第一章 八月二十五~二十六日
いくつかのルール。
講演の最中、室内には甘い香りが漂っている。それはなぜか。
ある種のプリオンが完成した。まず被害妄想と攻撃衝動を主とするせん妄が始まる。次に協同運動が異常をきたし、不眠・衰弱を起こして死ぬ。症状が出てから死ぬまでの期間はランダム。
では、これを意図的に作り出せたとしたら? あなたなら、何に使う?
・この変異型プリオンには、ワクチンが存在する
・プリオン遺伝子ヘテロ接合で、先天的にプリオン病への抵抗を持っているグループ以外への発症率は95%以上
・噴霧された変異型プリオンに曝露されなければ発症しない。いったん体内に取り込まれ宿主の中で変異型プリオンを作り出した後、宿主が死ぬと、プリオンは自然分解し二次的な感染力を持たなくなる。
・0度以下で不活化
・多少の誘導で攻撃性を持たせることができるのは、どんな人間か?
一人の男が抱いた悪意が、石を投げられた水面のようにこの世界全部に広がっていく。主人公は、それを止めることができるのか?
静かな説教室に、カードを切る、シャッ、シャッという音が響く。真新しい四枚のカードを伏せて、あくびをかみ殺した。時計は朝の六時。普段なら、まだ寝ている。
目の前には、二十歳前後の女性が座っている。髪が長く、真っ白で飾りのない服を着ている。清楚な雰囲気で、なかなかの美人だ。伏せてあるカードから一枚めくって図柄を確認し、向こうから見えないように戻した。目を閉じて、もう一度あくびをかみ殺す。
「はい、僕が見たカードは何でしょう」
「立花先生、これは……どういう意味が」
女性が困ったように眉を寄せた。
「絵柄を当てるんですよ。さっき説明したじゃないですか」
女性がため息をついた。
「では、目を開けてくださいませんか」
「だめです。カードの説明書に……目を閉じろって書いてましたから」
じゃあ、波の形。女性が諦めたように言った。
「ははっ、ハズレです。まったく、何が超能力やら」
女性が細い指先を落ち着かなく揉み合わせた。
「あの、先生もやってみませんか」
「なんで僕が。インチキに巻き込まないでくださいよ」
うんざりしながら薄目を開ける。
「でも、先生から感じます」
女性が首をかしげ、微細な粒子を空中で探すような、奇妙な視線を空中に漂わせた。
「何か、長い糸のような」
「くだらない。さぁ、もう一度」
言い捨ててカードを引き、もう一度目を閉じる。
「じゃあ、また波……どうして今日は高橋博士がいらっしゃらなかったのですか」
「え、だって危ないじゃないですか。偉い先生はこんな時に外出しませんよ」
テレビ観てますか、と皮肉たっぷりに付け加える。女性が眉を寄せた。
「テレビはありません」
「じゃ、新聞は。ネットとか」
「新聞も読みません。ねっと、とは、インターネットのことでしょうか」
浮世離れした返答も、演出の一環なのだろう。ため息が出た。
「はい、まぁ……失礼しました。もう少し続けましょう」
女性が素直に頷いた。ゲームを更に数回繰り返してノートをつけ、カードを片付ける。ろくに説明もされずに放り込まれたのだ、充分義理を果たしただろう。
「どうもお手間をかけました。では、僕はこれで」
部屋を出ようとして、誰かにぶつかった。見上げるほどの大男だ。白い詰襟服を着ているところをみると、ここの信者なのだろう。
「おっと失礼……予言者様、おはようございます」
「おはよう、道畑……あ」
にこやかに挨拶を返した予言者が、一気に青くなった。
「……すぐに、ここを発ちなさい」
道畑は息をのんだが、すぐにかぶりを振って答えた。
「いいえ、祈祷室へ早く。幹部たちも集まっています」
切羽詰まった様子で言うと、予言者の手を引いて廊下へ出る。そのまま速足で歩いていく二人を、慌てて追いかけた。
「一体どうしました」
「あなた、誰です」
道畑がきつい口調で言った。予言者がたしなめる。
「おやめなさい。この方は立花先生とおっしゃって、実験に」
「ああ、代理の方ですか。早くお帰りにな……」
階下から言い争う声がした。何かが割れる音や、金属のぶつかる音もする。
「まずい、早く」
道畑が予言者の手を引いて走った。訳がわからないまま、一緒になって走る。廊下の突き当りに重厚な木の扉が見えた。あれが祈祷室なのだろう。
あと一歩という所で、扉手前のエレベーターが開いた。十人以上の男女が降りてきて、廊下一杯に立ちふさがる。服装こそ普通だが、みな包丁や棒切れを構え、目つきは濁って恐ろしい。悲鳴を飲み込んだ。ふ、ふ、と荒い息をつく人々の肩が、まるでシケの海のように波打っている。
予言者をかばうように、道畑が前へ出た。と、金属バットをぶら下げた男が進み出て、凶器を突き上げながら獣のように吠えた。他の者も、凶器を突き上げて口々に絶叫した。吠え声が治まると、金属バットの男は道畑に触れるほど近づいて、自分の唇をべろりと舐めた。せわしなく動き回る両の目は、興奮で瞳孔が開ききっている。
「おい、どこにある。どこに隠してんだよ」
出ようとする予言者を、道畑が後ろ手に押しとどめる。
「何のことです。あなた方は、一体どこから入ってきたのですか」
予言者がもがきながら言った。
「ねえちゃんは黙ってろ。今、教祖様と話してんだからよ」
金属バットを振り回しながら、男がすごんだ。
「教祖はわた……」
立花は、とっさに予言者の口を塞いだ。状況はよくわからないが、黙らせた方が良さそうだ。
「食料とはなんだ。備蓄してあるもののことか」
道畑が落ち着いた声で言った。
「そうだ。ため込んでんだろ。俺らに渡せ」
「そうよ、出しなさいよ」
髪を振り乱した女が金切り声を上げた。
「おとなしく出さないと、これ撒いてやる」
女が、護身用の唐辛子スプレーを振り回した。道畑の背中は動かない。
「断る。ここにある食料は、すべて仲間のものだ。あなた方に分ける筋合いはない」
男は一瞬ぽかんとし、すぐに顔を赤くして震えだした。
「あ、おま、お前、今なんて言った、おま」
一瞬の隙を突き、道畑が金属バットを奪った。そのまま男の足を殴る。男は、悲鳴を上げて倒れた。侵入者たちは恐怖に叫び、集団が二手に割れた。
「走って」
振り返って道畑が叫び、バットを振り回して更に数人をなぎ倒した。無我夢中で祈祷室に滑り込む。大きな音を立てて扉が閉まった。心臓が痛いほど打っている。
「運動、不足が、堪える……」
呟いて顔を上げると、予言者が硬直していた。その視線の先には、教団の信者たちが四人並んでいる。おそらく彼らが幹部なのだろう。みな、真っ青だった。
よろめく予言者を道畑が素早く支え、一段高い場所に置かれている豪奢な椅子に座らせた。予言者はひどく震え、両手で顔を覆ってうつむいている。
「誰か、飲み物を」
女性幹部が予言者にカップを握らせた。予言者の背後には、祭壇のようなものがある。紫檀の地に、金蒔絵で天女が描かれた華やかなものだ。部屋を見回せば、調度品もそれぞれ値打ちのありそうなものばかりだ。この教団はずいぶん儲かっているようだ。
予言者は顔を上げ、苦しそうに言った。
「ここから出ましょう。すぐ、どこかへ移らないと」
「悪いものが見えたんですね」
道畑が言った。予言者が目をそらす。一番若い男性幹部が顔をゆがめた。
「予言者様、僕らまさか、死……」
「めったなことを言うな」
道畑が叱りつけた。
「大丈夫」
予言者は、細い指を伸ばして男性幹部の手を取った。
「どんな運命が見えていたとしても、それは今、この瞬間だけのもの。私が守ります」
予言者様、男性幹部が感極まったように呟き、女性幹部が目元を押さえた。バカバカしいやりとりにイライラして、つい口が滑る。
「茶番を見せられても、信者にはなりませんよ」
猛烈な勢いで振り返った道畑が、ずかずかと歩いてきて扉を指さす。
「これはこれは……お付き合い頂いて申し訳ない。どうぞお帰りください」
ち、と舌打ちして言い返す。
「帰りますとも、外が収まっているならね。全員捕まえましたか」
道畑が目をむく。
「お前に説明する筋合いは……」
「二人とも、やめて」
予言者が苦しげに言った。道畑がハッと居住まいを正し、予言者に深く頭を下げた。
「みんな、説明してください。さっきの騒動を」
若い男性幹部が、困ったように言った。
「近所の連中が苦情を言いに来たことが何度か、あるそうですが……」
女性幹部が申し訳なさそうに言い添える。
「私たちは、昨日予言者様と来たばかりですし。あまり、こちらのことは」
予言者が曖昧に幹部たちを見回した。
「なにか、情報は」
道畑が口ごもった。
「その……予言者様にならって、テレビも、新聞も見ませんから」
予言者がため息をつく。
「私がそういった物に触れないのは、予言のブレを防ぐためです。あなた方まで真似しなくていいのに」
幹部たちが黙り込んだ。呆れて肩をすくめる。
「この状況に、今頃気付いたとはね。のんきな人たちだ」
予言者は目を見開くと、ゆっくりと歩いてきた。そのまま手を握られる。
「今起きていることを、教えてくださいませんか」
予言者の瞳は、綺麗だが奇妙だ。水に墨を流したようにとらえどころなく透明で、人間的な感情が読めずに恐ろしい。思わず手を振り払い、声を荒げた。
「超能力なんて嘘でしょう。無能な教祖様だ」
予言者がひざまずいた。
「はい。無能な私に教えてください」
ぎょっとして後ずさる。予言者が膝でにじり寄って続けた。
「先生と不思議なご縁を感じます。私を導いてくださる方です」
頬がひきつった。
「勘弁してくださいよ」
「先生、どうか。ここには、小さい子供もおります」
道畑が、予言者の横に迷いなく膝をついた。
「私からもお願いします」
私も、私も…… と全員が後に続く。ガラス玉を並べたような瞳が見上げてくる。ため息が出た。がしがしと顔をこすり、壁に寄りかかって腕を組む。
「……おかしな状況になったのは、まぁ、二、三か月前からですかね。関東一円で頻繁に通り魔が出るようになったんです。ちょうど先月……七月の頭には、学園前の駅でもあったじゃないですか。それはさすがに知ってるでしょう」
予言者が痛ましげにうなずいた。
「ま、通り魔なんてよくありますから。ニュースでちょっと取り上げられて、たいてい社会的地位の低い破れかぶれのヤツが犯人で、現行犯逮捕されて終わり。今、僕らが陥っているこの状況だってね……最初はそうだったんですよ」
言葉を切って口元をこする。栄養が足りないせいか、荒れて痛痒い。
「でもそれも、一日何件も起きるようになったらみんなおびえ始めましたね。一日に三人も四人も、包丁振り回したり、車で突っ込んでくるヤツが出てきたら、どうなりますか。誰だって外に出たくなくなる。しかもそれ、どっかの思想のあるテロリストの犯行とかじゃないんですから。誰でもよかった、ってヤツです」
道畑が眉を寄せた。
「警察は、なぜ放っておいたんですか」
「警察も、あー、行政も、頑張ってますけどね。なんせ事件が多すぎて、対処しきれないみたいですよ。とうとう昨日、そんな事件が日に十件を超えましてね……ネット情報ですけど。そうできる人はみんな、とっくに関東から脱出してます。出国した子もいたな、僕の学生で。そんなわけで、街じゅう休業状態です」
予言者が息を飲んだ。
「それから、どうなったんですか」
「僕、ここに来たの朝の四時半ですよ。あなたが起床直後でないと精度がとかなんとか、教授に言われて。で、さっきまで缶詰でしょ。知りませんよ」
予言者たちは不安気に顔を見合わせている。腹がぐうと鳴った。
「まぁ、さっきの連中の気持ちも分からなくはないな。ここ何日か、僕もまともに食べてない。店が開いてないんだからなぁ」
口に出せば、空腹の寂しさがいっそう身に染みた。慌てて立ち上がった予言者が、深く頭を下げた。
「先生、ありがとうございました。お食事の用意をさせますので」
「本当ですか」
思わず大声が出た。言ってみるものだ。現金なもので、早速笑顔がこぼれてしまう。女性幹部が苦笑しながらドアを開けてくれた。
「食堂へご案内します」
立花は、うきうきと祈祷室を出た。
ようやく腹が満たされ、改めて食堂を見回す。長机の向こう端に男性が一人座っているだけで、あとは誰もいない。テーブルには、ペットボトルが一本ぽつんと置かれていた。
「あのう。さっき、何があったんですか」
返事はない。立ち上がって近づき、顔を覗きこんだ。三、四十代に見える。
「あなたに言ってるんですけど」
「えっ」
男性が弾かれたように顔を上げた。顔色が悪い。
「私ですか」
「そうですよ、他にいないでしょ。空気読んでくださいよ」
「え、あぁ、はぁ。すみません」
男性が頭を掻いた。
「今日は色々あったもので」
「その色々を聞きたいんですけど」
「あなた、誰ですか」
男性は、そこで初めて不信感を抱いたように眉をしかめた。
「高橋教授の代理の者です。しがない准教授で立花といいますがよろしく」
「あぁ、高橋先生の……これは失礼しました。臼井です、こちらこそよろしく」
臼井と名乗った男性の膝から、ガシャリと何かが転げ落ちた。落ちましたよ、と下を覗きこんでぎょっとする。
「銃じゃないですか。こんな過激な教団だったとは」
「違います違います、エアガンですよただの」
「なんだ。じゃあ飾りですね」
「いや、一応そこそこの威力はあるんですが……」
臼井が言葉を濁した。
「物騒ですね」
揶揄するように言うと、臼井が頭をかいた。
「事情がありまして」
「なるほど。聞かせてください」
正面の椅子を引いて、勝手に陣取った。エアガンを拾い上げた臼井が、どこかぼうっとした様子で話し始める。
「何時ぐらいだろう。朝食が六時半だから……まぁ、六時ごろですか。兄弟が来て、表に人が集まってる、って言うんです。これまでも、住民の方が苦情を言いに来られたことはありますしね、でも今はなんだか変だから……とにかくことを荒立てない方がいいだろうということで、正門へ出ました」
臼井が言葉を切り、水を飲んでから続けた。
「先に対応してた兄弟と、集まった人たちが押し問答してました。代表らしい男が、教祖を出せ、って騒いで。この先、自分たちがどうなるか教えろと。予言者様のお力は有名ですからね。すぐには面会できないと説明してもきかないんです。弱りました」
「有名なんですか、おたくらの教祖さんは」
「何ですって」
臼井の表情が一気に険しくなった。慌てて頭を下げる。
「失言でした。申し訳ない」
臼井が、渋々といった様子で続けた。
「すぐ出せ、今、会わせろとキリがなくて。で、中で待たれますかって言っちゃったんです。何人か入れてやったら、気が済むかと。後悔しました。だって、みんな何か持ってるんですよ、金属バットとか。それにすごい目つきでした。血走ってて……」
臼井がこぶしを握りしめた。
「食堂の前を通った時、あいつら全員ピタッと立ち止まりました。みんな朝食を取っていたんですが……金属バットの男が、食料を全部よこせって言い出したんです。ビックリしましたよ」
臼井が唇をゆがめた。
「訳がわからない、どうしてですか。そう言うと、急に怒りはじめたんです。お前らだけ食ってたらおかしい、とかなんとか。落ち着かせようとしても、バットやらハサミやら振り回して手に負えなくて。とうとう、勝手にエレベーターに」
臼井がエアガンを撫でた。
「これはやばいと思ったんで、いったん倉庫へ行って人を集めてきました。で、上で捕まえたんです。間に合ってよかった」
「間一髪でしたね」
「えぇ。でも、何人か怪我をしてしまいました。私の妻も」
「捕まえたやつらは、どうしたんです。まさか、殺したとか」
「何てこと言うんです」
臼井が叫ぶ。
「応接室にいますよ。今、予言者様と話しているはずです」
「お食事はいかがでしたか」
太い声に振り返ると、仏頂面の道畑が立っていた。
「美味しかったです。ごちそうさまでした」
「さっき捕まえたやつらを帰らせます。先生も出られては」
「そうさせてもらいます。では」
軽く会釈して席を立った。
開け放った玄関から、外の暑い空気が流れ込んでくる。一列に並んだ侵入者たちに、道畑が小ぶりな紙袋を一つずつ手渡した。それが済むと、みなうつむいて黙り込んだまま出て行った。先頭に立って暴れていた金属バットの男は、大きな布袋を背負っている。
これでやっと帰れる。では、と会釈して出ようとすると、数人にかばわれるようにしていた予言者が進み出てきた。
「先生、これを」
差し出された紙袋には、アルミホイルに包まれたおにぎりとオレンジがひとつ、それに袋菓子が数個入っていた。
「いただけるんですか」
「ええ。あの……ひとつお願いが」
なんでしょう、と警戒しながら尋ねる。
「高橋先生の所まで、乗せていって下さいませんか」
「それは……難しいですね。僕も自宅が気になりますし」
「では、途中まででも。どうぞお願いします」
予言者が深々と頭を下げた。その後ろから道畑が睨んでいるが、面倒なことに巻き込まれるのはごめんだ。
「信者さんと行かれたらどうですか」
「信徒たちは、その……準備をさせますので。先生どうか」
予想外の単語に首を傾げる。
「準備って、なんの準備ですか」
予言者がへどもどと言う。
「水を汲んだり……色々と」
「みず」
オウム返しに言う。ますます訳がわからない。
「これを差し上げましょう」
急に割り込んできた道畑が、六本組のペットボトルを押し付けてきた。
「それからこれも」
続けて、一抱えもある食パンを持たされる。
「ちょ、ちょっと」
目を白黒させていると、道畑の太い腕が両肩を押さえつける。
「ご希望を、叶えてくださいますね」
「も、もう……くそ、分かりましたよ」
予言者が頭を下げ、パーカーのフードをかぶった。
教団本部は、ちょうど丘と丘のくぼみに位置していた。道を挟んだ向かい側に大きめの公園があり、そこを抜けた坂道が市街へ繋がる唯一の道路だ。
「乗って下さい」
トランクに食料を積んで、予言者に声をかける。ふと目を上げると、公園の反対側に人が集まっていた。蝉がうるさい。まばらな樹木に陽が照りつけて、目に痛いほどだ。
「食料は、どのくらい渡したんですか」
アクセルを踏みながら尋ねる。ガソリン節約のために、冷房を切って窓を開けた。今朝まではかろうじてスタンドが開いていたが、これからどうなるかわからない。
「貯蔵していた半分ほどです。反対されましたが」
「功徳を積まれましたね」
予言者が目を伏せた。強い風に閉口しながら煙草に火をつける。
「かまいませんか」
「どうぞ」
「僕と同じで、長生きに興味がないんですね」
からかってやると、予言者が首を振った。
「私の天命は、先生の喫煙には関係なく決まることでしょう」
夢見るような口調が腹立たしい。
ここへ自分を寄越した先輩教授の論文を思い出した。テーマは、この予言者の超能力。キワモノとしかいいようのない内容で、もちろん学会では黙殺されている。正直、同じ大学に所属していることが恥ずかしくなるような代物だ。
煙草を消して、うつむいている予言者を盗み見る。
「いくつか伺ってもかまいませんか」
「どうぞ」
予言者はほとんど目を閉じている。疲れているのかもしれない。
「高橋先生の論文ですが。にわかには信じがたいものでした」
「そうでしょうね」
「あなたは、人の心が読めるとか」
「はい」
「出身地や、年収もわかるそうで」
「場合によっては」
「相手の未来が視えるとまで。僕の未来も視えますか」
「いいえ」
「なぜ。信者じゃないからですか」
「あなたと、夜を迎えたことがないからです」
ぎょっとして予言者を見ると、完全に目を閉じてシートにもたれかかっていた。からかい過ぎたのだろうか。
「……まぁ、冗談は置いておいて。どうですか、一つ試させてくださいよ」
「何をでしょうか」
「心を読んでください。僕は今、何を考えてますか」
「わかりません」
思わず声を上げて笑うと、予言者がシートから身を起こした。
「目を合わせないと読めないんです。運転中は危ないですから」
「運転中は危ない、なるほど、なるほど……面白いですね」
「そうでしょうか」
「そうですとも……そういえば、教祖様。あなたどこの生まれですか。不思議な訛りだ。抑揚がほとんどありませんね」
予言者が小さく息を吐いた。
「……さあ」
「さあ、とは」
「両親の顔を知らないもので。育ったのは都内です」
失礼、と声をかけてダッシュボードを開けた。
「ガムいりますか」
「結構です、ありがとうございます」
片手で包みを剥いて、口に放り込む。
「養護院か」
「……お師匠の所で育ちました。林文花先生です。ご存知ですか」
「寡聞にしてまったく」
「東洋の五術と三術、全てに通じていらっしゃいました」
前方に突然飛び出した男を避けてハンドルを切る。
「おっと……大丈夫ですか。なるほど、その林先生があなたを育てたわけだ」
「母でもあり、師匠でもありました」
「亡くなられたんですね。それは幸運だ」
予言者が声を荒げた。
「どういう意味でしょう」
「母親なんて、あらゆる災厄の元にしかなりません。ご存知ですか、全ての悪人は母親の腹から出てきたんですよ。驚異的な確率だ」
「聖人もそうです」
予言者が言い返す。思わず笑いをかみ殺した。
「確か、仏陀は脇の下からですね」
「全員が、先生のお母様のようではありません。優しい母親もいます」
すっと頭が冷えた。
「僕の母親が、なんですって」
予言者があっ、と声を上げた。
「すみません。忘れてください」
「……コールドリーディングですか。なかなか食えない人だ。なるほど、それを称して心を読めると」
「こーるど、りーでぃんぐとは何でしょう」
「とぼけずとも。甘く見ないでくださいよ、その程度ならちょっと気の利いたカウンセラーならみんなやります」
「本当に……すみません」
「いえいえ。僕の母親が愚か者なのは当たっています。あなた、腕利きのカウンセラーになれますよ。いや、教祖の方が儲かるかな」
少しづつ人通りが減っていく。昼下がりの住宅街に陽炎が揺れている。
「画相法、というものがあります。明治期に、お師匠の曽祖父様が創始されたものです」
予言者が静かに口を切った。
「人相占いや、手相占いはご存知でしょう。東洋占術でいう、相占に当たります。曽祖父様は、その相占に非常に優れた資質をお持ちでした」
「というと」
「人相をみて漠然と相手の運勢や性格を知るだけでなく、例えば『何日以内に、剣を持って人を殺すことになる』 というようなことまでわかったそうです。そこで、ご自分の術を画相法と名付けられました」
「それはそれは」
「私の力は、その画相法に非常に近いものです。目を合わせている方の心や、背景、名前が視えます。文章として」
「高橋論文では、そういう話でしたね」
予言者が頷いた。
「そして未来も視えると。教えてください、この世界は明日どうなりますか」
いっそ嘲笑するように言ってやると、予言者はうつむいたまま小さく咳払いをした。
「ここで結構です」
言われるまま、住宅街の真ん中で車を停めた。通りには誰もいない。とにかく自宅が気になった。飛ばせるだけ飛ばして戻ろう。
「では、せいぜい気をつけていってらっしゃい」
「お世話になりました。確かに人は少ないようですが、あまり飛ばさずに」
丁寧に礼を言う予言者に曖昧に返し、急いで車を出した。
動いている車も、歩いている人もいない。街の中心部へ抜ける交差点で車がひっくり返っていたが、そこにも誰もいない。信号は、どれも青のままだ。急に不安になり、実験を依頼してきた先輩教授の携帯に電話してみる。話中が続く。思い切りブレーキを踏んで、仙台の姉と、実家の両親へメールを送った。次々と噴き出す汗を拭っていると、後ろの窓が派手な音を立てて砕け散った。
「ひっ ひっ ひっ」
ぎょっとして振り返ると、真っ赤な顔が笑っている。混乱しながら思い切りアクセルを踏む。車が擦れて嫌な音を立てた。心臓が激しく打つ。
駅前の街頭テレビに人だかりを見つけてハンドルを切った。車から下りて人込みに混じると、大型ビジョンには信じられないようなものが映っていた。国会議事堂が黒々と煙を上げている。あの特徴的なドームは大きく壊れ、踏みつぶされたオモチャのようにへしゃげていた。
「なんだ、あれ」
思わず呟けば、すぐ前にいた老人が振り返った。目に生気がない。テレビからは、聞き覚えのある声が叫んでいる。
『みなさん、見えますか。これは現実の映像です、現実です』
朝のニュースを読んでいるアナウンサーの声だ。画面に彼の姿はなく、黒い煙を上げる議事堂だけが真正面から映し出されている。
『東京は襲われました、日本はもうだめです。すぐ外苑に集まってください、政府が救援ヘリを出します、自衛隊と米軍が助けます』
数秒を置いて、全く同じ内容が繰り返された。
『みなさん、見えますか。これは現実の映像です、現実です……』
『東京は襲われました。すぐに外苑に……ヘリが…… 自衛隊と米軍が……』
何度目かの繰り返しのあと、ようやく我に返った立花が尋ねた。
「これ、今ですか」
老人が首を振った。
「朝から同じだ」
人込みの反対側で赤ん坊が泣いている。朝から。呆気に取られて繰り返す。
「じゃあ、みんな外苑へ行ったんですか」
「俺は車持ってない」
反射的に振り返って自分の車を確認する。いつの間にか、その場にいる全員がこちらを向いていた。
「あれ、あんたの車か」
じりじりと後ろに下がると、人々が四方からゆっくりと近づいてくる。
ブツ、と音を立てて映像が切れた。真っ暗な画面から、悲鳴と怒号が聞こえてきた。ヘリコプターの音もする。人々の視線は画面に戻り、今度は違う男が話し始めた。艶があって低く、真夏であることを忘れさせるような冷たい声だ。
『みなさん、殺人犯が大量に脱走したという緊急情報が入りました。われわれ新政府は、皇族方を連れて避難します。自衛隊と警察には火急の任務があるため、救援活動はできません。我々はこのまま関東を離れます』
ふざけるな、何だと……画面の両側で口々に怒号があがった。冷たい声が続ける。
『調査により、議事堂の爆破も、通り魔も、革命軍を名乗るテロリスト集団の犯行であることが明らかになりました。みなさんの命を守るため、あちこちの駅に武器を隠しておきましたので、どうか役立ててください』
ネズミのようにうつむいて耳を傾けていた人々の中から、抜け出して駅構内へ駆け込む者が出始めた。それを横目に見ていた人々のうち、さらに数人が後を追うようにして走り出し、そこからはもう、波が砕けるように群衆が崩れて、叫び、もつれ合いながら雪崩れ込んでいく。最後尾に突っ立っていた立花は、くるりと振り返って全速力で車へ走り、転がり込んでエンジンをかけた。
『新政府が戻るまで生き延びてください。何をしても大丈夫、罪は問いません……では、幸運を祈ります』
冷たい声が嘲るように言い捨てて、放送は終わった。左折しながらバックミラーに目をやる。まるで蟻の巣穴のように、駅の中へ人が吸い込まれていった。
あっという間に渋滞が起こった。あちこちでクラクションが鳴り、人が怒鳴り合っている。このままではいつまで経っても帰りつけない。半分歩道に乗り上げて、無理矢理に脇道へ入った。
倒れた自転車に怒鳴り、花屋の店先でバラを踏みつぶし、ようやくマンションの前についた。パネルを操作するが、地下駐車場のシャッターが開かない。仕方なく正面玄関に横付けする。
エントランスに入ると、オートロックのドアが割られてガラスが散らばっていた。そこらじゅう血まみれで、鉄臭いような、生臭いような、たまらない臭いがする。ひるむ足を無理に動かして、中へ進む。
エレベーターは動かない。非常用電源すら止まっているようだ。防火扉を開け、非常階段へまわった。誰かがここで転んだのだろうか、洋服や毛布、食器などの日用品が、分厚く階段を覆っていた。ここを上らなければ、自分の部屋に行けない。覚悟を決め、ずるずる滑る布団の山と格闘していると、表で警報が鳴った。
しまった、思わず呟きながら体を起こし、慌ててマンションを出ると、誰かが車のトランクに頭を突っ込んで中を物色している。
「おい! 何をしてる!」
トランクから体を起こしたのは、太い腕に入れ墨をした青年だった。タンクトップの胸元に血がにじんでいる。
「これは僕の車だ。離れてくれ」
立花は、やや怯みながらもそう言って睨みつけた。入れ墨の青年は口をぬぐいながら辺りを見回している。
「どっか行ってくれ、いいな」
トランクを閉めようと伸ばした手が、強く払われた。
「痛っ」
手首を握りしめて呆然とする。青年はバールでぱしん、ぱしんと手の平を叩きながら、無表情に立花を見ている。
「ちょっと……本気か?」
じりじりと距離を詰めてくる青年に思い切り砂を蹴りあげ、運転席のドアを開けた。
「え?」
助手席には太った中年男性が座っていた。後部座席には青年と同じような風体の少年が座っている。二人は無言で立花を見つめていた。
「動くんじゃねぇ」
腰を浮かせた少年が、刺身包丁を向けてきた。
「鍵よこせ」
背後から若者が言った。のろのろと鍵を渡したとたん、突き飛ばされて倒れる。車はすぐに出ていった。
携帯が震えて我に返った。母親からのメールだ。
『岡山は全く変わりなし。だからあんな三流大学辞めろと言ったのに。自業自得』
苛立ちながらも安心し、改めて地べたに胡坐をかいた。どうやら、日本中がめちゃくちゃ、ではないらしい。
返信しようとした時、裏手からぱんぱんという音が聞こえた。銃声だ。悲鳴もする。警察だろうか、それとも、駅から銃を持ち出した輩だろうか。警察なら、行って保護を求めたい。
迷っている間にも銃声は近づく。焦って見回せば、ゴミ置き場が開け放しだった。嫌悪感に唸りながら、炎天下で悪臭を放つゴミ袋の陰に潜り込む。
まず、人々が逃げてきた。全速力で走り、ときどき振り返ってはその度につんざくような悲鳴を上げている。二人、三人、五人、七人。若い男女ばかりだ。みな、休日にキャンプにでも行くような格好をしている。と、男の子と母親が、ゴミ置き場の前で転んだ。女性が絶叫して男の子を抱え込んだ。シャ、シャ、シャという金属がこすれ合う音がして、母親がもう一度絶叫した。立花は目を見張った。
血まみれの女が走ってきた。服は破れほとんど裸で、時季外れのムートンブーツを履いている。頭上高く掲げているのは、どこかのテレビショッピングで見たような枝切ばさみだ。女が枝切ばさみをせわしなく開閉するたび、シャ、シャ、という音が立つ。
へたり込む親子の前に、ハサミ女が仁王立ちした。恐怖で暴れる子供を抱き込み、口を塞ぎながら、母親が震え声で何度も頭を下げる。
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい、やめて、許して」
ぺこぺこと頭を下げる母親を、ハサミ女が笑った。体を折り、肩を震わせてさんざん笑ってから、切っ先を下ろして二人に向ける。ゆっくりと開かれた刃の間に、長い髪の毛が何本もへばりついているのが見えた。
立花は顔をしかめ、握り拳を胸にあてた。心臓が痛い。どうする。助けるか、隠れているか…… と迷うが、体はただ正直に硬直したままだ。耐えられずに顔を背けた。がきん。ハサミが何か硬いものを挟んだ。火が付いたように子供が泣いている。
「化け物死ね!」
誰かが叫び、銃声が二発鳴り響いた。反射的に目を向ける。
反対方向から走ってきた青年が、叫び声を上げながら何発も撃つ。ハサミ女が切っ先を上げて青年に突っ込んでいく。じゃきん、という音がして、青年が驚きの表情で前のめりに倒れた。アゴから血を吹き出して痙攣している。ハサミ女が何度も切り裂く。がきん。ごりり。ゴミの悪臭を圧して、血の匂いが広がった。
限界だった。立花はゴミ置き場を飛び出し、でたらめに逃げた。シャキン、シャキンという音が追いかけてくる。なんで来るんだ。混乱する頭に喉の痛みが届いて、自分が叫んでいたのに気付いた。止めたいのに、口が閉じない。手の平を強く唇に押し当て、ひたすら走った。
「どけ!」
怒鳴られ、驚いて顔を上げる。車が肩をかすめた。荷台に人を満載した軽トラックを呆然と見送る。男たちはみな、軍が持つような大きな銃を抱えていた。立花はよろよろと立ち止って、激しく咳き込んだ。吐く息に鉄の味がする。
血走った眼で何度も背後を確かめた。ハサミ女はいない。めちゃくちゃに逃げている間に、線路沿いの砂利道の所まで来ていた。自宅から数キロも離れている。あと五分も行けば大学の正門だ。一気に汗が噴き出した。周りには誰もいない。ひからびたヒマワリの群れが、串刺し死体のように上へ口を開けて並んでいるだけだ。
冷たい汗が噴き出し、喉が渇いてひきつった。車は奪われた。トランクには水があったのに。家の近くには絶対に戻りたくなかった。研究室には小さい冷蔵庫がある。大体、大学には給水器があるじゃないか……。今や無一物の立花は、欲求に押し流されるように歩き始めた。
遮断機のたもと、蒸し暑い草むらの中で目を凝らす。正門は踏切のすぐ向こう側だ。石柱の周りに何十人もの学生たちがたむろしている。笑い合ったりふざけたり、ずいぶんと気楽な様子だ。
出て行くか決めかねていると、一台のランドローバーが猛スピードで踏切を渡っていった。学生たちが歓声を上げ、降りてきた者とハイタッチしている。立花はがりがりと首を掻いた。蚊がひどい。行ってみるか……。大きく息を吐き、草むらを出て踏切を渡った。一人が気付いて笑顔をみせる。
「立花先生。学校に来たんですか」
「家がやられてね。きみは……」
「後藤といいます。先生の授業、取ってますよ」
悪いね、謝る立花に、後藤が恐縮してみせる。
「ここにいる子たちは、きみの友達か」
「同じサークルです。逃げるタイミング逃した同士でトークしてたんすけど、とりあえず学校に集まろうぜって、うちの幹事長が。あ」
ひと際大きな歓声に振り返ると、車内から何か運び出されている。興奮した後藤に手を引かれ、輪の中心へ出て立花は絶句した。地べたに置かれているのは、巨大な黒い注射器とでもいうような代物だ。強化セラミック、それとも樹脂製だろうか。一メートル強の筒の先に、釣り鐘のような形の弾頭がのぞいている。
「うわ、なんだよこれ」
思わず呟くと、学生たちの視線が集まった。
「は。あんた、誰ですか」
この中で一番年上らしい、顔色の悪い若者が言う。
「あ、心理の先生っす。立花さん」
隣にいた後藤が代わりに答えた。声が緊張で硬い。
「そうか。先生、どうも」
そっけなく言って、若者は視線を武器に戻した。彼が幹事長とやらなのだろう。やっと誰かが口を開く。
「すげえ。ロケットランチャーだ」
その一言をきっかけに、どおお、と地鳴りのようなざわめきが起きた。
「浜野さん、使えるんすかこれ」
ロケットランチャーを食い入るように見ながら後藤が言った。
「は。そりゃ使えるだろ。新品だもん」
浜野が照れたように鼻をこする。
「すげえ。まじですげえ。もう何も怖くねぇわ」
「俺も。さすが浜野さん」
「どうする。何する」
男子学生たちが色めき立つ。付き合ってられるか……心の中で吐き捨てて、立花はそろそろと輪を外れ、目立たぬように歩き出した。
「先生」
冷水を浴びせられたような気持ちで振り向くと、女子学生が震えていた。
「待って」
無視して行こうとするが、ジャケットの裾をガッチリと掴まれている。
「あたし無理です。怖い」
立花は、シっと人差し指を立ててみせた。
「なんかみんな変なんだもん。何に使うんですかあんなの」
話しているうちに興奮してきたのか、女子学生の声はどんどん高くなっていく。
「きみね……」
「最初は、ただコートに集まって、みんなで食料探そうってだけだったのに。なんか、武器、武器を、駅に取りに行くとかなって。やだもう怖い、帰りたい」
ついに女子学生は泣き出した。立花はちらりと男子学生たちを見た。まだ誰も気付いていない。早く行かなくては。
「帰ったらいいでしょうが。帰んなさいよ、家どこなんですか」
女子学生を引き離すのをあきらめ、ジャケットをつかまれたまま歩く。女子学生も泣きながらついてきた。
「だ、だっつ、だって、うちは、静岡っで、電車も動いてないし、誰もむがえにきて、くれなくって、いっつも妹のことばっかりで、お母さんもお父さんも、あた、あたし……」
焦りながらあちこちのポケットをひっくり返して、ようやく目当てのものを見つける。くしゃくしゃのハンカチを手渡すと、女子学生は思い切り鼻をかんだ。
「うっ。ありがとうございます。先生優しい……あ」
女子学生の手が離れた瞬間、立花は全力で駆け出した。が、数歩も行かないうちに男子学生たちに取り囲まれてしまう。
「先生どこ行くの」
肩を押さえつけられた立花を、浜野が見下ろす。
「……とりあえず講堂前かな。水が欲しい」
立花は忌々しげに答えた。浜野がニヤニヤしながら言う。
「先生は、あの武器興味ないんだ」
「ないね。勝手にすればいい」
「あれ、すごいんだけど。パンツァーファウストっていってさぁ、ここの壁なんか余裕で吹っ飛ばせるから。先生の職場、なくなっちゃうね。大丈夫なの」
立花は鼻で笑ってみせた。
「お気遣いどうも。涙が出るよ」
腕をひねられた。苦痛にうめく立花を、浜野が無表情に見下ろしている。
「先生、警察の知り合いとかいる」
「特にいないね」
「これから俺らがやること、通報されたら嫌だから」
「あの放送聞いただろ。生き延びるためなら何やってもいいらしい。心配しなさんな」
また腕をひねられてうめく。
「勘弁してくれよ。好きにやればいい」
浜野がうなずくと、立花はようやく解放された。
「じゃ、どうも……」
そそくさと立ち去ろうとすると、浜野が平坦な声で言った。
「給水器、壊れてましたよ」
「本当か」
思わず振り返る。浜野が笑った。
「手伝ってくれたら、水あげますよ」
「手伝いとは」
頭のてっぺんからつま先まで、値踏みするようにつくづくと立花を眺めてから、浜野が口を開いた。
「先生、研究棟とか、事務室の入り口、パスワード知ってるよね」
「ああ、まぁ、一応……」
「一緒に来て開けてよ。色々と欲しいものがあんだよね」
いつのまにか、正門にいた集団のほぼ全員が集まっていた。学生たちは、浜野のそれが伝染したようにみな表情を失くし、気味が悪いほど静かにこちらを見つめている。
「じゃ、行こうか」
ロケットランチャーを担いだ学生を従えた浜野が悠々と歩き出した。腹立ちまぎれに地面を蹴りつけて、立花もそれに続いた。
立花はペットボトルを握りつぶした。事務室の略奪は続いている。警報機がやかましく鳴り始めていた。
「開くか」
「だめ……あ、いけそう」
スチール製の手提げ金庫と格闘していた数人から、わっと歓声が上がった。思ったよりあるな、何万だろ、たわいもない会話を聞き流しながら、立花は腹をさすった。勢いに任せてがぶ飲みしたせいで、ちょっと気持ちが悪い。
「おい。もう僕は行くから」
机に乗り上げて菓子を食べ散らかしている連中に向かって声を張り上げた。非常用電源が動いているのか、室内は外の酷暑が嘘のような涼しさだ。鼻歌交じりに札を数えていた男子学生が、奥の書類棚を指さして叫んだ。
「一応、幹事長に言ってってください」
「別にいいでしょう」
「無理です。浜野さんキレる」
出口には、これ見よがしにロケットランチャーを担いだ見張り役が立っている。立花はがしがしと顔をこすり、書類棚へ足を向けた。
浜野の足元には、書類やファイルが散乱していた。
「幹事長さん、僕はもう行くから」
振り返った浜野がほほ笑んだ。
「あった」
「なにが」
浜野は、一枚の書類をひらひらと振ってみせた。顔を寄せれば、学費滞納者の一覧表だ。
「これで。もう。大丈夫だ」
一語ずつ区切りながら、浜野が書類を破り捨てた。
「紙を処分しても仕方ないでしょう」
思わず口に出せば、浜野が目をむいた。
「どういうことだ」
「……元データはサーバでしょ」
「サーバって、なんだ」
「うわ。さすがうちの学生だな」
呟いた胸倉を掴まれて、つま先がほとんど宙に浮く。
「言えよ」
「く、苦しい。ごめんなさい。離して。言いますから」
突然手を離されてよろめき、涙目で説明する。
「サーバというのはですね。コンピューターです。その、色んなデータを溜めておくところね。これで大丈夫ですか」
浜野は焦ったように部屋を見回すと、転がっていたバールをひっつかみ、呆気にとられる立花の前で事務机のモニタを次々と割り始めた。だらけていた学生たちが、一瞬で静まり返る。
やがて意を決した一人が、恐る恐るといった様子で声をかけた。
「どうしたんすか」
手を止めた浜野が振り返る。
「パソコン壊すんだ。お前らもやれ」
「パソコン」
「そうだ。全部だぞ、全部」
「ここにあるやつ全部すか」
「違う。学内のパソコンを全部だ。やれ」
「学内のパソコンて何台あるんすか浜野さん」
「知らん。やれ」
「あと、どうしてモニタ割ってるんすか浜野さん」
「あ」
「パソコンなんですよね、壊すの」
浜野が年相応に幼い声で呟いた。
「モニタ」
こらえきれずに噴き出すと、つかつかと近づいてきた浜野がなんの前触れもなくバールを振り下ろした。わずかに逸れた先端がスチール机のふちをかち割る。立花は悲鳴をあげて飛びのいた。
「ちょ、っと待ってください。殺す気ですか」
「死ね」
浜野がもう一度バールを振りかざす。と、外から拡声器の呼びかけがあった。
『中に誰かいるの。出てきなさい』
全員の視線が出入口に集まる。頭をかばっていた腕越しに、立花も伸びあがった。
『警察です。警報機、鳴ってますよ』
学生たちが顔を見合わせた。
『今、避難所に誘導してるから。あんたたちも出てきなさい』
避難所だってよ、というつぶやきから一気にざわめきが広がって数人が出入口へ向かう。
「だめだ」
浜野が叫び、走って行って出口に立ちふさがった。
「誰も出るな」
見張り役の学生が口ごもった。
「で、でも。幹事長」
浜野がバールを振り下ろし、見張り役が声もなく倒れた。あちこちで悲鳴が上がる。ロケットランチャーが床に落ちて硬い音を立てた。
『どうしました。大丈夫ですか』
悲鳴が聞こえたのか、外の警官が切迫した声を上げる。外からドアが揺すぶられて、ガタガタと鳴った。浜野がロケットランチャーを拾い上げ、こちらへ向けた。
「黙ってろ」
室内は水を打ったように静まり返った。あ、あ、あー。女子学生が、ひきつけを起こしたように泣き出した。
「一蓮托生だ。一人も出さねぇぞ」
噛んで含めるように言うと、浜野はニヤリと笑った。
冗談じゃない、巻き添えになってたまるか……焦って左右を見回した。ずいぶん度胸がありそうに見えた学生たちは、青くなって震えている。何人かでかかれば、一人くらい押さえられそうだが……緊張のあまり吐いている学生を見て、諦めた。
そうだ、あそこから出られるじゃないか。天啓のように思い出した。給湯室の隅に、ちょっとした荷物をやり取りするための搬入口がある。かなり狭いが、無理矢理潜り込めば出れないことはないはずだ。
そろそろとかがみ込み、四つん這いで進む。給湯室のドアに指先が触れた時、誰かにしがみつかれた。ゾッとして振り返る。あの女子学生だった。泣きはらした目で、責めるように睨んでいる。絞られるように胃が痛んだ。
「また、きみか」
うめくように言うと、女子学生がしゃっくり上げた。
「どこ行くの。そっちに何かあるの」
すぐそこに鉄パイプがある……何とか視線を外してささやいた。
「出れるかもしれない。ついておいで。静かにね」
「出口があるの」
女子学生が叫びながら立ち上がった。思わず顔を覆う。
「すごい。早く逃げよ、早く」
興奮した女子学生が、歌うように言った。のろのろと立ち上がる。どうせもう逃げられない。浜野と目が合う。
「また先生か」
ロケットランチャーの照準がまともに向けられた。足が震え、心臓がせり上がる。血液が全身をめちゃくちゃに駆け巡るように感じ、息苦しさにぱくぱくと口を動かした。大きくて黒いロケットランチャーの射出口がどんどん大きくなって飲みこまれてしまいそうだ。
あ、このままだと失神する。なにか言わなくては。立花はめまいに耐えながら、無理矢理に肺から空気を押し出し、唇を形作った。
「あ、あのー、そそれ、何発撃てるんですか」
「は」
浜野の眉がピクリと動いた。
「何言ってるんだ、あんた」
本当だ。一体俺は何を言ってるんだ。何を言ってるんだろう、どういう意図だろう。立花は自分でも混乱しながら、それでも続けた。いったん口に出してしまったら、最後まで言うしかない。
「あ、あーと。見るからに連発式じゃないですね。せいぜい三、四発でしょ」
「黙れ」
そうだ、連発式じゃない。武器に詳しいわけじゃないが。それに、
「装填にも時間がかかるんじゃないですか。というか、安全装置は。外れてますか」
「それ以上言ったら、撃つぞ」
何やら手元をガチャガチャと動かしながら、浜野が早口に言った。痛い所をついたのだ。あんなもの、詳しい使い方を知るはずもない。どんどん視界がはっきりしていく。
「撃ってみなさいよ。建物ごと崩れて君も死ぬ。そうでしょう。それ、人を脅すには向かない武器ですよね」
話しながら、できるだけ冷静に見えるように、まっすぐに部屋を横切って浜野に近づく。声が震えるのはどうしようもないが、足取りだけは気を付けた。浜野が鼻で笑った。
「俺に勝てんのかよ。ガリガリのおっさん」
「無理でしょうね。でも、体格のいい子がいっぱいいるじゃないですか。例えば僕が注意を引いてる間に、みんなで押さえつければ……」
その言葉が終わらないうちに、学生たちが飛びかかった。たちまち押されこまれた浜野が悪態をつく。震える指を無理矢理に動かして錠を外し、勢いよくドアを開けた。
転げ出て視線を上げれば、日焼けした中年の警官がいた。拡声器をぶら下げている。警官が乱暴に腕をつかむ。
「お前がアタマか」
立花は必死に首を振った。
「ち、ちが。その子ですよ」
学生たちの下敷きになっている浜野を指さした。拡声器を置いて、警官が中へ入る。
「先生、すごい。好き」
体格のいい女子学生に飛びつかれてよろめく。柔らかい胸が当たって内心げんなりしていると、浜野が引っ立てられてきた。
「手錠が売り切れだからな。これで、しょうがねぇ」
浜野を縛り上げた警官に、一人の学生がうきうきと尋ねる。
「避難所って、メシありますよね。何食おうかな」
「ふざけたこと言ってんな」
そう吐き捨てると、警官は拡声器を拾い上げた。学生たちが凍りつく。
「あの、それって」
「避難所なんてねぇんだよ。俺らはせめて……」
しゅぱ、という花火のような音がして、顔が土に触れた。これまでの人生で聞いたことがないような轟音が骨まで響き、熱気が体中を包んだ。立花は無茶苦茶に頭を振り、手足を動かし、ようやく上下の感覚を取り戻してよろよろと立ち上がった。
もうもうと吹き上がる粉塵でなにも見えない。咳き込み、唾を吐き、瞼をぬぐう。耳はまだ聞こえない。粉塵のモヤを通して瓦礫が見える。その合間に、人間がたくさん倒れている。てんでんばらばらに向いた無数の手足は、ピクリとも動かない。
「……お、おーい」
無意識に呼びかけていたが、返事はない。ゴウゴウという音が薄く聞こえてきた。見上げれば、吹き飛んだひさしの合間から炎が出ている。誰かが足首をつかんだ。
「ひっ」
「た、す、けて……」
白い腕は、瓦礫の下から伸びている。
「やめ……やめ、離せ」
ふいに足がすっぽ抜けて尻餅をついた。下敷きになった誰かと目が合った。赤い涙を流している。目が離せない。
「こっちに来い」
鋭い声に振り向けば、縛り上げた浜野を後ろ手にかばった警官が手招きしている。正門付近まで下がっていた。立花はへたり込んだまま怒鳴った。
「ここに人が。助けないと」
「馬鹿言うな。さっさと来い、崩れるぞ」
警官が必死の形相で手招きしている。立花は瓦礫の下をちらりと見た。赤い目は、こっちを見たまま動かない。
「生きて……ますか」
返事はない。立花は立ち上がって走った。弱々しい咳が聞こえたかもしれないが、振り返らずに逃げた。
「大丈夫か」
手荒く全身を確かめてくる警官に、立花はただはい、と短く答えた。
「中に爆発物でもあったのか。見てみろ、ひどい有様だ」
見回せば、事務棟はほとんど崩れていた。噴き出した炎が、立ち木にまで燃え広がっている。構内が焼け落ちるのも時間の問題だ。分厚いコンクリートのかたまりが、そこらじゅうに転がっている。押しつぶされなかったのは、よほど運が良かったのだろう。
浜野がけらけらと笑った。
「暴発しやがった。結果オーライ」
警官が顔をしかめた。
「お前のせいなのか」
立花は唾を飲みこみ、かすれた声で言った。
「彼が持ってきた、ロケットランチャーが」
警官が拳銃を取り出し、浜野の口にねじ込んだ。小さな音がして、浜野が倒れる。息を飲む立花の目の前で、浜野は何度かふるえ、動かなくなった。
「他人に迷惑かけるなよ。こういう馬鹿は、俺が殺すことにしたからな」
苦々しげに言うと、警官は立ち去った。
ただ呆然と座っていた立花は、悲鳴を上げながら逃げていく人々に蹴り上げられるようにして立ちあがり、ようやく構内を出た。つま先が線路の透き間に入り込み、転んでひざをしたたかに打つ。のろのろと足を引いてちらりと振り返れば、正門からまっすぐに熱気が押し寄せてきた。黒い花吹雪のような燃えかすが、幾百幾万も舞っている。震える手で携帯を取り出し、119番へかける。
『お使いの地域からは発信できません。しばらく経ってからおかけ直しください。お使いの地域からは発信できません。しばらく経ってから……』
よろめきながら足を進めた。どこという当てもない。離れなくてはいけない。死にたくないという、ただそれだけを痛切に感じ、自分でもよくわからない、混乱した言葉の切れ端をブツブツと繰り返しながら歩いた。
月がこうこうと照っている。
時間も場所もはっきりしないまま、数度、人と言葉を交わしたように思う。ポケットを漁られて、最後まで持っていた細々した物を根こそぎ奪われたようだ。優しく声をかけられて、濡れたハンカチで顔を拭いてもらったようだ。だが、水を飲ませてくれ、食べ物を分けてくれる人はいなかった。いつかどこかで怪我をしたのか、右ひざがとても痛い。
太陽が照りつけて、暑い。あちこちで火の手が上がっている。
放棄されたどこかの家のトイレで、タンクを開けたところを強く殴られた。目覚めれば路上だ。月はもう沈んで、東の空が白んできた。喉が渇いて仕方ない。腹も減ったが……最後に食事をしたのは、あの教祖の施設だ。足はひとりでに動いた。あの人の良さそうな少女、『教祖』 なら、きっと迎え入れてくれるに違いない。
歩き始めてすぐ、すさまじい豪雨があった。立ち止まって口を開け、雨水を腹いっぱい飲んだ。口の中や喉の柔らかい肉が打たれて咳き込んだが、構うことはない。豪雨は通り雨で、すぐに壮麗な朝焼けが続いた。少し力を取り戻して、とにかく歩いた。あちこちで起こっていた火事も、これで消えたようだ。
炎天下を歩き続けて正午近く、ようやく教団本部の近くまでたどりついた。が、坂道を上るほどに異臭が強くなる。ガソリンの臭い。燃えた木がくすぶる臭い。それから……。
坂の頂点から向こうへは進めないようだ。真っ黒に燃え、重なり合った車と、かつて人間だったものの塊。まだぶすぶすと白い煙を上げている。坂の下の窪地も、燃えかす同然だ。その真ん中で、教団本部も焼け跡になっている。爆発でもあったのか。建物自体が大きくえぐれたようになっていた。
しばらくその光景を見て、踵を返した。