7
夜の寝室に、小さな光が現れる。柔らかく温かいその光は、一瞬で両手を広げたほどの大きさで陣を描いた。その中央に、ぼんやりと人型が映り――光の消失とともに現れたのは、エメリアだった。
彼女は躊躇いなく一歩を踏み出したが、すぐに、戸惑ったように辺りを見回している。
ウェスティンは、手元の魔石を操作して灯りを点けた。はっとして振り向いた彼女は、こちらの顔を見て驚いたように目を見開いた。
「エメリア嬢。いや、歌姫様。こんなところで何を?
あなたは今夜中に塔に入られると決まったはずだ」
「……っ、なぜ、あなたが!」
怒りと言うよりは、動揺も露わに彼女は叫ぶ。その目が、ウェスティンの座る文机の上の品に止まった。
「……それは、ジョセフィン様にとお願いしたはずですのに!」
「はい。確かにそのように」
「今更の敬語などおやめになって。そして、なぜあなたがそれを持っているのが説明して下さる?」
ウェスティンは肯きつつ、小鳥を模した文鎮を手に取った。先日、エメリアからジョセフィンにと贈られた品だ。
言われた通り、敬語を捨てて、彼女が歌姫と打ち明けるより前の砕けた口調にする。
「俺は、魔力を感じ取れるのだ」
「知っておりますわ」
「それは、人からだけではない。物にかけられた魔術も感じ取れる。それがどのようなものかまでははっきり分からないが、ざっとした雰囲気は読みとれる。
あなたが彼女に贈った箱から、明らかな目印の陣が流れてきた。目的は分からないなりに、そのまま渡すことは憚られ、同じ形の別のものを探して渡した」
ウェスティンは、軍服を身に着けていた。魔物の発生を聞いたのが昼、そして夜にはすでに先発隊の命が出ている。これから城へ向かい、隊を率いて辺境へ向かわんというタイミングだった。
灯りを消し、いざというところで、小鳥が明らかにエメリアの魔術をまとって光りはじめていた。何が起こるのかと待っていたところ、彼女本人が現れたのだ。
「なんてこと……もう、間に合わない」
「何にです?」
「もう、塔に入るしかないかもしれない。酷い方……」
がっくりと肩を落とす彼女を不思議に思う。塔に入るしかないもなにも、もとより、そのために彼女は教育を施されてきた。彼女自身、そのことを受け入れていたかに見えた。
確かに、理解できなくはない。まだ若い、いや幼いと言っても良い年で、世俗を捨てて一生を塔で過ごさなければならないことは、苦痛だろう。しかしことは緊急を極めている。魔獣はすでに現れ、砦の兵たちは彼女の歌を待っているだろう。切羽詰まった今になって逃げ出すような、そんな風には見えなかったのに。
「お辛い気持ちはあるだろう。だが、多くの兵達のために白の歌を歌ってほしい。国の守護柱となれるのは、あなただけだ」
「違う!」
ぶるぶると震える両手を握り、エメリアが激昂する。
「私だけじゃない! いいえ、いいえむしろ、私よりずっとふさわしい方がいるのです!」
「なに……? あなたは歌姫ではないのか?」
驚きに声を上げると、彼女は何かに耐えるように目を閉じ、疲れたように両手に顔を埋めた。
急に大人びたようなその仕草と表情に、ウェスティンはまず、椅子を勧めた。彼女がよろよろと座りこむのを見て、離れた場所に立つ。
「ウェスティン様は、魔力をお感じになる。ならば御存じですよね?
私の魔力が、人とは違うことを」
「ああ、感じていた。人のものとは違う、とても美しい仕様の魔力だ」
「これは、竜の魔力です」
竜、と呟く。
「均衡を保つ者、それが竜です。竜は人のために白い歌の陣を授け、それは代々受け継がれてきました。そして今、私がほぼその力をものにしました。
しかし、かの方は、さらなる力をお与え下さったのです」
「なぜあなたはそれを知っているのだ」
「竜が私に教えたからですわ。理由は分かりません。しかし、私は当然期待したのです!
新たな力が現れれば、私は塔に入らずに済む。
そもそも、なぜ歌姫は塔に入らねばならないのか。そんな必要は本来どこにもないのです。力も、陣も、世俗にあってなんらの影響も受けないのですから」
ウェスティンは顔を歪めて、それを認めた。
まったく彼女の言うとおりだった。だが、国は彼女らに入塔を強制する。保護と言いながら、それはまさしく、軟禁に等しい。
魔獣の発生は、ある意味で他国にとっても絶好の機会だ。兵は辺境に集められ、魔獣にかかりきりになる。その隙を突いて進撃するもよし、駆逐を邪魔して兵が失われるのを、すなわち国力が失われるのを期待するもよし。
それが成らないのは、白姫の歌があるゆえだ。魔獣の魔力を失わせる力は、それほどまでに大きい。逆に言えば、そこを突かれればかなりの痛手を負う、ということだ。彼女らの身の安全を図るというのは、嘘ではない。ただ、それは国の保身の裏返しでもある。
「私はそんな生き方はごめんです。白姫などと国民の幻想を煽るような名をつけ、そうであらねばならないという意識を私たちに植え付ける。
白姫が清くなければならないなんて、誰が決めたというのでしょう。私にも、これまでの守護柱様たちにも、望みはあるのです。
私は普通に生きたい。家族といたい。愛を持って、生涯を暮らしたい!」
「それは叶わぬ」
ぽつりと返す。歌姫の力を得た時から、彼女らは人ではない。国力の一部だ。人々はそのあからさまな強要をごまかすために、彼女らを祀りあげるのだ。
「分かっています。様々なことを鑑みれば、塔に入るのが一番良いのですわ。
でも……あの方さえ立って下さるなら、私など必要ないのです。白姫という存在そのものがもう、不要になるのですもの」
「それが――ジョセフィンへのあなたの望みか」
ジョセフィンの魔力もまた、人と違うことを、当然ウェスティンは知っていた。それが竜のものとは想像もつかなかったが、エメリアと同質のものであることは感じ取れたのだ。
そのエメリアが歌姫と知った時、ジョセフィンにもまた、なんらかの特別な使命があるのやもしれないと気付いた。
だが。彼女は何も言わない。婚約者である自分には、なにひとつ打ち明けない。
「酷い女とお思いでしょう」
「いや。あなたの魔力はとても素直だ。あなたの葛藤が、俺には分かる」
「ジョセフィン様の気持ちは、お分かりにならないのに?」
「ああ……そうだ。彼女は」
拳を握る。
自分の境遇は、決していいものではない。貴族とは言え、さほど裕福ではない家の三男で、いずれ家を出て自ら身を立てねばならない。それを見越して騎士になり、今の地位まで上り詰めたとはいえ、命を壁にして国を守るという点では、結婚相手として敬遠される向きもあった。
そんな中、跡取総領の娘との結婚話が持ち上がった。将来と矜持を天秤にかける気持ちが、どうしても離れなかった。
ジョセフィンは優しい。優しい魔力を持っている。
だが、それは全てではない。
「彼女は自分自身を隠している。その魔力さえ。
俺に対して、殻を作り、その内心が見えないようにずっと隠しているのだ。俺に流すのは、優しく、心地よい魔力だけ。
大貴族に婿入りする男とは、そんなものか。外向きの感情だけを向けられ、秘密を持ち、彼女の本質から俺を締め出しておいて、何が結婚か。
あなたは言った。愛を持って暮らしたいと。男の俺がそれを望むのは滑稽か?
人として、愛を望んではいけないか?」
彼女はゆっくりと首を振る。
「馬鹿なかた。教えてさしあげたではありませんか。あの方の本当の気持ち」
「そうだな。確かに彼女はそれを肯定した」
「ならばどうしてきちんと向き合って下さらないのですか。私の計画が台無しです。
ウェスティン様はしっかりとあの方を捕まえていてもらわなくては。そうしたなら、あなたへの愛のために、あの方はきっと力をお使いになるのに」
腹立たしげに言うエメリアの、ぶつけてくるような感情を心地よく思う。こんな風に、誰かに真っすぐに向き合うのは、きっと幼い頃以来だろう。
そう思えば、ジョセフィンとの間に立てられた見えない壁に、自分こそ向き合っていなかった。慇懃な執事と、よそよそしい女中、そしていつまでも他人行儀な婚約者。そっちがその気なら、というくだらない矜持が、距離を詰める努力を放棄させた。エメリアのおねだりに便乗して街へ誘えたことに満足する程度の、体面を保てる努力しかしなかった。
そもそも、今でもウェスティンは彼女たちの言葉を信じていない。愛している、慕っているという言葉は、なんの感情も伴わず、ただただ自分の中を抜けて行くばかり。
「ジョセフィンは、自分のその新たな力というもを知っているのか?」
「ええ、もちろんですわ」
「では心配ない。彼女は、そう言う点では正しい心を持っている。国を、人命を助けられることを知っているならば、その力を使わぬ訳がない」
エメリアは、苦痛を堪えるように眉を寄せた。唇を湿し、言いづらそうに口を開く。
「ええ、ええ分かっています。それがもしも、ただ人を助けるためにあるならば」
「どういうことだ?」
「世界の均衡です。私たちの魔力は、そこから逃れられない」
そうしてエメリアは、陣の持つ意味と、その反作用について口にした。
ウェスティンは動けない。
「私なら、怖ろしさに負けるでしょう。怖ろしくてただ使命だけでは使えない。誰かを守りたいと言う、強い願いがない限り」
「魔力を放てば返ってくる……つまりジョセフィンは……」
情報が整理しきれず、思考がゆっくりになる。だんだんと理解され、それが本当のことだとエメリアの顔から悟った瞬間、どこかで、大きな魔力が覚醒する気配がした。
爆発するようなそれは、ジョセフィンの家の方向だった。