とある歴史家の考察
道教に詳しい人は「ん?」と思う点がひとつあると思いますが、フラグなので間違いじゃないです。
平安時代に編纂された剣にまつわる物語『刀剣奇譚』には、単目の刀鍛冶が登場する。
今より遥か昔、記紀神話に記されるより前のこと。一口の刀剣が時の王へと献上された。
煌びやかな品々に紛れるようにしてやってきたその刀剣は、柄頭が蕨のように渦を巻いた質の悪い金で拵えられている他には特筆すべきことがない黒一色で、周りの豪華絢爛たる御物と比べずともあまりに地味なものだった。
誰もがすぐに下げ渡されるだろうと嗤ったが、それを献上した一人の男が、恐れ多くも王の前に進み出でる。その態度は随分堂々としたもので、嘲笑していた者たちも思わず口を噤んだほどだった。
その男は、奇怪な模様が描かれた奇妙な形の服を纏っていた。仙人と見紛う豊富な髭を生やし、その場にいた誰よりも彫の深い赤ら顔で、若いのか年寄りなのかもわからない。そしてなにより、その顔には二つあるはずの目が片方しかなかった。
彼は誰そと皆が口々に尋ねあったが、不思議なことに男を知っているという者は一人として居ない。頼りが無ければ入ることすらできない故に、男はどうやって入り込んだのか。
誰もが男に注目する中、男はこれまた堂々と口を開いた。
――この刀剣は、私が極寒の地で鍛え上げた唯一振りのものありますれば、遥か北方の大地にて“神宿りの刀剣”として密やかに祀り上げられていたのでございます。長く神と崇め奉られました一振りなれば、必ずや御身を御護り致しますことでしょう。
男は酷い訛りのある言葉遣いで言い切ると、恭しく礼をとって御前を辞す。
王は口上につけられた妙な節を愉快に思い、戯れにその刀剣を御取りになられた。
普通の刀剣に比べ心なし冷いと感じられる黒鞘を手に持つと、なるほどその刀剣は古くより伝わる直刀。一切の迷いもなく天を向く柄頭が、鈍く光るのがなんとも趣きがある。
鯉口を切ってすぐ、僅か一寸ほどで、刀身の鎬を挟んだ二辺の刃に、これまで見たことのない刃文が描かれているのがわかった。見た目の地味さなど気にもならない、素晴らしい一振であることは間違いない。
王が感心して顔を上げられると、男は一つしかない眼でじっと御手を見つめている。王は一つ目に促されるよう再び視線を御落としになられると、一挙に鞘から抜き放った。
ほぅ、と何処からともなく惚けたような息を吐く音がする。
奇妙なことに、抜き放たれた刃の切先は刃の形をしてはいなかった。鉄を叩いただけのように均された先三寸ほどの物打ちには、二分ほどの丸く透明な水晶が嵌め込んである。それは刀を揺らす度に光を吸い込み、そして吐き出して、なんとも雅な光の影を周囲に齎した。
数拍の沈黙の後、どこからともなく「綺麗だ」「見事だ」との声が上がる。その場にいた誰もがその剣の美しさを理解した。そしてこの素晴らしい剣を打った男の名を知りたがった。
しかし男はそんな周りの評価など気にもしていないようで、ただその剣だけを一つ目で見つめ続けている。そして王も、御手に握る刀剣に魅入られたかのごとく、男の視線すら気付かぬ御様子で太陽の光を受けて輝く刃をご覧になり続けて……。(後略)
『刀剣奇譚』では更に、このとき、王は御物のうち殆ど全てを下げ渡され、いくつかの御召し物と装飾品の他は、その奇妙な刀剣しか御残しにならなかったと記されている。しかも王が真に御望みになったのはその一振だけで、あとは下の者から進言された故、おざなりに御選びになったという。
その剣は、抜かれる前の姿である黒鞘と柄頭の金蕨と、抜かれた後の姿である刃に埋め込まれた水晶と刃文が合わさって彗星の如く見えること、その両方を由来として『黒蕨大刀羅喉』と名付けられ、抜刀せねば地味な剣であるにもかかわらず、飾太刀として王の携行なされるまでになった。
その異常なまでの王のお気に召し様は、当時より人々の風説する所であったようで、この時代の物語には剣狂いの暗君が登場することが多い。しかしこれはあくまでも物語であって、史実としてこの時代の王が暗君であったかは定かではない。しかしながら、王の寵愛があったが故に、羅喉はその名を後世に残すに至ったのは言うまでもないだろう。
類似の刀剣は、この時代以降の文献にも度々見られる。
『伴剣従竜伝』において、八岐大蛇の先駆と思われる七つの頭の竜を倒した皇子が持っていたのは黒鞘の蕨手刀であったし、『日本御霊記』の名で知られる『日本国現報鎮護御霊記』には、隼人の王が持つ黒き剣が、富士山よりも大きな妖を斬ったという説話が載っている。
これら黒鞘の剣の物語には多くの共通点があり、その主だったものとしては、黒鞘の剣の持ち主がその時代において貴いとされる一族の末子であること。これら御子が、国を脅かす人非ざるモノ――つまり悪鬼悪霊妖怪変化を討ち取り、その功で以て立身出世を遂げることの二点が挙げられる。
しかしながら、こうした立身出世の物語は、日本における物語の一類型である貴種流離譚と似ていることもあり、真偽の程が定かではない。
『刀剣奇譚』において羅喉は、何を斬ろうとも刃は決して鈍らず、曇りもしなかったと記されている。こうした不変不滅の伝説が残る物は大抵現存しているものだが、言うまでもなく羅喉については、その行方は疎か実在性すら疑問視されている。
仮に実在したとして、現在はどこにあるのか。伝説は偽りで、既にただの鉄屑へと変わり果てたのか。あるいは王に飽きられて、名も無き一振りとして誰そに下げ渡されたのか。
史実として羅喉の名を冠する刀剣を手に入れた者は、『刀剣奇譚』における時の王以外は誰一人として存在しないと思われる。それどころか、史料としての根拠に乏しい物語の他には、かの剣豪将軍足利義輝が探し求めたと伝わる程度である。
後の歴史家たちは、この謎を解明しようと奔走し、その過程において数多の歴史的発見をするに至った。
何がそこまで彼らを掻き立てるのか。
それは羅喉の存在が、未だかつてない歴史の発見を感じさせたことに他ならないだろう。
黒鞘の剣の初見といわれている『刀剣奇譚』において、鍛冶師が着ていた服に奇怪な模様が描かれていたこと。剣が北方の地で祀られていたことから、アイヌとの関連を説く者は多い。資料の少なさから未だ謎の多いアイヌと本土の関係を説く足掛かりとして羅喉の存在は大いに期待されており、北海道をはじめ樺太や千島、本州北端では、今も調査が続けられている。その中には、態々拠点を移してまで探索を続ける強者もいるほどである。
更には、同説話集において羅喉が、王へ献上するにはあまりにも簡素な見た目をしていたこと。刀身に鉱物を嵌め込むという珍無類な刃はもちろん、それが当時の日本において価値があるとされた翡翠や碧玉、瑪瑙のような玉石ではなかったこと。水晶が見事な球体であったことは、その謎に拍車をかける一方で、多くの者に浪漫を感じさせた。
本格的に水晶加工が行われるようになったのは江戸時代後半とみられるが、日本で最初に水晶を手にした人物は、神功皇后であるといわれている。伝説上の女帝とされるかの御方は、如意珠と呼ばれる水晶を使って神託や占術などを行ったと日本書紀にも記されており、黒鞘の剣が持つ破魔の力も、これと同じ力なのではないかと推測された。
その中で一つだけ、興味を引いて止まない話がある。
それはとある社に伝わる古文書に記された崇峻天皇崩御のこと。かの御方を暗殺せしめた際に東漢駒が握っていた剣は、鞘が黒。両刃の直刀で、その切っ先には禍々しく血のような色をした水晶が埋め込まれていたというのである。
もちろん、この話は史実性が低く、事実と断定するには至らない。けれど他の物語と比べて、羅喉との共通点が非常に多いことが注目を集めた。
この罪深くも王殺しを成した刀剣は、羅喉だったのか。はたまたよく似た別物だったのか。本当に今も存在しているのか。ならばその刀剣は今どこにあるのか。それとも本当は存在しなかったのか。それは誰にもわからない。しかしわからないからこそ、人はそれを解き明かそうとする。羅喉は今なお議論され続ける日本最古の謎の一つと言えるだろう。
そして今、黒鞘の剣は再びその姿を現そうとしていた……。