第四章 八月二十七日~九月七日
口の中に水が流れ込んで、予言者は激しく咳き込んだ。すぐそばで、誰かが覗きこんでいる。青空が輝いていた。
「ママ」
少女が叫んで、誰かが振り返った。
「この女の人、あの教団の教祖だよ。叔母さんに動画見せられたから知ってるもん」
顔を覗きこんでいた誰かが、目を見開く。
「ほんまか。じゃあ、この人連れて車に戻ろうか……立てますか」
誰かが、脇に手を入れる。体中が痺れたようで、うまく力が入らない。無理矢理に立つと、足がすっぽ抜けるようによろけた。
「おっと」
誰かが支えてくれた。
「二人で連れていけるかな」
「何とかなるやろ。荷物だけ持ってよ」
誰かが耳元で大声を出した。
「手当てします。私たちの車に行きましょう。頑張って」
強い雨の音で目を覚ました。薄い毛布を被せられて、後部座席に寝ている。眠っていたのだろうか。車は木陰に止まっていて、外はもう薄暗い。起き上ろうとして、体にかけられていたバスタオルが落ちた。
「あっ」
声に目を上げる。助手席に、中学生くらいの少女が座っている。
「起きましたか」
運転席から、落ち着いた感じの中年女性が振り返った。頬がふっくらとしていて、色が白い。太い眉毛の下から、注意深くこちらを見ている。ここはどこなのだろう。それに、何かがいつもと決定的に違うような気がする。
「傷を診ましょう。私は医者です。そのまま、うつぶせに」
女性は運転席を下りると、外に回って後ろのドアを開けた。バスタオルがめくられて、むき出しの背中を触られる。ひきつるような痛みを感じて、ぴくりと体が跳ねた。
「火傷自体は軽いけど、範囲が広かったので。薬を塗りましたから、楽になるはずです」
手当を済ませ、女性が運転席に戻った。雨の中に立たせてしまったせいで、バケツの水を被ったようにずぶ濡れだ。
「あり、がとう、ございます」
かすれてはいるが、何とか礼を言うことができた。
「気にしないでください。今日は、ここで休まれるといいでしょう……どうぞ」
差し出された水筒を受け取り、一口飲んだ。首だけ動かし、なんとか頭を下げた。
「すみません、貴女たちの車なのに……占領してしまって」
「ほんまや。せまーい、せめてシート倒したい」
助手席で少女が口を尖らせる。
「あんたはどこもケガしてへんでしょ。一晩くらい我慢しなさい」
女性がぴしゃりと言い、少女がまた言い返す。
雨は激しくなるばかりだ。外はもう暗い。ここは、どこなのだろう。薬のおかげか、だんだんと痛みが引いてきた。頭がはっきりすると、ずっと感じていた違和感が強くなってきた。もしかして、まさか。
少女と低く話していた女性に、恐る恐る声をかけた。
「あの……」
女性がすぐに振り返る。
「私の目は、どうしたんでしょうか。ケガ、していますか」
「目、ですか」
女性が身を乗り出してきて、まぶたに手を添えた。顔が近くなり、色白の頬にそばかすが散っているのが見える。だが、それだけだ。
「傷はないようですが。痛いですか」
焦りを感じながら、手を伸ばして女性の髪に触れた。女性がぎょっとして身を引くのにも構わず、ぐっと腕に力を入れる。
「あの、目を。わたしの目を見てください」
「離してください」
ママどうしたの、少女が小さく叫ぶ。
「お願いです、目を……」
「やめて」
強く突き飛ばされた。痛みに声を上げる。女性が慌てて助け起こしてくれた。
「すみません、驚いて……」
茶色がかった瞳が困ったように揺れている。それだけだ。ぞっと血の気が引いた。力が失われた。彼女の心も、名前すらも見えない。こちらを気味が悪そうに見ながら、女性が言った。
「一度、眠られますか」
「……いえ、大丈夫です。どうぞ、ご用件をおっしゃってください」
女性が目を見開いた。
「助けてくださったのは、何か理由がおありなのでしょう」
無理に笑顔を作ってみせると、女性がゆっくりと口を開いた。
「では……わたしは霊山と申します。外科医です。こっちは、娘のレイ」
「霊山さん、レイさん……ですね。ありがとうございました」
起き上ろうとすると、霊山が慌てて言った。
「横になって。それであなたは、あの教団の……」
「はい、指導者をしている者です」
「ほらね、言ったでしょ」
レイが母親をつついた。
「少し黙ってて」
霊山が娘を押し返す。少女がむくれた。そういえば、本部のみんなはどこだろう。早く、戻らなくては。
「あの、それで……信者たちも待っているでしょうし、戻りたいのですが」
霊山が困ったように眉を下げた。レイが大声で叫ぶ。
「え、全部燃えてたじゃん。あれじゃ誰も生きてないと思……」
一瞬、空がチカチカと点滅した。本部が轟音を立てて崩壊する。悲鳴が聞こえ、信者たちがくるくると炎にまかれる。道畑が血まみれだ。助けなくてはいけないのに、前に進めなかった。道は広いはずなのに、肩がつかえる。誰かが恐怖に叫んでいる。
体が滑って、一段下にどうと落ちた。痛い。埃っぽいゴムシートが唇に触れた。全身が震えた。あれは、本当に起きたのか。眩しい光をまともに向けられて、目がくらんだ。
「教祖様、静かにしてください。あたしたちまで危なくなる」
誰かが怒っている。
「音を立てたら駄目。変なのが寄ってきたら困ります」
分厚い手で口をふさがれた。燃えた。嘘だ。そんなひどいことが。
「私の妹が、あなたの教団に入信していました。どこにいるか知っていますか」
誰も、一人も助からなかったのだろうか。
「名前はわたしと同じ、霊山です。珍しい名字やから、ご存知ですよね」
「ママ、この人泣いてる」
誰かがイライラした口調で言った。
「分かりました、じゃあ明日で結構です……お願いですから、静かにしてくれませんか」
壊れたように涙が止まらない。ぎゅうと、頭の上に何か柔らかいものが突っ込まれた。
「あんたは寝なさい」
「ママはどうするの」
「誰か来たら、すぐ逃げなあかんやろ。朝方まで起きとく」
朝か。朝が来たら……。
大きな鳥居の上を影が移動していく。額束の金文字が西日を反射している。と、助手席のドアが開いた。
「ただいま」
声に目を向けると、レイは不機嫌そうに顔をしかめた。
「もう、何とか言いなよ」
「レイ。いいから」
運転席に乗り込んできた霊山がたしなめる。
「だって、もう十日も経つのに。おかえりくらい言えばいいじゃん」
「黙りなさい」
叱られて、レイは不満げに口を尖らせた。
開けっぱなしの窓から入った羽虫が、ずっと顔の周りを飛んでいる。風が涼しくなってきた。
「どうぞ」
水筒を渡されたが、うまく掴めずに落としてしまう。あ、と呟いて霊山が拾い上げてくれる。レイが大声を上げた。
「あー、お水。もったいないじゃん、ちゃんとしてよ」
「やめなさい」
霊山が何かレイに手渡した。
「だって、せっかくお寺で汲ませてもらったのに」
「いいから、早く食べてしまいなさい。教祖様も、どうぞ」
チョコレート菓子を手渡された。
鳥居の奥が薄暗くなってきた。貰った菓子が手の平で溶けていく。ふいに、二人が動きを止めた。レイが囁く。
「ママ、何か動……」
霊山がレイの口を押さえた。どこかから虫の声が聞こえる。二人の息が荒い。
と、鳥居の下で暗闇が揺れた。誰か出てくる。
「ひっ……」
霊山が悲鳴を漏らした。背中が震えている。
それは、ボロボロのシャツを着た男だった。片手にツルハシをぶら下げ、もう片方の手でこめかみの辺りを押さえて、ゆらゆらと体を揺らしている。全身の血が逆流するように感じた。同じだ、本部を襲った人々と……。男がこちらを向いた。見つかった。迷いなく歩いてくる。
「捕まりなさい」
霊山が叫び、猛然とエンジンをかけた。ヘッドライトが闇を照らす。男の全身は血まみれだった。頭に雑な包帯を巻いている。口を開け、目ばかり光っている。
車が勢いよく後ろにかしぎ、前の座席に額がぶつかった。エンジンがうなるが、車は進まない。男が走ってきた。レイが悲鳴を上げる。
「ママ、早く」
「空回りしてる、レイ窓閉め……」
助手席側に張り付いた男が、半端に開いた窓から片腕を突っ込んできた。顔はザクロのようにめちゃめちゃで、あちこちから出血しいている。悪臭が流れてきて、吐き気がこみ上げる。
「いやだぁ」
レイが叫び、窓から逃げようと暴れた。はは、くぐもった笑い声が聞こえた。
「レイ、後ろに、後ろに逃げなさい」
霊山がギアを無茶苦茶に動かしながら叫んだ。レイは体をよじるが、シートベルトがひっかかって動けない。化け物のような男は、肘まで入れた腕でドアの内側をしきりにひっかいている。どうやら、開けようとしているようだ。
「助けて」
レイが泣きながら叫んだ。涙声が、助けられなかった信者たちと重なる。
気付けば体が動いていた。大声を上げて引っかかったシートベルトに飛びかかる。外れない。化け物のような男が腕を引っ込め、一歩下がってツルハシを振りかぶった。
「やめて」
霊山が叫んだ。窓に凶器が振り下ろされる。
「レイ」
霊山が絶叫する。
「助けて、いや」
間一髪、直撃を避けたレイが泣き叫ぶ。何か。何かないか。そこら中を探る。冷たい懐中電灯に手が触れた。
がくっと全身に衝撃が伝わった。車が猛烈にバックするが、ツルハシを鉤のように使って男がぶら下がっている。重みに耐えかねて、ガクンと窓が半分開いた。車は狂ったように前進と後退を繰り返すが、化け物じみた男は離れないどころか、窓から頭を突っ込んできた。必死に叫ぶ。
「レイさん、屈んで」
レイが頭を抱えて縮こまった。握りしめた懐中電灯で、男の顔を思い切り殴った。二度、三度。男の全身がのけ反り、ずり落ちていく。
「当たった。早く」
懐中電灯を振り回しながら絶叫した。
「あっ」
霊山が呟いた。ごり、という嫌な感触がタイヤの下から伝わった。何か踏んだ、いや乗り越えた。
「掴まって」
霊山が車をUターンさせた。もう一度、ごり、と何かに乗り上げる。車は、そのまま猛スピードで境内を出た。レイが震え声で言う。
「……ねえ、轢いちゃったよね」
霊山の息が荒い。
「轢いちゃったじゃん。どうするの」
母親の肩を揺さぶるレイを柔らかく押さえる。必死に言葉を紡ぐ。
「し、仕方ありません。あ、あのままじゃ、殺されていた」
「だって、だって……そんなの嫌だよ、人殺しじゃん」
レイが泣いている。小さな頭を繰り返し撫でた。
「こ、ころ、殺したのは私。あなたじゃ……ない、だ、大丈夫です」
「だ、だって。でも」
「大丈夫。だ、大丈夫……」
震えるレイに、ひたすら言い聞かせた。
霊山は、ただ前を向いて運転し続けている。暗い道の両脇には田んぼが続き、レイのすすり泣きと、虫の声の他は何の音もしない。
と、ヘッドライトが照らす道の先に、ポツリと灯りが見えてきた。ぞっとして、霊山の肩を揺さぶった。
「あれ、何でしょう」
返事はない。懐中電灯を持った人々の姿がぼんやりと浮かび上がってきた。十数人はいるだろう。道を塞ぐように並んでいる。襲われる。きっとまた襲われる。
「止まってはダメです」
霊山は予言者の手を静かに振り払って、徐々にスピードを落とし始めた。並んでいる人々は、みな消防団の法被を着ている。懐中電灯が誘導するように右へ振られた。
「おーい、こっちに入って」
運転席に駆け寄った男が叫んだ。
右折すると、大きな建物の前の、広い駐車場だった。車を降りたところを両側から挟まれ、駐車場の真ん中へ連れて行かれる。乱暴ではないが、有無を言わさぬ様子だ。市名が刻まれた石碑がある。市役所だ。法被姿の男たちが、幾人もきびきびと歩き回っている。
真ん中には、大きなかまどが据えられていた。湯気の立つ大きな鍋がいくつもかかっている。囲むように置かれたベンチでは、数十人の男女がくつろいでいた。
レイを真ん中にして腰を下ろすと、湯気を立てる腕が差し出された。ショートカットの女性が、眉をしかめて見下ろしている。
「お腹空いてるでしょう」
受け取っていいのだろうか。霊山を見れば、首を振られる。レイは震え続けていた。ひどい動悸が収まらない。
三人で身を寄せ合っていると、坊主頭の老人に毛布を差し出された。作業着の袖に、町名の入った腕章をしている。
「ここらは山だからな。夏でも、夜は冷える」
老人が笑った。レイが呟いた。
「……昼間の、お坊さん」
「そうだ。お嬢ちゃんたち、無事で良かった」
霊山が戸惑ったように尋ねた。
「あの……住職様。ここは、どういった所なのでしょう」
老僧が太い眉をぐっと寄せる。
「あんたの車、タイヤに血が付いとるな」
霊山がびくりと震えたのが、レイの体ごしに感じられた。老僧が慌てたように手を振る。
「いや、勘違いしないでくれ。何があったか、おおよその見当はついとる」
誰も答えなかった。
「よう頑張ったな」
しみじみと言うと、老僧は手を伸ばして全員の頭を撫でた。恐怖で体が強張る。
「もう休むといい。ここは安全だ。あとは、明日」
霊山が頭を下げ、老僧と何か話している。レイと震えながら、毛布に顔を埋めた。
澄んだ朝日が、境内に巨木の影を落としている。野鳥が鳴いていた。
「おーい、こっちだ。巣があるぞ」
g本殿の後ろから声が上がった。ビニールシートで覆われた死体の周りに集まっていた消防団が、数人を残してどやどやと向かっていく。作業を見守っていた老僧が振り返り、霊山に尋ねた。
「あんたも来るか」
「はい。教祖様、ちょっとお願いします」
頷いてレイの手を握った。
しばらくして、霊山が老僧と戻ってきた。顔色が良くない。
「どうしたの、ママ」
「何でもない。大丈夫」
にわかに境内が騒がしくなった。掛け声と共に、ビニールシートの青い包みが軽トラックに乗せられる。それを見つめながら、老僧が言った。
「あいつは、元々この町の人間だったんだ。小さい時から手に負えん悪ガキで、十年前にとんでもない事件を起こしてな」
「とんでもない事件、ですか」
霊山がおうむ返しに言う。
「うん。あんたらも知ってるかもしれんな。三人殺して、死体をバラ撒いた。死刑の判決が出てからは、名古屋刑務所にいたんだ」
「あの事件ですか」
霊山がぎょっとする。老僧が頷いた。
「それが、この夏……世間がおかしくなってから、舞い戻って来たんだ。最初はあいつだとわからんかった。何人も殺されたよ。女、子供までな。手が付けられん暴れ方で、しかも滅茶苦茶に丈夫でな。団が総出でかかったが、深手を負わせても、一向にへこたれん。昼間はどこかに隠れて、夜に暴れる。困っとった」
老僧は言葉を切ると、まっすぐに向き直って頭を下げた。
「あんたたちが仕留めてくれて、助かった。ありがとう」
昨夜のことを思い出してしまったのか、レイがすすり泣き始めた。霊山が曖昧に頷く。
「ところで、あんたたちはこの後どうする。ここで、一緒に暮らすか」
周りで作業している人々が、一斉に聞き耳を立てているのがわかった。レイは、縋るように母親を見上げている。霊山が絞り出すように言った。
「……いえ、そこまでご迷惑は。妹を捜している、途中ですし」
そうか、と老僧がほっとしたように笑った。
「まぁでも、何日かはゆっくりしなさい。出る時には、食べ物やらなんやら、持って行くといい」
「ありがとうございます」
霊山が、硬い声で礼を言った。
「じゃあ、また夜に。おーい、手が空いたら境内の掃除だ。清めないとな」
霊山がするするとナイフを動かす。皿の上に、一つながりになった桃の皮が蛇のように落ちた。古びた和室に、甘い香りが漂った。
「器用ですね」
思わずため息を漏らすと、霊山がほほ笑んだ。
「まぁ、これでも外科の医者ですから」
レイは、膝の上に乗った小皿をじっと見つめている。
「どうしたの。早く食べな」
「ママ、ここにいようよ」
レイがポツリと言った。霊山がその髪を指で梳く。
「お風呂使わせてもらえて、良かったな」
「いようよ」
霊山が笑った。それが辛そうに見えて、思わず口を出した。
「レイさん、あまりお母さんを困らせてはいけません」
「偉そうに」
レイが叫んだ。不安で仕方ないのだろう。その手を取り、できるだけ静かに言った。
「あの方たちは親切ですが、私たちは、あくまでもよそ者です」
「もう寝るから。話しかけないで」
そう怒鳴ると、レイは布団へ頭から潜ってしまった。
二人して黙り込んでいると、やがて寝息が聞こえ始めた。霊山が苦笑する。
「何もかも、お見通しですね。さすが予言者様やわ」
「もう違います。見えなくなりましたから」
桃を掴んで口に入れた。霊山がティッシュを差し出す。
「以前は、何か見えたんですか」
甘い果肉を噛み締めながら頷く。
「背中の火傷は……落雷に遭われたようですが」
「雷。雷だったんでしょうか。わかりません」
感じたのは、ただ一瞬の衝撃と轟音だけだ。凄まじい閃光が蘇って、目をつぶる。
「突然だったので」
「何があったか、話してくれませんか」
もう、前世のように遠く感じられる。
「あの日、私は……」
話し終えると、霊山が弱々しくため息をついた。
「じゃあ、妹も……」
慌てて付け加える。
「あの、いいえ。妹さんは、おそらく無事です」
霊山が肩を掴んだ。
「本当ですか」
「霊山は……あ、妹さんは、あの二日前から九州の道場へ出張していたはずです」
「九州、ですか」
「はい、福岡へ」
「その霊山って、ずらっと金歯を並べた、趣味の悪い女でしたか」
脳裏に、金色の前歯をむき出しにして笑う女性信者の姿が思い浮かんだ。陽気で世話好きな人だった。そういえば、霊山と少し顔立ちが似ている。
「はい、間違いありません」
「良かった」
霊山は畳にへたり込んで、目元を拭った。思い切って尋ねる。
「あの……お尋ねしたいことが」
「何でしょう。私でわかることなら、なんでも」
霊山がほっとしたように笑った。
「私の目です。もうダメなんでしょうか」
「目ですか。目は……見えていますよね」
「どうご説明したら……もっと色々な物が視えていたんです。例えば、相手が考えていること。名前。それから、その人の未来……」
霊山が黙り込んだ。
「信じてはいただけないと思いますが、本当です。それが今は、何も」
「未来、ねぇ……」
呆れたような様子の霊山に、必死で食い下がる。
「目に、傷でもありませんか」
霊山は額に手を当てて考え込んだ。
「でも、そういう力にケガが関係しますか」
「関係、ありませんか……」
「一般的に言えば……落雷による失明には、ショックが原因の一時的なものと、そうでないものがあります。視神経そのものが傷ついてしまうと、今の医学では難しい」
ところどころ理解しきれない霊山の言葉を必死で聞き取る。
「あれから、十日か…」
腕組みして呟くと、霊山は黙り込んでしまった。ダメなのだろう。
「もう、戻らないんですね」
「いえ、まだそうとは。病院で検査した訳でもありませんし」
「いいんです。これは、罰でしょう。私は視えているつもりで視えていなかった。誰も救えなかった。そんな力なら、失くして当然ですから」
知らず、声が高くなる。
「教祖様、落ち着いて」
「私は馬鹿です。みんなで、さっさと逃げてしまえば良かった。それとも、あいつらを殺してやれば良かった。それなのに、話せば分かるなんて思い込んで、のこのこと出て行って……ひどい思い上がりです。そのせいで、信じてくれたみんなを死なせてしまった。私のせいです。私が、一番に死ぬべきなのに生き残ってしまって。私は最低です。私は」
「私、私、うるさい」
レイが怒鳴り、布団から飛び出してきた。胸倉を掴まれ、振り回される。頭が揺れた。
「あほか。悲劇のヒロイン気取らんといて。誰も、あんたが死ねば良かったなんて思ってへんわ。みんな、あんたが好きで一緒にいたんやん。変な宗教にまで入って」
「レイ、止めなさい」
「それに、一人救ったやろ。助けてくれたやん。あんたがやらんかったら、あたしも、ママも、昨日で死んでたかも知れへんやんか。だから、大丈夫やんか。あほ」
大声で怒鳴られ、罵られるうちに、涙が次々と溢れてきた。
「そうですね。そうですね、レイさん。ありがとうございます。ありがとうございます」
「また泣いてる。大人のくせに泣くな、うざい」
とうとう、レイも大声で泣き始めた。二人して抱き合ったまま泣いていると、霊山がそっと背中を撫でてくれた。
ドアが控えめにノックされた。誰だろう。レイと抱き合ったまま霊山を見上げる。
「二人とも、これで顔拭いて」
慌てて台拭きを差し出した霊山が、取り繕って返事をした。
「どうぞ」
「ゆっくりしてるところ、すまんなぁ」
禿げ頭を掻きながら、老僧が入ってきた。
「大丈夫か。腹は一杯になったかね」
のっそりと腰を下ろし、老僧がほほ笑んだ。
「はい。ありがとうございます」
正座した霊山が頭を下げた。
「お世話になってしまって……」
「いや、それで。あんたたち、この後どこへ行くか、もう決まったかね」
三人で顔を見合わせた。霊山が言葉を濁す。
「それが……探していた人間は、九州に行ったみたいで。とりあえずは、どこへ行くかはまだ」
レイが、不安げに母親を見上げる。
「そうか、そうか……あのな、そういう事ならな」
老僧は、作業着の胸ポケットから紙切れを出した。丁寧に皺を伸ばして、テーブルに広げる。
霊山が呟いた。
「地図、ですか」
道路地図から引きちぎったのだろう。蛍光ペンで、この市役所から東南へ線が引かれていた。到着地点には『道川総合医療センター』とある。
「ここに、ちょっとしたツテがある。わしの弟が外科の部長をしていてな。あんたさえ良かったら、ここへ行って働いてみんか」
霊山が目を丸くした。
「こんな時だ、医者は何人でも欲しいだろう。街道が繋がっとるし、朝出れば、昼には着くはずだ」
「道川……」
「陸自の駐屯地があってな。そこの部隊が踏みとどまって、町を守ってるらしい。あっちへ行けば、とりあえず娘さんも……その若い子も、安心だろう」
「良くしていただいて」
霊山が声を詰まらせた。
「本当にすみません……」
深く頭を下げる霊山に、老僧が慌てる。
「いやいや、止めてくれ、頭なんか下げんでくれ……この夏以来、思い知ったわ。いっぱしの人格者だと思い上がっとったが、とんでもない。ただの悪人だと」
老僧はレイへ向き直ると、畳に手をつき、額を擦り付けた。
「嬢ちゃん、すまん。ここに、置いてやれんで。わしらもな、手一杯で。元々の、地元の人間同士でしか信用できん。仲良く、力を合わせて暮らせん。世間がこんな風になってしまったらな……。わしがあんたらを迎え入れても、どうせそのうち誰か騒ぎだす。よそ者は信用できん、よそ者に食料をやるな……ってな。小さいやつらなのよ、みんな。でも、悪い人間でもない。許してくれ」
レイが眉をしかめる。
「住職様」
霊山が慌てて頭を上げさせようとするが、老僧は動かない。
レイが、ゆっくりと口を開いた。
「……あたしは、お坊さんは悪くないと思う。ここにいれないのは嫌だけど。桃をくれたし、お布団で眠れるし」
言いながら、困り果てたように手もみをしている母親をちらりと見る。
「だから……許し、ます」
「そうか、許してくれるか。ありがとう」
老僧が顔を上げ、にっこり笑った。
「あの、外科部長さんというのは……」
霊山が遠慮がちに尋ねた。
「おお、すまん。弟は、朝井敬二。わしにそっくりだから、すぐに分かる。会ったらこれを渡して、兄貴の紹介だと言ってくれ」
老僧は、手首から数珠を外した。
「必ず受け入れてくれる」
かなり古いもののようだ。紫檀の数珠玉は手ずれして黒ずんでいるが、親玉には大粒の翡翠が光っている。
「すみません、本当に」
老僧は頭を掻き、時計に目をやって立ち上がった。
「もう、夜中だな。出発は二、三日後でいいだろう……おやすみ」
三人で立ち上がって見送る。
と、もう一度ドアが開いて、老僧がひょいと顔を出した。
「忘れとった。寝間着を用意したんだ、あなた……来てくれ」
老僧がちょいちょいと指を動かす。
「私ですか」
老僧がほほ笑んだ。霊山を振り返って頷き、部屋を出る。薄暗い廊下を進んで、給湯室らしき場所へ入った。
「さ、これだ……あとは、タオルと」
受け取って戻ろうとすると、老僧が低い声で言った。
「……花園の道場の、教祖だな」
驚いて寝間着を取り落としそうになる。
「天眼、他心の神通力があったというが。もう、何も見えないのか」
「はい、そのようです」
老僧を見上げる。目元に光が落ちて、真っ黒だ。どうしてか恐ろしく感じられて、一歩後ずさる。
「部屋へ戻って、いいでしょうか」
老僧は、懐から赤い小冊子を取り出した。
「昼間、あの化け物の巣で見つけた。説明書か何かだが、どうにも意味がわからん。持っていてくれんか」
「私が、ですか」
老僧が頷いた。ぱらぱらとめくる。難しい言葉ばかりだ。紙の端は丸くなっていて、よく読まれていたことがわかる。
「神通力がよみがえったら、相談したいことがある」
「力はもう戻りません」
「さあ、それはな。人間にはわからんことだ」
「でも……」
「おやすみ」
宥めるように肩を叩くと、老僧は給湯室を出て行った。
夢を視ている。
分厚いコンクリート塀に吹雪がぶつかって、ごうごうと鳴っている。ここはどこか、行ったこともない北国のようだ。
集会室のような部屋だ。長机があり、同じ作業服を着た六人の男性が、パイプ椅子に黙って座っている。入り口では、警察官のような二人組が警棒を構えている。正面にホワイトボードがあり、足元に置かれた花瓶には百合が生けられている。
ドアが開いて、制服姿の老人と、スーツを着た小柄な女性が入ってきた。女性はつかつかと前へ進み出ると、だしぬけに口を開いた。
「お待たせしました。文部省科学振興審議官の、原州です」
男たちが目を上げた。原洲と名乗った小柄な女性が軽く頭を下げる。短く刈り上げた、細い襟首が一瞬露わになった。
「今日は、ニーチェの超人思想について話したいと思います」
女性にしては低い声だ。重い百合の香りが、這いずるように部屋を満たしていく。
「ニーチェという男を知っているか。十九世紀末のプロイセンで、彼は哲学というにはあまりに雑で、あまりに死に近い思想を、孤独に練り上げた。それは、一言で言ってしまえば『神は死んだ、そして新しい神は私だ』 ということだ。まるで狂人だ。だがこの言葉があまりに強烈だったので、それ以降、哲学者というのはみんなこういう狂った人間だと思われるようになった。冗談じゃない」
原洲は、置かれていた茶を一口飲んだ。
「普通の、まともな哲学者なら(哲学者の名に値する人間が、現代に何人いるか……少なくともこの国には皆無だ)文章の前半だけを採用するだろう。『神は死んだ』 。そして後半は胸の中へ伏せておき、ごく内輪にだけ……それもちょっとふざけた調子で、後半部分を明かすだろう。『……そして新しい神は私だ』。
だが、君たちは知っているだろう。新しい神は私だ、と宣言する権利は全員にある。なぜなら、古い神はもう殺してしまったからだ」
殺す、という単語に力を入れて言うと、原洲は探るように男たちを見渡した。年齢も風貌もバラバラの男たちは、ぴくりとも動かずにその視線を受け止めている。
「超人とは、どういう人間だと思う」
最前列の男が手を上げた。駆け寄って押さえつけようとする警備員を、原洲が制する。
「恐れない男だ」
潰れた鼻の奥で暗い瞳をぎらつかせながら、挑むように男が言った。
「なるほど。確かに、恐怖は超人にふさわしくない。他には」
「縛られない。法律にも、道徳にも」
その一つ隣の老人が呟いた。
「そうだ、超人は道徳に従う必要はない。ニーチェも言っている。よく勉強しているな、それから」
全員が手を上げた。
「長髪の君」
「リーダーだ。力がある」
「君は」
「金持ちだ」
「それから」
「どんな女もイカせる」
どっと笑い声が上がり、あっという間に騒々しくなった。
作業服の男たちは、警備員の制止を振り切って立ち上がり、口々に超人の条件を怒鳴り散らした。
「誰にも捕まらない」
「自由に殺す」
「好きな所へ行く」
「何だってできる」
男たちの目に、狂気じみた光が宿り始めた。慌てた警備員が、必死に叫びながらついに警棒を振り上げた時、原洲が再び話を始めた。
「私の考えでは、超人とは孤独なものだ。彼は確かに勝者だが、君たちが考えるような世俗の勝者ではない。なぜなら、超人が超越しているのは価値観そのものだからだ。法律や道徳に縛られないというのは、俗っぽい価値観の克服に伴って副次的に生じる現象にすぎない。金、女、地位。それらの価値を認めて欲しがっている間は、君たちは決して超人にはなれない。なぜなら、金や女、地位を良いものだとするこの世のヒエラルキーの、奴隷だからだ」
言葉を切って、探るように見渡す。
「君たちは、この拘置所で実際には何を待っている。執行の日か。法務大臣の机には、九十九枚の命令書が積まれていたよ。噂によれば、あの命令書は決して百枚にならないんだとか……上からサインして減らしていくんだ。一番上は、誰の分だろうな」
原洲があざ笑うように言った。豪華な机の上に、九十九枚の死が積まれている。ごう、と吹雪が吹きつけた。
「クソ女が」
最初に発言した大柄な男が、唸るように言った。
「お前に言われなくたって、わかってる。俺たちはみんな、遅かれ早かれやられるんだ」
原洲が薄くほほ笑んだ。
「やられるとは」
「吊られるってことだ」
「吊られる……」
「死刑になるんだよ。とぼけやがって」
男が叫び、原洲に飛びかかろうとして押さえつけられた。
「畜生が」
「馬鹿にしやがって」
男たちが叫び、椅子をひっくり返して立ち上がった。ホイッスルが鳴り響く。
「貴様ら」
「騒ぐな、座れ」
廊下から次々に警備員が飛び込んできた。
「審議官、もうこれくらいで……」
制服の老人が駆け寄り、原洲の袖を引いた。
「超人になれ」
なおも抵抗する男たちに、原洲が叫んだ。
「審議官、こちらへ」
「それがやられずに済む唯一の方法だ。超人になるんだ」
「おい、誰か審議官を外へ」
警備員の一人が原洲を掴み、無理矢理に廊下へ引きずり出した。
まだ騒ぎの収まらない集会室の外で、原洲が老人に頭を下げた。
「申し訳ありません。つい夢中になってしまって」
「いえ、まぁ。そうですか」
老人が困ったように言った。原洲はハンカチを取り出し、汗かいちゃった、と控えめに顔を拭いた。
「熱心に聞いてくれたもので。所長の教育が行き届いているんでしょうね」
「いえなに」
老人がぐっと胸を反らす。
「審議官も大変ですな。ボランティアで講演など……なかなかできませんよ」
「まぁ、拘置所の視察も兼ねて」
「なるほど。視察、というのはやはり予算の」
「おい、クソ女」
拘禁服を着せられた男が叫んだ。最初に発言した大柄な男だ。
「何を企んでやがる」
「うるさい。早く連れて行け」
所長が顔を赤くして怒鳴った。警備員が数発殴り、大人しくなった男を引きずっていく。
「失礼しました。あいつは特別に粗暴で」
原洲が笑った。
「気にしないでください。理解しているつもりですよ」
「審議官、撤収準備が完了しました」
荷物を下げた部下が、遠慮がちに声をかけた。
「ああ。じゃ、車で待っていてくれ」
名刺を出して、所長に手渡す。
「個人的な連絡先です。それで、お願いしていた件ですが」
「これはどうも。では……奴ですね」
「ええ。後はそのまま出ますので、案内だけお願いします」
「承知しました。おい」
所長は、控えていた若い看守に声をかけた。原洲が手を振る。
「ではこれで。大変に有意義でしたよ」
二人分の足音が高く響く。拘置所の中でも、奥まったエリアへ進んでいるようだ。いかにも重そうな鉄の扉が、数メートル間隔で並んでいる。
「この辺は独房かな」
原洲がのんびりと尋ねた。先を行く看守がうなずく。
「どういう人たちが入ってるの」
「他のと喧嘩したり、自殺しようとしたり。そんなのです」
答えて、看守はぴたりと立ち止まった。
「このお部屋です」
「ありがとう。では、開けてくれ」
電子キーが解錠される。
「結構。十分もかからないと思うが、廊下の端にでも行っていてくれ」
おかしな指示に反論もせずに脇へどけた看守が、静かに言う。
「お眠りになっています」
原洲が眉を上げた。
「自然に起きられるまで、けしてお邪魔しないように」
狭い部屋いっぱいに敷かれた布団で、青年が眠っている。長い睫毛が影を落とす頬は、天使のようにあどけない。
「確かに、お眠りだな」
土足で上がり込んだ原洲が呟く。小机につかえるようになりながら、苦労して枕元に座った。鮮やかな色彩が目に眩しい。手作りらしい精密な柄の布団カバーだ。
薄緑色を地に、アネモネ、クロッカス、バラ、水仙といった色とりどりの花が縫い込まれており、中でもオレンジ色のケシが一番目立っている。数本、数十本と絡まり合ったケシは、主の夢を守るように布団の縁を囲んでいた。
「起きないな」
ぐっと体を傾けて覗きこむと、青年がゆっくりと目を開け、曖昧に囁いた。
「……夢を見ていた」
不意をつかれ、原洲がびくりと体を震わせる。
「その中で、私は閉じ込められた鳥だった。だが、鳥刺しがやって来てカゴを開けた……あなたが、鳥刺しだね」
夢の中を彷徨うようだった声がはっきりしてきたかと思うと、青年は突然起き上ってまともに原洲を見つめた。深い森の泉のような瞳が、揺らぎながら澄んでいる。部屋は暖かく、まるで春の野にいるようだ。分厚いコンクリートのおかげで、吹雪の音もしない。
原洲が怯えている。何を見ているんだ、と彼女は考えている。ある小説の一文を思い出した……。
“彼は正面から三輪与志を凝視め返していた。異常なほど固定した瞳であった。暗褐色の瞳孔の上に、謂わば倒影し、縮写された三輪与志の顔容が細密画のように鮮やかに映っていると思われたが、頭を重々しく擡げた眼の光りは、同時に、或る壁へつきあたっているようでもあった……”
雪雲が去ったのだろうか、高い場所にあるたった一つの窓から、黄金のような夕陽が一筋差し込んで、革命家が目を細めた。
あごの辺りで切り揃えられた髪は栗色で、ぐっと引かれた顎の鋭角的な線が、逆光を受けて金色に縁取られ、神話の一場面を描いた絵画に登場する半神のように際立っている。
突然、彼が異常に端正な顔立ちをしていることに気付く。もちろん写真を見たことはあったが、目の前にすれば畏怖の念が湧くほどだ。本当に生きた人間なのか。
白い肌には艶があり、ひげはほとんどない。瞳は紫がかったとび色で、希少な宝石のようだ。だが彼を見ていると、執拗に死の観念が湧く。その繊細な、パルミジャニーノの聖母のような喉……。
部屋が乾いているせいか、革命家が軽く咳き込んだ。滑らかな喉に唾液が滑り落ちて慎ましく上下した瞬間、下腹から恐ろしい官能が沸いた。嗚咽のような波が背骨を上り、ついに脳に達すると、はっきりと腹の中がひくついた。
これは……これは。息が苦しい。心臓が痛い。この美しい男を、滅茶苦茶に利用するのだ。凶悪な疼きに、肩まで震えてしまう。
「鳥刺しよ、一緒に来るか」
蜜を煮つめたような声で、革命家が言った。私を見透かして、許しさえするようにほほ笑んでいる。深い瞳に吸い寄せられて、肩にすり寄った。幻のように甘い……アラビアの市場、イギリスの紅茶、よく熟した桃、朝靄に開きかけたバラ、その全てが一度に押し寄せて鼻孔を満たし、酔ったように唇が開く。
「はい」
革命家の細い指先が、私の首筋をゆっくりとなぞった。
水中から引き上げられるように目を覚ました。渓谷のせせらぎと蝉時雨が聞こえる。一瞬どこにいるのかわからなくなって、外を見た。山間の街道を進んでいる。
「起きたん」
運転席から霊山が言った。そうだ、朝に市役所を出て……確か、道川へ行くんだったか。
「すみません、眠ってしまって……そろそろ着きますか」
「いいよ。レイも寝てるわ」
助手席から軽い寝息が聞こえる。窓から入る風に、ぶるりと身震いした。晴れ曇りのような天気だ。
山を抜けると、ぽつぽつと民家が並び始めた。見覚えのある光景だ。道場の近くなのかもしれない。道は広くなり、車が行き交い始めた。店が開いている。
「町があります。すごい」
久しぶりの光景に、思わず言葉が漏れた。車が増え、そのうちに渋滞し始めた。目の前に大きな橋がある。ここが市境のはずだ。
何となくそわそわとして、危ないと思いつつ窓から顔を出してみた。
「あれ、事故かな」
「どうしたん」
「橋のあっち側にトラックが。道が塞がってます」
「え、進まれへんやんか」
霊山は不満そうに眉をしかめた。
のろのろと橋の真ん中辺りまで来た時、霊山がレイを揺り起こした。
「ちょっと」
「うーん、何。うるさい」
「しゃんとして……教祖さん」
「はい、何でしょうか」
厳しい表情で振り返った霊山に、気圧されるように答える。
「あなたは、私の患者ということで。色々と説明がややこしい」
「どうしたの、ママ」
「二人とも、絶対余計なこと言わないで。黙って、大人しく」
意味が分からずまごついていると、二人組の警官が歩いてきた。久しぶりに見た警官だ。きちんと働いている。
一人が運転席に屈みこんだ。
「免許証出して」
霊山が黙って財布を出し、免許証を見せた。覗きこんだもう一人の警官が首を傾げる。
「住所、道川じゃないね。どうして来たの」
「総合医療センターの、朝井先生に連絡していただけませんか。先生のお兄さんから紹介されたんです」
これを預かっています、と霊山は数珠を差し出した。
「なんなの、これ」
霊山はしっかりと顔を上げ、毅然として言った。
「私は外科医です。こっちは娘。後ろに乗ってるのは、患者さんです」
警官たちは顔を寄せて何か囁きあっていたが、やがて振り返って頷いた。
「病院に確認してみるから。とりあえず、こっちに進んで」
車列を抜け、警官の後について路肩を進む。
橋を渡り切ると、道路の道幅以外の土手は、ずらりと並んだトラックで塞がれていた。並んでいるのが、見慣れた宅配便のトラックなのも異様だった。
「はい、ここで降りて」
言われるままに車を降りる。道の真ん中には、道路工事で見るようなソーラー式の信号機が置かれている。数人の警官が、中を確認しながら一台ずつ車を通していた。
「そこで待ってて」
警官は、青いビニールシートがかかった掘立小屋を指した。否応もなく小屋に入る。
「誰だ」
大きな無線機をいじっていた男が、鋭い視線を向けてきた。茶色い迷彩服を着ている。自衛隊だろうか。レイが飛び上がって母親にしがみついた。
「あ、あの……」
霊山がへどもどと口を開く。
「どうして入ってきた」
「ここで、待つように、あの」
「全員膝をついて、頭の後ろで手を組め。さもないと……」
迷彩服の男が、一抱えほどもある銃を持ち上げた。ひ、と喉がひきつる。
「山中空曹」
さっき免許証を確認した警官が入ってきた。
「こいつらは、なんだ」
「医療センターに連絡します。銃を下ろしてください」
「見たところ怪我はないが」
「朝井先生の知り合いだそうです」
「嘘だろう」
「無線で確認します。とにかく、銃を」
「膝をつかせろ。それからだ」
警官がため息をつき、霊山を促す。三人で膝をついた。山中空曹と呼ばれた男が、ようやく銃を下ろす。だが、その目は油断なくこちらを見つめたままだ。
警官が進み出て、無線の受話器を取った。どうしても銃に目がいってしまう。背中を冷汗が落ちる。
「確認が取れました。三人とも立って」
「俺はまだ把握していない」
山中空曹が唸るように言った。
「先生本人と話しましたから、間違いありません。東体育館の受付に登録しておきますから、何かあればそこへ」
警官が宥めるように言って、詰所の外へ三人を連れ出した。
検問を通り過ぎ、土手を下って歩いていく。両脇には、詰所と同じような掘立小屋が立ち並び、自衛隊や警官、消防、スーツ姿の職員たちでごった返している。無線のやり取りと、人々の話し声。救護所もあるようだ。
「すみませんね、怖かったでしょう」
黙って歩いていると、警官が振り返って言った。
「いえ、大丈夫です」
霊山が硬い声で答えた。レイは真っ青なままだ。
「午前中、空曹の同僚が一人亡くなったので。気が立ってるんでしょう」
霊山が目を伏せた。せめても、と隣を歩くレイの手を握れば、強く握り返された。
「とりあえず、ここに受付を済ませてください」
大きな体育館があった。市の名前が書かれた大テントが張られている。子供が何十人も遊び回っているのを、疲れた様子の親たちが見守っていた。
「朝井先生は、勤務後にみえられるそうですよ」
では、と軽く手を振って警官は行ってしまった。
「二人とも、おいで」
テントから霊山が呼んでいる。はっと我に返って小走りに近づいた。
「荷物を全部出してください」
よれたスーツ姿の若い女性が言った。口調は厳しいが、唇は渇き、爪は割れていて疲れが隠せない。霊山が鞄をひっくり返すと、机の上に財布やタオルが散らばった。
「これは何。ドラッグでしょう、どうせ」
ピルケースをつまみ上げて、女性が目を細めた。
「薬です。抗生物質。医者なもので」
霊山が緊張した様子で言う。
「医者ね」
女性が鼻で笑う。霊山がムッとした様子で言い返した。
「あとで、医療センターの朝井先生が来るはずです。受付をしてください」
女性はなおも疑っているようだったが、結局書類に記入を始めた。
「行こう」
霊山が鞄に伸ばした手を、女性が強く振り払う。
「身元引受が済むまで、荷物はこちらで預かります。子供さんたちの荷物も出してください」
「横暴すぎるでしょう」
「ここで身体検査するよ」
女性の目がぎらつく。
「霊山さん、出しましょう。私は大丈夫ですから」
前に出て、ポケットの中のものを机に出した。レイも無言で後に続く。老僧から預かった赤い手帳、星模様のバレッタ、飴玉、電源の切れた携帯電話が寂しげに並んだ。
「トイレは裏手の簡易。食事の配給は一日一回、今日はもう終わりました」
ようやく満足したのか、女性が切り口上に言って顔を背けた。
体育館は人でいっぱいだった。冷房はなく、みんなの体臭で気分が悪くなりそうだ。窓からの直射日光がまともに当たる所に、ようやくスペースを見つけて腰を下ろす。
「おい、お前。カメラで何撮ってた」
誰かが叫び、ぎょっとして振り返った。高価そうな一眼レフのカメラを床に叩きつけられた白人男性が、残骸を抱えて呆然としている。誰もかれも、気が立っているのだろう。
「もうやだ。家に帰りたい……」
泣き出したレイの背中を撫でながら、霊山が唇を噛みしめた。