天秤は揺れる
バッドエンドなので要注意! タグを一回見て、それでもという方は読んでください
古の昔。
この世の叡知の全てを極め、この世の理の全てを網羅し、この世で最も財を成し、この世で最も覇を唱えた冒険王がいた。
その冒険王は、その生涯にわたり実に三百を超える迷宮と二百の魔境、百の戦場、十の異界を攻略し、そのすべてで得た物を、この世で最も高い樹である世界樹の中に隠した。
外観は空をも貫くと例えられる高さを誇り、外皮は剣を突き立てても傷一つつくことない。内部は迷宮にも比較されるほどの複雑な通路ができており、その中を「木人」という冒険王に創られた種族が住み、守っている。
そして今日も、そこには冒険王の財宝を求めた冒険者が世界樹の内部の頂点の間へとやってきていた。
「心臓を捧げよ」
頂点の間。木人達には「試練の間」と呼ばれている、樹の内部とは思えないちょっとした広間。
大勢の木人達と一人の女の冒険者が向かい合うなか、木人達の中でも見るからに有数の地位を築いていると思われるしわくちゃの老人が、冒険者に向けて声を掛けた。
「心臓を捧げよ」というのは何らかの動作の比喩でもなければ、行動の意図を隠す暗号でもない。
単純に、己の心臓を素手で抉りだせと言っているのだ。
冒険者である女は普人種であり、他の数多の種族と同じく心臓を抉り出されればどんなに手を尽くしても死んでしまう。
つまりこの木人の発言は、事実上の殺害宣言に等しいのだが、木人はそのことをなんら気に掛ける様子も無ければ憐れむ様子もなく、ただただそういうことだからと規則的な業務を行うような無機質さのみを女に向けている。
冒険者と木人たちの間には、冒険者である大柄な女の身の丈の二倍は大きな天秤が鎮座しており、その皿の片方には薄黒く汚れきったぼろ布のような物体が乗っかっている。
女は病気である家族の為、冒険王の財宝の中にある「すべての病と傷を癒す妙薬」を手に入れるため、ここまで登ってきた。そして遭遇したのが、世界樹の中に住む財宝の守り人たる木人達。
彼らの言によれば、冒険王の財宝はその後継者にしか渡せない。
そして後継者の資格とは『冒険王の心臓』と同じ重さの心臓をしていることである。
女冒険者は、自分の心臓を抉り出して皿へと載せなくてはいけなかった。
冒険者は、その言葉に躊躇する。
自らの命を惜しんで―――――ではない。
眼前に立ちふさがる木人達を皆殺しにするのと今ここで心臓の重さを試すのと、どちらの方が生存確率が高いのかを考えて。
もし試練に成功すれば木人達は心臓を戻すというが、果たしてそれが信用できるのかを。
冒険者の心の内に、眼前の傲慢な木人を殺したいという思いが無かったとは言えない。
だが最終的に、冒険者は己の心臓を試すことを選んだ。
例えこの世界樹の迷宮を踏破した自分であっても、眼前の木人達は殺せないほどに強いと感じたが故に。
己の心臓を試すことこそが、最も勝率が高いと確信したが故に。
「―――っ!!」
指の骨と胸骨がぶつかり合うような音が辺りに響く。
ずぶずぶと胸の中に埋まっていく腕。
容赦なく心臓へと一突きした自分の腕を冒険者は顔を顰めて動かす。
苦痛に息が荒げて苦鳴が漏れる。
そして音がするほどに一気に腕を引き出して、その勢いのままに心臓を天秤へと載せた。
赤く脈動する心臓。未だ血を吹き出し、命の色で大理石をきりぬいたかのような美しい天秤を染め上げていく。
それはさながら、天秤という無機物へと命を吹き込んでいくかのように。白に赤の色を染めていく。
しかし無情にも、天秤はあっけなく傾いた。冒険者の心臓の方へと。
これ以上ないくらい明確に。
「また、続かなかったか」
審判を司る木人たちは今回も試練が失敗したことに落胆の色を隠さない。その目には冒険者が死にかけていることなど欠片も映っておらず、気にするそぶりすら見せない。いつも通りの日常、いつも通りの失望。木人たちの行動から読み取れるのは、ただそれだけである。
そして彼らは試練の間からぞろぞろと出ていった。恋人を救おうと世界樹を登ってきた憐れな冒険者は、俯せに倒れ痙攣している。
膝を折り曲げ蜥蜴か何かのように地面に張り付いているような姿勢で、右腕は何かを掴もうとしたのか体の上の方へと手を伸ばされた状態で、冒険者は何事か怨嗟の籠った声で呻いている。
やがてその声も続かなくなり、伸ばされていた手も力無く地面に落ちる。
「ふむ」
それを一部始終見守っていた、一人だけ試練の間に残った木人。彼はこの試練を執り行う木人たちの中でも最も下位の地位の木人だった。
主にその役割は、失敗した挑戦者の掃除。今回もまた、冒険者の死体を長い時間をかけて世界樹の麓へと埋めてこないといけない。
だが木人は、いつもならば仕事を始めるためにすぐにでも死んだ挑戦者へと近づくというのに、今日に限ってはその場に立ち止まったまま動こうともしない。
そして何を思ったのか自分の胸に手を突っ込んだ。
ぐちゃり、ぐちゃり、と。
生々しい水音が辺りに響き、時折、何かが千切れるような酷い音がする。
そして木人が腕を胸から取り出すと、そこには琥珀色をした鼓動する心臓があった。
木人が心臓を取り出したのは、目の前の冒険者の言葉に触発されたからだ。
どうせ、罪深いお前らの心臓も使えないのだろうと、無念そうに最期に吐き捨てた言葉に。
怨念と涙の混じる悲壮な捨て台詞に。
木人は喀血する。その血の色は、春の深緑を思わせる深い緑。心臓を取り出す時に気管を傷つけたことで木人は呼吸すらもままならなくなってきていた。
しかしそのことにさしたる動揺も見せず、木人は天秤の片側へと歩を進め、己の心臓を天秤に載せた。
そして自分の心臓が釣り合うように動き続けるのを見て、彼は深く満足げな笑みを浮かべる。
どうだ、と。
我々の心臓が使えないわけはないのだと。
この場所を守る一族として、自分たちこそが最適なのだと。
やがて木人も倒れる。彼もまた、数多存在する脆弱な生き物であったから、心臓を抜きだせば死んでしまうのだ。
しかし木人の心臓は、釣り合ったのだ。
だから彼は、後で死者をも生き返らせる秘薬を仲間が使ってくれると信じた。
満足げな笑みを浮かべて倒れ伏し、動かなくなった木人の傍で天秤は揺れ続ける。
やがて天秤は、傾いて止まった。