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 朝起きてまっさきにすることは、身体の中の魔力を少し、放出することだ。起きている間は何かと魔術を使うため、そうそう溜まり過ぎることはないのだが、寝ている間は別だ。意識のないうちは魔術は使われない。だから一晩で結構な量が蓄積する。

 目盛りがついている訳ではないから、これは私のイメージだ。身体の中に桶があり、すこの少しずつ何かが増えて行くような感覚。


「桶、か……?」


 初めてこの話をした時、ウェスティンは戸惑い気味で、それから少し笑った。どうやら、若い淑女が桶を持ち出したのが珍しかったらしい。クリスタルの花瓶とか、優美な壺なんかではなく、桶。いいじゃない、桶。丈夫で、使いやすい。


 窓を開けるとか、洗顔用の水を温めるとか、そんなことに少し魔力を使うと、身体が楽になる。何事も、過ぎれば悪と言うことだ。


 今日はウェスティンの訪問がある日だから、いつもは朝食後すぐに刺繍を刺すところ、諦めて準備に時間を使う。諦めて、とは言ったが、私はこの時間が嫌いではない。

 丹念に顔を清め、身体を拭いて、潤いのある化粧水をたたく。水分が飛んだ頃、魔術で自分の表面を全てひんやりと冷やし、毛穴を引き締める。

 化粧は薄めに。下地をしっかりと塗りこみ、その代わりおしろいは少しだけはたき、頬の健康的な赤味を目立たせた。唇は自分の本来の色に近くし、目元はいじらない。


「マデリーン! お願い!」


 髪を整えるが苦手なので、侍女を呼んでやってもらう。貴族で良かったと思える瞬間だ。使用人がいなければ、私はみっともない頭でずっと過ごさねばならなかったろう。

 そもそも貴族でなければ、ウェスティンに出会うこともなかったけれど――。


 恵まれている、と思う。半分だけ結いあげて、独身の若い女子がする流行のスタイルに仕上がった自分を鏡でみれば、どこに出しても恥ずかしくない可愛らしい淑女の出来上がりだ。顔立ちは母に似た。デビューの日に、天使が降りてきた、と評判だったと言う母に似て、本当に良かった。父は良い人だ。だがいかんせん、顔が怖すぎる。

 恵まれているのだ。本当に。



 だから、ウェスティンが私を好きではないことくらい、許さなければならない。



 顔周りを整え終わったら、クローゼットに向かって小一時間ばかり過ごす。あれでもない、これでもない、と中身をひっくり返した後、今日は、最近流行り出したすとんとした形のドレスにした。華美ではなく、レースも刺繍もないが、胸下からのドレープが控えめながら美しい。これに決めた。


 そして私は待つ。彼の訪れを。


 心が浮き立ち、何を話そうか、何を聞けるだろうかと、想像が羽ばたく。あ、紅茶を選ぶのを忘れていた。

 浮かんで飛んでいきそうな心を落ち着けるハーブティを準備する頃、彼はやってくる。来訪を知らせる鐘が鳴り、やがて、執事が私を呼びに来るのだ。






「いらっしゃいませ、ウェスティン様」


 玄関ホールで出迎えると、彼は微かに口元をあげた。無表情が板に着いた方なので、それでも最大級の頬笑みだ。私の頬に形ばかりのキスを下さる時、ほのかに爽やかな香りが届く。いつも同じ香水をお使いなので、この匂いを感じると反射的に喜びが沸き立つ。


「疲れ気味だな、ジョセフィン」

「まあ、分かりますの?」

「気配がそう言っている」

「朝から少し、クローゼットの整理をいたしましたの」


 本当のようで本当ではない嘘をつき、私は彼を応接室に案内する。私たちは婚約しているので、父も母も出かけている間に会っても問題はない。


 それぞれの椅子に落ち着き、侍女がお茶を淹れる間、私は彼を存分に眺める。決して美しいという造作ではないが、切れ長の目とすっきり通った鼻梁が、男らしい唇を際立たせている。いくら見ても飽きない。なにしろ、黒い目と黒い髪だし。

 この国で、黒を持つ人間はとても少ない。かつて訪れたと言う異界人の末裔だと言われているが、どうでもいいことだ。そんなどうでもいい噂を信じて、黒を忌み嫌う集団もいるというが、全くばかばかしい。

 落ちかかる前髪をかきあげる仕草が、無造作なりに形になってしまう人。そんな人がどんな色をしているかなど、問題ではないのだ。


「ああ、そうだ、菓子を持ってきた」

「まあ、嬉しい!」

「なんとかという評判の店だ」

「全然伝わりませんわ。……あら、クラン・クランのパイではありませんか! 流行り始めですのに、よくご存じ!」

「エメリアの勧めだ」



 しまった。



 いらぬ痛みを貰ってしまった。こらえ切れただろうか。私は唇を意図して引き上げる。


「あの可愛らしい方からの情報でしたのね。納得ですわ」

「俺が野暮と言いたいようだな」

「あら……失言」


 肩をきゅっとすぼめて見せてから、侍女にパイの箱を渡す。ナイフで切り分けられるのを見ながら、私が紅茶を注いだ。彼は機嫌が良い。クランのイメージカラーである桃色の箱を眺めて何かを思い出している。そして私はそれを見ている。

 彼は知らない。その間、私がひどく彼を罵っていること。


 罵倒の言葉が私の中を吹き荒れる。エメリア、という名が胸の中で踏みつけにされる様を想像しながら、大声で罵る。


 彼は、私を好きだと言った。

 ――いや、それは欺瞞だ。分かっている。彼が好きだと言ったのは、私の魔術の気配だ。




 去年、十代最後である翌年に控え、私は婚約者を決めねばらなない時を迎えていた。そうして、両親が吟味し、探しだしたのが彼だ。

婚約者として引き合わされた時、彼は無表情に無表情を重ね、もはや怒ってさえいるような顔をしていた。どうやら、ご両親のごり押しだったらしい。結婚などまだ早い、と逃げる息子を、強引に引きずって来たのが丸わかりだった。

 私の父と母は、その様子を見て、怒ったものか悲しんだものか、迷っていたものだ。一人娘である私は婿をとらねばならないし、ウェスティンはその相手として理想的だ。家の格も年齢も釣りあう範囲で、三男で、見目も良い。逃す手はないが、だからといって、可愛い我が子があからさまに拒否されているのを黙って見ているほど、唯一の相手ではなかった。

 しかし、彼は私を見て表情を変えた。


「……良い魔力をお持ちだ」


 そう言ったのだ。

 両親も私も、驚いた。確かに私は魔力を人より多めに持っていたが、それをひけらかすようなことはなかったし、家で便利に使うことはあっても、人前で披露することは控えていた。だから、魔力持ちということは、親族以外知らないはずだったのだ。

 驚きとともに、僅かな警戒をした。

 そんな私たちの様子を見て取ったのか、彼のご両親は慌てて、この子は魔力の気配を感じることができるのだ、と打ち明けてくれた。


 確かに、そのような人がいるとは聞いたことがあった。あまり役には立たない力なのと、数が少ないため放っておかれているが、噂は回っている。彼の一族は数代前に魔力持ちがいたらしく、かつ、金髪碧眼の家系に現れた黒い彼は、それらを背負って産まれた先祖返りかのだろう。どこかで異界人の血が入ったのだ。

 私の魔力は、彼にとって非常に心地がいいらしい。側にいれば心落ち着き、僅かな温かさと、快さを感じる、と。

 そうして私たちの婚約は結ばれた。



 私はといえば、彼が現れた瞬間から虜だったと言っていい。正装の軍服で現れたウェスティンは、その場の中で抜きんでた身長を持ち、軍人らしい体つきなのに立ち姿は美しい貴族のそれだった。父よりも一段低い声は、まるで私の中の桶を打ちならすように響いた。


 恋をしたことはなかったから、これがそうか、と気付くまでに随分かかったように思う。手遅れ、とも言う。恋心を認識するまでの間に、それは大きく育ってしまった。彼なしでは生きられない。不意の頬笑みも、私の名を呼ぶ声も、全てが必要だ。





 三か月ほど前の今年の社交シーズンの初頭、すでに私たちの婚約は発表されている。家と家との結びつきであることは明白だが、むつまじい様子を見せて評判をさらうことには成功した。私の人生は、幸福の極みだった。


 それなのに彼は言った。

 美しい娘がいる、と。


 ひと月ほど前の夜会だった。踊り疲れて二人で壁際に退き、飲み物を飲みながら、見るともなしにホールを見ていた時だ。

 彼の視線をたどると、確かに、可愛らしい女性がいた。女性と言うよりは、女の子と言ったほうが良いような、十六、七の娘だ。若草色のふんわりとしたチュールドレスを着て、初々しさが溢れんばかりにまといついていた。


「珍しいですわね、ウェスティン様が女性を評するなんて」


 思わず言った自分のその言葉が、回りまわって心臓を打った。嫌な予感、と人はそれを呼ぶだろう。どくどくとなる鼓動が耳を遠くする。指先が冷たい。全ての感覚を肯定するように、彼は言った。


「そうだな。あのような美しい娘は見たことがない」


 婚約者に向かって酷いことをおっしゃるのね、と、拗ねて笑うべきところだった。そうでなければならなかった。けれど私は言えなかった。喉が詰まって、かろうじて、細く声が出るばかり。


「素敵な表現ね。一目ぼれなさったのかしら?」


 私は彼を見ていた。彼は彼女から目をそらさなかった。


「ああ」


 彼がそう答えた瞬間に、私は全ての恋心を封印した。





 それ以来、私の中に悪い私が生まれた。婚約は破棄されない。そんな段階ではない。彼は私と結婚する。その心に彼女を抱えたまま。


「美味しい! 何かしら、普通と違います。どうしてかしら?」

「パイなど滅多に食わんが、確かに美味いな」

「これは人気が出るのも肯けますわ。他に、どんなものがありまして?」

「……色々あったぞ」

「まあ……頼りになりませんねぇ」


 悪い私は彼を罵る。嘘つき、嘘つき、裏切り者。私の夫になるというのに。私を幸せにすると言ったのに。家の安泰が幸せと言うなら、そんなものはいらない。私はあなたが欲しい。あなたの全てが欲しい。心ごと、その全て。


「次は見てこよう」

「フルーツを使ったものが評判のようですわよ」


 口にはしない。言えば彼はすぐさま結婚をとりやめるだろう。

 彼は誠実な人だ。与えられるものに必ず何かを返そうとする。我が家の援助と引き換えにこの家に婿入りするように。私の愛は重すぎる。何も返せないことを彼は憂うだろう。そうして全てをなかったことにするだろう。

 だから私は言わない。罵りも愛も、口に出さない。

 言葉は出口を求めて私の内を傷つける。私の外側はそれらを全て隠し通す。


「そういえば、最近面白い本を読みましたの」


 彼と差し向かいで、彼女の好きなパイを食べる。私は今、午後のひと時、婚約者のご機嫌伺いに喜ぶ年若い令嬢の役だ。

 好きとも嫌いとも言わない誠実さで、私は頬笑み、彼と紅茶を飲む。








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― 新着の感想 ―
しっとりした場面なのに、 「私の中の桶を打ちならすように響いた」 を読んだ時「かぽーん」というマンガの お風呂場の効果音が浮かんでしまい、 雰囲気台無しにしてしまいました… ちなみに桶はケロリンでした
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