5
三日後、ウェスティンは再び、婚約者の家を訪ねた。
立派な一枚板の分厚い玄関扉が開かれるが、こころなしか、執事の態度がよそよそしいような気もする。先日、追い出されるように帰った影響だろうか。
「お待たせいたしました、ウェスティン様」
現れたジョセフィンは、背後で冷ややかな顔をしている女中とは対照的に、いつも通りの笑顔だった。だが、無表情で別れたあれ以来であることを思えば、笑顔であること自体に違和感がある。
そう思えば、彼女はいつだって笑っていた。エメリアとここを訪ねた時も、その後も。
「どうなさったの?」
「どう、とは」
「お返事なら、父にとお願いしましたのに」
二人がそう会話をしながらようやくソファに腰を下ろしたというのに、玄関先があわただしくなったのを感じて、思わず顔を見合わせ立ちあがる。
珍しく慌て気味の執事に案内されてきたのは、息を切らせた騎士姿の男だった。
「ゲオルグ、どうした。……執事殿、申し訳ない、俺の部下だ」
「た、隊長、国王陛下より国民全体への伝達です! 魔獣が……辺境に魔獣が確認されました!」
「なんだと!」
一気に緊張が走る。まさか、とも思い、とうとうか、という気持ちもある。
前回の魔獣騒ぎより、まもなく百年が経とうとしている。正確ではないが、おおよそその程度の間隔でやつらが現れることは予想されていた。数年、数十年のずれはあるため、はっきりとはじき出せる予想ではないが、準備は強化されている。その一環が、歌姫の交代でもあった。
力を失いつつある今上柱から、長時間の遍照に耐える守護柱への杖の委譲まで、あと二カ月。それを待たずしての魔獣の報告に、上は今頃、大慌てだろう。もしかしたら、手順をいくつか飛ばして譲位の儀式があるかもしれない。
「隊長、我が隊に先発隊の命が下りました」
「えっ」
ゲオルグの一言に悲鳴のような声で答えたのは、ジョセフィンだった。いつになく淑女らしさを失った様子に、部下も驚いている。
「ど、どうしてですの? 警備隊が街からいなくなっては、王都の護りが薄くなりますわ。そもそも、警備隊は馬を持たないではないですか。騎兵隊はどうなさったのです?」
「それが、騎兵隊は先日のヴェーダ海岸の騒ぎで……」
彼女の剣幕に押されてしどろもどろで思わず応えるゲオルグの返答に、そうか、とウェスティンは肯いた。
間の悪いことに、最も機動力がある騎兵隊は、一週間ほど前に王都を離れている。魔獣のでる辺境の森は王都から東へ三日ほど、しかし、彼らは今、反対方向へと移動しているはずだ。そちらには海がある。一定の距離ごとに建ててある海守の塔のいくつかから、なにやら小舟が頻繁に出没しているとの報告があったからだ。
これは珍しことではない。東を難攻不落の剣山に護られたこの国は、ならば海側から攻められないものかと考える他国の偵察隊が、よく西のヴェーダ海に現れる。
だが、今回は数が多かった。奇襲をかける作戦ではないかとの報告があり、守りを固めるとともに撃退の命が騎兵隊に下ったのだ。
「分かった。ゲオルグはここまで馬か? では馬を残し、うちの馬車で戻れ」
最も早く城へ駆けつけられる手段をとったことが分かっている部下は、すぐに踵を返して出て行った。執事や女中も、主人に連絡をとるべく慌ただしく動き始める。
「ジョセフィン。そんな顔をするな」
「そうは申しましても、ウェスティン様、前線に出るなど……危険すぎます」
彼女は笑みでも無表情でもない、最早狼狽といってもいい様子だった。心底からウェスティンの身を気遣っているのが分かり、安心させるべくそっと肩に触れる。
「案ずるな。わが国には、白姫様がいる」
「ええ……しかし、今の守護柱様はかなりご高齢のはず。長い時間は持ちませんわ」
なるほど、魔力持ちの彼女には現状が良く分かっているのだろう。納得し、さらに言葉を重ねる。
「今となってはもう隠す意味もないから言うが、次代の白姫はすでに見つかっている。すぐにでも塔に入られるだろう」
「まあ……そうでしたの。お力は十分お目覚めですの?」
「ああ。彼女は君の魔力も読みとった。十分だという証拠だ」
「え?」
「エメリア嬢だ。彼女が次代の歌姫なのだ」
ジョセフィンは呆然としている。つい先日心安く出かけた相手が白姫だったという事実に、驚きを隠せないのだろう。そんな彼女の頬に手をかけ、注意をひいて目を合わせた。
「我が国は常に魔獣の脅威にさらされてきた。それはつまり、勝利の歴史でもある。魔獣に呑まれたことは一度もない。少なくとも、白姫様の存在があってからは一度も。
我々は今度も、やつらを駆逐して戻ってくる。いずれはまた現れよう。だが何度でも戦い、勝利する。そのために我々騎士は存在するのだ」
「ウェスティン様……」
「ぼんやりするな、ジョセフィン。俺が戻るまで、大人しく祈りをささげて待つのだ。君の祈りが俺を守る。
帰ってきたら式を挙げよう。予定通りに」
彼女は目を一杯に見開き、声が出ない様子だった。その髪をひと撫でし、ウェスティンは急ぎ、城へと向かった。
いまだ婚約者である、と宣言した彼が出て行ったあと、私は崩れ落ちるようにソファに身を預けた。
分かったのだ。全てがつながった。
あんなにもエメリアを見つめていた彼が、それでもなお婚約を解消しなかったのは、彼女が塔へ入る運命だからだ。守護柱は生涯、伴侶を持たない。杖を受け取った瞬間から、世俗を離れ、ほとんど誰にも会わずに毎日を祈りの儀式で過ごす。
だから。
もう会えないから。
私を選んだ。選ばざるを得なかった。
なぜ私だったのか?
きっと無意識に感じていたのだ。
この、新たなる神の意思を。
私は立ち上がり、そして、手袋を一気に外して投げ捨てた。
短く呪を唱えると、途端に、右手の陣から光が吹きあがる。
赤く、透き通ったそれ。
そこから声がした。
人ならざる者の声が――覚悟したのか、と問う。