第百六十話 おはようデリラちゃん。
デリラちゃんが目を覚ましたこの部屋は、パパとママの部屋なんです。
デリラちゃんは今、自分の部屋を持っているので、着替えはあの部屋にないわけですね。
この地へ移ってくる前、鬼人族の集落にいたころは、デリラちゃんとパパとママの三人は、一緒の部屋で寝起きしていました。
この城を新しく建てたとき、パパは沢山の部屋を作りました。
そのとき、デリラちゃんの部屋も作ってあったのです。
デリラちゃんは最近、自分の部屋で一人で寝起きをするようになりました。
なのであの部屋で目を覚ましたのは久しぶりだったのです。
ママのナタリアは、集落のころに住んでいた部屋が好きで、柔らかくて香りの良い細い草を編んで作られた敷布の張ってある板の間が床になっています。
その上にふかふかの綿が入った布団が敷いてあって、そこに先ほどまでデリラちゃんは寝ていたんですね。
ちなみにこの布団は、ナタリアのものでした。
だからママの良い匂いがデリラちゃんを包んで、よく眠れたような気がしたのかもしれませんね。
デリラちゃんはちょっと前に、領都にあるパパのパパでおじいさん、クリスエイルのお城へ遊びにいきました。
パパのママおばあちゃん、マリサの部屋にあったふかふかのベッドに出会ったデリラちゃんは、それ以来とてもお気に入りになったのです。
ちなみに、パパとママの部屋には背の低いテーブルはあっても、そんなに大きくはありません。
なぜならそれは、ふたりがお酒を飲むときに使うだけで、ご飯を食べるためのものではないからですね。
デリラちゃんは部屋を移ろうと立ち上がってみました。
ふらつくこともなく、いつもの朝のように歩けそうです。
さて、寝ていた布団をしまおうと思って振り向いたとき、デリラちゃんはちょっと驚いた声を漏らしてしまいました。
「あ……」
その声に気づいたエルシーも振り向いて見たのでしょう。
彼女は少し呆れたような、それでも感心した声を出したのです。
「あらまぁ。さすがはフレアーネちゃんのお弟子さんでもあるわね」
「うん。さすがオルティアお姉ちゃんなの」
布団を折りたたんで持ち上げて、片付け始めていたオルティアの姿でした。
フレアーネはクリスエイルの執事、エリオットの妻でありオルティアの養母でもあります。
彼女は領都にあったクリスエイルの城で、家事の一切を任されていて、現在はこの王城の台所を支配している侍女頭なのです。
彼女の弟子のようなオルティアは、もちろんデリラちゃんの先回りをして布団を片付けてしまうのは当たり前のことだったのでしょう。
途中、オルティアは台所へ行くといって階段で別れて、エルシーは忘れ物を取りに行くと言って、デリラちゃんの部屋の手前で別れました。
デリラちゃんはお風呂の入り口近くで洗顔を済ませ、先にお部屋へ戻ってきました。
ふたりが戻ってくる前にささっと着替えを済ませて、テーブルにある椅子にちょこんと座って待つことにしたのです。
デリラちゃんが着替えたのは、彼女のおばあちゃんイライザが最近新しく縫い上げたもの。
鬼人族の女性が身につける民族衣装で、その中でも子供が身につける色合いではなく、勇者のアレイラやジェミリオたちのような、若い未婚の女性が身につける色だったりするのです。
デリラちゃんは初めてこの服に袖を通したとき、自分が少しだけお姉さんになった気持ちになれたような感じがしたでしょうね。
子供はこの下がすぐ肌着なのですが、少しお姉さんになるとナタリアのようにこの衣装の下には、ゆったりとしたズボンのような下履きを履くようです。
もちろんデリラちゃんも、下履きを履いています。
彼女はもうまもなく七歳になるお姉さんなのですからね。
「デリラちゃん、もういいかしら?」
「だいじょうぶよ。お着替え終わってるのよ。エルシーちゃん」
最初の来たのはエルシーでした。
エルシーのすぐ後ろには、音も立てずにそっと近寄るオルティアの姿もありました。
彼女の姿と一緒に、とても美味しそうな匂いがするのです。
再度、デリラちゃんのおなかから『きゅるるる』と可愛らしい音が鳴りました。
デリラちゃんはテーブルの前にある椅子に腰掛けます。
するとオルティアは近寄って、朝ごはんの準備を始めるのです。
彼女の首元から伸びる漆黒の第三、第四の手、第五、第六の手。
ひとつはお皿を、ひとつはスプーンを、ひとつは小さいお鍋を、ひとつはレードルを持っています。
かちゃりとも音を立てずに、デリラちゃんの目の前に準備されていく簡素な朝食。
お鍋の蓋が開けられて、そこから漂う何度も嗅いだことのあるおなかに響く香り。
少し深めのお皿に、鍋から掬われた湯気を伴う琥珀色。
お皿にたわむ程度に波打つスープには、具材が入っていません。
おそらくは、病み上がりの状態なデリラちゃんのことを考えて、上澄みだけを丁寧に漉してくれたのでしょうね。
「姫様、召し上がってくださイ」
「はい。いただきますなの」
木製の暖かなスプーンで掬った香り高いスープ。
鼻の先に持ってくるだけで、頭の芯まで酔いそうになる美味しい香り。
そう、それは間違いなく『美味しいよ』と認識された香り。
その香りに負けない確かな味が待っているからですね。
口に含むと、お肉とお野菜がぎゅっと濃縮された味。
優しくて温かくてちょっぴりしょっぱい濃厚な味。
「――ふはぁ。おい、……しいの」
ひとつ大きく呼吸をしたとき、一緒に素直に出てきたお味の感想。
デリラちゃんの頬が幸せ色に赤く染まっていく。
「ありがとうございまス」
その返事はきっと、オルティアもフレアーネの手伝いをしているからなんでしょうね。
一杯、また一杯と喉を通って胃に届く美味しい朝ごはん。
デリラちゃんの大好きな、パンもお肉もお野菜もお魚もないけれど、満足感は確かに感じられます。
「お代わり食べられますカ?」
「うん。いただくのよっ」
デリラちゃんは二度お代わりをして、とても満足そうですね。
食後のお茶と、デザートに爪の先ほどの大きさに切られた乾し果物。
酸味の強い果物を薄切りにして、砂糖の粒に漬け込まれた、デリラちゃんも小さなころからおなじみな『あまいの』。
お茶を飲みながら、ひとつつまんでは奥歯でゆっくりとすりつぶすと心地よい感じが広がっていきます。
酸味と甘みがとても心地よい、ちょっとだけお上品ではない庶民の味。
先ほどのスープとはまた違った、ほっとする味だったりするのです。
鬼人族の皆さんが手作りしている、王都と領都では一般的な嗜好品として流通しているものなのですね。
エルシーもお茶と一緒に、遠慮なくご相伴にあずかっています。
「この砂糖漬け乾果はもう、この国の名産だと思わ」
「はいなのっ」
「そうでございますネ」
もちろん、オルティアも大好きだったりするわけです。
お茶を飲んでゆっくりしているときでした。
『こんこんこーん。マルテですがぁ、よろしいですかぁ?』
特徴のあるとてもゆったりした、名を名乗っているから誰かすぐにわかる優しげな声がドアの向こうから聞こえてきました。
「マルテちゃんなのね? どうぞお入りくださいなの」
「はぁい。失礼しますねぇ」
ドアが開いたのはいいのですが、声はすれども姿は見えずな状態でした。
それでもオルティアは、もうひとつあった椅子を引いて準備をしていました。
そこにすぅっと色味を伴って現れたマルテの姿。
「ごめんなさいねぇ。いつもの癖でぇ、姿を消してしまっていたのですねぇ」
「だいじょぶよ。デリラちゃんも知ってるから」
「そうね。わたしも初めて見たのだけれど、見事なものだと思うわ」
「あらあらぁ、驚かせてしまってごめんなさいねぇ」
そう言って、右手のひらを頬にあててコロコロと笑うマルテでした。
よく見ると、彼女はなんとデリラちゃんと色違いな、鬼人族の民族衣装を身につけているのです。
隣に並んでいるエルシーと同じ色の布地で、足下はふわりと大きな布地で縫われた、スキュラ族のマルテの足をすっぽりと覆う感じになっていますね。
「マルテちゃん、とても似合ってるのねっ」
「ありがとうございますぅ。姫様もお似合いですよぉ」
「うん、ありがとうなのねっ」
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