第十五話 別離の円舞曲
百年半ほどの、遥か遠い過去の記憶――
見渡す限り広がる草原に、無数の天幕が張られている。
小柄な森人の男は、倒木を椅子代わりにして座っていた。
時折、瑞々しい葉が陽光を跳ね返し、その眩しさにすっと目を細めながら、男はただ黙々と食事を続けていく。
不意に、背後から妙な気配を感じ取った。
とても陽気だが、勇ましげな女の声が飛ぶ。
「やあ、ラルカフ。ご機嫌はいかがかな?」
「悪くはないが、特にいいわけでもない」
ラルカフは振り返りもせず、声の主に淡々と応えた。
誰か判明しているため、別に振り返る必要もない。
「そうかい、そうかい。よっと」
断りも入れず、さも当然のごとく隣に座ってくる。
深紅の瞳をした銀髪の――白銀の戦姫と崇められる女だ。ここでは森人が珍しいからか、度々こうしてやってくる。
白銀の戦姫は、どこか涼しげな顔をしていた。
「なあ、ラルカフ。一つ聞いてもいいか?」
「……なんだ?」
「あんたら森人は、私ら人間よりも長生きなんだろう?」
「ああ。だいたい三倍ほどな」
「じゃあ、私の子や孫が老いたとしても、あんたはちゃんと生きているんだな」
一瞬ラルカフは固まり、静かに驚かされた。
そんな話を聞いた記憶がない。
「お前さん、もう子か孫がいるのか?」
白銀の戦姫は優雅に、しかし豪快に笑った。
「おいおい。純潔の若き娘に、なんという問いを投げる」
「だから、驚いた。男の影なんか、なかったのにってな」
「そうか。神の子を孕む可能性について、失念していた」
「相手もわからず孕むのは、恐怖以外の何物でもないだろ」
「そこは、私も女だ。自分が孕んだ子はたとえなんであれ、きっと何よりも愛するはずさ。そう、仲間達よりも深くだ」
ラルカフは短いため息をついた。
「まずは、相手を見つけたらどうだ?」
「今は戦場が、私の旦那さ」
「お前さんら人間はよくわからん。戦時中といえども、別に愛を育んではいけない……というわけでもないだろうに」
ラルカフは、ほとほと呆れ果てる。
満面の笑みを浮かべ、白銀の戦姫は言った。
「普通の人はそうだろうな。だが、私は違う」
「ふん……ただ変に祭り上げられているだけだろ。二つ名や将軍格といったものは、所詮はその程度のものに過ぎない」
「そうだな。だが、私の存在が――帝国を、そして民を熱く滾らせる。ならば白銀の戦姫は、それに応える義務がある」
ラルカフは呆れ果て、片手を振った。
「渡り鳥の俺には関係のない話だ。少し立ち止まった先で、金銭を稼ぐために、手を貸してやっている傭兵に過ぎない」
「フゥウ! 相変わらずクール」
茶化すような口調で、白銀の戦姫は肘でつついてきた。
面倒な女だと思い、ラルカフはまたため息が漏れる。
「なんで俺に、そんな話をする」
「あんたに頼みたいからさ」
「頼み?」
ここでは、たかが一介の兵に過ぎなかった。
そんな自分に、戦の英雄が頼み事などあるはずもない。
白銀の戦姫は、途端に神妙な面持ちに転じる。
「もし私の子、孫、あるいは、孫の子に会うことがあれば、どうか私の代わりに、言葉を伝えてやってくれないか?」
「ずいぶんと遠い話だな……なんと伝えるつもりだ?」
「心の赴くままに、自由に自分の人生を歩めばいい――と、そう伝えてくれ」
白銀の戦姫としての重圧は、やはり相当なもののようだ。そうでもなければ、そんな言葉など出てくるはずもない。
白銀の戦姫の紅い瞳に、ラルカフは視線を据えた。
今回の戦が終われば、ラルカフはまたふらりと旅に出る。
大陸を渡り歩き、終の棲家となる場所を探すのだ。
「自分で伝えればいいだろ。あんたはとにかく、強いんだ」
「それが叶わなかった場合の保険さ」
「あんたが死ぬより、俺が死ぬ確率のほうが高い」
白銀の戦姫は、大きく笑いながら背を何度も叩いてくる。
「まったく! 体も小っちゃければ心も小っちゃいってか」
人が気にしていることを、白銀の戦姫は爽快に言い放つ。
神々しいほど綺麗な顔をしながら、言うことがきつい。
ラルカフは嘆息で応じておいた。
「生きているさ。なぜなら、私が先陣を切るからだ」
「そりゃあ、頼もしい。ぜひ奮闘してくれ。まあ、この広い世界――そんな奇跡が起こるとは思えんが、もしもあんたの血族に出会ったら、伝えておいてやる」
「ありがとう……ラルカフ」
聖女のような微笑みを湛え、白銀の戦姫が感謝を述べた。
普段は勇ましく、力強い表情を保っている。しかし、時折見せる神々しい微笑みに、別種族のはずのラルカフですら、つい心が疼いてしまう。
同族の男が見れば、心を蕩かされているに違いない。
ラルカフは首を横に振り、また食事を再開する。
白銀の戦姫は、しばしこちらを見つめてから口を開いた。
「ラルカフは、いつもムスッとしてばかりだな。たまには、声を出して笑ってみたらどうだ? ほれ、ほれほれ、ほれ」
白銀の戦姫が、また面倒な茶々を入れてくる。
食べ物を飲み込んでから、ラルカフは言葉を返す。
「笑う場面なんか、どこにもないだろ」
「じゃあ、面白かったら笑うのか? いったいどう笑う?」
「どうって……なんだ。そんなもの、普通だろ」
「カッシャシャッ! とかか?」
「それのどこが普通だ……笑いの認識が、ずれ過ぎだろ」
白銀の戦姫は、雲一つない澄み渡る大空のほうを向いた。
「案外、似合っていると思うんだがな」
「似合うとか、そんな話なのか?」
「ああ、そうさ」
しばしの間、ラルカフは白銀の戦姫にいじられ続ける。
それから、数年後の出来事だった――戦に慣れない少年を護る盾となり、白銀の戦姫はその生涯を終えることになる。
風の便りに聞き、ラルカフはどこか虚無感に襲われた。
その日もまた――
雲一つない、青く澄んだ大空を見ていた。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
咲弥は訓練所の付近で、ラルカフの姿を発見する。
雲一つない大空のほうを、ぼんやりと眺めているようだ。
「師匠ぉー!」
振り向いたラルカフの顔は、どこか儚げに感じられた。
物思いにでも耽っていたのか、咲弥は疑問が浮かぶ。
小走りに寄り、咲弥は老師に問う。
「どうかしたんですか?」
「なあに。ただ少し、昔を思い出してただけじゃ」
「師匠の昔……どんな感じだったんですか?」
「さあな……あまりにも古過ぎて、忘れてしもうたわ」
これには、咲弥も苦笑する。
森人は普通の人よりも、三倍ほど長生きするらしい。
数か月前の物事すら、あやふやな部分は多々とある。
数年前の出来事になると、忘れていることばかりだ。
何十年も前ならば、覚えているのも難しいだろう。
百年以上ともなれば、もはや想像すらもつかない。
「ところで、咲弥」
「はい?」
「卒業試験といこうか」
「いっ?」
つい、変な声が漏れる。
「じき、王都のほうへ帰るんじゃろ?」
「あ、はい……」
「さあ、ついて来んさい」
咲弥は重い足取りで、ラルカフの後をついていく。
これまでの記憶が、走馬灯のようによみがえる。
訓練所の中心――一か月以上も修行していた場所にきた。
「さあ、全力で来んさい」
「……はい!」
咲弥は気持ちを入れ替え、そっと空色の紋様を浮かべる。
「おいで、黒白」
紋様が弾け、両腕に漆黒と純白の籠手が現れる。
魔人との一戦から、黒白の籠手はまたとても大きな進化を遂げていた。今では、上腕を覆い込むまでの長さがある。
もはやそれは、籠手と呼んでもいいのかわからなかった。
ただ重さは、まったくと言っていいほど変わっていない。
オドを少量流し、解放してから咲弥は構えを取った。
「行きます!」
発言とともに、咲弥は前へと駆ける。
ラルカフの金色の紋様を見ながら、動きを予測した。
まず初めに、雷の紋章術で牽制してくる。
その後、縦横無尽に移動を繰り返すだろう。
「雷の紋章第二節、雷鳴の狙撃」
雷の矢がいくつか放たれる。
これはあくまで、予想通りの牽制に過ぎない。
回避しきれない雷の矢を、白爪でかき消した。
「雷の紋章第五節、暗雲の迅雷」
咲弥は即座に逆走する。
(狙いは……)
咲弥はある地点をめがけ、黒爪を振る。
突如として、その地点にラルカフが現れた。
「ほう……」
腕を蹴られた衝撃で、黒爪の軌道がずらされる。
しかしその反動を利用して、白爪を薙いだ。
後方に跳ねるラルカフの腹を、ほんの少しだけかすめる。
そのさなか、こっそり空色の紋様を浮かべる。
「水の紋章第一節、螺旋の水弾!」
紋様が砕け、青い渦から水弾が放たれる。
きっとラルカフは、向かって右側に避けるに違いない。
そう予想して、咲弥は左足にオドを込めた。
案の定、ラルカフが予想通りの動きを見せた。
白手だけ解放を解き、素早く右斜めに飛ぶ。
滞空中のラルカフを掴み、そして――
「今回は、僕の勝ちですね。師匠」
ラルカフを地に押さえつけ、黒爪を喉元に突きつけた。
ほかにまだ、何か仕込んでいる可能性もある。
念のため、咲弥は周囲の警戒を怠らない。
ラルカフは柔らかな笑みを浮かべる。
「まだ腐ってるようなら、一喝するつもりじゃったがな……成長したな、咲弥」
「褒められて、とても嬉しいですが……なんか怖いです」
「カッシャッシャッ! うむ。警戒を解いてないな」
「解けませんよ……何百回、痛い目にあったことか……」
ラルカフは優しく微笑んで、ゆっくりと頷いた。
「うむ。合格じゃ」
ここまで来てもなお、まだ安心はできない。
咲弥は恐る恐る、ラルカフから離れる。
ラルカフは土埃を手払ってから、まっすぐ見据えてきた。
「どこにいても、わしとの訓練を忘れるんじゃないぞ」
「はい!」
「お前さんの優しさは、最高の武器ではあるが……同時に、最大の弱点でもある。それを忘れず、日々精進し続けろ」
「はい……師匠。一か月間以上も、お世話になりました」
途端に寂しく思い、咲弥は涙ぐみながら頭を下げた。
不意に、そっと頭を撫でられる。
「わしの弟子なんじゃ。誇っていけよ」
「……はい!」
「つまり冒険者の後輩でもあり、私の弟弟子でもあるのか」
ネイはなにやら、いやらしい笑みを浮かべていた。
ラルカフは呆れ気味なため息を漏らす。
「お前さんも、もっと鍛えたほうがええんじゃないか?」
「私は常に鍛えてんの。才能があるって知ってるでしょ?」
「まだまだじゃよ……」
ネイは胸の辺りで、小さく両手を広げた。
「そりゃあさ……師匠に比べたら、誰でもそうでしょうね。ジジイとうら若き花の乙女じゃ、まったく違うんだから」
「カッシャッシャッ! 言ってくれるわい」
咲弥とは違い、かなりフランクな師弟関係であった。
ふと、紅羽が歩み寄ってくる。
「咲弥様。お怪我はありませんか?」
「うん。大丈夫。僕も師匠も、ぴんぴんしてるよ」
「そうですか」
「心配してくれて、ありがとう」
「はい」
紅羽が応じるや、ラルカフが不意の声を上げる
「ああ……そうそう……思いだしたわい」
「どうしたんですか?」
咲弥は関係なかったのか、ラルカフが紅羽を前にした。
「紅羽、実はな……ある人から、伝言を預かっておる」
咲弥は驚いた。
紅羽に伝言など、誰なのか予想もつかない。
それは紅羽も同様らしく、小首を傾げている。
ラルカフはまっすぐに、紅羽のほうを見据えた。
どこか懐かしんでいるような、そんな表情をしている。
「心の赴くままに、自由に自分の人生を歩めばいい――そう言っておった」
「どなたからの伝言なのですか?」
「お前さんの母親……白銀の戦姫からじゃ」
咲弥は大きく目を見開いた。
紅羽も無表情の中に、わずかな驚きが混じっている。
「しかし……お前さんは、あやつとはまるで別ものじゃな」
「そうなんですか?」
「鬱陶しいったら、ありゃせんかったぞ。いちいち人のおるところについてきては、妙な茶々ばっか入れよったからな。しかも綺麗な顔して、きついこと言いよる」
咲弥はつい苦笑が漏れた。
それは案外、血は争えないという可能性を宿していた。
茶々まで入れてこないが――どこにでもついてくるのは、そっくりだと思えた。
さらに紅羽もまた、案外厳しいことを平然と告げてくる。
「なんでそんな人を、あんたが知ってんのよ?」
ネイは片目を細め、ラルカフに訊いた。
ラルカフは悩むようなしぐさを見せる。
「なあに……遠い遠い、遥か遠い昔の話じゃ」
「いったい何をしてたんだか……」
「カッシャッシャッ! 自分でも忘れてもうたわ」
ネイは呆れを含んだため息をついた。
ほんの少しだけ、紅羽が頭を下げる。
「伝言、ありがとうございました」
ラルカフは目を閉じて、静かな深呼吸をした。
それから、紅羽のほうをまっすぐ見据える。
「どんな生まれであれ、お前さんはお前さんじゃ。できれば……あやつの娘であることを誇って、人生を生きてくれ……それだけで、救われるじゃろう」
「……了解しました」
紅羽は神々しい顔に、柔らかな微笑みを湛えた。
ラルカフはまた、寂しそうな面持ちに変わる。
「その微笑みは、まるであやつの生き写しじゃな……」
ラルカフは首を横に振りながら、小さなため息をついた。
「じゃあ、気をつけて帰れよ。またいつでも来んさい」
「はい。師匠! ありがとうございました」
「体に気をつけてな」
「はい! 師匠も!」
咲弥の返事が終えるや、ネイがそっけない声を出した。
「また来るまでに、あんたが生きてたらいいけれどね」
「カッシャッシャッ! あと数十年は余裕じゃろ」
「まあ、長生きしなよ」
「ああ、達者でな」
別れを惜しみつつ、咲弥達は訓練所を後にした。
何か忘れているような――
そんな思いが、漠然と咲弥の胸に残っていた。