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ウェスティンにとって、結婚とは契約である。だからこそ、まだ早いと両親を押しとどめていたのだ。二十五という年齢が遅いか早いかでいえば、決して早くはないのだが、三男坊として生まれようやく軍人として芽が出てきたばかり、身の安定ははかれていない。
妻を娶れば、子が生まれる。次世代を育てる覚悟は、まだなかった。
だが、ウェスティンはジョセフィンの魔力に魅せられてしまった。嫌々訪れた先で、あのような良い魔力に出会えるとは思ってもみなかった幸運だった。
彼女の魔力は、ぬるま湯のような心地よさがある。温かく、そして精神が異常に安定する。彼女には黙っていたが、微かに痺れるような快感さえ覚える時がある。
結婚を申し込むことにした、と父の許可をもらいに行くと、共にいた母は涙を流して喜んだ。やや年の離れた兄が二人いるのだが、彼らはとうに身を固め、長兄は跡目を継ぐ準備を着々と進めている。両親が田舎に引っ込んでのんびり過ごすのに、残る心配は三男だけだった、というわけだ。
ジョセフィンの両親も喜んだ。彼女は一人娘で、言葉は濁していたがどうやらもう兄弟は産まれぬらしい。跡取りは婿入りが条件だ。それはこのご時世にあっても、なかなか難しい条件だった。
ただでさえ、ジョセフィンは変わりものと評判だった。
いや、それは言葉が悪い、とウェスティンは公平さをもってそう思う。
彼女はなぜか、いつも手袋をしているのだ。
どんな時も外さないので、理由をめぐってあまり麗しくない噂がちらほら立つことがある。天使と謳われた母君の容姿を受け継いだその美しい顔で微笑めば、消えてしまう程度の噂だ。だから悪い評判というわけではないのだが、ただ真っすぐ受け止めるには気がかりで、結局、変わりものという表現に落ち着いたようだった。
実は、ウェスティンはその理由を知っている。
彼女の右手には――印が焼き付いているのだ。
彼女は隠しているが、いつかの夜会で垣間見てしまった。菓子のクリームがついたらしく、しかしゲストの登場が告げられた直後で、手洗いに立てるタイミングではなかったからか、やや影に下がり、人目を上手く避ける位置で手早く予備の手袋に交換したことがあったのだ。
赤い印。それは陣のように見えた。魔力持ちは少なくないが、その陣は呪を唱えた時だけ現れるものだ。また、陣の色は瞳の色に準ずると聞いたことがある。
常に浮き出ている陣は、まるで焼印のようだった。一瞬だけ見えたその色が、彼女の青い瞳と色を違えていることも、ウェスティンにとっては不可思議なことだった。
隠し事がある、という事実は、彼女との間にうっすらと壁を作った。何もかもを告げる必要はないのだと分かってはいるが、身体的な特徴は比較的重要なもののように思う。特に、結婚する男女の間では。
いつか聞こう、と思っているうちに、社交シーズンも三分の二を過ぎてしまった。
その頃だ。ウェスティンがエメリアを見かけたのは。
彼女もまた、魔力持ちだった。その気配は、驚くばかりの静謐さを持っていた。
魔力の気配には、その人の心根が現れやすい。ジョセフィンは温かく心地よい人柄で、まさに魔力の通りだった。
エメリアの気配は、白かった。いや、透明に近いかもしれない。清らかで、澄んでいる。
最初はその魔力に惹きつけられたが、よくよく見れば、彼女自身も非常に美しかった。おそらく、ウェスティンには、魔力の気配がそれぞれの魔力持ちの外見にも多少反映して見えているのではないかと思う。ただでさえ綺麗な娘だったが、透明にみえるほど澄んだ気配がそれを倍増させている。
ふらふらと引力に引かれるように近寄ると、さりげなく、ジョセフィンが先にエメリアに声をかけてくれた。確かに、婚約者を連れた自分がいきなり仲介もなしに話しかけて良い相手ではない。さり気なく盗み見た左手には、指輪がなかった。
「ごきげんよう。不躾でごめんなさい、エメリア様ですわね? 今日のドレス、とっても素敵で思わず声をかけてしまいました。どちらの刺繍でいらっしゃるの?」
「まあごきげんよう、ジョセフィン様。一度、ヨークのお茶会でお姿だけお見かけしましたわ。刺繍なら、多分あなたと同じです。カーリエンヌ商会ですの」
「私ったら見逃したのね。もったいないことをしたわ。……そうそう、ご紹介します、こちら」
「ウェスティン・ビリジアーニだ、美しいご婦人」
自己紹介をすると、彼女は驚いたように、ウェスティンとジョセフィンを交互に見た。
「ほほ……真顔ですけど、他意はないのですわ。ちょっと笑顔が苦手な軍人さんですの」
ジョセフィンが言えば、彼女はようやくくすりと笑った。花のような、という陳腐な表現では不足しているように思う。
「初めまして、ウェスティン様。ビリジアーニ侯爵の御子息でいらっしゃいますのね。近頃ご昇進なさったと噂を耳に挟みましたわ」
「ろくな噂ではあるまい」
「いいえ、ご婚約なさると、やっぱり男の方は責任感が出て変わられると評判ですわ」
そう言うと、彼女は目を細めて、両手を打ち合わせた。
「そうそう、まだお祝いを申し上げておりませんでした。ウェスティン様、ジョセフィン様、ご婚約おめでとうございます!」
「ありがとう」
ウェスティンはそう答えたが、ジョセフィンが後に続かなかったのでちらりとそちらを見た。彼女はなぜか、少し困ったように笑っている。が、すぐにいぶかしげに、
「どうなさったの?」
とエメリアに聞いた。エメリアは確かに、少し不安げになって辺りを見回している。
「ええ……近頃、なんだか視線を感じますの。実は一度、気味の悪いお手紙をいただいたことがあって……気が立っているのかしら、なんだか不安で」
「いやだわ、近頃は物騒ですもの、エメリア様のような可愛らしい方はご用心なさらないと。手紙と言うのは……いえ、立ち入ったことですわね。
あら、そう、でもよろしければ、ウェスティン様にご相談なさっては? 近衛隊の部隊長ですもの、街回りも警備も、得意中の得意よね?」
「得意、というのはなんだか違う気がするが……、まあ仕事ではある。相談事があれば気軽に来られよ」
ウェスティンは、ポケットから探しだした紙きれの裏に一筆したため、彼女に渡した。入口の衛兵に渡せば案内されよう、そう付け加えて。
彼女は手を煩わせることをしきりに詫びたが、結局は紙を受け取り、大事そうにハンドバッグに仕舞った。
二日後、彼女は来た。市民の相談はないことではなく、それ用のスペースもあるが、貴族のご婦人が来ることは少ない。それゆえ部屋は簡素で、エメリアには木の椅子に座ってもらうことになったが、文句はひとつもでなかった。
「ごめんなさい、お願いしたものかどうか迷ったのですが……実は今朝、二通目のお手紙が届きましたの。それで、怖くなってしまって。気付いたらここに向かっておりましたわ」
ウェスティンは彼女から手紙を受け取り、目で許可を取ってから中身を開いた。
一通目は、『歌姫を辞退しろ』と直線ばかりの文字で、二通目も同じ文字で『さもなくば』とあった。
「歌姫? エメリア嬢、そなた白姫であったか」
「はい……。社交シーズンが終わったら、今の白姫様より杖を受け継ぎ、聖塔へ登る予定です」
「そう、か」
歌姫とは、聖塔の守護柱のことだ。
この国にはたびたび、魔物が現れる。ほとんどが辺境の森にであるが、そのため、国境沿いにはこの国でも屈指の隊が配備されている。ただ、常設ではなかった。王都から大分遠いため、そこに兵を集中させれば、中央が薄くなる。だから、最低限の隊しか砦にはいないのだ。
それは逆に言えば、向かうにも時間がかかるということ。出現してからでは遅い、と分析されている。魔物の増殖は速い。どの文献もそれを裏付けている。
もうずっと昔からこの国は魔物と戦ってきた。その経験が、二つの事情を汲んで編みだしたのが、歌姫という存在だった。
各世代に一人、清めの光を天より呼ぶことが出来る女が現れる。この国の事情が神に通じて彼女たちを遣わされたのか、彼女たちがいたからこの制度が編みだされたのか。始まりは定かではない。
彼女たちは歌で光を呼ぶ。その光は遍く森に降り注ぎ、魔物の進行を食い止めるのだ。敵が死ぬことはないし減ることもない、だが、光がある間は魔物が魔力を失う。そうなればただの獣である。砦の隊が、応援部隊の到着まで持ちこたえることが可能になるのだった。
歌姫は、別名を白姫とも言う。守護柱になると決まった日から、彼女たちは一切の世情を捨て、聖塔に入る。前代の姫から、清めの光を呼ぶ声を増幅する遍照の杖を受け継ぎ、以後、そこから出ることはない。一生を塔に捧げるのだ。
現在の白姫は、ウェスティンが生まれるよりずっと前に成柱したと聞く。歌の魔力は年とともに弱くなるため、そろそろ代替わりの時期だった。次代の姫が、エメリアということだ。
「そう、か」
では間もなく、彼女は塔に入る。そうして一生、会うことはなくなる。
ウェスティンは胸に空いた空虚な感覚を隠し、彼女に向き合った。
「歌姫の警備は、高閣院の管轄だ。これについて相談は?」
「……ええ、両親を通して話はしているのですが」
言い淀む彼女の言葉を待つ。やがて、意を決したように、
「私、実は庶民の生まれですの。五歳の頃に歌の資質を見出され、いずれ塔に入るのならば必要とのことで、エンバーグ家に養子に入りました。
歌以外は取り柄もありませんので、両親は私とほとんど交流がありませんの。ですから、実際のところ、院にどのように話があがっているのか分からないというのが実情です。ウェスティン様にお願いしたいのは、解決と言うよりもむしろ……その……」
「なるほど、高閣院に繋ぎをとってほしい、ということか」
「ええ、なんだかお使いをお願いするようで、とっても失礼だというのは分かっておりますの。でも、私、他に頼る方もなくて」
ウェスティンは立ち上がった。
「いいや、よく来てくれた。次代の姫がなんらかの害に遭ったとなれば、その損失は計り知れない。すぐに手を打とう」
「まあ、ありがとうございます!」
彼女もまた立ちあがり、いつぞやのように両手を打ち合わせて喜んだ。そうしてから、思い出したように手荷物から桃色の箱を取り出した。
「これ、心ばかりのお礼ですわ」
「いや、そういうあれは必要ないことになっている」
「うふふ、これ、いま流行りの菓子店のパイですの。お礼と言うよりは、どちらかと言えば口止め料ですわ。私が次の歌姫だということ、誰にも漏らさないでくださいませね」
「ああ、もちろん」
これ以上の辞退は失礼だろうと、差し出された箱を受け取る。微かに手が触れ、なんとか動揺を押し隠した。ほっそりした指の感覚は、その後しばらく、ウェスティンの手に残っていた。