翔馬との出会い
たぶん、何を言ってもこの場から逃げ出すのは無理であろうことをと、私は何となく察知していた。
黒猫ノイルはおとなしそうな性格のようだが、なにかしらの不思議な威圧感がある。
(せめて恋人の翔馬に連絡だけは取らせてもらわないと。)
とっさに、翔馬に浮気を疑われる自分を想像した。
翔馬との出会いは2年前の春。
あの大好きなテルメの露天風呂からの空を仰いだ帰り道、通りががりのスーパーに立ち寄った私に、一人の男性があわただしく声をかけて来た。
それが翔馬だった。ジョギング姿で汗だくの男がなにか騒いでいる。髪は少し天然パーマで長い。どう見ても綺麗とは言えない。
(この男が私に何の用事?)
けげんそうに曇る自分の顔を想像しながら、私は男の質問をやっと理解した。
「すみません❗この辺りにお財布が落ちてませんでしたか?黒い二つ折の財布です❗」
私は魚売り場の前にいてマグロの刺身の値段を観察していたところだった。刺身はあまり得意ではないが、気分を変えてたまには食べてみるのも良いのかと考えていた。
「お財布‥ですか?
チョッと見当たりませんでしたけど。サービスカウンターに尋ねてみてはいかがですか」
「そうですか‥どうしよう。今日もらった給料が全部入っているんだ。さっきここで刺身をカゴの中に入れて‥うおっ、おおぉぉぉ~あった❗あったよ~君!あったよ❗」
今にも泣き出しそうなその男性の指差した先には、確かに分厚い二つ折の黒い財布が、刺身をパックの間に挟まって沈みこんでいた。
「わぁ~助かった❗
君、ありがとう。迷惑かけちゃつて‥」
涙目の憂い顔は、先程の汚らしい印象を少し薄くした。
立ち去ろうとして、その男は又振り向き、おもむろに近寄ってきた。
「君、時間ありますか?
これも何かのご縁だから、もし時間あれば隣の回転寿司をご馳走させて下さい。」
本当に嬉しそうに財布をギュッと握りしめている姿が、純粋に可愛いいと感じられた。
(あのとき、何故見ず知らずの男の誘いにすぐにのったのか)
今、あのおかしな出会いを思い出す。
「申し遅れました。
僕は木下翔馬と言います。この近くが実家です。今年、大学卒業したばかりで初給料だったんだ。あっ、仕事は普通の営業マン‥保険の営業してます。宜しくお願いします。」
(どうりで愛想だけは良い筈だ。)
とっさに(デビル祥子)の脳が私に悪魔の言葉を浴びせる。
(保険の新卒営業マン‥もしかしたら、ソコソコのエリートなのかも知れないよ。)
「私もこの近所に住んでます。
山下祥子と言います。職業は自営業です。どうぞ宜しくお願いします。」
頭をペコリと下げて見せた。どう考えても自分の方が歳上だと感知した私は、出来る限りのブリッ子な振る舞いを見せつけてアピールした。まじまじと観察すると顔の作りは悪くはない。
そして、スーパーの隣の回転寿司屋でお互い遠慮がちに、寿司を注文した。土曜日で休みなのか‥翔馬は、生ビール大ジョッキも注文していた。
「祥子さんは?」
「私は車なので‥、でも生ビールは大好きですよ。
今度一緒に飲みましょう❗」
「じゃあ、お財布のお礼に次回は居酒屋へ行こう。」
そんな出会いの二人が仲良くなるのに、さほど時間はかからなかった。私は、1年ほど付き合った恋人と、先月別れたばかりだった。やけにもなっていた。お互いのタイミングが合わず、たわいもないケンカ別れをしたが未だにスッキリしない。
何かを塗り替えたかった。
この翔馬という男がもう少し不細工でも‥一緒に回転寿司を食べただろう。そんな心境だったからだ。
翔馬とは、その出会いから一週間後に付き合い始めた。
翔馬はあんがい真面目な若者だった。
私にはもったいないくらい、こまめに連絡をくれ、(占い師)という特殊な仕事も理解を示していたわってくれた。
本当は恋愛に疲れていた。
男は懲り懲りと思っていた。でも‥相手が翔馬だから、こうしてあれから2年、二人の関係は穏和に続いている。
結婚の約束もしている。
欲を言えばきりがない。この関係を壊すのも労力を要する。好きだ嫌いだのの感情もない空気のような存在になりつつはあるが、
(きっと、このまま私は翔馬と結婚する)
いつもそう思っている。
そんな翔馬だけには連絡をしないと❗
なにかしらの危機を感じた。
「ノイル~お願いがあるの。
何でも言うことを聞くから、そのまえに電話をかけさせてほしいんです❗そうしないと大騒ぎになるから。」
黒猫ノイルは、暫く首を縦にはふらずに考えこんでいたが‥。
「ノイル~お願い!」
「仕方ないですね。
では、その携帯を繋げましょうか。」
「でも、ここは圏外なのよ~。」
「大丈夫!
ここの空間だけ切り取って、隣街の一角をはめてみますから。
祥子さんも手伝って‥」
それからノイルの手によってナニが行われたのか、よく覚えていない。
しかし数分後、確かに電話は繋がった。
「翔馬~ごめんね。
今日、テルメに行ったら久々に高校の時の同級生に会っちゃって盛り上がって、これから飲み会になっちゃったのよ。
だから今日はごめん~私、いないから❗」
翔馬は私の話しを何故か快く受け入れてくれて、機嫌良さそうに電話プチっと切った。
取り敢えずは良かった‥。
「祥子さん、急ぎますよ。」
「ノイル~わかったわ。ありがとう❗」
ノイルには人並みならない(人ではなくて猫だが)リーダーシップがあった。私は自然と安堵感に包まれて、黒猫ノイルとの珍道中を決意していた。
もう辺りはすっかり暗がりになり始め、どんよりとした灰色の妖気が漂っていた。