1-1.ピエロ斬りの草里楓
「ソラミミ」
草里 楓の声がわたしを呼んだ。
「……ん」
「ソラミミ」
もう一度。呼ばれたとわかってからわたしはここにいたのだと気づいて、
「……えっ」
目を開ける。ここは学園の……教室、か。
「また何か聴こえていたの?」
わたしは、空丘耳穂で、ソラミミと呼ばれてて、ソラミミが聴こえたことなんて一度も無い。けど、草里はなぜかいつも「また」と言う。
「聴こえてはないけど……」
「いっちゃってはいたのでしょ」
「そういう言い方は、やめてよ」
ソラミミがまたいっちゃってたのだって。くくく。などと笑い合う、周りの友達の声。教室の風景がぼんやりと戻ってくる。
「どれ見せてみ」
草里がわたしのぎゅっと握ったままの手のひらをこじ開ける。
「勝手に開けないでよ。ひとの手のひらを。もしかしたら何か、あっ、ちょっとぉ」
「お、固いな。ほら力ぬいて」
「そんな無理矢理」
「これはほんとに、もしかすると」
苦労してこじ開けてみれば、わたしの右手のひらは、雫に濡れている。少しだけきらきらして見えるそれ以外には、何もない。だめだった。持ってくる間に、また溶けてしまったんだ。
「あーあ。これじゃなぁ」
じっと真剣な眼差しだった草里がため息つくと、寄ってきていた何人かの女子らもやっぱり。と言ってめいめいの席に戻っていく。すると、彼女らに隠れて見えなかったが、背の低い担任の赤居が呆れ顔で腕組みしている。
「あ、先生。今、授業中だったのですか」
「空丘さん。あなたの昼寝は責めないわ。そういう決まりみたいなものですから。減点にもしないし。だけど……あなた才能は、さっぱりだめそうね。期待されてたのにね」
わたしは、十六。この学園に来る前、十一のとき、草里のいうわたしが《いっちゃう場所》から、宝石みたいなものを持ち帰ったことがある。いっちゃう場所というのは、その人固有の夢やあるいは特異な妄想の発達した空間と解釈されるが、明確に定義されるようなものではない。
そのときも、どうやって行けたのか自分ではまったくわからない。一人っ子で、夢想癖というほどでもなくぼうっとしていることはあったけれど。深い深いところにいたのは覚えている。その淵に光るきれいなものを見つけて、思わず手にとった。見上げると、見たことのない深い藍色の空が広がっていた。その高い高いところに、戻らなきゃいけないことがわかった。必死で、急いで、もがくようにして戻って気づくと、手をしっかり握り締めてて……自分で自分の手を開けることができず、泣いていた。医者が来て、何本もの奇怪な器具を使い分け、瑕つけないようわたしの手のひらをこじ開けて、そこから宝石みたいなものを取り出した。宝石みたいなものは、何日かしたあと、アイスのように溶けてしまったらしい。けど、わたしはそれで才能を認められて、学園に来た。
だから教師はわたしの昼寝をとがめることはない。いつ、また宝石を持ち帰ってこれるかもしれないので。
けど、あれからも何度か、掴みかけたことはあるけれど、掴みかねて、そのまま今まで何も掴めていないまま。
チャイムが鳴る。
こうして今日が終わり明日が終わり、このままわたしにはもう何も掴むことはできないのかもしれない……。
ここ、雲の間に学園には、様々な特殊な力を持った子が通っている。けれど、わたしと同じようなことをする子は、あまりいない。同じ《手わざ系》の子でも、もう少し具体的に、水や砂のなかからきれいな石を見つけ出したり、きちんとした材料があってそこから金や銀を作り出す子はいるけど。
「そういう力って、大人になるほどに弱まる場合が多いっていうしな」
「……いいことなしね」
草里と、千切れ雲の舞う下り坂を下り、徒歩で帰路に着く。この学園にいるのは女子ばかりで、女子寮もある。あるけど、わたしや草里のように寮に入っていない子もいる。
草里の背中には、その小さな背丈には不釣合いの長い鞘がかけられている。《ピエロ斬り》だ。《戦系》。幻だとかなにかふわふわとした得体の知れないもの、夢から追ってくるものとかそういう形の定まらないものを斬る子たち。この子たちの使う特殊な剣を一括してピエロ斬りと呼んでいる。学園には、わたしのような手わざ系に比べると戦系の子のが断然多い。多いけど、草里はそういうなかでも腕は抜群と言われていた。
「もし、力がなくなったらわたしはどうすればいい?」
「やっぱりあれじゃない、山の方まで降りて、パンとか林檎とかまあ形のある物を作る仕事か」
「いやだよ。そういうふつうは」
「そーう? わたしのオカアさんなんか、葡萄作りで楽しくやってたよ。じゃあそれか、わたしらが扱うピエロ斬りを作るのとかは? ソラミミが採ってきたみたいな、ああいう特別な石とかを原材料にしないと作れないものらしいよ。これは」
草里は背中の鞘をコンコン、と叩く。
「うー。でもそういう作るのは、めんどうそうなんでいや」
正門から伸びる坂道が終わって、でこぼこの草原を歩く。ここらへんは雲が大きくて、歩くわたしたちのすぐ近くを流れてくる。学園のあるこの地方は、地上と空との《あわいの地区》と呼ばれるように、地上を遠く離れた空の近くにあるところなのだ。
ときどき其処ここ転がってくる雲のなかに身体ごと入る。一瞬で抜けてしまうけど、どことなくわたしのいく場所にニオイや感触が似ている。
「深くは、いけているの?」
飛んでくる雲を避けながら、草里が聞いてくる。雲のなかの感触が嫌いなのだそうだ。
「ん……うん。前よりも、深くはいけるようになっている。だけど、掴む感覚が前より、わからなくなってきている」
「ふーん。とにかくさっきはけっこうやばそうだったから、そろそろ限界かなって思って呼んだんだけど。余計だった?」
出口がないのかと思うくらい、暗いもやもやしたとこにふと迷い込むこともある。
「やあ……いいのよ。学園の昼寝で宝石なんかが採れるとは思ってないし。まあ、何かちょっとした手がかりでも得られればいいんだけどね。今日のは実際、惜しかったかも」
「しかしあまり昼寝ばかりしているのも、なあ。試験は受からないとソラミミだって進級はできないよ。その上、才能がこれと来てるんだから」
「うっ。うるさい! いくときはあくまで、自分でいくわけじゃないんだよ」
「ふぅん。自然といくの」
「引っ張られるように。そうなるとわたしの方でも意識して、身構えないといけない。そこからは、ふぅゎっと、落ちていく」
「ふぅゎっと……か」
草里が、わたしの髪をわしっとする。
「可愛いね。ソラミミは!」
「な、何するの。何が可愛い? わけがわからないよ」
「や、ふぅゎっ、てのが」
前方から、身体の倍くらいの雲のかたまりがゆっくり流れてきた。草里が背中のピエロ斬りを抜いてびゅっとそれを断ち切る。雲が散らばって草原の彼方に流れていく。
「ほお。いいお手並拝見させていただきました。はぁ。わたしもピエロ斬りでやってけないかなぁ」
わたしら手わざ系でも、戦系の子らと一緒に運動の授業はする。最近はピエロ斬りなんかやってて、楽しい。
「あはは。あんなヘタクソな斬り方でなれるもんか。学園の授業でやるピエロ斬りなんて、気晴らし、気休め、だよ」
「ヘタクソ……そうかな」
「や、そりゃヘタクソって言っても、普通なら斬れないものを斬るんだから、斬れるだけまああんたはその手の才能自体はあるってことだけど。特殊なものが見えたり、触れたりするっていう。けど、あんたちょっととろいし」
「ええーっ。そこかぁ」
「ピエロ斬りだってさ、プロでやっていけるのはわずかだよ。あんたは、最低自分の身を守れる程度の腕があればいいじゃない。あとはわたしら斬り手に任せればいい」
戦系の子らが将来就く仕事は色々あるけれど、学園でも一年の後期になるこの時期には幾つかの専科に分かれている。一般的なのはとにかく正体不明のもの全般を斬るピエロ斬り。形の定まらない雲とか煙とか、高度な場合には透明な気体とかを対象にするのが幻斬り。わたしの仕事に関係の深いのだと、夢追い斬りというのがある。文字通り、夢や妄想のなかから姿を現すものを斬る。
わたしのように深く、長く潜っていると、夢のなかから何かにつけてこられることもあるのだ。わたしは、十一にあの宝石のことがあって以来、空の領主というのにしばらく付け狙われてきた。一度、実際にその遣いがわたしの家に来たことがあった。遣いはわたしに風船を差し伸べてきて、わたしを空の領主のとこまで飛ばそうとしたのだ。何も知らないわたしが手を伸ばしたとき、御婆ちゃんが来て身代わりになった。すぐ、御婆ちゃんは空で処刑になった、と手紙が来た。実際には、奥の部屋で御婆ちゃんが亡くなっているのを、帰ってきたオトウさんオカアさんが見つけた。わたしは夢の入り口で、風船を持った御婆ちゃんが空を上っていくのを何もできずに見ていた。オトウさんは、御婆ちゃんは天寿だっただけだとわたしに言い聞かせた。それからも何度か遣いに会った。遣いは頭が悪く、わたしは付いていくふりをして途中で遣いから石をくすねた。石は、ほとんど色のないつまらないもので、持ち帰る前に消えてしまうようなものばかりだった。あのときの空は今、どの辺にあるのだろう。今はまた、わたしの行く空の景色は違っている。今は…………
「あ」
わたしは思わず口を押さえた。
「何」
「また、いきそうになってた」
「歩きながら。殊勝ね」
「わたしの家、もうすぎちゃってる」
「あれ、気づいてなかったの。峠の菓子屋に寄っていくのかと思った」
「草里は、峠の向こうだからいいけど……食べてから家帰るまでにまたおなか減っちゃうのよ。じゃあねまた明日学園でね!」
「明日学園は休み。久々ソラミミの家に遊びに行くよ」
もうでこぼこの草原をすぎて峠の頭が見えてきている。ピエロ斬りを揺らしながらそっちへ歩いていく草里に背を向けて、家の方に走って戻った。