第三章 八月二十五日~二十七日未明
立花の車を降りた予言者は、高橋博士の自宅へと道を急いでいた。きつい視線を感じて振り返る。クリーニング店の閉じられたカーテンの隙間から、血走った眼が覗いている。目が合ったとたん、カーテンが閉じられた。
見られている……ゾっとして思わず小走りになった。日差しが強いくせに、湿気がひどい。ぬるい汗がまとわりつくように流れる。数回角を曲がると、ようやく目指す邸宅が見えた。開きっぱなしの門をくぐる。庭の緑がむせかえるようだ。
「お邪魔します」
玄関で声を上げるが、誰も出てこない。
数回呼んで、書斎だ、靴のまま来なさい、と奥から返事があった。土足で上がるのは気が引けたが、そこらじゅう泥だらけの廊下に無理矢理自分を納得させて二階へ上がった。
書斎のソファも、一面に泥を被っていた。丁寧に払って腰を下ろす。向かいの回転椅子には、写真屋が被るような分厚い暗幕をすっぽりと被った塊がある。高橋だった。暗幕の下で弥勒菩薩のように半座をかき、サングラスの目元だけが出ている。絶え間ない貧乏ゆすりで、膝のあたりがせわしなく揺れていた。ひひひ。暗幕の下から、くぐもった笑い声が起きた。
「どうして、実験用の格好を」
どことなくいつもと違う高橋の様子に、気後れしながら尋ねる。
「いいだろう、別に」
「はい……構わないのですけど」
冷房を切っているのか、部屋の中はひどく暑かった。窓は締め切られていて、風も通らない。
「博士。お尋ねしたいことがあるのですが」
呼びかけにも応えずに、高橋はただ笑っている。暗幕からはみ出た裸足のつま先が、声に合わせてひくひくと揺れた。これでは話が進まない。思い切って要件を口に出した。
「博士は私の能力について、私自身よりもお詳しい。予言を……」
「きみ、ニュ―ス見とらんのだろ。ニュ―ス」
高橋が唐突に言った。
「見ていませんが、状況はわかっています」
「ほう。意外だな」
「今朝、博士が派遣された先生に教えていただきました」
高橋の貧乏ゆすりがぴたりと止む。
「立花か。どんな男だった。読めたんだろう、何もかも」
「言えません」
「ご立派なル―ルとやらか。そんなもの、きみの師匠が適当に決めたんだろう」
高橋が、さもおかしそうに笑う。
「超能力者なんて滅茶苦茶な存在は、世界中できみだけだ。いわばこの世の部外者さ。ルールなんて無視しちまえ」
キャスターを滑らせて高橋が近づいてきた。腐ったようなにおいが鼻をついて、思わず顔をそむける。
「個人の内面というのは、プライベートなものです」
「プライベートね」
高橋はひときわ大きくヒステリックに笑った。
「で、きみは……何しにきたんだっけ?」
「予言が外れる時の条件を、詳しく知りたいのです」
「いいだろう。では、その後に私の頼みも聞いてくれ」
「私にできることなら」
「では、教えてやろう」
高橋は、暗幕を被ったままで器用に煙草を吸い始めた。煙の臭いがする。
「そもそも、君の予言能力の特色はなんだね」
「午前零時を過ぎないと、わからないということ。そして、前日に一緒に過ごす必要があるということです」
「そうだ。相手の未来は、零時を回らないと見えない。それも、ただ零時を回っただけではだめだ。前日共に過ごした相手の当日が、深夜零時を回った段階で、見える。映像としてな。それはわかっているな」
自分の能力である。軽く頷いた。
「ということはだ。ここからもう、予言を外すための条件が一つ導かれる」
「何でしょうか」
「そもそも、予言したい相手と深夜零時を迎えない、ということさ」
なるほど……今一つピンと来なかったが、曖昧に相槌を打った。
「もう一つは、あまり確実な方法ではない。というのも、きみの予言は精度にばらつきがあるだろう」
「はい。周りの風景が鮮明だったりぼやけていたり、見える映像も、長い時と短い時があります」
暗幕の裾から煙が吹き出た。
「だから……予言映像のうちから、できるだけ大きな要素を、より多く、ずらすんだ」
「要素、ですか」
「そうだ。例えば、相手が真昼間に拳銃で撃ち殺される映像が見えたとする。これを外すためにはどう指示すればいい」
少し考えて口を開く。
「危ないことをしないよう、忠告します」
高橋が暗幕の下で身をよじった。
「違う違う、何を言っているんだ。正解はな、昼の間どこかに閉じ込めておくのさ。時間という最も大きな要素をずらすためだ。殺し合いをするなら、せめて夜にしろとアドバイスしてな」
そうですか……と言ってみるが、正直よくわからない。
「どうだ、良くわかっただろう。では、次は私の頼みを聞いてもらう」
「あの、まだよく……」
へどもどと言うが、高橋が遮って話し始める。
「恥ずかしい話だが、私も不安で仕方なくてね……この家も、実はもう襲撃を受けたんだよ」
思わず立ち上がる。
「襲撃」
「ああそうだ。ま、それはもういい。撃退したからな」
高橋は、暗幕を被ったままパソコンの前に移動して手招きした。横から、パソコンの画面を覗きこむ。砂嵐しかない。
「さっきまで、すごい番組をやってたんだがな。議事堂は見たか」
首を振ると、高橋がバカにしたように鼻を鳴らす。
「見ものだったのに……もう何も映らないな。そもそも、ここ最近は報道というもの自体が急速に減ったんだ。新聞も数日届いてない」
「ラジオや、インタ―ネットはどうですか。他にも、情報源があるのでは」
「インタ―ネットは、まだかろうじて使えるな。が、役に立つ情報なんてない。見てみるか」
高橋は、パソコンを操作して小さなウィンドウを開いた。数行の文章が次々と更新されていく。
『群馬県高崎。店がどこも開いてない。冷蔵庫が空っぽになりつつある、どうしよう』
『あたしはいま、みんなと一緒に春日中学校の体育館にいます。でも水ももうなくなりそう、誰か助けに来て』
『静岡市新熱田区、自宅です。主人が家に戻りません。一体どうしたらいいんでしょう』
『自分は岐阜県垂井町です。とうとうこの街にも、ゾンビが出ました』
「ゾンビ、ですか」
思わず呟いた。高橋が暗幕の中で肩をすくめる。
「ゾンビはゾンビさ。人殺しの野郎どもだ」
「ご存知かも知れませんが、ゾンビというのは……」
「ブーズーの強制労働者、脳神経へ破壊的影響を及ぼす薬物、あるいは初歩的脳外科手術。そんなものじゃないんだよ、教祖様。いいか、ゾンビってのはな、現実に私たちに襲いかかって来つつあるのはな……人殺しの野郎どもさ」
突然、一階でガラスが割れる音がした。続いて数人が騒ぐ声。高橋が暗幕から飛び出てくる。全身血まみれだ。ぎょっとして思わず声を上げる。
「は、博士。その血は」
「来る、来る、来るぞ……畜生」
こちらをまるきり無視し、高橋はソファへ飛びかかった。
「馬鹿野郎。早くしろ、ドアの前に」
剣幕に押されて一緒にソファを押し、ドアを塞ぐ。すると高橋は、本棚から狂ったように大型本を掻き出してソファに乗せていった。本の山を築いてしまうと机の下へ潜り、血まみれの包丁を握って出てきた。
「いいか、零時までここにいるんだ」
目をぎらつかせた高橋が言う。サングラスはいつの間にか外れていた。
「そんな、無理です。帰らなくては」
高橋が包丁を壁に突き立てて叫んだ。その胸元に、ゆがんだ文字が現れる。
「畜生、俺はどうなるんだ」
怖い 怖い 怖い
高橋は包丁を振り回しながら泣いていた。切っ先がかすりそうになり、悲鳴を上げて飛び上がった。
「おち、落ち着いてください。振り回さないで」
嫌だ 死にたくない
「助けてくれ。死にたくない。教えてくれ」
ドアに衝撃が伝わった。一度、もう一度。向こうに人がいる。ソファが少しずつ動き始めた。
「だめだ、入ってくる」
高橋が涙声で叫んだ。はっと思い出してその肩を揺さぶる。
「奥様と娘さん。一階ですよね、助けなくては」
高橋が振り返った。まともに目が合う。
「女房、娘」
高橋はひひひ、ひひひひ、と引きつった笑い声を上げた。
もう死んだ
盾にしてやった
「な……」
ひひひ、ひっひひひひ。高橋はソファから飛びのいて壁にはりついた。
「見えたのか。見たんだな」
俺だけが生き残ればいいのさ
とうとうドアが破られた。衝撃で床に吹っ飛ばされる。くそ、死にたくない。ぼうっとした耳に、高橋の声がどこか遠く聞こえる。大勢が部屋に入る気配と、何かが割れる音がした。
と、誰かが乱暴に体を持ち上げた。
「予言者様、早く」
「道畑」
血相を変えた道畑に引きずられるようにしてベランダへ出る。
「待ってくれ、俺も……」
悲痛な声に振り返ると、何人もが高橋を取り囲んでいる。まるで砂糖玉に群がるアリだ。凶器を振りかぶったまま、数人がこちらを見た。ゆがんだ文字が浮かぶ。
田中竜人
三島さくら 三十才
高橋和
殺す
殺す
殺す
予言者の腕を引っ張りながら道畑が叫んだ。
「早く飛び降りて」
ほとんど引きずり下ろされるようにベランダから飛び降りた。植木に突っ込み、衝撃にぼうっとする。道畑が叫んだ。
「走るんです」
転げるように走って表へ出た。来た時とは打って変わって、通りは人と車でごった返している。
放り込まれるようにしてバンの後部座席に乗り込んだ。瞬間、二階から断末魔の絶叫が響く。高橋の声だ。道畑が構わずアクセルを踏んだ。
「も、戻らないと」
おかしいほど声が震える。
「無駄です」
道岡の声も震えている。恐怖の表情を浮かべた高橋と、バックミラー越しに目が合う。
「予言者様、あちこちで人が暴れてます。交番も、無人で」
死ぬんでしょうか
「まだわからない」
反射的に答える。道畑がふと笑い、頷いた。
「そうですね……私たちは、あなたがいる」
そう言うと、道畑は口元を引き締めて運転に集中し始めた。その表情に怯えはない。
予言者は、ひきつった口元に拳を押し当てた。窓の外に目を向ける。道畑に顔を見られたくない。緊張と不安のせいで、口が渇いて仕方がなかった。
混雑した道を苦労して進み、ようやく本部近くまでたどり着いた。すっかり日が暮れている。辺りは完全に停電していた。信号は全て青のままで、街灯はついているところと消えている所がある。道畑が囁いた。
「念のため、この辺で停めましょう」
ヘッドライトを消し、公園の手前で車を停めた。真っ暗な車内で、なんとか目を凝らす。相変わらず、息苦しいほどの湿気だ。
「あの光は……」
木陰を通して、小さな灯りが何十も本部を取り囲んでいるのが見える。チラチラ明滅する灯りは、ゆっくりと、あるいはせわしなく動きながら、夜の海岸に打ち寄せる波頭のように動いていた。
「人ですね。ずいぶん集まってます」
じっと耳を凝らしていた道畑が呟いた。確かに、開け放った窓からざわめきが聞こえてくる。チラチラしているのは、懐中電灯やスマホ画面のようだ。群衆はかなりの数で、本部建物をすっかり取り囲んでいる。道岡がまた囁いた。
「様子を見てきます。裏口へ回れるかも」
「私も行きます」
「だめです。ここから動かないでください」
反対する間もなく道畑が出て行った。頭の上で、セミがうるさく鳴いている。
「あんた」
「ひっ」
急に声をかけられて飛び上がった。急に強い光をまともに向けられて、思わず顔を覆った。
「あんたも、食べ物もらいに来たの」
「まぶし……やめて」
「ああ、悪かったね」
光が逸らされる。懐中電灯を下げた老婆だった。開いた窓の向こう側で笑っている。
中山幸子
七十五才
「一人でいると危ないよ」
この服 ここの女だ
捕まえてやろう
老婆は窓から手を突っ込み、ドアの内側を無遠慮に探ってきた。必死にその手を払いのけるが、諦める様子はない。焦れた老婆は、とうとう大声を出した。
「ユウジ。こっちに来てちょうだい」
すぐに駆け付けた男に腕をつかまれ、あっさりと車から引きずり出された。地べたから呆然と見上げると、若い男が懐中電灯をまともに向けている。
「ここの教団の女か」
老婆が答えた。
「そうだよ。使えるだろ」
男のTシャツを着た胸元に文字が浮かんで消えた。
小笠原翔 三十五才
「なぜここに集まっているんです」
「食料だ。メシだよ。あとは燃料もか」
隠してるんだろ
とんでもねぇやつらだ
「少し分けて貰えたら、と思ってねぇ。仲良くしたいんだよ」
猫撫で声を出す老婆の胸元にも文字が浮かんだ。
全部貰う
宗教の奴らなんて死ねばいい
「ね、ご近所のよしみで」
言いながら、老婆が腕に縋りついてきた。かさついた感触にゾッとして思わず振り払い、何とか立ち上がって言った。
「小笠原さん。食料は分け合いましょう。明日の朝、またお話しませんか」
「俺の名前を当てた」
若い男が目を見開いた。老婆がぎょっとして後ずさる。
「教祖だ、予言者がいたぞ」
男が叫んだ。
教祖、本物か、捕まえろ……あちこちで叫びが呼応し、あっという間に取り囲まれた。そのまま公園の中を連行され、群衆の中心、本部建物の正面へ押し出された。興奮した人々は、手に下げた武器を打ち鳴らしてお互いにけん制しながら、我先に詰め寄ってくる。
四谷充弘
市橋
怖い
どうなるんだ
三十五才
娘はどこ
きれぎれの文字が揺れては消えた。
「予言者様」
「道畑」
人込みを泳ぐようにして、血相を変えた道畑がやってきた。
「離れろ、貴様ら。予言者様、私の後ろへ」
前に出た道畑が怒鳴ったが、あっと言う間に押し負けてずるずると後ろへ下がり、とうとう玄関扉が背中に触れた。これ以上は下がれない。
「言え」
「教えて」
「早く」
警察は来るのか
「どうにかしてよ」
藤田ヨシ
死にたくない
「待ってまだ、明日に、なっ、たら」
圧迫感に咳き込みながら声を張り上げるが、誰も聞いていない。
「自分らだけ助かるつもりか」
「なんて身勝手なやつらだ」
会社もなくなってるのかな
吉岡
趣味はピアノ
「きっと安全なところへ……ずるい……」
ついに胸倉を掴まれそうになった時、目の前にいた男がのけぞって倒れた。
「予言者様」
ちょうど真上の窓が開き、そこから顔を出した信者が叫んだ。人々が一斉に見上げる。と、背中にしていた玄関扉が突然開いて、中に引っ張り込まれた。一瞬振り返った道畑と目が合う。
スローモーションのように、男が金属バットを振りかぶった。避けることもできず、それは道畑の脳天を直撃する。ぐっといううめき声。木材が割れるような音。水風船がつぶれるような音。やった。思い知らせろ。何十人もの人々が、興奮してどっと歓声を上げた。四方八方から伸びた足が、道畑の体を滅茶苦茶に蹴り、踏む。血が飛び散る。懐中電灯の光が幾筋も伸びて……
背中から倒れて頭を打った。暗闇だ。
「大丈夫ですか」
誰かに助け起こされる。頭を振って予言映像から抜け出し、扉に飛びついた。
「開けないと」
「だめです」
何人もに飛びつかれ、引きはがされる。もがいていると、扉の向こうから木が叩き割られるような音がした。興奮した人々が叫んでいる。
「やった」
「思い知らせろ」
歓声が上がり、数十の拳が扉を叩き始める。建物が揺れている。人々が口々に叫んでいる。
「入れて」
「開けるんだ」
「ずるい」
「自分たちだけ……」
やめて、予言者は両手で耳を塞ぎ、喉がつぶれるほど叫んだ。
「先生、奥へ。ここは私たちが」
悲しげな声は、幹部の一人だ。その胸元にしがみつく。
「道畑が死んでしまう」
「早く行ってください」
幹部が怒鳴った。懐中電灯を握らされる。
「暗いです。お気をつけて」
受け取った指は、お互いに震えていた。
暗い廊下を辿り、大会議室の扉を開けた。非常灯や蝋燭の雑多な明かりの下で、たくさんのケガ人がうずくまっている。無傷の者がせわしなく歩き回って世話をしていた。立ちすくんでいた所へ、エアガンを肩にかけた臼井が駆け寄ってきた。
「予言者様」
「臼井、一体これは」
「説明します。こちらへ」
つまずかないよう気をつけながら、扉続きの面談室へ移動する。臼井がアルコールランプに火をつけた。部屋は、四隅が暗いままぼんやり明るくなった。
「何があったんですか」
「夕方、追い返したのとは別の集団が侵入してきました。食料があると聞きつけたようです」
言いながら、臼井はエアガンをテーブルに置いた。重く硬い音がした。
「追い出そうとしたんですが、人数が多くて。それで、食堂でもみ合いになりました」
「そんな……」
臼井が唇をめくりあげて笑った。薄暗闇に歯がむき出しになる。
「大丈夫です、死んだ者はいません。逆に何人か殺してやりましたよ」
嬉しげに言いながら、臼井が手を握ってくる。まともに目が合った。
ほめてください
ひっ、と思わず声を上げて手を振り払った。
「こ、殺したですって」
臼井が口ごもった。
「あ、その……」
「聞きたくありません、触らないで」
「私は、仕方なく……」
消え入るように言って、臼井がうつむいた。
その時、あちこちの部屋で鐘の音が鳴り始めた。時計のアラームだ。反射的に見上げれば、針は深夜十二時を指している。臼井が弾かれたように顔を上げた。
「予言者様」
「待って、向こうでみんな順番に……」
「予言者様、お願いします」
縋るような目にそれ以上拒むこともできず、乞われるがまま臼井の目を覗きこんだ。
「出てきて土下座しろ」
玄関扉の向こう側から、獣のような絶叫が聞こえる。絶え間なく押され、叩かれて、とうとう硬い扉がゆがみはじめた。内側で押さえていた幹部たちが怯えた声を上げる。
「おい、やめろ」
「いったい何が望みなんだ」
数時間の待機でじれた群集が、歓喜に叫ぶ。
「もう少しだぞ」
「押せ押せ、ぶち破れ」
さらに力が加わり、玄関扉はゆがみ、捻じ曲がり、へこんだ。
「おい、鍵が切れたぞ。引っ張れ、引っ張れ」
怒号と共に群集が殺到し、今はぶらぶらと半開きになった扉から何本もの腕が入り込む。その瞬間、ぎゃっ、という悲鳴が上がった。建物の二階から、誰かがエアガンで撃ったのだ。臼井は喉も割れよと叫んだ。
「目を狙え、あの帽子の男を撃て」
群衆はいったん怯んだが、すぐに狂ったような怒りの渦に飲みこまれた。
「おい、石を投げろ」
「あいつにぶつけるんだ」
群衆は石や廃材を拾い上げ、二階へ投げつけ始めた。雨あられと投げつけられる石つぶてに、今度は狙撃者が悲鳴を上げている。
「今だ、行け」
群集が扉に殺到したところを狙いすまし、幹部たちは用意していた物を投げ出した。ドンと腹に響く重低音と共に爆発が起き、数人が吹っ飛んで悲鳴を上げる。
「がやああ」
「うわぁ」
「助けてくれ」
火種をくくりつけて放り投げた消火器の破片が、真っ白い粉をまき散らしながら数人に突き刺さった。爆発で吹っ飛んだ扉の隙間から、悲鳴を上げて転がり回る人間の血しぶきが吹き込む。
「畜生、あいつら」
「もう許さねぇ」
「投げろ、松明投げろ」
誰かの扇動で、無数の松明が投げられ始めた。中途半端に開いた扉の中へも松明が突っ込まれる。
「駄目だ、ここはもう」
仲間たちは、持ち場を放棄して逃げ出した。
「水を」
臼井は叫んだ。が、答えるものはいない。諦めて自分も階段を駆け上がった。
投げ込まれた松明が、あちこちで煙を上げている。それに飲み水をかけて、なんとか消そうとみんなが走り回っている。だが、ついにカーテンに火がついた。それを皮切りに、あちこちの部屋から白煙が漏れ出した。外から、どっと喜びの声がした。
「やったぞ」
「燃やせ、燃やせ」
「予言者様。大丈夫ですか」
我に返ると、臼井に体を支えられていた。胸が痛い。息が苦しい。
「とりあえず、ここへ座って下さい……おい、誰か水を」
壁沿いにへたり込むと、すぐ隣からむずがるような声が上がった。母親に抱かれて眠っていた子供が目を覚ましたのだ。寝ぼけ眼の幼い女の子と目が合う。
大丈夫、大丈夫だからね。母親が繰り返す。そこら中が熱い。耐えられない。何も見えない。息が苦しい。窓の所に人が押しかけ、助けて、助けてと叫んでいる。
部屋の中が静まり返った。全員こっちを見ている。喉が痛い。幹部の一人が、血相を変えて駆け寄ってきた。
「予言者様、今の声は」
「待って、来てはいけま……」
制止する間もなく、顔を覗きこまれる。
もう耐えられない。窓枠に押し付けられた胸が痛い。みな、空中に空しく手を伸ばして助けを求めている。悲鳴、怒鳴り声、それにごうごうという炎の音。顔の横を、ぎょっとするくらいはっきりした形のある黒煙が通っていく。何本もの真っ黒な腕に抱え込まれるようだ。
「いや」
「苦しい」
「助けて」
「頼む、子供がいるんだ」
庭からこちらを見上げている群衆は、にやにやと笑っている。指をさして笑っている。
「やったぞ。あいつら、蒸し焼きにしてやる」
「ははは、燃えろ、燃えろ」
「死ね。死ね」
「死ねぇ」
「殺せ殺せ、燃やせ」
夜の底が赤い。煙と炎に耐えかねた人々が、ぱらぱらと飛び降り始めた。地面に人がぶつかる鈍い音と、絶叫があがる。
「落ちてきたぞ」
「つぶせ、一人も逃がすな」
地面の上でもがくけが人に、蟻のように群衆が群がるのが見える。手に手に凶器を振り上げ、逃げようと転げまわる相手を文字通り潰していく。室内を振り返った。煙に巻かれた人々が、折り重なって倒れている。もうあとは、死に方を選ぶだけなのだろう。ただ熱い煙から逃れたくて、自分も窓から飛んだ。
「おい、こいつまだ生きてるぞ」
「こいつ。死ね」
「ははは、燃えろ燃えろ」
朦朧とした意識の中、薄笑いを浮かべた顔が見える。炎がそこらの立ち木へ燃え広がり、煽られていく。もう、何もかも炎の中だ。
「見えたんでしょう」
たった今、窓から飛び降りた幹部が、泣きながら予言者をゆすぶった。必死で頭を働かせる。どうしたらいいのだろう。予言は全て、火事の光景だ。吐き気をこらえ、必死で口を動かす。
「……お、おち、落ち着いて。ここを出ましょう、みんなで。早く」
死ぬんだ 怖い
「囲まれています。出れません」
幹部の顔が、泣きだしそうに歪んだ。唇を噛んで、必死に考えを巡らす。
「……勝手口は。狭いけど、あそこから出られるのでは」
幹部が拳を握りしめた。
「一人ずつなら、多分。一気に全員は無理です」
すぐに捕まるんじゃないか
「で、では。私が外へ行って、説得してきます。その間に少しづつ逃げて」
だめです、という叫びを振り切って立ち上がり、ドアへ向かった。
「予言者様、あなたの身が危ない」
「子供と怪我人を先に。準備をしてください」
叫びながら走った。予言の成就までに、どれだけの時間が残されているのかわからない。
「私も行きます」
臼井が慌てた様子で後に続く。振り返らずに厨房へ向かった。
食堂には誰もいない。雨戸を締め切った窓から、ゴン、ゴン、という重い音がしている。耳を覆いたくなるような下品な罵り声が、薄く聞こえてくる。ぐるりと囲まれているようだ。逃げ場はない。
できるだけ急いで洗い場へ行き、数台のシンクに栓をして水を溜めた。
「予言者様、なぜ水を」
「万一のためです。いいですか、私が外へ出たら、すぐに逃げてください」
「でも、それでは……」
臼井の手を取って額に当て、押しいただくようにして頭を下げる。
「言うことを聞いてください。このままでは、みんな……」
臼井は答えない。
「お願いです」
「……わかり、ました」
「ありがとう」
ようやく頷いた臼井に頭を下げ、手を拭いて勝手口に向かう。
「予言者様」
透き通った少女の声に呼ばれた。振り向かずに立ち止まると、臼井が焦ったように言った。
「藤田。何をしている、二階に戻りなさい」
ぐっと体を割り込ませた少女が、抱えた皿を突き出す。小ぶりな握り飯が三個並んでいる。
「お塩と、ゆかりと、高菜」
予言者様、お昼ごはん食べてないから
ぐっ、と少女の喉が鳴った。
少女の肩を一度抱いて、握り飯を取った。確かに、今日は一食も摂っていない。米の甘味に、痛いほど唾液が湧いた。食べてしまって、蛇口から手の平に水を受けて飲む。
「私が出たら、いったん鍵を締めて。大丈夫、必ずうまくいきます」
臼井が頷いた。勝手口を細く開けて、外へ出る。ブロック塀とプロパンガスのタンクに体を擦りつけるようにして、じりじりと正面へ回った。
予言者は、太いコナラの根元で椅子に縛り付けられていた。椅子の脚は地面に深く埋められ、体ごと立ち上がることもできない。目の前では、真っ暗な中で巨大な炎が悪魔のように踊っていた。二メートル近くあるだろうか、そのたき火の向こう側では、相変わらず群衆が本部を包囲している。火の粉が風に舞って、蝶のようだ。
「ほら、早く教えろ。どうしてこんなことになったんだ。めちゃくちゃな世界に」
ごうごうと燃える炎を背景に、男の血走った目が覗きこんでくる。
教えろ 殺すぞ
汚れた手で胸倉をつかまれ、乱暴に揺さぶられた。真夏の淀んだ空気を炎が無茶苦茶にかき回している。たまらない暑さだ。息が苦しい。
どのくらい経っただろう、と必死に考えた。外へ出て表に回り、すぐに捕まった。それから四時間は経っているに違いない。中天にあった月はもう傾きかけ、東の空が白み始めている。
「お願いです、聞いてください。私の力は……」
「ごまかすんじゃねぇ」
分厚い手の平に打たれて、目の前に星が飛ぶ。
「おい、何か吐いたか」
別の男が、炎の向こう側からゆらりと現れた。釘を打ったバットを下げている。平手で打った男が舌打ちした。
「だめだ。勝手口はどうだ、破れたか」
「いや、内側から塞ぎやがった。見張りを置いてきた」
尋問していた男が舌打ちした。
「仕方ねぇだろう。出ようとしてた奴らは、全員始末したぜ」
勝手口……動悸がした。それでは、誰も逃げられなかったのか。腫れあがったまぶたを押し上げ、本部に目を凝らす。まだ燃えていない。まだ間に合う。でも、どうすればいいのだろう。
次々と人が集まってきた。短いスカートを履いた若い女が、イライラと言った。
「予言者ってのは、どんな感じよ」
釘バットの男が、大げさに首を振ってみせた。インチキか、老人がうめく。カートに乗せた小型犬を連れた中年夫婦が眉をしかめた。
「そんな。じゃあ、なんでここに集まったの」
「……せめて食料を」
誰かの言葉に、全員が色めき立つ。
「そうだ、食料を出させろ」
「水も」
「あいつら、カルトの変態ども」
「出させろ」
「このカルト、変態」
「出てきて、土下座しろ」
誰かの叫びに誰かが応えて、津波の揺り返しのように騒ぎが大きくなっていく。たき火が風に煽られて伸び縮みし、月の下によどんでいる雲の下腹を、不気味になめ上げている。まるで竜の舌びらのようだ。炎にまかれて苦しむ信者たちの顔が浮かび、恐ろしさに声を張り上げる。
「やめてください。お願い、聞いて……」
誰も振り返らない。前へ出ようと体ごと暴れるが、縄はきつく、深く地面に埋まった椅子はびくともしなかった。無茶苦茶に体を振り動かしていると、尋問していた男が振り返った。無理矢理に笑顔を作って頼んだ。
「解いてくれませんか」
男は、虫ケラでも見るように顔をしかめて拳を振り上げた。強く打たれて、予言者は意識を失った。
の……ひが……。
遠く誰かの叫び声が聞こえ、ぐらぐらと揺れる意識を必死で呼び戻す。目の前は一面、炎の海だった。本部の建物も紅蓮の炎に包まれている。
「あ、あぁ……」
前のめりになって目を凝らした。数台ある教団のバスは、敷地内に停まったままだ。みんな、まだ中にいる。体中から血の気が引いた。
渦巻く炎が、熱風と共に右へ左へと身をよじっている。そのあまりの激しさに、さしもの興奮した群集も包囲の輪を解き、じりじりと後退している。と、風に乗ってちぎれた炎の一部が、数十メートル離れたアパートの屋根に飛び乗り、そこから白煙が出た。炎の竜は次々に鱗をまき散らし、あそこからも、ここからも火の手が上がる。
あちこちで悲鳴が上がった。
あたしのいえが、ちくしょう。やめろ、もえちまう。
叫び声はただの音としてしか聞こえず、意味がうまく捕まえられない。呆けた視線の先で、紅蓮の竜が断末魔の苦しみにのたうっている。
たいへんだ。たいへんだ。
信者たちを燃やし尽くす炎に歓声を上げていた群衆が、今度はその同じ炎に血相を変えた。凶器を捨てて、ちりぢりに駆け出していく。
しょうぼうはなぜこない。
誰かが半鐘を鳴らしている。夜が明けていき、巨大なかがり火と、燃え盛る教団本部と、それを取り囲むようにあちこちで上がる炎、そしてその間で逃げ惑う人々の姿がぼんやりと浮かび上がった。泥、すす、血、汗で汚れ、恐怖と怒りと興奮に歪んだ顔、顔、顔。すぐそばを逃げていく女が、ちらりとこっちを見た。
もう、ここから逃げるしかない。車に乗り込み、街へ抜ける坂道へアクセルを踏む。窓の外で、逃げ惑う人々がてんでに喚いている。
「どけ、邪魔だ」
「いや」
「やめろ、赤ん坊が……」
全員で通り抜けるには狭すぎる二車線の路上に、押し倒され踏みつぶされた人々がみるみるうちに重なった。生きているのか死んでいるのかわからないその山を踏み越え、飛ばしていく。悲鳴、怒号、哀願、罵声、呪詛。前の車が死体を巻き込んで横倒しになり、道を塞ぐ。タイヤが空回る。振り返ると、炎が視界いっぱいに拡がっている。どこにも逃げ場がない。
熱気が迫ってくる。煙も流れてくる。大切な人たちを食い尽くして、炎が喜びに踊っている。ごうごうという音に混じって、あぁ、と小さなうめき声がどこかから聞こえた。
ドン。本部の一角、厨房の辺りが爆発した。プロパンに引火したのだろう。爆発は三回続き、火に焼かれてもろくなった建物が崩れ落ちた。
誰かが、狂ったように叫んでいる。大事なものが壊れていく。真っ黒な煙が、ゆらゆらとよろめくように流れてきた。勝手に咳が出て、止まらなくなる。炭をくわえたように口の中が苦い。炎が、すぐそばにある。死ぬのだろう。死ねる。
ふいに、湿った涼しい空気がかすめた。煙が止まって息が楽になった。ぽつぽつと冷たいものが顔に触れた。熱気が押し返されている。咳き込みながら見上げれば、雷をはらんだ雲があった。薄墨色の雲の腹が、時折青白く光っている。太鼓のような遠雷が聞こえた。視界が吊り上がった。無残な焼け跡が見える。豆粒のような大きさの人々が逃げ回っているのが見える。音が消えた。ただ、遠い地面へ小雨が落ちていくのが見える。
と、一息に空が暗くなった。雨脚が強まり、鼻先も見えないほどの土砂降りになる。あちこちで暴れる炎は次々に消えていく。大気に何かが満ちて、ピンと張り詰めた雰囲気が漂った。
空が白く炸裂した。跳ね飛ばされた感覚があった。視界が落ち、地面に長く伸びている自分が見える。ドン。大地を押し詰めるような轟音が鳴り響いた。自分は動かない。死んでいるのかもしれない。
辺りを見回す。耐えられないような臭気だ。バラ色の朝焼けの中で、陽炎が揺らめいている。雲は流れて、空は今度こそ晴れそうだ。長い夜が、ようやく明けようとしていた。