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『久しいな、人の子よ』
ゆらめく赤い光の中から聞こえた声は、幼いころにジョセフィンを怖がらせたあの声だ。
「はい。とうとうこの日が来ました、シュヴァルツ様」
『怖いか』
「はい。けれど決めました。どうすれば良いか、御教示ください。
この魔力……まだ全てではありませんよね?」
『明察である』
自分の中に多くの魔力があるのは分かっていたが、魔獣を全て焼き払うには、到底足りない。感覚的にそう思っていた。果たして『彼』は肯き、いまだ大部分は眠っていると教えてくれた。
大きすぎる力が、若いジョセフィンに制御しきれないこともあろうと、魔力と身体が馴染む程度の力だけを解放しているという。
「気を使ってくださって」
『まさか髪を乾かすのに使われるとは思わなんだが』
くすり、と笑う。あるものは使わねばもったいない。
『家族に知らせる程度の時間はあろう』
「……そうですね。いえ、やめておきます。両親もまた、魔獣の発生を聞き覚悟はしているでしょうから。会ってしまえば、私の決心が鈍りかねませんもの」
『そうか。では始めよう。まずはお前の中で眠っているものを全て揺り起こす。その後、我の陣でお前を魔物の眼前まで転移させる。
後はお前の中の力が導くままに歌うがいい』
ジョセフィンは肯き、その場に跪いた。
『彼』の唱える呪に合わせて、体内を巡る魔力がぐらぐらと煮立つように反応する。やがて、心に浮かんだ言葉を、ジョセフィンは声に乗せた。それは『彼』の低い声と重なり、共鳴する。
詠唱は歌のように心地よく、けれど身の内は耐えきれないほどに熱い。もう耐えきれない、という瞬間に、最後の呪が叫ぶように喉から絞り出された。
爆発したか、と思うほどの大きさを持つ力が、皮膚を焼くように全身を包む。身体が瘧のように震え、引き裂かれるような痛みに唇をかみしめた。
やがて、少しずつ衝撃が去る。汗びっしょりになった肌が、逆に熱を奪われ寒いほどだ。
『よく耐えた』
「はぁ、はぁ、……はい。……あの、着替えてもよろしいかしら?」
死地に赴くには、汗で汚れた服はふさわしくない。了承の声を聞き、ジョセフィンは自室に向かった。クローゼットの前に立つ。ウェスティンに会う日、何を着ようかと浮き立ちながら開いた扉を、今は覚悟をもって開く。
そこには、毎年、袖を通すことがないのに作られる緋色のドレスがある。身体が大きくなるたびに、新たに作られるそれは、幼いころから一度も着ることなく古い順に処分されてきた。今年も身に着けずに済んだ、という安堵とともに。
一人で着られるように特別に脇にファスナがある。たっぷりとしたレースと、意匠を凝らした刺繍、同色の小さな宝石が散りばめられた、豪奢なドレス。
ジョセフィンはコルセットなしにそれを身に付けた。膨らみすぎないスカートは、すんなりとした身体を美しく見せる。
「ふう。準備できましたわ。ちなみに、着替えているところはご覧になりましたの?」
『その色、陣を意識したか』
「ふふ。はい」
手袋はつけない。素手でスカートの裾を華麗にさばき、ジョセフィンは部屋の中央に立った。
『身ひとつで行くか』
「はい。この声以外、持ってゆくものはありませんわ」
足元から風が吹きあがる。いや、風ではない。『彼』の陣だ。まるで風のように肌に感じられる強い魔力が、床に描き出される。部屋一杯に広がり、なお力は増していく。
『世界の均衡を保つ者として、人の子に新たなる希望を与える。我は期待する。人々の望みを叶えよ。お前のその声が悪しき獣を焼き払うべく――歌うがよい、紅姫』
役割としての名を与えられ、ジョセフィンの力は完成した。喉元まで歌がせり上がってくるような、溢れんばかりの魔力が収まるべきところに収まった。
そして転移が始まる。足元が一層強く光を放つ。ゆっくりと足元から溶けて行く。見納めに、と、二十年を過ごした部屋を見渡した時。
「ジョセフィン!」
大声で名を呼びながら、ウェスティンがドアを叩きつけるように開けて現れた。足が消え、腹が消えて、
「ウェスティン様?」
「ジョセフィン、俺は……!」
魔力を感じ取ることが出来る彼が、覚醒の気配で駆けつけてくれたのだろう。髪を乱し、慌てていることが一目瞭然だ。
嬉しかった。最後に見る顔が愛する者であることが、幸せで。
ジョセフィンは笑った。
どうかあなたの記憶に残るのが、この幸福の笑みでありますように。
次の瞬間、ジョセフィンは暗い森の中に一人、立っていた。
目の前でジョセフィンの身体がかき消えると同時に、床に描かれていた緻密な陣も一瞬で失われた。ウェスティンは、手を伸ばしたままの姿勢で呆然と立ち尽くす。
さっきまで部屋に満ちていたのは、確かにジョセフィンの魔力だったが、ウェスティンの見知らぬものだった。壁が消えていた。優しい魔力だけを流し、それ以外を遮っていたものが消えていたのだ。
彼女から感じたのは、幸福。愛しさ。その裏にある、かすかな恐怖と、そして怒りのようなもの。複雑で、きっと、彼女の内面がそんなふうに複雑だった証拠だろう。圧倒的なその感情の量に、まるで嵐のようだ、と思う。
そうして、それらの感情を内包し、いままで見せたことのない飛びきりの笑顔を残して、彼女は消えた。
ウェスティンの中に、じわりと湧いてくるものがある。最後の最後に見せた、美しくそして鮮やかな笑顔に、心を全て奪われた。よりにもよって自分は、別れの笑顔に――恋をしたのだと。
「間に合いませんでしたの?!」
ただただ立ちつくすウェスティンの横に、エメリアが白い陣を描いて現れた。驚きつつも、ようやく、自分が目印の小鳥の文鎮をまだ持っていたことに気付く。
彼女は、これを頼りに魔力の設定をして飛んでくるのだろう。
「ああ、行ってしまった」
「何をぐずぐずしてらっしゃるの、早く、馬を駆けてジョセフィン様を追ってくださいませ!」
「そのつもりだがしかし、隊を率いて行くのに時間がかかる」
「隊などいらないのです、かの方が全てを解決してくださるのですから!
ウェスティン様がすべきなのは、その小鳥を連れてジョセフィン様の元へ出来うる限り早くたどり着くことですわ!」
役立たず、という声が聞こえてくるような、はきはきしたエメリアにせかされ、ウェスティンは走るように玄関を出て、乗って来た軍馬を短い口笛で呼んだ。
「この鳥を持っていかせるということは、まさかエメリア嬢、あなたも来るつもりか?
ジョセフィンに力を使ってもらうと言う目的は達したのに」
彼女は、眉を吊りあげて、馬に乗り込むウェスティンをまるで睨むように見上げた。
すっかり性格が変わってしまったようなエメリアは、毅然と言い放つ。
「私を侮るのも大概になさいませ。私は選ばれた歌姫なのです。私も、幼いころより果たさねばならない使命の重みは覚悟の上なのです。
分かったらつべこべ言わずに、急ぎなさい!」
彼女の叱咤に鞭打たれたように、軍馬がいななく。ウェスティンはそのまま馬首を返して、腹を蹴った。全力で駆けだす馬上で、ジョセフィンの顔を思い出す。あれが消えてしまった時の絶望を救うものがあるのなら、不可能も可能にしようと決意した。
単騎で全力疾走をしても、丸一日。途中で馬を替えて行かねばならない。
ウェスティンは、頭に叩き込んである辺境の森までの地形と、軍馬のいる街を思い浮かべながら、夜の中を疾走した。