第二十二話 獣の爪痕
(あの猫娘……)
ネイは眉間にしわを寄せ、いら立ちからつい舌を打つ。
ミラという女獣人は、思いのほかかなりすばしっこい。
姿を消す一歩手前を延々と保ち続け、速度型が追いづらい場所を的確に選んで逃げている。だから身軽なネイですら、まだミラを捕えられずにいた。
この場はゼイドに任せ、咲弥か紅羽との共闘を考えるが、ミラの素早さは鈍重なゼイドでは、かなり厳しいと思える。
だからといって、ゼイドを咲弥達のほうへ送り込めない。
そうした瞬間、上級冒険者のアレンが妨害に入るだろう。正直なところ、今のゼイドの実力では、アレンに勝ち目などいっさいないと断言できる。
あれこれ考えたが、やはり二人でミラを討つほかない。
ミラの放置は、絶対にするべきではないからだ。
(紅羽の読み……結構、正解くさいわ……)
アレンの相方らしき森人のリュイも、纏うオドから相当な手練れだと推し量れた。そこに上級冒険者のアレンがいるのだから、嫌な予感は拭いきれない。
紅羽の懸念を、実現し得るチームなのは間違いなかった。
アレンを筆頭に、リュイとハオがポイントを稼ぐ役目――そしてミラは潜むのではなく、獣人特有の体力でポイントを抱えたまま、逃げ続ける役目だ。
アレンは『楽しむ心も必要』と言っていた。
つまり裏を返せば、すでに楽しむ余裕があることになる。
もし紅羽の抱いた懸念が的を射ていた場合、ここでミラを逃せば、予選突破があやしくなる気配が漂っているのだ。
ネイは再び、眉間に力を込める。
(あいつ……また……?)
運がいいのか、はたまた獣人ならではの勘が鋭いのか――ミラはゼイドの先回りを、ことごとく回避していた。ネイの誘導もずっと失敗が続いている。
確実に、アレンが何かを仕込んだに違いない。有能な上級冒険者による訓練に加え、秘策的なものを与えられている。
(経験と知識は、財宝というけれど……ほんとそうね)
上級冒険者であれば、ありとあらゆる場所に赴き、そこで計り知れないくらい、経験と知識を得ているはずだった。
現にこうして、ネイは下級の者に上手く踊らされている。
(つっても、まあ。上級冒険者から得られた経験や知識を、そのまま別の人が流用できるかどうかは、また別問題よね)
紅羽みたいに、才能の塊と呼べる存在ではない限り、必ずどこかに綻びが生じる――ネイは頬に微笑みを乗せた。
女と追いかけっこなど、いつまでもしている趣味はない。
(となれば……そうねぇ……)
ネイは周囲に、気を張り巡らせた。
一つ、二つと、複数の参加者が付近にいる。
魔獣の情報が流れたため、参加者達が集いつつある。当然それは、魔獣を倒したチームを討つためにほかならない。
走る速度を落とさないまま、ネイは小石を拾い上げる。
やや遠くある気配の方角に、小石を弾き飛ばした。
ミラを追いつつ、ネイは次々に小石を送り続ける。
ある程度の種を撒き終え、改めて周囲の気配を探った。
四方八方から、かなりの人数が集まっている気配がある。
大きく息を吸い込み、ネイは腹の底から声を張る。
「魔獣を討ったアシラ族の女ぁ! 待ちやがれぇえっ!」
アシラ族とは、ミラのような獣人の呼称であった。
猫型獣人という言葉は、思っても口にするのはよくない。それは人間に、猿型人間と言っているようなものだからだ。
ミラが肩越しに振り返り、唖然とした顔になっている。
いくつもの凄まじい紋章術が、ミラへ向かって放たれた。
「ちょ、違っ……!」
何やら呟いていたが、紋章術の音にかき消された。
ネイは追うのをやめ、そっと立ち止まる。
どこからともなくゼイドが現れ、ぼそっと言った。
「えげつねぇな……オメェ……」
「見逃せないとはいえ、ポイント一をこのままばかみたいに追いかけ続けたって、しゃあないでしょうよ」
「そりゃまあ、そうなんだが……」
紅羽の指示に従えば、付近の参加者達を狩るほうがいい。
ただネイは、アレンの存在が気にかかっていた。若くして上級冒険者になった彼は、噂では百年に一人いるかどうかの天才らしい。
会うのは初めてだが、その存在は前々から知っていた。
(まあ、アレの弟なんだから、そりゃそうか……)
ネイは深いため息が漏れる。
「ミラは、あの中の誰かが討つでしょ……ちょっとあっちが心配だからさ、私達は戻りながら参加者を狩りましょうか」
「あ、ああ……」
大きく背伸びをしてから、ネイは素早く駆ける。
ゼイドと一緒に、咲弥達のいる場所を目指した。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
咲弥はハオと睨み合い、一定の距離を保っていた。
一騎打ちが始まったあとに見せた、ハオの不敵な笑み――
あの時点できっと、何か条件を満たしていたに違いない。自覚は特にないのだが、咲弥にもなんらかの効果を付与した可能性は充分にあり得る。
それは磁力による反発のみの効果なのか、咲弥からハオに迫っても、こちらが離されてしまうような感覚は、いっさい感じられなかったのだ。
おそらくは、相手に悟らせない術なのだと考えられる。
紋章術に焦ったのは、反発の効果が及ばないからだろう。とはいえ、稲妻に等しい速度で動けるハオに、紋章術で狙い撃つのは至難の業であった。
咲弥の実力では、無理にも程がある。
種を暴けたのはいいものの、とても面倒な事態だった。
「行くぜ! 咲弥!」
考える暇を与えないためか、ハオが颯爽と動きだした。
袖から出した剣を振りながら、黄金色の紋様が浮ぶ。
「雷の紋章第四節、雷鳴の駆け足」
また稲光を纏い、凄まじい速さで移動を繰り返している。
目に見えない速度、磁力での反発――
さきほどのような自爆的な攻撃方法は、もう二度とハオに通じないと思われる。
直接攻撃するにしろ、紋章術を撃つにしろ、逃げ道のない場所に追い込まない限りは、上手く当てられる気がしない。
しかしそんなことは、本人なら承知の上だと思えた。
(違う……逆だ!)
咲弥はいまさらながらに、ある事実に気づいた。
今現在、見通しのいい広々とした場所にいる。戦っている最中に、どんどんそういう場所に自分が追い込まれていた。
その事実を呑み込むなり、激しいショックを受ける。
(くっ……)
もはや打開策がない以上、こちらも追い込むほかない。
ハオが力強く言葉を吐いた。
「あめぇよ! 雷の紋章第二節、雷神の鉾」
ハオが伸ばした右手から、まばゆい雷撃が放たれる。
咲弥は雷撃を白爪で裂き、また距離を取らされた。
追い込まれかければ、紋章術で応対してくる。
やはりハオは、しっかり自分の弱点を自覚していた。
(くそ、どうする……っ!)
何もいい案が思い浮かばない。
(こんな状況……紅羽なら、どう切り抜けるんだろ……?)
紅羽の立場になって考えてみた。だが参考にはならない。
彼女は彼女で、光速での移動が可能なのだ。
ハオの斬撃をいなしつつ、思考するも答えは出ない。
敵としてみれば、想像を遥かに超える厄介さであった。
(動きさえ止められれば……でも……)
ゼイドのような拘束の紋章術は、まだ編みだしていない。
紋章術に関しては、まだ考慮する余地が多く残っている。
今の咲弥では、柔軟な対応がかなり困難だった。
「おらおら! どうした!」
ハオの鈍く光る剣が、空から落ちてくる。
咲弥は漆黒の手の甲で受け、下へ流していく。
一呼吸の間もなく、咲弥は白爪で自身を引っかいた。
(これなら……どんな紋章術でも解除できる!)
咲弥は素早く、ハオに黒拳を振るった。
だがハオの体は、まるで反発されたように後方へ退く。
衝撃的な光景に、咲弥は愕然となった。
なんらかの効果が、咲弥に付与されていたわけではない。
もはや理解不能でしかなく、咲弥は――
(……いや、もしかしたら……いけるかもしれないぞ)
絶望的で理解不能な状況が、逆に咲弥を冷静にした。
ある一つの閃きから、脳が爽やかに晴れ渡る。
成功するかどうかはさておき、今は試すしかない。
ハオの高速移動を読み、静かにそのときを待つ。
そして再び、ハオが大振りの攻撃を仕掛けてくる。
剣を漆黒の手で受けるや、咲弥は空色の紋様を浮かべる。
ハオの顔が、ほんのわずかに強張った。
「清水の紋章第二節、澄み切る盾」
輝く紋様が砕け、青白い光の粒が虚空に生まれた。
危機を察知したのか、ハオが素早く地を蹴りつけ、回避の姿勢を見せる。咲弥は食らいつくようにハオへ駆け寄って、白爪で攻撃を繰り出した。
当然、ハオは反発の力で遠ざかる。それを利用するのだ。
本来は護るために扱う紋章術――反発で弾かれたハオは、水の幕に背中から突っ込み、また前へと強く弾き返された。
「ん、なぁっ?」
きっと同じ手は、もう二度と通用しない。
咲弥は全力で、ハオへと突っ込んだ。
再び磁力で反発されても、水の膜で留まり続けている。
咲弥に反発の感覚を与えなかったのが、仇となっていた。
「すみません!」
咲弥は漆黒の拳で、ハオの腹を全力で殴りつけた。
余裕がなかったせいで、気持ち強めだった気がする。
「がはっ……!」
悲痛なうめきを漏らすハオに、念のため追撃する。
白爪を振るい、ハオのオドと補助効果を裂いた。
「く……そぉ……」
ハオの首飾りが色を変え、そして砕け散った。
気絶するハオの傍に立ち、咲弥は大きく息を切らす。
緊張と焦燥感が混じり合い、奇妙な感覚に手が痺れる。
策を閃いてから、きっと十秒にも満たない程度の時間ではあったが、とてもゆっくりとした時間に感じられたのだ。
安堵もつかの間、咲弥は背筋に冷たいものが走る。
「氷の紋章第二節、凍てつく刃」
ハオを倒せた安心感からか、つい警戒を怠っていた。
女の声のほうを、咲弥は即座に振り返る。
鋭利そうな氷の破片が、いくつも飛来してきていた。
「し、しま……っ!」
「土の紋章第六節、石霊の加護」
ゼイドの声が飛ぶ。
激しく地を砕き走る音が聞こえる。
咲弥の目の前に、突如として岩壁が地から飛び出した。
「なぁに、ぼうっとしてんの! 気を張り続けなさい!」
ネイの喝が聞こえ、とても耳と心に痛い。
ネイは上空から現れ、ゼイドは滑り込むように前に立つ。
気づけば、無数のオドの気配をあちこちに察知する。
ゼイドが戦斧を構え、緊張気味に伝えてきた。
「どんどん集まってくるぞ」
「ハオは自力で倒せたのね」
ネイの問いに、咲弥は素早く応える。
「なんとか、ですが」
「じゃあ、あんたはこれから、紅羽の援護に向かいなさい。見ればわかるけれど、あっちはあっちで結構やばいからさ。ここは私達で処理しておくわ」
「わ、わかりました」
何がやばいのかわからないが、とりあえず了承した。
ネイが素早く行動に移り、ゼイドもそれに追従する。
紅羽のオドを探りながら、咲弥も駆けだした。
お互い別々の戦いのせいで、かなり離れてしまっている。
とはいえ、そう遠くはない。
やや遠目に、紅羽の姿を捉える。
(……えぇえええ……)
咲弥はつい、心の中でうめいた。
アレンとリュイを相手に、紅羽は一人激闘している。
一見では、一対二の戦いだった――しかし周辺には多数の参加者に加え、狐の顔をしたニワトリらしき魔物が、点々と地に伏している。
おそらくは乱入者と魔物を蹴散らしながら、お互い激しく争い続けていたに違いない。ネイがぼかした発言の意図を、咲弥は自然と呑み込んだ。
恐ろしい激戦だが、わずかに紅羽が押している気がした。
(……ほんと、紅羽は凄いや)
複雑な心境を抱えたまま、咲弥は素直に感心する。
その瞬間、不穏な気配を捉え、自然と視線を滑らせた。
「まずいっ!」
やや遠くから、紅羽達を狙っている参加者がいた。
咲弥は即座に、遠距離型と思われる者のほうへと向かう。
だが、こちらの存在が気取られたようだ。
対象が、咲弥から遠退いていく。
ここまで残っている参加者――もう一筋縄ではいかない。
そのとき、まるで気配のなかった場所から男が現れた。
「霧の紋章第六節、渓谷の警告」
灰色の紋様が砕け、途端に周囲が深い濃霧に包まれた。
王都で遭遇した死の狂姫を、咲弥はぼんやりと思いだす。あのときとは違い、屋外だから効力は持続しないと考える。
オドの気配に注視しつつ、咲弥は空色の紋様を浮かべた。
「水の紋章第三節、精霊の水晶!」
咲弥の手に水玉が生まれ、狙った方向へと放つ。
二秒ほどの間を置き、けたたましい破裂音が響き渡った。
ほぼ同時に、男の悲鳴じみたうめき声が飛ぶ。もちろん、直撃はしていない。あくまでも凄まじい爆風で、濃霧と男を弾き飛ばすのが目的だったからだ。
濃霧が薄れた瞬間、上空から二名の男女が向かってくる。
唐突に横から放たれた猛火の帯に、その男女二名の全身が大きく呑み込まれた。
一瞬、咲弥は紅羽の姿を連想する。
しかし火の紋章術を放ったのは、まったくの別人だった。
今度は炎で攻撃した男が、背後から忍び寄っていたらしい女に斬られる。すぐさま雷が降り注ぎ、その女もまた恰好の的となっていた。
もはや何がどうなっているのか、まるで把握できない。
乱戦に次ぐ乱戦は、確実に大混乱を招いていた。
自分を狙う参加者を、一人、また一人と倒していく。
次第に咲弥の意識と視界が、極端なほど狭まった。
ただただ、目の前の敵と攻撃だけを見据える。
気がつけば、真っ暗闇の中にいた。
なぜかとても、不思議な気分に陥る。
暗い闇の中で、ぼんやりとした光が灯った。
人は赤く光っており、攻撃は青い光を放つ。
そして魔物は、やや黒ずんだ赤紫色をしていた。
色に応じて、咲弥は振るう腕を決める。
周囲の喧騒がやんだ。
自分の息遣いも消える。
心臓の音すらもなくなった。
いつしか――
無音の世界へ――
完全なる闇の中、ただ光に誘われるままに動き続ける。
不意に、別の色が近づいてくる。
黄色い光は次第に強く、大きくなった。
それは、腕を振ってはならない。
そんな気がした。
「ばかっ! しっかりしなさい!」
頬の痛みとともに、咲弥の視界が一気によみがえった。
ネイにビンタされたのだと、ゆっくりと理解に達する。
周囲からは、無数のうめき声が上がっていた。
何がどうなったのか、咲弥はまったく覚えていない。
ただ、そこら中に――
獣の爪痕が、強烈なまでに残されていた。