第三十七話 負けられない
紅羽の上半身を抱きかかえ、咲弥は大きく呼びかけた。
「紅羽! しっかりして! 紅羽! 紅羽!」
紅羽の状態に、咲弥は血の気が引く。
想像を絶した戦いの末に、紅羽は虫の息となっていた。
紅羽を呼びかけながら、咲弥は漠然と試合を振り返る。
まるで、現在と未来の紅羽同士が戦った――そんな感想を強く抱かせる。
戦いの最中に、紅羽は五號と何か喋り合っていた。しかし激しい激闘から発生した音にかき消され、咲弥からでは聞き取れなかった部分はとても多い。
ただ傍から見ても、しっかりと伝わった部分はある。
あの紅羽が、本気で激怒した。
初めて見せる紅羽の姿に、少し戦慄したのを覚えている。
髪飾りを壊されたのが、よほど頭にきたみたいであった。
確かに咲弥も、悲しい気持ちになったのは否めない。
しかし咲弥からすれば、髪飾りよりも紅羽のほうが遥かに大事だと思っている。だから自分の身を顧みない戦い方は、あまりしてほしくない気持ちではあった。
「紅羽……しっかりしてくれ……」
「咲弥、様……?」
虚ろではあるが、かろうじて意識を取り戻した。
「紅羽! よかった……」
「……すみ……ません……」
紅羽の声を聞き、咲弥はひとまず安堵する。
紅羽の震える手が、そっと自身の頭へと向かった。
髪飾りがあった場所を確認するかのように、彼女は銀髪を撫で続けている。
「……髪飾り、すみま……せん……」
「別にいいんだ。紅羽が無事で、本当によかった」
「だって……だってあれは……咲弥様が……くれた……」
ぽろぽろと涙を流す紅羽を見て、咲弥は言葉に詰まった。
どう言えばいいのか、少し言葉を選ぶ。
「ほら、あの言葉だけど……想いは形となり、やがて想いの中へ溶けていく……だった、かな? 紅羽の心の中に残ってくれてるんなら、それで全然いいんだ」
「咲弥……様……」
「今はとにかく、ゆっくり休んで……」
紅羽は力のない笑みを浮かべた。
「はい……オドが……尽きて、しまいました」
「……紅羽の口から、そんな言葉が出るなんて奇跡だね」
咲弥は苦笑まじりに伝えた。
おそらくは、二度と聞けない言葉かもしれない。
治癒師達がやってきて、紅羽を風の担架へと乗せた。
「あとは、僕に任せて」
「はい……」
治癒室のほうへと、紅羽は素早く運ばれていった。
《これより、リングの修復に入ります。咲弥選手は待機所に移動してください》
アナウンスの声が、少し遅れて咲弥の脳へと届く。
ぼんやりとしていた咲弥は、慌てて待機所に戻った。
紋章具か何かで、施工士達がリングを迅速に修復する。
そんな光景を眺め、咲弥は仲間達の戦いを振り返った。
精霊を召喚するほどの戦いを、全員がしいられている。
精霊との対面がなければ、全敗していた可能性が浮く。
(僕は自由に、精霊様を召喚できないんだよなぁ……)
大将戦に出るラグラオも、きっと強いに違いない。
映像を観た限りでは、双剣の使い手であった。
紋章術もいくつか見たが、どれも自己強化系が多い。
ラグラオとの戦いを、頭の中でシミュレーションする。
不意に、アナウンスから声が響いた。
《この大将戦で紅羽チームが勝利、または引き分けた場合、優勝チームが決定します。ラグラオチームが勝利した場合は、国主方々による投票となります》
もし投票ともなれば、勝敗はまったく見えなくなる。
さすがにここまできて、運任せの結果など迎えたくない。
(僕が勝てば……それで、全部綺麗に終わるんだ……)
そのことが、咲弥にプレッシャーを与えた。
そしてついに、リングの修復が完了する。
《両チームの大将、リングに上がってください》
咲弥は緊張を抱え、リングの中央へ進んだ。
ラグラオもまた、向かって来ている。
中央に立つや、ラグラオは双剣を抜いてから喋った。
「正直、驚いたぜ。国が用意した五號を倒すとはな」
「必死です。僕達も、優勝を狙っていますから」
「それは俺達とて、同じだ」
ラグラオの姿が、たちまち狼っぽくなっていく。
それはまさに、人狼と呼べる容姿であった。
「さあ、これが最後の戦いだ。得物を手にしろ」
「はい」
咲弥は紋様を浮かべ、黒白の籠手を呼び出した。
少量のオドを籠手に流し込み、すぐさま解放する。
《それでは、大将の咲弥選手対ラグラオ選手――開戦!》
咲弥は目を大きく見開く。
ラグラオが目を見張るくらい、俊敏な動きを見せた。
その脚力は、まさに獣のそれだと思わせる。
「悪いが、倒させてもらうぜ」
ラグラオは黒い紋様を浮かべた。
「闇の紋章第四節、闇夜の怪鳥」
ラグラオは全身に、紫黒色のモヤを纏った。
ラグラオの動きが、さらに速さを増していく。
だが、目で追えないほどでもない。
(僕は……もっと速い人を知ってる)
紅羽やネイの姿を脳裏に浮かべながら、咲弥は間を掴む。
タイミングをはかり、ラグラオに白爪を送った。
ラグラオは片方の剣で弾き、もう片方の剣で突いてくる。
咲弥は漆黒の手で、向かい来る剣を掴んだ。
弾かれた純白の腕を回し、下から白爪を振り上げる。
ラグラオは危険を察知したのか、掴まれた剣を捨てた。
一本の剣を捨てたラグラオは、跳ねるように後退する。
「危ねぇ危ねぇ。その白いのは、本当に厄介だなぁ」
咲弥は掴んだ剣を、リングの外へと放り投げた。
これで少なからず、ラグラオの戦力はダウンするだろう。
ラグラオは呆れたしぐさを見せた。
「お優しくないねぇ」
「一応、勝負ですから」
「ははっ! 見た目にそぐわず、修羅場を潜ってんな」
いつもなら苦笑していたが、今は試合に集中している。
注意力が散漫になってしまう前に、咲弥は動きだした。
「次は、僕から行きます!」
咲弥は突っ走り、漆黒の手を大きく振り上げた。
「黒爪空裂き」
やや離れた位置から、黒爪を振り下ろした。
空を裂いた衝撃は、ラグラオへと飛んでいく。
ラグラオは持ち前の素早い動きで、当然の回避を見せる。
しかしそれは、咲弥が予想した範囲内での行動であった。
睨んだ通りの場所へ、ラグラオは逃げている。
咲弥は即座に飛び上がり、再び空裂きを放つ。
「黒爪空裂き」
「げぇ!」
驚きの形相をするラグラオに、空裂きが命中する。
リングにも、少しばかりの爪痕がつく。
咲弥は着地するや、一気にラグラオへと向かった。
そのとき――異変を視界に捉える。
(空裂きが……効いてない?)
「なるほど……こんなもんかい」
ラグラオはにやりと笑い、咲弥のほうへと距離を縮めた。
空裂きでは、あまりダメージを与えられていない。獣人の防御力をなめていたわけではないが、ここまで効かないのは少しばかりショックではある。
ラグラオが、咲弥の周囲を素早く駆け巡った。
咲弥を翻弄したのち、ラグラオが途端に詠唱する。
「闇の紋章第八節、夕闇の佇み」
ラグラオは紋様も浮かべず、いきなり紋章術を発動した。
驚いた直後、咲弥の体が固まって動けなくなる。
明らかに、なんらかの紋章術を受けていた。
「え……なん……で……?」
「これまでは見せなかった、奥の手さ」
ラグラオは剣を四方へと振り、咲弥へとゆっくり迫る。
咲弥は激しく焦った。
精神系すべてを切り裂ける、白手すらも動かせない。
ラグラオが鋭く突き、そして剣先を咲弥の額で留めた。
「さあ、降参するか、斬り刻まれるかを選べ」
「うぐぅ……!」
「無駄だ。どう足掻いても抜け出せねぇよ」
(こんな……こんなあっさり……)
咲弥が負ければ、国主達による投票で勝敗が決する。
試合で魅せれば有利になるとは言っていたが、正直あまり期待はできそうにもない。精霊の召喚に関して、少なからず異を唱えた国主がいるからだ。
だから勝敗がどう転ぶのかが、まったくわからなくなる。仲間達が必死に積み立ててきた努力が、すべて水の泡となる可能性は否めない。
咲弥はなかば無意識に覚悟を決め、空色の紋様を描いた。
体は動かせずとも、紋様はしっかりと反応している。
「清水の紋章――」
「チッ!」
ラグラオがやや慌て気味に、咲弥の左肩を剣で突いた。
熱にも似た激痛のあと、重みのある痛みが広がっていく。
「ぐがぁっあああ! だ、第一節、降り頻る雨」
咲弥は痛みを噛み殺し、それでもなお唱えた。
空色の紋様が弾け、上空から弾丸の雨が降り注ぐ。
咲弥は自分もろとも、紋章術で攻撃を仕掛ける。
しかしラグラオは、機敏な動きで場から離れていった。
咲弥ただ一人が、水の弾丸に打ち抜かれる。
心臓の鼓動みたいに、傷を負った箇所がじんじんとした。
「ふぅ……はぁ……ふぅ……はぁ……」
紋章術が消え、息を整えながらラグラオを見据える。
ダメージはまったく与えられなかったものの、ラグラオが発した謎の紋章術の効果は解除されていた。どれだけ痛くて死にそうでも、動けるならまだ戦える。
人の心は矛盾に溢れていた。紅羽に自分を顧みない行為はあまりしてほしくないと思っておきながら、自分もまた――仲間のために、似たことをしている。
負けられない、または譲れない想いがそうさせた。
紅羽もきっと、同じだったのかもしれない。
そんなことを思いつつ、咲弥は足を前に踏み出した。
自分の紋章術で受けた怪我が、思った以上に酷い。
足はとても重く、一歩進むたびに体中から悲鳴が上がる。
ラグラオの獣の顔に、不敵な笑みが張りついた。
「はっ……お前、かなりイカレてんぜ?」
「僕は……絶対に、負けられませんから……」
「人間のくせに、まるで俺ら獣人みたいな奴だ……いいね。最高だ! お前!」
なかば地を滑るように、ラグラオが向かってくる。
嬉々としたラグラオに対し、咲弥はかなり深刻な状況へと陥っていた。ラグラオに剣で左肩を突かれたせいで、左腕がまったく動かせなくなっている。
まるで左腕が、自分の腕とは思えない重さに感じられた。
(もう白手は使えない。それでも……みんなの頑張りを……無駄にはできない!)
ラグラオの剣技を、咲弥は漆黒の手でさばいていく。
現状、速度や近接戦闘の精度は、ラグラオに分があった。斬撃をいなすたびに激痛が響き、どんどん押されている。
ラグラオが高笑いした。
「はぁーはっはっ! いいぞ! アガってきたぁあああ!」
ラグラオはなぜか攻撃をやめ、大きく飛び退いた。
自ら最後の剣を投げ捨て、黒い紋様を虚空に顕現する。
「絶対の王者」
ラグラオの体が途端に膨れ、巨人のごとく巨大化する。
ゼイドに似た自己強化の固有能力――肉体だけではなく、あらゆる面が強化されている様子だった。纏っているオドの流れすらも、かなり力強くなっている。
「さあ、行くぜぇ!」
巨体ではあるが、機敏な動きは損なっていない。
むしろ巨体だからこそ、圧迫感が増している気がした。
ラグラオの大きな手が振られ、咲弥は漆黒の腕で防いだ。
力の差が歴然であり、咲弥は軽々と吹き飛ばされる。
宙に浮く咲弥を、ラグラオは踏みつける形で蹴りを放つ。
「がは――っ!」
背骨が砕けたような不吉な音が、咲弥の耳へと届いた。
本当に背骨が砕けていた場合、もう二度と動けなくなる。じわりとした焦燥感に駆られ、とっさに最小限の動作のみで体中の反応を確認した。
どうやら背骨ではなく、リングが砕けた音だったらしい。
咲弥は奥歯を噛み締め、黒爪で反撃しながら空色の紋様を虚空に描きだした。
「水の紋章第二節、天空の砲撃」
咲弥の右手から、蒼く輝いた線がラグラオへ伸びていく。
軽く片腕で防がれたが、距離を取ることには成功する。
ラグラオは唇に舌を這わせ、恐ろしい速度で迫ってきた。
ラグラオが繰り出す猛攻撃を、咲弥は黒手で応じる。
(なんでなんだ……?)
咲弥は戸惑いつつも、応戦しながらに思案する。
ネイの対戦相手も、思えば似た感じではあった。
威力を抑えているとはいえ、無傷なのはありえない。
何かがおかしいと、確かにそう感じられた。
(エーテル……じゃ、ないはずだけど……)
それは間違いないはずだった。エーテルであれば、存在を知っている咲弥には、見ればすぐに違いがわかる。
紋章術は通じづらいが、黒爪はちゃんと回避していた。
(あとは……白手……)
咲弥と戦った相手は、誰もが白手を危険視していた。
オドを奪われるのは、さすがにまずいと踏んでいる。
使徒のクードは、少なからずそうだった。オドを極限まで失った場合、本来なら自主的に解除しなければならない固有能力が、勝手に消滅してしまうからだ。
(ラグラオさんは……本当に……それだけか……?)
疑問の答えなど、出るはずがない。
唯一のボロは、白手を恐れたということだけなのだ。
しかし咲弥の左腕は、もう動かせそうにない。
痛みのせいもあるが、おそらくは神経を斬られていた。
こちらの世界には、神秘的な力の治癒がある。だからまだ平静を保てているが、これが仮に地球での出来事であれば、大惨事以外の何物でもない。
逆にいえば、だからこそ多少なりとも無理が利く。
咲弥は奥歯をギリッと噛み締め、痛みを全力で堪えた。
(僕は――負けられないんだ!)
ラグラオの鋭い爪が、咲弥の右肩をかすめた。
瞬間――咲弥は全力で勢いよく回転する。
その反動を利用して、純白の腕を鞭のごとく振り回した。
ラグラオの狼に酷似した顔が、驚愕に彩られていく。
白手は動かせないと、そう判断していたからに違いない。
「しまっ――!」
「うぉおおおおっ!」
咲弥は雄叫びを上げ、ラグラオに白爪を振るう。
ラグラオの胴体を、打つように白爪で切り裂いた。そして勢いを殺さず、さらに回転して白爪による追撃を浴びせる。
ラグラオは胸に手を添え、大きく後退していく。
全力で回転したせいで、咲弥の頭がぐらりとぐらついた。
リングに黒爪を刺し、膝をついた姿勢で固まる。
それでも、咲弥は視線をラグラオにじっと注ぎ続けた。