島の日常
長崎のとある離島では暑い日が続いていた。
まだ日の落ちぬ八つ時。白のカッターシャツに黒いスラック姿で、鞄と竹刀を担いだ青年は、額に浮かぶ汗を拭いもせず、物がいっぱい詰め込まれた買い物袋を両手に提げて、焼けつくような日差しの中を歩いていた。
その隣を、顔に薄く皴の滲んだ、恰幅の良い女が歩いている。
「瑞穂ちゃん、ありがとうねぇ」
その声を横に暫く歩き、漸く辿り着いた家の軒先で荷物を下した。
やっと自由になった腕で汗を拭うと、空気が肌を撫でて僅かに涼しいような気がする。
「本当にここまでで良いの?」
「ダンナが帰って来ているだろうから運ばせるわ」
「そっか」
青年は頷くと、この場を後にしようと踵を返す。
それを慌てて呼び止めると、女は駆け足で部屋の中に入り、手に何かを持って帰って来た。
「お礼にこれ持って行き」
「やったー! 俺おばちゃんの肉じゃが大好き!」
半ば押し付けるように渡されたタッパーの中に入っている物を見て、青年は歓声を上げた。
女は満更でもない様子で「ヤダよこの子は上手いこと言って」と、言って笑う。
青年は暑い日差しの中、それを大事そうに抱えて帰って行った。
「今のは、葦原ン所の坊主か」
見送っていた女は、部屋の奥から声をかけられ振り返る。
皴の刻まれた顔を不機嫌そうに歪ませている夫の姿に、女は呆れ返って荷物を指差した。
「アンタが暑くて嫌だって来ないから、態々ここまで運んでくれたのさ」
「フンッ」と、男は鼻で遇う。「こんな日差しの間っから出掛ける奴があるかい」
そう言って男は再び部屋の奥へと帰って行こうとするので、女は慌てて呼び止めた。
「あっ、ちょっとアンタ」
「礼をするなら余り物じゃなくて家にでも呼んでやれ。どうせ今は独りなんだろうが」
背を向けたまま告げる男の顔は見えない。けれど、そんなところが憎めない女は、その背中に向かって「荷物持って行ってくださいよ」と、笑いながら呼び止めた。
***
瑞穂は、葦原という標識のかかった家に着くと、鞄の中から鍵を出して扉を開けた。
「ただいまぁ」
引き戸を開いて放った声に返事はない。
中に一歩足を踏み入れると、外の日差しが遮られて、どこかひんやりと感じられた。竹刀を玄関脇の傘立てに放り込むと、靴を脱いで上がり、一目散にクーラーを目指して、電源を入れる。冷たい空気が回り始めて、漸く人心地着いたような気がした。
汗の滲んだカッターシャツを仰ぎながら、棚の上に飾られた家族写真に手を合わせる。そこには詰襟を着た瑞穂の他に、フォーマルな格好をした男女の姿があった。
「ただいま、母さん、父さん」
瑞穂の両親は、その写真を撮ってから程なくして亡くなった。事故だった。母方の親族の法事のために本土を訪れた際に、信号無視の車に轢かれたのだそうだ。
二人の死の発端となった親戚は、天涯孤独の身となった瑞穂を引き取ろうと申し出てくれたが、罪悪感の滲む眼差しに耐え切れず、また思い出の残る家から離れたくなかったこともあり、瑞穂はこの島に独り残ることにしたのであった。
幸いにして、両親は島で生きるには十分なほどの財産を残してくれていたし、瑞穂はある程度自立した青年であったために、それほど苦労は感じないで済んだ。――少しばかり、静かになっただけだ。
今日も今日とて一人で台所に向かい、食事の準備をする。
島のみんなは、独りになった瑞穂に殊更優しく、育ち盛りだからと食材を分けてくれることも良くあった。その好意を無駄にしないために料理をしたし、だからこそ、きちんとした食事をとることができたとも言える。
だが今日は、少しだけ手を抜いてもいいだろう。
瑞穂は貰った肉じゃがをレンジで温めると、いそいそとテーブルに向かった。
何とはなしに付けたテレビを見ながら独り食事をとっていると、急にチャイムが鳴り響き、瑞穂が答えるより早く、扉を叩く音が聞こえて来た。
外を見ると日は落ちて、西の空が紫色に染まっている以外は夜である。
こんな時間に誰だろうと、怪訝に思いながら玄関に向かうと、着くのを待たずして再び扉が叩かれた。
「瑞穂! 帰ってるんだろう。ちょっと聞きてぇことがあるんだ!」
聞き覚えのある声に安堵して、駆け足に玄関に向かう。
鍵を開けるや否や、せわしない動作で向こう側からも扉を開かれ、瑞穂の父くらいの年の頃の男が、勢いよく顔を出した。
「うちの娘が来てねぇか!」
男は、瑞穂も良く知る島で一番の美人の娘の父親だった。このすぐ近くに住んでいて、子どもが同い年だからと、昔から懇意にしていた間柄である。おかげで件の娘とも仲が良く、何かとよく揶揄われたものだ。
「四津子? 昼間に学校で見たきりだけど」
「まだ帰って来てねぇんだ。船には乗ってねぇらしいから島の中にいるとは思うんだが……」
空はもう暗くなっている。殆ど顔見知りしかいない島の中とはいえ、年頃の娘が一人彷徨くには些か不安が残る時間帯だろう。男が心配するのも無理もない。
瑞穂は、丁度食事も終わる頃であったし、知らないふりをして過ごすほど薄情でもなかったので、男を押して、スニーカーを引っ掛けながら外に出た。
暗い夜空に似合わぬ、じっとりと生暖かい空気が、肌に纏わりつく。
「俺も探すよ。この時間でもいるかどうかわからないけど、ひとつ心当たりがあるから」
男は躊躇った様子で、暫し沈黙していたが、娘を案ずる心が勝ったのだろう。
「悪いな。頼む」
と、言うや否や、再び町の中へと、娘を探しに駆けて行った。
その背が見えなくなった後、瑞穂は反対側に歩き出す。歩調はやがて早足になり、走り始めたかと思うと、風を切るように、一目散に駆けて行ってしまった。
***
島には誰も寄り付かない小さな森がある。
言い伝えではその昔、戦国の時代に、酷い死に方をした人がいたらしい。
その人が今もその森の中を彷徨っていて、出会った人を斬り殺してしまうから、誰も近付いてはいけないのだという。真に明治の頃には、観光客が、森の入り口で血を流して死んでいた、という事件があった。
その一件は、おそらく熊か何かの所為だろうと処理されたそうだが、この島に熊が居たことなど一度も無い、というのが、島の古老の言い分だ。
島で生まれ育った人間は、桃太郎や一寸法師と同じくらい、その話を聞いて育った所為もあって、態々そんな森に近付こうとはしない。だが何事にも例外というものは存在する。
瑞穂は駆け足でその森までやってくると、周囲に一目が無いのを確認してから、足早に中へと踏み込んだ。
「四津子ぇー! いるのかー?」
女を驚かせないよう、大きな声で名前を呼びながら、確かな足取りで奥へと進む。
じっとりと生温い空気が肌を撫でた。滲んだ汗を拭いつつ更に進むと、岩陰に隠れた池の元まで辿り着く。
その淵に、白い女が座っていた。
常人では考えられぬほど白い肌をした足が、制服のスカートの下から伸びて、水の中に投げ出されているのが見える。
上半身も同じく制服のまま、襟の部分だけが紺色をしたセーラーから、足と同じく真っ白い腕が伸びており、その背中で、長い白銀の髪が、水面と同じように、月明かりを受けて、眩いほどに輝いていた。
自然豊かな湖面と、人非ざる雰囲気の娘と在っては、まるで絵画か何かのような、美しく神秘的な光景だが、瑞穂は慣れた様子で、溜息をひとつ零したに過ぎなかった。寧ろ、探し人が予想通りの場所に居たことに、安堵するやら、呆れるやら。
「四津子ぇ! おじさんが探してるぞー!」
瑞穂の声に気付いて、女の顔がこちらを向いた。
セーラーから伸びる華奢な腕が、恨めし気に、手招くよう揺れている。
水から上がる気配のない様子に、瑞穂は仕方が無く足を進めた。
「こんな時間まで何をしているんだよ。おじさんが心配しているぞ」
「話、聞いてた」
ぼんやりと、どこか舌足らずな口調で返された答えに、瑞穂は首を傾げる。
彼女の他には一人もいないように見えたが、誰か居るのだろうか。
「誰といたの?」と、瑞穂は辺りを窺いながら問うた。
すると四津子は、足で水を遊ばせながら、
「カミサマ」と、答えた。
瑞穂は思わず顔を顰める。
「お前さ、そういうこと言うの、あんまり良くないぞ」
「どうして?」
声と共に、純粋な目が、瑞穂を見上げる。
ちゃぷ、と彼女の足元で水が跳ねると、それがまるで責めるかのように聞こえ、瑞穂は気まずく思い、視線を左右させた。
「どうしてって……」と、思わず口籠る。「そんなの変だからに決まってるだろ」
「何が変なの?」と、四津子は尚も疑問を呈した。
「いや、だから、……わかるだろ」
もごもごと口籠って言う瑞穂に、四津子はただ首を傾げる。
その幼い仕草を可愛らしいと言ったのは、いったい誰だっただろうか。
だが、それらはすべて、彼女の顔が美しいとされるから、許されているようなものだ。醜女であったならば、四津子は忽ち、島一番の変わり者として有名になっていただろう。
瑞穂は、できれば彼女を普通の子にしてやりたかった。そうすることが、彼女と最も親しい己の役目だと、そうも思っていた。
それが故に、瑞穂は、不思議そうな顔をしたままの四津子に向かって、こう言った。
「……神様なんか、いるわけねーじゃん」
生温い風が吹き、駆け抜けていくまで、四津子は何も言わなかった。同意するでもなく、ましてや反論することもなく、何を考えているのか分からない顔をしたまま、水面に浮かぶ波紋を見ている。
その沈黙を気まずく思った瑞穂は、態と大きな声を出して言った。
「今度から暗くなる前にちゃんと帰れよ。おじさんにバレても知らなからな」
「うん」と、四津子はただひとつ頷く。
そうして再び沈黙が落ちた。
瑞穂は、その現実から逃げるように、大して考えるべきではないことを、いくつも考え始めた。一人先に戻って父親に見つかったと報告するべきか、それとも二人一緒に帰るべきか、もちろん後者の方が良いだろうが、今の己は彼女と共にいられるだろうか、などなど。悶々と考えていると、隣から突然、
「ねぇ」
四津子は、瑞穂の感じていた気まずさを、全く知らぬような、普段と変わらぬ声で呼んだ。
「それなら、どうして瑞穂は私と仲良くしてくれるの?」
そう問いながら、四津子の視線は、瑞穂のことを見上げたまま、まんじりともせず、二人は暫し見つめ合った。
すると瑞穂の顔に、段々と熱が上がって来る。
「お、俺はもう今更だからだよ!」
瑞穂は、大きく視線を逸らしながら、慌てたように声を荒げた。
「小さい頃から一緒に育ったからお前が変なこと言うのにも慣れてるし、今更どうも思わないっていうかっ!」
言うや否や、酷い言い方をしてしまったと、慌てて口を押えた。
四津子は傷付いてしまっただろうかと、恐る恐る表情を窺うと、相変わらず感情の見えぬ顔をしていたが、目が合うと、不思議そうに首を傾げて見せた。
その瞬間、瑞穂の顔が再び熱くなる。それを見られぬよう慌てて視線を逸らすと、勢い余って後ろを向いてしまった。
「だっ、だから俺以外には言わないようにしろよ!」
「うん。わかった」
苦し紛れに、叫ぶように言い放った言葉に、四津子は素直に頷いた。
あまりの素直さに、驚き顔を上げると、目が合った次には、ふわりと花が咲くように微笑まれる。
「瑞穂にしか、言わないね」
瑞穂は呆けて、それからやはり顔を逸らした。その顔の耳まで赤く染まっている。
幼い頃から共に育ったとはいえ、四津子はやはり島一番の美人なのであった。