第九十三話 意識と存在の狭間~二人の暴走、二人の道~
「フェンリル・・・」
その名、言葉を聞いた瞬間、心の中でなにかが弾けるような感触を覚える。しかしその感触は不思議と驚きや不信などの動揺に関するものではなく、その言葉はスッと心に入ってきて記憶の中に刻み込まれた。
その反応が指し示すこと。それはその言葉、その名を、俺は初めて聞いたものではないということだった。
「お、その様子だと俺の名は知っていたようだな。嬉しいかぎりだ」
そこにいるもう一人の俺、フェンリルは俺の言葉を聞いてほくそ笑む。自分がこの場に二人いる、その事実に間違いはない。だけどそこにいるのは俺ではない。それはそれ単体で「フェンリル」という一つの存在だ。
もう一人の存在、圧倒的な力で敵を瞬殺する闇の力の所持者。俺とは違って自分の、そしてみんなを助けることができる「力」を持った存在。
同じ姿をしていても、その存在は似て非なるものだった。
「お前がこの体の中にいたもう一つの存在、フェンリルということはわかった。だけど・・・なぜお前と俺の、二つの存在がいるんだ??」
あれ?
俺、なんでこんなに冷静なんだろ?
俺の口から放たれる言葉の一つ一つ、それはこの状況に対してあまりにも冷静で、落ち着いているものだった。
普通目の前に自分と同じ存在が居て、それもその存在と自分の存在の二つでこの一つの体の存在となるって言われて、動揺したり疑問に思わないはずがないのだけれど、なぜか俺は素直にその事実を受け入れていた。
まるでその事実、そしてこうなることの運命そのものを元々体が理解していたように、ありのままのその事実を受け入れていた。わかるものは仕方がない、理由を聞かれてもそう答えるしかできなかった。
「ふむ、良い質問だ。俺とお前、なぜ二つの存在が一つの体に収められているか。その質問に答えたいのは山々なのだが・・・」
そう言うとフェンリルは少し渋った顔をする。
「実のところを言うと、俺にもそれはわからない。誰かの意図があってそうなったのか、それとも元々こういう存在だったのか、俺にもわからないんだ。そういうものなんだと、今は解釈するしかないんだよ」
「わからない・・・か」
俺にもその答えはわからない。そもそも今初めて自分とは違う自分と対面したわけだから、その真実を知る由もないし調べる方法もない。ここにいるフェンリルなら、その答えを知っていそうと思ったのだが、それも違うとなると、もう打つ手段はなくなる。
「ただし」
俺が考え込んでいると、フェンリルは強く印象付けるように言葉を放つ。
「一つ言えることは、こうして俺とお前、二つの存在が一つの体に収められていることには、必ずなんらかの意味があるはずだ。それを証明するものはなにもないが、俺はそれについては確信に至るほどの自信がある」
「全ての事柄に意味は存在する。なんの意味もなく、こんな複雑なことになるわけがないだろ?」
「・・・それも、そうだな・・・」
俺はフェンリルの言葉を素直に頷く。いや頷く以外の選択肢が無いような気がする。
なんの意味もなくこうなるはずがない。いやなってたまるものか。これが神かなんかのお茶目なイタズラでした、なんて言われて納得できるはずがない。
俺もそう感じていた。この事実になんらかの意味があるということを。
「あ~、じゃあもう一つ質問なんだが、ここは一体どこだ??そしてどうして今まで見ることも感じることもできなかったお前と今ここで、会うことができる??」
今のこの事実についてこれ以上追及してもどうにもならないと判断して俺は別の質問に移る。最初に浮かんだ疑問の、真相が知りたいと思った。
あの時はどうしようもなかったが、今はここにもう一人の自分がいる。その存在は不気味なものだったが、不思議とそれに安心感を抱いていた。
「そうだなあ~・・・、ここはいわば意識の狭間、この体の意識、存在そのものといったところかな」
「意識そのもの??」
この真っ白でなにもない世界。この世界がこの体の意識?
「まあ順序良く話すとすると、この体、まあその時はお前の意志の中か。とにかく、この体は元いた世界でなんらかの衝撃が起こり、そのはずみでこの白き世界、意識の世界に俺とお前の二つの意志が同時に切り離され、ここに放り出されたというわけだ」
「だから本来会うはずのない二人がこうして同時に存在している。これは極めて異常なことだ。相反する意識が同時に混在する、これは本来あってはならない現象。だけどそれほどのことが起きるくらいの衝撃が、この体に与えられた、ということだ」
相反する意志・・・か。
本来会うはずのない二人。だけどこうして実際会っている。それが奇跡といってもいいほどのことで、それを実現させたなにかが元いた世界で起こった。そして俺達はこうして会えた。
「その衝撃って・・・?」
俺がそう言うと、フェンリルは一瞬顔を曇らせる。その反応は、あきらかにこの答えに対する嫌悪感、そして気持ちの陰りだった。
「暴走・・・だな」
そして、その一言がフェンリルの口から滑りだす。
「お前はバーサークというのを知っているか?」
フェンリルは曇っていた表情を少し上げて、俺に尋ねてくる。
「いや、知らないな・・・」
バーサーク、今まで一度も聞いたことのない名前だった。だけどなぜか心の奥底でなにかがうずめく。知らない言葉なのに、なぜか心は反応していた。
「バーサーク。簡単に言えば暴走状態。竜族においても極めて稀な現象だ。その理由は、本来竜族には竜の刻印というもので魔力を完全にコントロールしている。そのため本来暴走状態のようなイレギュラーは発生せず、この現象が起こることはない・・・はずなんだが」
そう言ってフェンリルはちらりと俺の方を見る。
「それはあくまで成熟したドラゴン、つまり大人のドラゴンの中での常識だ。このイレギュラー要因の可能性としてまず挙げられるのは未成熟のドラゴン、つまりまだ子供のドラゴンであることだ。子供のドラゴンにももちろん竜の刻印は存在するが、それで魔力を完全にコントロールできているかといえば、必ずしもそうとは言えない」
「子供のドラゴンは魔力は一応統制できたとしても、そこに「感情」というファクターが存在する。楽しい、嬉しい、そして喜びといった感情。しかし逆に怒り、憎しみ、悲しみといった真逆の感情も当然存在する」
「この「感情」というもの、これが残念なことに魔力の統制に関して大きく関わってくる。前者に挙げたようなプラスな感情なら、力もその大きさに合わせてどんどん増幅する。しかし、後者に挙げたようなマイナスな感情が発生した時。前者同様力はどんどん増幅するが、それと同時に」
「心の「隙間」というものができる。そしてそれはマイナスな感情が大きければ大きいほど広がっていき、そして限界に達した時」
「ドラゴンは暴走する・・・」
俺はフェンリルが言う前にその言葉を告げた。その言葉を他人に言われるのが耐えられず、思わず自分で言ってしまった。そうでもしないとなにかが破裂しそうになった。
「その通り。そして暴走したドラゴンは全ての魔力を解き放って破壊のかぎりをつくす・・・とまあバーサークについての説明はこんなところだな。結局、このバーサークの発生要因はそのドラゴンの感情の揺らぎと、心の「弱さ」からくるものなんだな」
「心の弱さ、か・・・」
その言葉が強く広がっていくように響いていった。幼きゆえの心の弱さ、感情の揺らぎ。それが積もりに積もって、そして爆発する。それは、結果の程度は違えど、普通の人間となんら変わらないのではないだろうか。
ちょっとしたことで泣く、ささいなことで怒る。だけど大人になって、過去を振り返れば、なんでこんなことで泣いたんだろう、怒ったのだろうと不思議に思うはずだ。
それはその時に比べて格段に自分の精神というものが出来上がった証拠だ。幼きころは物事に対して直接感情に表れる。しかし大人になれば、それがどういうことでどの程度のことなのかを考えてから感情に表す。つまり直接ではなく一旦自分で物事を見極めているわけだ。
それは人間も竜族でも同じ。それが普通であり、誰もが通る道だ。
「まあそれでも、普通のドラゴンなら竜の刻印のおかげでよっぽどの怒りや憎しみが表われないかぎり、暴走することはない。その可能性はかぎりなく低い。無いといってもなんら問題はない」
「だが・・・」
フェンリルはそう言って、俺の顔を真っ直ぐに見つめ、真剣な眼差しを向けてくる。
「お前は違う。お前には、あるはずの「竜の刻印」がない。つまり魔力を全く統制できていないわけだ。となれば・・・わかるよな?」
「・・・他の奴らよりも感情の揺らぎで暴走する可能性がはるかに高い・・・ってことか」
「ご名答。その通りだ」
俺には竜の刻印がない。それ故に魔法もろくに使えないし、コントロールすることもできない。戦闘においてこれほど不便なことはないが、まさかそれが「暴走」というさらに悪い状況へと結びつくとは・・・。
自分に竜の刻印がないことが、本当に恨めしくなる。
「・・・ん?もしかしてこの世界に来たのって元の世界で・・・」
その時、俺の頭にあることがよぎった。ある強い衝撃でこんな奇跡的な現象が起こった。この話の流れからいくと、もしかしてそれは・・・
「そう。お前は暴走、バーサーク状態になったんだ」
そしてフェンリルは、その言葉を口にした。頭によぎったことは不幸にも現実となってしまった。しかし、なぜか俺の中ではそれほどそれ対する、焦りとか悲しみとか、そういう動揺というものが一切なかった。
まるで、そのことを最初っから知っていたかのように。
「まあそう悲観するな。実際俺も一度、お前と同じようにバーサーク状態になったんだ。その苦しみは俺にもわかる」
「え・・・?」
俺が一人考え込んでいた時、フェンリルは予想外の言葉を口にした。
「お、お前が、暴走した・・・??」
俺は、その事実が信じられなかった。なぜなら、こいつは俺とは違ってちゃんと魔力をコントロールして、そしてそれを使えることを知っていたからだ。実際フェンリルは、その強大な力を操り、敵をその圧倒的な力で瞬殺している。その事実に嘘偽りはない。それは紛れもない現実だ。
それなのに、そのフェンリルが、俺とは違って魔力を使えるフェンリルが、俺と同じく暴走という現象を起こしたことが信じられなかった。
「ああ。俺はお前と同じように暴走した。そして全てを失った。自分も、そして他人も。その事実はどうやっても抗えない。一度起きたことをもみ消すことは神様にだってできない」
「一度進んだ道を、もう一度歩き直すことは許されないことなんだ」
その時のフェンリルの顔は、とても暗く、深い悲しみと絶望にあふれていた。なにも言わずとも、その時に俺には想像も出来ないなにかが起きたということはわかった。
ここにいるもう一人の俺、フェンリルには、力の強さと共にはかりしれない心の闇も持ち合わせていた。
「ふう・・・まあ俺のことはいい。いまさら考えても仕方がないしな。無理なものは無理、どれだけ後悔したってなんの得もないんだしな」
「だけど」
するとフェンリルは、スッと指を俺に向けて指す。俺は思わず体がビクッとなってしまう。
「お前は俺とは違う。お前はまだ失っていない。お前の大切なものはしっかりとお前の傍にあり続けている・・・」
そしてフェンリルは一度目をつむり、ゆっくりとその閉ざした目を開ける。その時のフェンリルの目はとても優しく、安らかなものだった。
「お前は俺と同じ道を歩むな。お前はお前の大切なものを守り、そして共に歩み続けろ。俺とは違ってお前はそれができる。そして俺とは違う道を歩み、その先にある俺が手にすることができなかったものを・・・」
「必ず、その手で掴みとれ!!」
そしてその目は、強き意志の宿った強靭な目となっていた。その言葉が俺の心、そして頭に大きく響き、しっかりと刻みつける。
「さて、そろそろ時間だな。さあ、お前は早くお前を待っている奴らのところへ戻ってやれ。多分おそらく、戻ったらお前は苦しい思いをすることだろう」
そう言ってフェンリルは左手を俺の前にかざす。すると、その手からキラキラとした淡い光が、その腕を優しく包んでいく。
「だが、それも一瞬の一時だ。すぐにお前は元の環境へと戻ることができる」
すると、俺の右手が勝手に前へ、俺の意識に反してフェンリルの体の前へと出される。そしてフェンリルと同じようにおぼろげな淡い光が、俺の腕を包み込んでいく。
「ちょ、ちょっと待て、これは一体・・・!!」
「だが忘れるな、お前には俺がいる。この体の中で俺は確かにあり続けている。心の問題はどうしようもないが、もし、力でどうこうできることなら、俺はお前に力を貸す。この俺に宿りし闇の力の全てを使って・・・」
そして腕を包んでいた光はもう一人の俺、フェンリルの腕から発している光に近づき、そして繋がる。
「お前は自分の進むべき道を歩け。俺はそれの手助けをしてやる」
「俺とお前は、二人で一つなのだからな」
そしてその瞬間
・・・ンン!!シュパァァーーーーーンンン!!!
俺とフェンリルの体は光となって一つに合わさり、この白き世界の彼方へと消えていった。