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一般向けのエッセイ

「ライブ・ア・ライブ」中世編から考える人間の相対性

 



 ライブ・ア・ライブという昔のゲームをやりました。オタク界隈では名作だという評判で、自分もある人のプレイ動画を見て、「確かにこれは良い」と思っていたので、ストーリーは知っていたわけですが、改めてやるといろいろ思う所がありました。


 以下でネタバレしますが、ネタバレ厳禁なタイプの作品なので、興味のある人はプレイしてから読んでもらえればいいかと。といっても、リメイクがwiiuとnew3dsしかないので、ハードルは高いかもしれません。


                        ※


 さて、まず、ライブ・ア・ライブという作品と言えば「中世編」であって、中世編のシナリオの展開が衝撃的だというのは、ライブ・ア・ライブの代名詞にもなっている。


 他のエピソードも良くて、SF編、功夫編、近未来編など、どれも良い出来となっている。ただ、話が散漫にならないよう、中世編に絞る事とする。


 説明しておくと、ライブ・ア・ライブというゲームは独立したいくつかのエピソードがあり、エピソードをRPG形式で辿っていく。六つのエピソードをクリアすると、中世編が現れる。この中世編を要として、前の六つのシナリオは一つに統合され、最後に「最終編」が現れる。


 中世編というのは、それ自体独立したシナリオとしても重要なものになっている。構造的な話からすれば、中世編というのは、それまでの既存のRPGに対するアンチテーゼ的な部分になっている。


 RPGと言えば、勇者であり、魔王であり、仲間であり、連れ去られる姫である。主人公が勇者で、王の命令とか、姫を助ける為に勇者をプレイするというのはゲームをする人なら、あまりにも自然な流れとなっている。中世編は、こういう流れをあまりに安易に、ゲーム的に受け取るプレイヤー並びにそういう風にゲームを作る製作者に対する、アンチテーゼとなっている。だが、批判というのは、「言説」であれば大して意味はない。物語においては、「描写」されねばならない。語るのではなく、示されねばならない。


 ストーリーを追うと、プレイヤーはまずオルステッドという勇者を操る。オルステッドは、武術大会で、親友兼ライバルのストレイボウに勝利し、王の娘に求婚する権利を得る。娘は求婚を受け入れ、娘ーーアリシアは妃となる。だが、アリシアは祝宴の晩に怪物に連れ去られて、オルステッドはストレイボウらと共に、姫を奪還しに、魔王山に向かう。


 ここまではよくあるRPGそのままで、製作者はわざと、変哲のない作りとしている。しかし、ここから変化が起きる。


 このストーリーで巧妙なのは、作品序盤から、「人を信じる」というテーゼが、僧侶ウラヌスのセリフで何度も示されるという事にある。オルステッドはウラヌスに「辛い事があっても人を信じなければならない」「自分を信じてくれる人間がいる限り、戦い続けるべき」というような事を言う。これは他の作品にもよくあるテーマであろう。


 しかし、途中からオルステッドの運命は転落していく。省略するが、オルステッドは、親友のストレイボウに裏切られ、罠にかけられる。ストレイボウは、内心では、常に二番手に留まり続け、親友のオルステッドに一歩先んじられていたために強烈な恨みを覚えていた。恨みを晴らすため、オルステッドを罠にかける。その為に、オルステッドは王を怪物と間違え斬り殺し、人々から「魔王」と呼ばれ、忌み嫌われ、追手に追われる事になる。


 しかし、オルステッドにはもう一人の人物が残っているはずだ。それはアリシア姫であり、アリシアは宴の晩に、「あなたを信じる」と言ってくれたはずである。だが、それも無残に打ち砕かれ、アリシアは、「あなたは私を助けに来てくれなかったが、ストレイボウは来てくれた」とオルステッドに向かって言う。これは勘違いであるが、アリシアは気づかない。その時には既にストレイボウはオルステッドに倒されていて、アリシアはストレイボウの亡骸を見て悲しみ、自害する。


 こうして、オルステッドは全ての希望を打ち砕かれた。彼は作品の序盤から「人を信じる」というテーゼをウラヌスに吹き込まれていた。ウラヌスは非業の死を遂げるが、それでも、信念はオルステッドに伝えた。だが、信念・テーゼとは常に、それとは真逆なものをはらんでいる。すなわち、「人を信じるのは素晴らしい」という価値観を第一義に置く時、それに裏切られると、もはや、何も残っていないのである。これはいろいろな事に言える。生を称揚すればするほどに、その反対の死は我々に無残なものとして降り注ぐ。

 

 人を信じる事。自分を信じてくれる人の為に戦い続ける事。例え、人々から王殺しの汚名を着せられ、追放されたとしても、なお信じるものがあれば……。その思いを胸にオルステッドは戦い続けるのだが、その全てに裏切られた今、彼に残るものはない。だから、彼は憎しみのみを胸に秘めて、自分が「魔王」になる事を決意する。


 中世編のサブタイトルは「魔王」であるが、作品を通すと、「魔王」という言葉にいろいろな意味が込められているとわかる。最初、オルステッドは魔王山に行って魔王を倒すのだが、これは偽物だという事が、同行したかつての勇者から伝えられる。では本物の魔王はどこへ行ったのか? 作品の最後まで行くと、そもそも「魔王」というものはおらず、憎しみの権化になったストレイボウが魔王になり、それを殺したオルステッドがまた次の魔王になるという風になっている。


 これは、単純な善悪対立を最初に示しつつ、ストーリーを追っていくと、それが自ら瓦解していく様を見せられるという、そういう構造となっている。それに比べると、現在のエンタメ作品は未だに、多くが善悪のシンプルな対立であり、自分たちの特別さ、自分達の正しさを一義的に肯定してくれるものとなっている。また、「人を信じる」というテーマも、「もしそれが裏切られたら…」という逆の現実を見せる事はあまりない。見せる場合でも、テーマを脅かすほどの強度で示されはしない。


 普通のシナリオの中では、善はなんだかんだ言っても悪に勝利し続け、夢は叶い、恋は報われる。それは、人々がそれを望んでいるからであるが、逆にも言えるだろう。つまり、人は望むからこそ、それと逆の現実に出会う。努力して夢を叶えるという欲望を持っているが為に、それに挫折した人間はオルステッドのように、ルサンチマンの塊とならざるを得ない。望むからこそ、それが達成されないと確定的にわかってしまえば、後は破壊するしかない。今の社会で起こっているのはこうした現象ではないかと思う。


 オルステッドは最後に魔王となった。それに対して、ネットの意見を見ると「アリシアがクズ」「ストレイボウが全ての原因」などというものが散見されたが、こういう意見というのは、通俗性に流れ込むようできている。つまり、「悪さえいなければ、問題は解決される」という通俗性である。「なろう小説」において、作品そのものに亀裂が入る事はない。人々が見ている夢をフィクションが裏打ちしてくれる事、その様を人は「夢が叶う」と言っているが僕にはこれら全てが正に「嘘ー夢」であるように思われる。


 中世編というシナリオで優れているのは、プレイヤーは、ストレイボウの変化を見せられても、ストレイボウにも十分共感できるようになっているという点にある。また、アリシアは悪女扱いされているが、それは結果だけを見ているのであって、アリシアの立場からすれば、アリシアがあのように思い、あのような行動を取るのも、人としてやむを得ないものだと言えるだろう。ここで、問題になっているのは、人間の相対性であると大げさに言っても良いかと思う。


 作品の構造的には、「魔王」というサブタイトルが重要で、まず極めてオーソドックスな形で敵ー「魔王」が示される。それを倒せば問題は解決すると想定されていて、主人公はオルステッドという正しき勇者を操作する。だが、話が進むにつれ、魔王は存在しない事、むしろ、魔王という存在を作り出しているのは人間である「我々」であり、人としての妬みを持ったストレイボウとか、オルステッドとか、あるいはアリシアのような人物にもみな「魔王」になりうるのだと、プレイヤーは否応なく納得させられる。ここで、よくあるエンタメ作品の構造は見事に解体されている。まず、魔王という記号を中心に置いて、その中心が実は空虚であるという事、絶対的な善悪の区別、常に自分が正しいとはあれないし、むしろ、正しくあろうとする事が結果的に間違った行為に至る事(これが人間の限界であろう)が示される。


 現代ではこういう問題は真剣には検討されないし、人はメタな位置に立って、世界を鳥瞰しようとする。それと共に、なんとしても自分は特別な、他人とは違う存在であると思い込もうとする。そこに、自分の「正しさ」があると信じようとする。しかし、人間の限界というのは、そもそもそのような、自分が正しいと知る事ができないという不可知的な場所にあるのではないだろうか。(このように言った所である種の人は「お前は不可知論者だ」と処理するだろうが)


 さて、そのようにして、オルステッドは魔王となる。人はこのシナリオに対して、オルステッドが魔王にならなくて済んだ、そのような可能性を見出そうとする。がーー例えば、「オイディプス王」に示されるように、そもそも人間というのはそのような存在、自らの成す全てを見通す事ができない限界ある生物なのではないだろうか。これに対して、「解決策がない」というのが答えであり、それにも関わらず、この「解決策がない」という答えは解決策を求めて運動しなければ得られない。作中で言えば、ただ魔王に怯え、逃げ惑う人々にどんな結論も与えられる事もない。彼らは求めないので挫折する事もない。オルステッドは求めたが為に、運命の残酷さを与えられた。だが、ここに答えは出た。


 しかし、この「ライブ・ア・ライブ」というゲームそれ自体は、中世編の後、最終編に続いていく事になる。この最終編では、かつてのRPGの形式で、中世編の尖ったシナリオも普通のパターンに回収されたという事になるだろう。「セラフィックブルー」や「ライブ・ア・ライブ」は、ロールプレイングゲームに対する批判を行いながら、同時にそれを越えていこうとする独特の形式を持った新しいタイプのロールプレイングゲームだったかと思う。


 だが、その試みが今のゲームシナリオに続いているようには自分はあまり感じない。少なくとも、中世編に示された、勇者ーー悪の絶対的関係性の破壊というものが、その後のシナリオ作りにおいて、真剣に、思想的に受け止められ、それを昇華し、越えていこうという動きはほとんどなかったと思う。何故かと言えば、ゲームもまた商業的に大規模なものになり、そうなると、エンタメ作品として、人々の欲求に答えねばならないから、人々の深層にある物語パターンに沿ったものが全面に出てくる。


 なんのかんの言っても、「シン・ゴジラ」的なもの、善悪の区別と自分達の正しさ、特別さの肯定というのはいつの時代でも人が求めているものだ。それが宗教の形を取ろうと、エンタメ娯楽の形を取ろうと、どんな形を取ろうと、人々は自分自身の相対性と運命の過酷さにうんざりとして、そのような空間を欲する。そうして、人間が巨大となった現代の社会では、人々が多数で夢見ればそれが「現実」になるという空間はとりあえず現出した。その為に、どんなインチキ詐欺師でも、人々の夢の中でそれは『現実性』を持つに至る。

 

 中世編におけるシナリオの尖った部分は、「衝撃的だった」とは評されたものの、それ以上の大きな発展はそれ以降ほとんどなかったのではないかと思っている。ライブ・ア・ライブというゲーム自体も最終編では普通のゲームの在り方に戻っている。だが、中世編が持っていた可能性というのは、未だに現代においても意味のあるものではないかと自分は考えている。




 (この文章を書いている内に、何故自分が小説という形式に固執するかが納得された。小説という形式は人間の相対性を描き出すのに好都合である。あるいは問いを変えてみよう。全てをメタな位置に立って見渡し、最初から明瞭な答えが出ていれば問題は起こらないはずである。ドラマや葛藤は存在しなくて良い。答えが出ていれば、もうそれでいいわけである。しかし、そんなメタな位置に立てないからこそ、作品内部に物語は起こる。波乱は発生する。


 通俗作品は物語の発生装置を「偶然」とか「絶対的悪」に求める。ここでは自身の存在については考えず、物語を回す道具は周囲の出来事のみであるので、大衆的な価値観と一致する。そこでドラマはあるようだが、外的な、偶然的な物語しか存在しない。太宰治が志賀直哉の小説を「詰将棋だ」と評していた事があるが、それにも似ている。最初から結論が見えている。だが、絶対的な結論など有り得なくても、というか、そういう結論がないという認識に至る所から始まるドラマもあるだろう。


 人間は神の目から眺められた一存在ではない。人間は人間であるがゆえに相対的で、よって悲劇的で、限界のある存在だと眺められうるのが本当の意味での「神の視点」であろう。この神の視点に、現実には立つ事はできないが、フィクションにおいてはそれは可能だ。これはメタな視点には違いないが、作品内部においてはそのような視点は巧妙に排除される。ここに作者の手腕がある。世界には運命があるが、それを知りえない人間という存在を作家は描かなくてはならない。そこに相対性を見つめる作家の目がある。世界は相対的だと観念する絶対的な作家の視点がある。この視点の内部で人は生きる。そうして作者自身もその内部に生きる。いや、この作家はそうした視点の内部で虚しい生を行きざるを得ないと痛感したからこそ、そのような世界の相対性を描いた作品を作れるのだろう。僕はそんな風な事を思う)


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― 新着の感想 ―
[一言] よく『「信じます」と言ったのに最後まで信じきらなかった』という理由で姫を叩いているのを見かけましたが、ぶっちゃけあの状況でオルスを信じるなんて無理なんですよね。 そもそも自分を景品としてge…
[良い点] 「わたモテ・宇多丸・ライブアライブ」 と、知っている作品からの話が最近多いので嬉しいです STEINS;GATE(シュタインズゲート)等からも一話欲しいと思います [一言] 言葉の亡霊に…
2018/10/19 00:31 退会済み
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[一言] その時のベストの選択が、次の選択から見れば最悪のチョイスだった。 大多数にとっての正義を行えば、誰かにとっては悪だった。 信じていたものはなんにもならなかった……。 そういう理不尽さ、世のや…
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