラオはリングの端――落ちる寸前のところで留まっていた。
(くそっ……くそっ……くそぉっ……こんな……)
そんな光景を最後に、咲弥の視界は暗転する。
《国際大会最後の大将戦、咲弥選手がリング外に出たため、ラグラオ選手の勝利。チームの戦績が引き分けとなり、国主方々による投票となります》
最後の最後で、詰めの甘さが出てしまった。
師のラルカフが観ていたら、きっとため息をついている。
暗い視界、虚ろな意識の中――
悔しい思いが、胸にじわじわと湧く。
「うぁ……がぁ……あがっがっ……」
限界突破を全開で扱った代償が、途端に生じ始めた。
受けた傷も相まって、死ぬのではないかと感じられる。
激痛が限界を超え、咲弥の意識は瞬時に途切れた。
気がつけば、そこは白い天井のある空間であった。
ぼんやりとした視界のまま、咲弥は天井を眺める。
ふと、覗き込んでくる顔が三つ――
「咲弥様……お目覚めになられましたか?」
「まったく……いつもいっつも、あんたは気絶ばっかりね」
「無事そうでよかったぜ。回復にはまだ時間かかりそうか」
紅羽、ネイ、ゼイドが、それぞれ言葉を発した。
咲弥は起き上がろうとしたものの、体が鉛のように重い。
「いぃ――っ!」
あまりの激痛に、咲弥は変な声でうめいた。
まだ体中に、限界突破を扱った代償が残っている。
ネイがじっとりとした目で睨んできた。
「あんたさ……治癒術を、万能な奇跡と勘違いしてない?」
「え?」
「あんたの体……結構、ぎりぎりだったってよ」
左腕を確認するが、しっかりと動きそうではあった。
充分に奇跡の類に思える。
咲弥はそっと吐息をつき、ネイに謝罪の言葉を送った。
「無茶して、すみませんでした」
「まあ、無事でよかったわ」
「はい」
沈黙が訪れ、咲弥はふと記憶がよみがえる。
「そういえば、大会は……?」
「ああ……」
ゼイドが重い相槌を打つ。
ネイが、呆れをふんだんに含んだため息を漏らした。
「ほんと、男どもは情けない。全勝したの、私らだけよ?」
無表情の紅羽と、ネイは肩を組んだ。
これには、咲弥も苦笑するほかない。
「あんたが気絶したあと、投票になったんだけどさ……」
「残念ながら……」
ネイは気落ちした声を響かせ、ゼイドは首を横に振った。
その様子から、咲弥は察する。
きっと、投票の差で負けたに違いない。
(そっか……あと、一歩だったのになぁ……)
じわりとした悔しさが、苦しいほど胸に募った。
大将戦を振り返れば、反省点はいくらでもある。
静寂に包まれる中で、紅羽がそっけない声を紡いだ。
「私達が優勝になりましたが?」
「ふぇ……?」
咲弥は目を丸くして、思わず情けない声が漏れた。
予想外の言葉に、思考が少し停止する。
ネイとゼイドが、けらけらと笑った。
「びっくりした?」
「俺達、一票差で勝っちまったんだぜ」
「え、ええ? 本当ですか?」
「ああ」
満面の笑みで、ゼイドは鷹揚に頷いた。
咲弥は開いていた口を閉め、全員の顔を一通り眺める。
優勝が事実だと知り、複雑な気持ちが咲弥の胸を訪れる。
嬉しさが半分、しかしもう半分は自身への呆れであった。
なんとも締まらない最終試合となったに違いない。
できれば投票などではなく、勝利して幕を閉じたかった。
自分らしいといえば、自分らしいのかもしれない。
「つか、私らに票を入れなかったのは、精霊を認めなかった連中だろうね。まったく……ちょっと頭が固すぎるのよね」
「とはいえ……半分以上は、俺らに入れてくれたんだ」
「投票って、結構時間がかかったんですか?」
咲弥の問いに、ゼイドは答えた。
「かなり揉めたらしいが、そこまで時間はかかってないな」
「まあ、そんなわけで――もうすぐ、閉幕式が始まるわよ」
少し前屈みになりながら、ネイはそう答えた。
咲弥は少し驚かされる。同時に、疑問が浮く。
「もう終わってるんだと思ってました。今回は僕、どれだけ眠ってたんですか?」
「大将戦が終わってから、まだ一時間ぐらいだぞ」
素早く解除したからか、それほど昏睡には至っていない。
ただ早く目覚めた分だけ、激痛の余韻もかなり酷かった。
全開放の限界突破は、どう足掻こうとも苦痛を伴う。
「最悪、昏睡したまま、閉会式に出るところだったわね」
ネイの凛とした顔に、いたずらな笑みが張りつく。
いまさらではあるが、それは参加者の一人としてはかなり寂しく感じられた。
自分が知らない間に閉幕しているのは、きっと肩透かしを食らったような気持ち悪さが、胸の中で残ったに違いない。咲弥はどこか、ほっとした。
突然ゼイドが迫り、咲弥の掛布団をはぎ取る。
「歩けないだろ? 背負ってやるよ」
「えっ……」
ゼイドが腕を掴んできて、戸惑う咲弥をさっと背負う。
傷みが響くと同時に、なにやら妙に恥じ入った。
ゼイドに出会って、まだ間もない頃の記憶がよみがえる。
ゴブリンの巣窟から逃げるときも、こうして背負われた。
「あ、すみません……ありがとうございます」
「なぁに。いいってことよ」
「それじゃあ、行きましょうか」
ネイと紅羽を先頭に、ゼイドも歩き始める。
長い廊下を進み、そして――
リングへ通ずる通路に辿り着くや、アナウンスが響いた。
《まもなく、閉幕式を始めます。選手一同、リングへ》
「ぎりぎりだったわね」
ネイが短い吐息を漏らした。
あちこちで破裂音と火花が飛び、大歓声が吹き荒れる。
派手な会場の中を、紅羽を先頭に進んでいく。
各国の選手達が、リングに集った。ただ、全員ではない。
二名だったり、三名だったりするところも多く見られる。不安要素の一つだった紅羽の姉も、どこにも姿はなかった。
動けないのか、来られないのか、理由まではわからない。
選手がリングに集い終えるや、アナウンスが響き渡った。
《それではこれより、閉幕式を始めます――》
閉幕式では、レイストリア国王から言葉が送られた。
今回の国際大会が、無事に終わりを迎えたことの賛辞から始まり、各国の国主への挨拶、出場者達への労いの言葉――そして、平和への祈りで締め括られる。
最初は、あまり乗り気ではなかった。
しかし今回の大会を経て、得られたものはかなり大きい。
その中でも、使徒と出会えたのは一番の収穫だろう。そのほかにも、戦闘面での足りなかった部分がよく理解できた。
今後の方針にも、大いに役立つに違いない。
《それでは、皆様――優勝した紅羽チームに盛大な拍手を》
咲弥はつい、顔がほころんだ。
この世界にたった一人で放り込まれ、今はこれほど大勢の人達から拍手を送られている。それはどこか嬉しくもあり、また恥ずかしくもあった。
すべては、奇跡の連続に過ぎない。
何か一つでも違えていれば、今ここにはいないのだろう。
豪快に手を振るゼイドと、軽快な動きで観客を楽しませるネイに、無表情のまま手を振っている紅羽――本当に心から誇れる仲間と巡り合えた。
その思いが強くなればなるほど、咲弥の心は軋み続ける。
もう二度と――
もとの世界で過ごしていた頃の自分には戻れない。
死ぬ瞬間が訪れる、そのときまでずっと――
咲弥の心は軋み続けるほかないのだ。