第零話 叶うはただ一人
果てしなく広がる、光に満ちた純白の空間――
眩しさを感じない不思議な場所に、黒髪の少年はいた。
目の前には、威圧感のある仰々しい椅子が一つある。
そこに鎮座している〝何か〟が、清らかな声を紡いだ。
「ここまで話を聞き、何か疑問はありますか?」
「えっ……? いや、あの……」
言葉を〝何か〟と濁したのには、理由があった。
この世のものとは思えない美貌を持ち、その体付きは目を奪うほどの魅力に満ち溢れていた。見た目は女性に属する。
ただ、安易に性別は断定できない。
なぜなら〝何か〟は、大きな純白の翼を左右の背に六つも携えているからだ。確実に人と呼ばれる類の存在ではない。
たっぷりと間をおき、乾いた喉に唾をごくりと押し込む。
海のような青い瞳に見据えられ、冷や汗が止まらない。
何か一つ言葉を違えれば、命を失う危険性を感じ取る。
「その……あまりにも疑問が、たくさんありまして……」
混乱と緊張も相まって、歯切れの悪い言葉を並べた。
小さく深呼吸してから、勇気を出して訊いてみる。
「あなたは、その……天使……様? ですか……?」
鎮座する〝何か〟は、右手をひらりと虚空に漂わせた。
「あなたが想像した通りの存在ですね」
また、ごくりと喉から音が鳴る。
まるで理解はできないものの、かろうじて納得はできた。
「えっと……つまり、なぜか選ばれた僕が別の世界へ行き、そこにいる邪悪な神様を殺し――討つ。そうすれば、願いを一つ叶えてくれる……合っていますか?」
「不可能な願い以外は叶えます。引き受けてくれますね?」
やや戸惑いながら、不可解な疑問を呈した。
「えっ、あの……質問があります。それは、僕がやる必要があるんでしょうか……? 僕なんかよりも、天使様が直々にやられたほうが、早いのでは……?」
「はい。おっしゃる通り、それが一番の近道です。が、直接――いいえ。不可能な水準で、細工が施されているのです」
天使はそっと、小さなため息を漏らした。
「あなたに多少の力を付与し、送り出す――私が介入できる唯一の道でした。小さな綻びを突くようなものなのですが、こういう方法を取らざるを得ないのです」
天使の回答に納得してしまい、返す言葉が見つからない。
わざわざ、こんな回りくどい方法を試みているのだ。別の世界の住人を選んだことにも、何か意味があるに違いない。
いまだ納得が難しい部分を、代わりに問うことにした。
「しかし、だからといって……どうして、僕なんですか?」
不安を抱える胸に手を置き、シャツをそっと握り締める。
「僕なんか……特別、何かに秀でてるってわけではないです……僕なんかより、もっとふさわしい人が、ほかにたくさんいると思うんですが……?」
「それはあなたが、自身を過小評価しているに過ぎません。人には無限の可能性が広がっています。ですが、まあ……」
天使は妙な間を作った。
「あなただけ、というわけではありません。私とはまた別の存在が選んだ者達ですが、あなたのほか、九名がその世界へ送り出されます」
ほかにもいると知ったからか、少し安心感が芽生えた。
自分以外にもいるのであれば、きっと協力し合える。
返す言葉を選んでいる、その途中でのことだった。
「別の使者と邂逅した場合、遠慮なく殺しても構いません」
あまりに突拍子もない発言に、一瞬だけ思考が止まる。
理解が大きく遅れてやってきた。
「えぇっ? 何を……いや、人を殺すのは悪いことで……」
「使者達の中には、殺しを厭わない者もいるでしょう」
(えぇ……なんで、どうして……そんな……?)
頭の中が、混乱で埋め尽くされる。
天使は落ち着いた口調で、言葉を繰り出した。
「願いを叶えるのは、使命を果たした者のみなのですから」
つまりこれは、ある種の競争だと解釈した。
確かに数が減れば、願いを叶える確率は高くなる。
ただ一人で邪悪な神を討てるのかは、疑問でしかない。
「待ってください……たった一人では、さすがに……」
「言っておきますが、ほかの九名達は、あなたと同じ世界の住人とは限りません――いいえ。まったく別世界の者です」
「宇宙人って、そんなあちこちいっぱいいるんですかっ?」
ぎょっとしたせいか、危うく声が裏返りかけた。
宇宙人の存在など、いるだろう程度の認識でしかない。
目の前の天使を見れば、疑う余地などどこにもなかった。
「いずれにしても、気をつけるに越したことはありません」
天使は見惚れるほど、ゆったりと頷いた。
「話を戻しますが、あなたを選んだのには理由があります」
「な……それは、いったいなんでしょうか?」
「ぼんやりとした光に誘われ、私の目に留まった。ですね」
「……え?」
つい、間の抜けた声が漏れた。
何一つとして、理解まで及べない。
天使の言葉を脳内で繰り返し、やっと意味を呑み込めた。
「そ……んなの……ただの〝事故〟じゃないですか!」
はち切れんばかりの美貌で、天使は頬を緩ませた。
「ふふっ。あなたは、ここへ来る際の記憶はありますか?」
「えっと、確か……突然曇り、運悪く雷に打たれました」
「引き受けてくださらないのであれば、ただの〝事故死〟になってしまいますね」
ふと、ある一つの予感を覚える。
「まさか、あの雷って……」
雷に打たれた瞬間、おぞましいほどの激痛に襲われた。
正直、今も生きているのか、少しばかり疑わしい。
「こ……こんなの、あまりにも酷過ぎませんか!」
力強く訴えているさなか、目もとにじわりと涙を溜める。
天使は気にした様子もなく、裏向きに指を二本立てた。
「選択肢は二つ。私の願いを聞き入れるか。またはそのまま〝事故死〟となるか」
体がびくつき、ほんのわずかに仰け反った。
「そ、そんなの、僕に選択権なんかないじゃないですか!」
「さあ、どちらを選びますか?」
「僕にも生活があります! 家族や友人だって心配します」
「さあ、どちらを選びますか?」
「やっと高校生活が始まり、これからってときなんです!」
「さあ、どちらを選びますか?」
ただひたすら、同じ言葉が繰り返されている。
こちら側の事情など、聞く気はいっさいないようだ。
「や、やります! だって、やらなきゃ……僕はそのまま、無残に死んでしまうしか、道はないじゃないですか……」
「ああ。安心しました。快く引き受けてくださるのですね」
怖いぐらい綺麗な顔で、天使はにっこりと微笑んだ。
つい頬が引きつりそうになるが、必死に耐え忍ぶ。
涙を雑に拭い捨て、天使をまっすぐ見据えた。
「では、時間もありませんので、簡潔に説明しますね」
「あ、あの……その前に、ちょっといいでしょうか?」
「はい」
「もし使命を果たせなかったら、僕はどうなるんですか?」
天使はまた、ゆるりと頷いた。
「願いを叶えられるのは、ただ一人のみです」
「えっ? ま、まさか、もとの世界に帰ることそれ自体が、願いの一つとして、処理されてしまう……んでしょうか?」
「あなたの予想した通りです」
唖然となり、ぽかんと口が開いているのを自覚した。
「それじゃあ、もし使命を果たせなかった場合……僕はその世界にとり残されるってことですか? それどころか、命を奪われるなんてことはないですよね?」
「さあ――どうでしょうか?」
なぜか言葉を濁した天使を、ただじっと凝視する。
嫌な汗が、全身から噴き出した。
(ありえない。こんなの、本当にありえない……)
「冗談はさておき」
「じょ、冗談……っ?」
「使命を果たせずとも殺しはしませんが、願いを叶えるのは〝一つ〟のみです――例外はありません。使命を果たせば、あなた〝一人〟が帰る願いを叶えましょう」
もとの世界へ戻るためには、使命を果たすしかない。
どんな世界なのかはわからないが、戻ってこられないのであれば、それは死んでいるのとさして変わらない気がした。
家族や友人達の顔が、次々と脳裏に浮かんでは消える。
「……必ず使命を果たし、僕は……もとの世界に帰ります」
「それでは、新たな世界についての知識と力を――」
天使は何かを思い出したのか、言葉をぶつりと止めた。
「その前に一つ、言っておきたいことがありました」
「はい。なんでしょうか?」
「あなたは私が選んだ、天の使者――使徒となって、異なる世界へと送り込まれます。それは、理解されていますね?」
あまりにもいまさらな発言に、小首を傾げるほかない。
不可解に思いつつ、まずはこくりと頷いて応えた。
「え? あ、はい……もちろんです」
「だからといって、人を――世界を救う必要はありません」
「……へ?」
「あなたの使命は、邪悪な神を討つ。ただ、それだけです」
天使の言葉が、上手く呑み込めない。
邪悪な神と聞き、最初に想像したのは――世界、あるいは星々を危険にさらすような、そんな危険極まる存在だった。
だからその前に、討たなければならないと解釈している。
世界を救う必要がないのであれば、いったいなんのために邪悪な神を討つ必要があるのか、わからなくなってしまう。
疑問を述べようとしたとき、天使は穏やかな声を紡いだ。
「それはいずれ、理解する日が来るでしょう」
「え……? いや、あの……あ、はい……」
「それでは、さっそく始めましょうか」
とてもざっくりとした説明を受ける中で――
ただただ大きな不安だけが、緒方咲弥の胸を訪れた。