得体が知れないから怖いのであって、何か分かれば怖くない
久しぶりの投稿です。
ほぼ1日で書き上げたので、誤字脱字がありましたら、教えて頂けると嬉しいです。
よろしくお願いします。
シルヴァの朝は早い。
しかし、どんなに忙しくても時間がなくても、朝食を抜くことはしたくないし、新聞を読むことも忘れない。
彼の1日はとてつもなく忙しい。
誰よりも早く職場である王城に赴くのに、自分の屋敷に帰ってくるのは誰よりも遅い。
ーほんと、君って自他共に認める仕事人間だよね。
いや、魔族であるから人間というのは、間違いではあるけど、そこはよくない?え、ダメ?
ーシルヴァは、仕事魔族だよね〜。ほら、これでいいでしょ?
はぁ…面倒くさい。
これだから顔良し、家柄良し、職業良しなのに、真面目で堅物って、女の子たちから敬遠されるんだよ?
なーんて、本人に言ったら間違いなく殺されかけるから、言わないけど。
現実逃避がてら、シルヴァの人物紹介をそっと心の中でしていた(実際は口に出してしまったので、シルヴァに間違いを指摘されていた)彼の良き理解者、サザールは騒がしい窓の外へと視線を移した。
毎日賑やかで、片付けても片付けても溢れる仕事に追われる日々。
眉間に深い深い皺を刻むそんな彼にもたらされるであろう、更なる災難に思いを馳せ、どうかこれ以上彼の機嫌が悪くならないでと、きりきりと悲鳴を上げる胃を摩りながら願う。
恐らく、今すでに絶対零度の空気を放っている彼の機嫌が、更に悪くなることはあっても、良くなることなどありえないのだが、サザールはそんな考えはポイッと捨てて、慌ただしく近づいてくる足音に顔を向けた。
「失礼しますっ!」
ーこの1日が、この出会いが、これからの未来を左右するなんて、変えてしまうなんて、考えもしなかった。
**********************
目の前に立つ、波打つ長い髪を持つ少女の存在に、シルヴァは珍しく困惑の色を示したいた。
明るい茶色の髪と、少し黒の混ざった茶色い瞳を見る限り、彼女は隣国の住人。
…つまり、人間であるはずだった。
魔力を有するシルヴァを含めた魔族の国と、その隣に位置する魔力を持たない人間たちが住む国、互いに相入れることは難しく、建国当初から争いの絶えない両国は、数千年の時を経てなお、いがみ合っている。
例えそこに、きっかけや理由はなくても、魔族と人間、ただそれだけでお互い気に食わないでいた。
故に、彼女は人間なのだから、ここへ連れてきた魔族の兵士たちの、彼女へ対する扱いが荒くなる筈なのだが(現に今まで、こうして捕まった人間たちは、ここへ連れて来られた時には、すでにボロボロだったり、息が浅かったりしていたのだが)、ざっと見た限りでは、彼女に目新しい傷はなく、髪も肌も、服さえも汚れひとつない綺麗なものだった。
普段なら、兵士たちへ扱いを注意するよう告げるはずのシルヴァは、内心首を傾げた。
「で、何があった?」
とりあえず何事もなかったように、静かに問えば、兵士たちは伸ばしていた背筋を更にピンと伸ばした。
「はい!この娘は隣国の人間なのですが、誤って我が国内、西の森に立ち入ったところを、巡回中の私たちが発見した次第です!」
西の森にあるのは、鉱山、湖、あとは生茂る草木くらいで、特に何かあるわけではない。何故あんなところに?という疑問を抱くシルヴァの視界に、きょろきよろと、好奇心を隠せない焦げ茶色の瞳が映る。
「人間。何故、その場所にいた」
「ララ。人間って名前じゃないわ、ララよ」
ニコッと、何の思惑もないような純粋で、人懐こい笑顔を向ける人間、否、ララに、シルヴァは眉間の皺を深くした。
彼女の両脇に立つ2人の兵士が、その顔面にびくりと肩を揺らすのに、ララの様子は変わらなかった。
変な奴。
それが、彼が彼女に対して抱いた、第一印象だった。
**********************
「で?お前は、あの森で何をしていた?」
せっかく自己紹介をしたのにもかかわらず、名前を呼ばずお前呼ばわり、さらに自分は名前を告げない。
目の前の明らかに不機嫌そうな男性に、ララはむっとした表情を返し、ふいっと顔を背けた。
そっちがその気なら、こっちだって。が、ララの信条だ。
傍迷惑な時が多い信条である。
「おい」
呼びかける声にちらりと視線だけ向ければ、さっきよりも幾分深く刻まれた眉間と、鋭い眼光がそこにはあった。
醸し出す雰囲気とは裏腹に、その瞳の緑色は、透き通るように綺麗で、静かで、きっと大丈夫だと、ララは何の根拠もなく確信した。
ー彼なら大丈夫。きっと、間違わない。
「視察に来ていたの」
「視察、だと?」
「あ、間違えた?偵察??」
言い直す前の方がまだマシだなと、部屋にいるララ以外の全員が心の中で思ったことに、当の本人は気づかないでいた。
「そっか、偵察かぁ。ふふふ、面白いねララちゃん」
シルヴァは今まで黙っていたくせに、何故か楽しそうに、優しげな声色を室内に響かせる古き同僚に、視線を投げた。
目が合えば、黄金色の瞳がいつになく輝いていた。
変に気に入ったか…面倒くさい。
「えっと…貴方は?」
若干の戸惑いを滲ませながら、彼女はサザールへと顔を向ける。
ララは目の前へと立った彼を、じっと見つめた。
その光景に、シルヴァは自分では気づかずに僅かに焦っていた。
まるで女神のようだ、とも比喩される程の美貌を持つサザールは、男女問わず魅了する。
だからこそ、普段はそんな事にはならない自分や、数少ない友人以外とはなるべく話さないし、目は絶対に合わせない。
そんな彼が、自ら人間の少女と目線が合うようにと前に立ち、微笑みかけている。
その光景は、普段焦りや戸惑いを見せることのないシルヴァに、恐らく彼や友人には分かる程度で表情に現れていた。
ーどういうつもりだ。って、思ってるんだろうな。
先ほどまでとは違った不機嫌さを見せる、同僚兼友人を視界の隅に捉えながら、サザールは目の前にいる少女をもう一度眺めた。
波を打つようなその長い髪はしっかりと手入れが行き届いているし、長い睫毛と大きな瞳、血色のいい頬も日頃の手入れが伺える。彼女の立場がある程度あることを示していた。
ー着ている服も糸の解れもないし、縫い目も均等だ。
さて、彼女は本当に偵察に来たのかもしれない。
「僕は、サザール。そこの機嫌が悪そうなのはシルヴァで、彼の同僚であり、良き理解者でもある」
「サザール様に、シルヴァ様。…あら?この名前どこかで…」
名前を伝えれば、彼女は嬉しそうに微笑んで声に落とす。その名前に聞き覚えがあったことは明白で、じっとサザールを見つめた後、納得したように頷いてみせた。
「ああ!女神の涙と称されるサザール様と、法を司る魔王の異名を持つシルヴァ様ですね!」
やっぱりこの子は阿呆かもしれないと、ララ以外の全員が心を一つにしたのだった。
既に今日、2度目である。このままいけば、阿呆は確定しそうな勢いだ。
「あー、シルヴァ?落ち着いてね。彼女は一般論を告げただけだから。ほら」
「どっちにしても不愉快極まりない。なぜお前が女神で、俺が魔王なんだ。どちらかと言えば、お前の方が魔王に似ているし、あんな奴と間違われるなど最悪だ」
おっと今、とても失礼なことが言われた気がするぞ。と、内心考えながら、まあそれも否定はできないと自身で認めるサザールは、自分と目が合っても全く動じず、むしろ此方を動揺させたララを見ようとして、視線を彷徨わせた。
そう、彼女が先ほどの場所にいないのだ。
「ちょ、ちょっとシルヴァ!ぶつぶつ言ってる場合じゃないよ!あの子、ララちゃんがいないんだけど!?」
慌ててシルヴァの肩を揺さぶれば、彼は鬱陶しそうにその手を払い除けた。ひどい。
「何を言っている。あいつなら、さっきまでそこに…いないな」
明らかに存在しない彼女の行方に、シルヴァは何故か右手を顎にやり、静観している。現実逃避とも言えるその姿は、切り取った一枚の絵画のように美しいが、今はそれどころではない。
「いないな…じゃないよ!ほら、2人も探して!人間の女の子が城の中うろうろしてるなんて、誰かが見つけたら血祭りだよ!?」
声をかけられた兵士2人は、慌てて部屋を飛び出そうとして足を止めた。廊下の外、窓際に、ゆらゆらと揺れる茶色いものがそこにはあった。
「何をしている」
不機嫌さを滲ませ、静かにシルヴァが問えば、その声に振り向いた彼女は少し思案した後、ふっと笑った。
「ここの庭は綺麗に手入れがされているのね。あっちとは大違い。…きっと、ここにいる人皆んな、心に余裕がある」
窓から見える王城の庭園は美しく、シルヴァもお気に入りのものだ。疲れた時に視界に入れれば、少なからず癒しをもたらしてくれる。
「私、植物学者…研究者なの。今まで、境界線に近いから行かなかったんだけど、今日来てみたら見たことのない植物たちが、たくさん生い茂っていて、気がついたら此方へ来ていたみたい。ごめんなさい」
何故だろう、ギュッと胸が締め付けられるような、今まで感じたことのない感覚が、全身を駆け巡る。
先ほどまでとは違った笑顔を見せるララを、シルヴァは何も言えずにただ見つめていた。
「シルヴァ…?」
サザールの呼びかけにハッとする。
いつのまにか彼女は部屋の中へ戻っていたし、不思議そうに此方を伺っていた。
部屋を出た何も入ったのにも気付かないなんて、彼女は訓練された特殊部隊にでも入っているのかもしれない。と、馬鹿馬鹿しい考えは捨てて、シルヴァは部屋に入り、しっかりと錠をした。
流石に2回目を許すつもりはない。
「今回の経緯は分かった。特に怪しいものも持っていないようだし、いいだろう。今回は自国への即刻帰還でことを得よう」
ふっと息を吹き掛ければ、何もなかったはずの床に魔法陣が現れる。此方と人間の国を結ぶそれは、紫色にキラキラと輝いていた。
「え、あっ…待ってください!私を、もう少しだけここに置いて!」
突如現れた魔法陣の意味と、シルヴァの言葉理解したララは、慌てて彼へと駆け寄った。
ここで帰ったら意味がない。強い決意がその胸にはあった。
「な…何を言っている。今回は見逃すと言っているんだ。さっさとあっちへ帰れ」
「いーやーでーすー!どうせなら、しばらく滞在したい!もっと調べたい!ね、お願い!」
この光景を、数刻前の自分は想像できないな…と、サザールは考えを放棄した。
あの、冷酷、鬼、悪魔、魔王などなど様々な呼び名をつけられてきたシルヴァに、なんの躊躇いもなくすがり付く、可憐な少女の図…そんなカオスなその状況を、彼らに見られなくて良かったね。と、心の中で呟けば、まるでその声が聞こえたように、シルヴァの鋭い眼光がサザールを見た。
「サザール!どうにかしろ!こんな阿呆、俺の手には負えん!」
常に冷静沈着がモットー(多分)なシルヴァも、初めて出会う珍獣(失礼)に戸惑いを隠せない。
「えー、いいじゃん!よ、役得!そんな可愛い子に抱きつかれるなんて、男の夢だよ!」
「おま…覚えてろよ!?」
まさかの返答に、珍しく狼狽えるシルヴァに、サザールは久しぶりに彼らしい姿が見えたことを喜んだ。
いつも仕事に追われ、周りから恐れられ、いつしか表情をなくしていた彼の前に現れた、人間の女の子。
訳あり感もひしひしと感じるけれど、それでもきっと、彼女の存在がこれから彼を変えていく。それも良い方向へ。そんな根拠のない期待を、サザールは抱いたのだった。
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「それで?どうして、ララちゃんは、ここに残りたいの?」
やっと落ち着きを戻した室内で、テーブルを挟んで向かい合うシルヴァとララ。足を組み、いかにも威圧的、高圧的な態度の彼と、嬉しさを隠せないでいる彼女という、真逆の空気感に、せっかく消えていた胃痛がぶり返したサザールは、さっさと話を進めることにした。
「せっかくだから、もう少し、植物の観察や採取が出来たらなって!私の国にはないものが、ここにはたくさんあるんです!きっと、二つの国を繋ぐ架け橋になるものだって見つかると思うの、だから…!」
ララの返答は、正しくもあり、何かを隠しているようでもある。そう感じ取ったのは、きっと自分だけではなく、隣で彼女の発言を受け止めたシルヴァもまた、何かを考えるように、じっと目の前に座る少女を見つめた。
「まあ…お前が何かしたところで、我々魔族が危害を被ることは、万が一にもないだろうな」
「じゃあ…!」
シルヴァの予想とは違う返答に、サザールは驚きの色を隠さず、ララは嬉しそうに瞳を輝かせ胸の前で手を叩いた。
「だがしかし、お前がここにいる事が益になることは1ミリもなく、逆に迷惑をかけるであろうし、第一、皆の困惑は逃れられない。その点だけでも十分に、お前を隣国へ返還する理由になる」
「そんな…けど…」
ーやっぱりな。
それがサザールの感想だった。シルヴァが、隣国の人間を、そう易々と置いておくはずはないのだから、当たり前のことなのに、なんとなく残念な気分になる。
もしかしたら…そんな期待が、どこかにあった。
「…いいえ!貴方がなんと言おうと、私はここに残るわ!せっかくの機会だもの!これは、これはきっと、最後のチャンスなんだから!」
その決意は頑なで動かないことは、まだ半日しか共にしていないシルヴァにも、何故か察することができた。
ー面白い。
「いいだろう。先ほど言った通り、お前が何をしても、此方が傷を負うことは、まず、ないからな。勝手にすればいい」
「え、シルヴァ…!?」
「サザール、煩い。黙れ。…いいか、人間の娘。滞在は認める。ただし、何か不安な動きが見て取れた時には、強制送還などという甘ったるいものではなく、投獄させてもらう。いいな」
その言葉を覆させないとばかりに、がばっと立ち上がったララは、シルヴァの手を取ると、ガッチリと両手で包み込み、ブラバント嬉しそうに振り続けた。
「ちょ…やめろ。やめろ!」
焦った様子の旧友に、これ以上何も言うまいと心に決め、王への報告やら皆への周知やら、大変そうだなと、これからのことを考えるサザールは、ぶり返した胃痛とは暫く付き合うことになりそうだと、優しく鳩尾あたりを撫でたのだった。
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そうして突如決まった人間の少女、ララの滞在は、1週間ということになった。
ララも、それくらいが妥当だろうと判断したらしく、特に異論は出なかった。
何よりシルヴァの予想外だったのは、魔族の王であるセロが、すんなりと許可を下したことだった。その時の、彼の驚いた後の嬉しそうな、慈愛にでも満ちてそうな表情は、イラッとさせるものがあったので、とりあえず手近にあった辞書を投げつけておいた。
「と、いうことで!ここが、ララちゃんが使う部屋でーす!」
妙にハイテンションなサザールに冷たい視線を投げかけながら、シルヴァは彼女が滞在する部屋にざっと目を通す。
ほとんど来客などないため、ほんの少し埃っぽい空気が鼻につき、眉間に皺が寄る。
ー喉でも痛めたら、どうするつもりだ。
ベッドを軽く押してみれば、みし…と木の音が微かに聞こえた。
ーこんな所でゆっくり体を休めるなど、出来るはずがないではないか。
「素敵!ありがとう、シルヴァ様、サザール様。突然のお願いだったのにもかかわらず、こんなに可愛らしいお部屋を用意して頂けるなんて…!心から感謝します」
本当に嬉しそうに笑いながら、綺麗にお辞儀をしたララに、サザールは頷くが、シルヴァの表情は優れない。
「………少し待て」
サザールが声を掛けようとするより先に、シルヴァはそう告げるとパチンと指を鳴らした。
「え!」
ララの感嘆の声が、すぐに続く。
彼が指を鳴らした瞬間、まるでページを捲るように、少し解れていたカーテンは真っ白なレースのものに、簡易的で軋みを鳴らすベッドは、飛び跳ねても音なんて鳴らないようなしっかりとしたものへ、その上にはふかふかの布団とクッションが並べられ、床には肌触りの良いラグ、机の上には花瓶の中に可憐な花が揺れていた。
「一応、来客として扱うよう言われているからな。簡易的だが、先ほどよりはマシだろう」
しれっと答える彼に、そんな事をするような、気を使うような奴じゃない事を知らないララは、目を輝かせ辺りを見回した。
「何から、何まで…本当にありがとう」
ギュと胸の前で、祈るようにある両手は、ララの心に刻んだ決意を示すように震えていた。
ー絶対、大丈夫。何がなんでも、見つけてみせる。
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ララの滞在から3日も経てば、城内の雰囲気はガラッと変わっていた。
最初、異国の、それも人間の少女ということで、警戒と嫌悪を滲ませていた城内の者たちも、どうやら彼女と会話したり、その行動を目にすることで、当初の感情は消え失せているようだった。
「すごいね、ララちゃん。また3日しかいないのに、もう溶け込んでる」
「ああ…種族なんて、もう関係無いのかもしれないな」
減る気配を見せない書類の山に埋もれながら、シルヴァはサザールの言葉に共感していた。
今まで、だだ魔族と人間というだけで、たったそれだけの理由で歪み合い争い続けていた。
そこに明確な理由なんてなくて、だだ種が違うから、そんな心許ないもののせいで、数千年もの間、互いに血を流してきた。
けれど、ララのように、種なんて垣根を飛び越えて接する者もいるのだ。純粋な優しさに触れ、当たり前のことに気づけたシルヴァは、風に乗って部屋を通り抜ける心地のいい香りに頬を緩ませた。
「いい香りだ…」
「ラナの花だね。ララちゃんが、西の森にある湖周辺一帯と、城内の庭園にここ2日かけて植えたらしいよ」
「城内は分かるが、何故西の森なんだ?」
彼女が保護されたのも、確か西の森だった。何となく意味があるのかもしれないと、疑問を投げれば、ちょうど焼けたばかりのクッキーを、カゴいっぱいに持ったララがその問いに答えた。
「城内の庭園に流れる水はね、全て西の森にある湖が源流なの。というより、この国の皆んなが口にする、全ての水はあの湖から流れてきているんですって!」
「ああ、確かそうだったな」
昔、そんな事を本か何かで読んだ気がするが、魔族にとって毒なんてものは、あまり効果もないので気にも止めていなかった。
人間である彼女だからこそ、毒という言葉に敏感なのかもしれない。人間は儚く、傷つきやすく壊れやすいものだから。とくに、ララを見ていると、大切に大事に丁重に扱わなければならないと、そんな気が起こる。初めて味わう妙な感覚だ。
「それでね!ラナの花には、毒素を感知して色を変えるっていう習性があるの。綺麗で可愛い上に、検知までしてくれる優れもの!」
「で?」
「…もっと感動してくれてもいいのに。とにかく!私、ラナの花が大好きなの。名前もほら、少し似てるでしょ?だから、私がいなくなっても、忘れないでって意味を込めて、私が捕まった西の森と、私の大好きな庭園に植えたの」
捕まったという言葉に、多少の語弊があるのでは?と感じつつ、彼女の好きな花を知れて満足したシルヴァは、その手にあるカゴの中から、ひょいっとクッキーを一枚手に取り、口に運んだ。
ビターチョコが混ざったシンプルなクッキーが、ほろっと口の中で砕ける。実にシルヴァ好みの味だった。
「どう?」
「…間違っている」
「え、うそ!?まさかここにきて、砂糖と塩を間違うとかいう、信じられない間違いしてる!?」
さっと青ざめたララを慰めるように、サザールが優しく微笑み首を振った。
「何枚食べても飽きないくらい、とっても美味しいよ。シルヴァ、何が間違ってるのさ」
不思議そうなサザールと、心配そうなララに見つめられながら、シルヴァは口を開く。
「間違っているのは、先程の言葉だ。お前が帰ったからといって、お前のことを忘れるわけがないだろ。だから……間違ってると言ったんだ」
途中で自分でも、恥ずかしいことを言っていると自覚し、徐々に小さくなりながらも、最後まで言葉を伝えれば、ララは瞳を潤ませながら、静かに微笑んだ。
その笑顔はいつもより、ずっとずっと美しく、それでいて切ないものだった。
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「それじゃあ、皆さんお元気で!また会えたら嬉しいわ!」
にっこりと可憐に、けれどどこか寂しさを隠すように微笑んで、ララは自国へと帰って行った。
あっという間の1週間だった。
もう少し、滞在期間を長めに伝えていれば…今からでももう少し、滞在したらどうかと告げようか、とも考えたが、彼女の表情は明るく、しっかりとしたし、悔いのないように感じられたので、自分一人の我儘を通すわけにもいかないと、押し留めることにした。
「何で引き留めなかったのさ〜!ララちゃん、帰っちゃったじゃんか〜!!」
ララがいなくなったから、だいぶ月日は経ったというのにもかかわらず、未だにぶつぶつ不満を漏らすサザールに、シルヴァは深いため息を吐いた。
「そうだそうだ!なんだったら、ここで一緒に住まないか?くらい、言ったらよかったのに!」
サザールと一緒になって仕事の邪魔をする、もう一人の存在に、シルヴァの機嫌はさらに悪くなる。
「セロ、貴方もいい加減、自室に戻ったらどうですか?仕事、溜まっているでしょう?」
「ふん!朴念仁のシルヴァの言うことなんて、聞かないもんねー!ね、サザ!」
「うんうん!セロの言う通り!シルヴァの、ばあか!ララちゃんいなくて寂しいからって、こんなに仕事請け負ってきて!倒れても知らないからね!」
魔族の王であるはずのセロは、シルヴァとサザール、二人の昔馴染みであり、三人だけの時は敬語を使わず気兼ねなく話すことのできる間柄だ。
それでも、鬱陶しいと思うこともあるのだなと、久しぶりにイラつきを極限まで溜め込んだシルヴァは思い、怒りを爆発させた。ストレス発散、大事なことだ。
「お前ら…ララがいなくなってから、もうすぐ一ヶ月が経つのに、ぐだぐだと。いい加減、仕事をしろ!」
暫くぶりの彼の激昂に、セロはこれはまずいと自室に戻り、サザールは慌ててペンを手にしたのだった。
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シルヴァの忙しい朝に、一つ、追加されたことがある。
それは、ララが植えていった、ラナの花々を暫く静かに見守ることだ。
淡い水色の小さな花たちが、まるで絨毯のように咲き乱れる庭園を見れば、時間が過ぎるのが何故速く感じられる朝でも、その時だけはゆったりと流れていく気がした。
あまりにものんびりしすぎて、遅刻しかけたことがあるのは、シルヴァだけの秘密だ。
そんな穏やかな瞬間を告げるラナの花たちを一目見ようと、朝日がまだ出たばかりの外に目をやり、シルヴァは動きを止めた。
そうして、朝食も食べず、新聞も読まないで、焦る気持ちをなんとか抑えながら、部屋を飛び出した。
「シルヴァ…!」
勢いよく開かれた扉に、いつもなら飛んでくる小言がないことで、サザールはシルヴァの焦りを感じ取った。
「何があった」
普段の頼らないサザールの姿はそこにはなく、シルヴァの片腕として働く補佐官としてのサザールが、そこにはいた。
シルヴァが視線で伺えば、彼の前に座るセロが静かに頷いた。
「朝、窓の外を見たら、ラナの花が…ラナの花が輝いていた。………紫色に」
「え……」
紫色。それは、淡い青色が本来の花の色であるラナの花にとって、ある種危険を知らせる意味をもたらしていた。
「すぐに西の森に使いをやれば、予想通りだった。…全面、湖一帯紫のラナの花が咲いていると」
「それは、つまり…」
「ああ。毒だ。ラナの花が毒を感知し、知らせてくれたのだ。湖の水を調べれば、無味無臭の毒素が検出された。知らずに飲み続けていれば、最初は腹痛や頭痛から始まり、免疫力の低い者たちなら、死んでいたかも知れない。あの花が知らせてくれなければ、数年、数十年、数百年かけて我が国は苦しめられていた可能性があった」
花の色に気づいたシルヴァにより、即刻水の使用は止められ、湖および地方の水路まで調べたところ、毒素が検出された。
その毒は湖に落とされたらしく、湖が一番濃度が濃かったが、気づいたのが早かったおかげで、現在ろ過作業が行われており、二、三日中には飲み水としての利用が可能となる筈とのことだった。
その間は水を輸入するしかないが、期間が短い為にそこまでの痛手にならないことは、不幸中の幸いと言えた。
「誰がこんなことを…」
サザールの言葉にシルヴァが答えるよりも速く、慌ただしい足音ともに、勢いよく扉が開かれた。
「国王陛下に申し上げます!西の森の湖に、毒を投下したとされる者を捕獲致しました!入札よろしいでしょうか!」
「構わないよ、入って」
セロの答えに一礼すると、兵士たちが数人の人影を引き連れて入ってくる。
シルヴァは鼻を、耳を塞ぎたかった。目を覆いたかった。
嗅いだことのあるその可憐な香りも、聞き覚えのあるその心地のいい声も、いつまでも見ていたかったその姿も、こんな場所で見たくはなかったから。
また会えたらと、何度も願ったその願いを、こんな形で叶えて欲しくはなかった。
「ララ……」
声に出すつもりはなかったシルヴァは、無意識に溢れた声に気づかず、悲痛な表情で目の前の人々へと視線を向けた。
後ろに立つサザールが、青い表情で、そんな…と呟いたことも、セロがいつになく険しい表情なことも、今はどうでもよかった。
「君たちが、湖に毒を投げたのかい?」
静寂を破ったのはセロだった。
その声は、軽やかなのに何故か背筋が伸びるもので、連れられた四人のうち二人は、その気迫に慄いていた。
ララともう一人、彼女より少し歳が上くらいの青年は、きっと睨みつけるようにしてセロを見つめている。
「そうだ。俺たちが、やった。くそ…なんでこんなに早くバレたんだ…こんなはずじゃ」
毒を入れたことにではなく、見つかってしまったことを後悔する言葉を発する青年に、部屋中の視線が刺さる。それでも、気を失わないところを見れば、他の二人と違い訓練された者なのだろう。
ふと、今まで敢えて視界に入れてなかった少女、ララに目をやれば、カタカタと震える両手を祈るように胸の前で抱き、静かに目を閉じていた。
「君は、ララ…だね?」
セロの問いかけに、はっと顔を上げた彼女の美しい瞳から、はらりと一雫の涙が溢れた。
その瞬間、部屋の中にいた全員の悲しみが一気に充満したような、そんな空気が漂った。
「お前…やっぱり、お前が…!」
セロの言葉を聞いた青年が、カッと目を開きララに詰め寄る。兵士たちが慌ててその肩を押さえるも、力任せにそれを払い除けると、ララの腕を掴み上げた。
「……っ」
痛そうに顔を眺める彼女を見て、シルヴァは自身も気づかずに青年に殺気を放っていたが、そんなことに誰も気づかないほど、部屋の空気は重たかった。
「わた、私が…私が、やりました。ご、ごめんなさい。ごめんなさい!本当に…」
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その後のことは、あまりよく覚えていない。
怒りに任せて声を上げる青年を押さえつける兵士、その横で涙を拭い、自分の方へ向き直る彼女の姿は、一ヶ月前と変わらず可憐で綺麗だった。
彼女は言った。
全ての責任は自分にあると。
毒の作成も、投下も全て、自分がしたことだと。
他の三人は、何かあったときの保険のようなもので、実際に手を下したのは自分だと。
きっと、彼女の言葉全て正しい。
けれど信じたくないと、こんなことは夢で、朝が来て目が覚めれば、窓の外には淡い青色の花たちが優しく揺れているのだと、シルヴァは自分の殻に閉じこもりたくなった。
「シルヴァ…!彼女を、止めて…!」
そう。俺は間違えたのだ。
あの時、彼女に背を向けるべきではなかった。
逃げるべきじゃなかったのに。
サザールの切羽詰まった声に、押されるように振り返れば、何かを飲み干したララと目が合った。
からんと両手から放り出された空き瓶には、何も残っていない。
その瞳と目が合えば、彼女は優しそうに、何も変わらず微笑んで見せた。
そうしてそのままゆっくりと、綺麗な瞳を瞼が遮り、体は床へと倒れ込んだ。
「ララ…!」
その体を優しく抱き起こしても、彼女の体は動かない。瞼は閉じられたままだ。
「ララ!」
呼びかけにも、応じてくれない。
急速に冷えていく体から、熱が逃げないようにと、抱きしめれば、優しい香りが鼻を通り抜けた。
「そん、な……」
命が尽きる瞬間、シルヴァは叫びたくなった。
もう何も聞こえない。何も見えない。
こんなことなら、こんな結末を迎えると知っていたら、引き止めていたのに。
どんなに彼女が帰りたがっても、無理やりにでも閉じ込めたのに。
「シルヴァ、退け…!」
この時ほど、この友人たちがいてくれて良かったと思ったことはなかった。
彼女の命が天に召されるよりも早く、セロはその魂を掴み取り、鳥籠のような物へと投げ入れた。
その鳥籠をそのまま受け取ったサザールは、にっと笑顔を見せると、さらさらと灰になって、跡形もなくなった彼女を抱きしめたまま、動かないでいた彼の腕を掴んだ。
「ほら、行くよ」
**********************
「ここは…?」
「冥界だよ」
少し時間を開けたからか、多少落ち着きを見せたシルヴァの腕には、鳥籠に入ったララの魂が、ゆらゆらと静かに揺れている。
彼女の魂は自分が守らなければ。二度と、二度と何があっても離さない、そう心に決めてシルヴァは奥へと足を運んだ。
いつからここまでの執着を彼女に抱いていたのか、何がきっかけなのか、理由はシルヴァ自身にも分からない。
けれど、確かなことが一つだけある。
この腕の中にある魂を失うことは、何があっても許されない。彼女がいなくなることは、決して容認できない。この気持ちは、誰にも邪魔させない。
「冥界…そうか…アズサか。あいつに頼めば…」
「そゆこと〜」
彼らの古き友人は、もう一人。冥界に住み、魂の選抜を担っている。
魔族の国から辿り着ける死者の国、冥界。薄暗い冥界は、空気自体もどこか重たく感じるのだが、アズサにとってはこれが最適で、お前らの住む国は逆に疲れるそうだ。
「おーい、アズサ〜!」
呑気な呼びかけだなと思えるほどには、シルヴァの気持ちも持ち直していた。
「げ」
嫌そうな呟きと共に、姿を見せたのは、全身真っ黒い服装の青年だった。深く被ったフードのせいでその顔は見えない。見えたとしても、長い前髪のせいで目は隠れているのだが。
「なんで嫌そうなんだよ!?」
「だって、サザール…存在がうるさい…」
「うわ、ひっど!ねえ、聞いた、シルヴァ!俺の存在がうるさいって言う〜」
「「サザール、うるさい」」
見事に揃った二人の声に、サザールは仕方なく黙った。
さすがに二対一は分が悪い。
「それで、どうかしたの?」
前置きはいらないと、結論を急ぐ友の姿に、ああ懐かしいなとサザールは思った。
昔から、結論から聞きたがる奴だった。
推理小説も、最後のページで犯人を知ってから、読むか決めるタイプだったな、と。
「この魂を、転生させて欲しい…」
いつになく弱気なシルヴァの声に、少し驚きながらも、アズサはそっと抱きしめられた鳥籠の中にある魂に目をやった。
「いいよ」
その魂を見た瞬間、アズサは是の言葉を告げた。
それほどまでに、その魂は清らかで美しく、なんの汚れにも染まっていなかった。
もう何年もこの場所で、たくさんの魂を見送ってきたアズサでさえも、こんな魂に出会ったことがなかった。
それくらい、異質を放つそれは、きっとシルヴァにとって大切な人だったのだろう、と推測できた。
ー誰にも関心がないと、思ってたけど…違ったんだな。
友の変化を嬉しく思い、そっと笑ったけれど、フードに隠れて二人には見えていないようだった。
それでもきっと、二人には伝わっただろうけど。
「えらくあっさり言うね」
即決に近かったアズサに、サザールが驚いて問えば、素っ気なくそれに応えた。
ー前からそうだけど、アズサは俺に対してだけ態度が雑だ。
「今までの行いを、自分自身に問うてみろ」
どうやら声に出していたらしい。はて、行いとは…。
「それで、ララは戻るのか…?」
不安そうにもう一度確かめるシルヴァに向き直り、アズサはしっかりと頷いた。
「戻る。魂が浄化される前の状態だから、転生も早くできるし、なにより、綺麗だ。こんな綺麗な魂、初めて見た。きっと神様に気に入られて、すぐに戻ってくるよ」
「綺麗…?だか、彼女は罪を…」
「罪?この魂が?そんな、まさか。もし、裁かれたのなら、はっきり言える。それは冤罪だ」
アズサの、なんの迷いもない言葉に、二人は静かに頷いた。
恐らくそうなのだろう。確信はなかったけれど、彼女は何も悪くなかったのだ。きっと何か理由があったのだ。
「それに、一番の被害者はララちゃんだもんね」
サザールの言葉に、そうなるか、とシルヴァは納得した。
起床が早いおかげで、シルヴァは花の異変にいち早く気づき、水の使用を止めた。それにより、被害は極端に小さい。腹痛、頭痛を訴える者さえも出ていない。
あの騒動で失った命はただ一つだけ。
ララだけなのだ。
「それじゃあ、天界に届けるから。それ、頂戴」
「天界に?」
「そ、ここは選別する場所だからね。最終判断は、上にいる神のみぞ知るってこと」
さらっと告げられる言葉に、シルヴァは不意に不安になった。神が認めなければ転生しない…起こりうる最悪の結末に、鳥籠を包む腕に力が入った。
「だから、大丈夫だって。その魂、絶対好かれるもん。普通なら100年くらいかかる転生も、きっとその子なら数年で終わるよ。綺麗にするところがないもん」
「…シルヴァ」
アズサとサザールの視線を受け止め、シルヴァ深く息をついた。
ー必ず、また会おう。
そう心の中で告げれば、ララの魂は嬉しそうに揺らいだ気がした。
「それじゃあ、いってらっしゃい」
鳥籠を受け取ったアズサが、そっと扉を開ければ、魂はふよふよと、ゆっくりと上へ上へと登っていく。
その光景を、シルヴァは暫く見えなくなった後も見つめ続けていた。
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「死んだと思ったのに…」
久しぶりに発したからか、自分が想像したよりもずっと小さな声が、口から溢れた。
とても不思議な気分だ。体はとても軽く、すっきりとしている。
「ララ…」
名前を呼ばれ、その声のする方は視線を向ければ、記憶にあるよりずっと、嬉しそうに微笑むシルヴァの姿があった。
「シルヴァ、様」
「ララ…!良かった、目が覚めて!」
まだ不安だったのだろう、そっと近づいたかと思えば、少し苦しいくらいの強さで、ぎゅっと抱きしめられていた。
「ララちゃん。おかえり」
よく周りを見てみれば、見知った顔ばかり。
みんな嬉しそうに笑っていて、ララも嬉しそうに微笑んだのだった。
「ただいま」
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