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第二百七話 血染めのバレンタインⅢ~解放の後編~

今回はちょっと話が長くなりました。スイマセン><

 

 

 赤い鮮血が、空中でコップを倒したように勢いよく飛び散った。

ゆっくり回転しながら飛んでいく俺の左腕。その光景を見つめているこの間が、俺にとってどれだけ長く愛しく感じたことだろう。


けれど、そんな思いなど誰も察することなどない。工藤が、まるでボールのように片手でその腕をキャッチした。


「ナイスコントロールです」


俺の脳はその時、やっと自分の体がどうなったかを理解した。


「うわあああああああっ!!!」


勢いよく切り口から血が噴射がした。必死に押さえても止まることを知らず、激痛から逃れるがために俺は床に倒れこんだ。

あっという間に床には血の水たまりができた。俺はその上でうめき声をあげながら何度も左へ右へ転がった。


叫んでいないと、痛みに負けて自我を保てなくなりそうだった。

するとどうだろう。しばらく全身血だらけにしながら転がっているうちに、次第に心なしか痛みが和らいでいくのを感じた。


もちろん怪我が治っているとかそんなものではなく、ただ単に痛みを感じられる許容範囲を超えたせいで感覚が麻痺しているだけだった。だけど俺は、誠実にその状態をありがたく感じた。


それほどまでに、知りたいことがあった。


「くっ・・・篠宮、さん・・・」


俺は必死に目の焦点を合わせながら呟いた。

どこにいるんだ。篠宮さんは無事なのか。目をこすろうと血に濡れた右手を挙げたが、もう片方の腕があると錯覚して支えがなくなった体は床に叩きつけられた。


くそ、ぬるぬるして気持ち悪い。何度も液体に手を滑らせながら、俺はまた彼女の姿を探そうと右手一本で体を起こした。


「探し物なら、そこにありますよ。一之瀬さん。もっと右です」


どこからか工藤の声が聞こえた。もしかしたらそれは、冷静に考えるとかなり皮肉がこめられた言葉だったのかもしれない。ただし、今の俺にとってはそれがなによりもありがたい助け舟だったけれど。


「し、のみや、さん・・・?」


「ええ、正解です。彼女は篠宮 優奈。それは間違いありません。ですが、今はもう一つ呼び方がありますね」


「彼女が、最後のターゲットですよ。一之瀬さん」


俺がその事実を頑なに拒んでいるのを知っていたのだろう。工藤は、はっきりと、そして包み隠さずストレートにその言葉を告げた。


「ター、ゲット・・・?」


一人復唱しながら、目の前の人物を眺める。そこに居たのは、せっかくの可愛いピンクのパジャマを俺の返り血で汚した篠宮さん。それはいい。俺の左腕がぶっ飛んだんだから血が飛んで当然だ。


だれど、彼女が両手で持っているあれはなんだ?

常に鳴り響くゴゴゴ、という低い機械音。赤いフォルムのそれについているギザギザの銀色の大きな刃は、その音に合わせて細かく振動していた。


そしてその銀の刃から、ポタリポタリと俺の血が滴っていた。

ああ間違いない。あれが俺の左腕をぶった切ったんだ。あの、「チェーンソー」が。


「そ、そんな・・・」


「・・・・・・」


「なんで、嘘だ・・・」


果たして、彼女の眼に俺の姿はどう映っていたのだろうか。

ゆっくりと、彼女は俯いていた顔を上げる。最後の希望だった。そこにもしも篠宮さんのあの温かみがあって、それでいてちゃんと意志のこもっている瞳があれば、俺はそれだけで彼女に手を差し延ばしていた。


たとえ、自分の左腕をぶった切られていようとも。


「一之瀬、君・・・」


だけどそこに、俺の求めていた瞳はなかった。

赤い赤い瞳だった。血なまぐさいこの部屋に似合う、畏怖を抱かせる殺意に満ちた赤い瞳。そんな瞳を宿した彼女が、俺の目の前で口元を吊り上げて笑っていた。


まるで血まみれの俺を見るのが本当に楽しいようだった。

絶望を味わうよりも先に、背筋にぞくっと悪寒が走った。そんな俺を完膚なきまでに叩きのめすように、続けざまに彼女は一番言ってほしくなかった一言を告げた。


「死んで、くれる?」


その瞬間、けたたましい機械音が唸りをあげ、銀の刃が激しく回転を始めた。


「兄さん、下がって!」


有希の喚起が飛ぶが体が全然動かなかった。失ったものは左腕だけなのに、なにかもう一つ、行動するうえでとても大きな存在も失っているようだった。

少しずつ、彼女が近づいてくる。息をするのが苦しくてたまらなかった。


「ねえ、死んでよ。私のために死んでよ」


「そしたら、私も自由になれるかもしれないんだよ?」


「だから・・・死んでよ!」


今まで聞いたことがない彼女の叱責が飛んだ。同時にチェーンソーが高らかに掲げられ、刃に付いた鮮血が飛び散った。

身体が動かない。どれだけ頭が命令しても、動くことを体が拒否していた。


「兄さん!」


「っ!?」


その時、いきなり有希が俺を飛び越えて篠宮さんに襲い掛かった。

擦れるような金属音が響き渡り、無数の火花が盛大に目の前で舞い上がる。俺はその光景を見てようやく今何が起きたのかに気付けた。


「邪魔、するの・・・?」


「・・・当然」


篠宮さんが振り下ろしたチェーンソーを、有希が両手に持つ光の剣で食い止めていた。そう、紛れもない彼女の攻撃から有希が守ってくれたのだ。


「大丈夫ですか一之瀬さん。ここは一旦伊集院さんに任せて退却しますよ。「あれ」の正体を掴めただけで今回の件は成功ですから」


工藤が俺の千切れた左腕を持ちながら肩に手をかける。

その視線は俺ではなく、戦っている伊集院さんの方を向いていた。


「俺は・・・俺はどうすればいいんだ」


「今はなにも考えなくてもいいです。むしろ考えられなくて当然なんです。説明は後でちゃんとしますから、今はこの隙にここから・・・」


工藤が全部を語ろうとしたところで、これまでよりも大きく弾けるような金属音が部屋に鳴り響いた。


「今!兄さんを外へ!」


有希の声に応えるように、いきなり工藤は俺の右腕を掴んで無理やり引き起こした。立ち上がった途端フラッとしてまた倒れそうになったが、すかさず工藤は肩を回して態勢を整えた。


「少々痛いでしょうが我慢してくださいね」


半ば引きずるようにして玄関の方へ歩き出す工藤。

本当は物凄く痛いのだろうが、すでに感覚はなかったため特に問題はなかった。


「もう帰っちゃうの?帰らないでよ」


「もっと、私と遊んでよ!」


ピキーンッ!


「しまった!」


背後から閃光が瞬いた。工藤は珍しく焦りの混じった声を上げた。反射的に顔を上げると、その理由がすぐにわかった。


「ドアが・・・消えた?」


先程まで確かにあったはずの玄関のドアがなくなっていた。むしろ玄関がなくなり一面が壁となっていた。慌てて割られた大きな窓にも目を向けると、同じように壁で埋め尽くされ外との繋がりが完全に遮断されていた。


「やられました。これは空間制御魔法です。使えるだろうとは思っていましたが、まさかこれほど的確にこの範囲だけを有効範囲にするとは」


「ということは、つまり・・・」


「はい。我々は完全にこの空間に閉じ込められました。最悪の展開ですよ」


ため息交じりに言う工藤の表情にはまだ笑みが残っていた。そのせいで一体どこまで危機的状況なのかがわからない。ただ言えることは、少なくとも工藤からみて今が「最悪」の状況であることだ。


「どうする?伊集院さん。いや、ホワイトドラゴン♪このままじゃ大事な大事なお兄さん、私がもらっちゃうよ?」


「・・・あなたにあげるぐらいなら、私がもらう」


「あれあれ~これまた大胆発言。でもそれは難しいんじゃないかな」


「あなたもうすぐ、死んじゃうんだから♪」


再び大きくチェーンソーが唸りをあげ、急転直下の如く振り下ろされた。

すかさず有希は剣を交差させてチェーンソーの刃を食い止める。剣が振動すると共に、有希の小さな体も小刻みに震えているのがわかった。


「大したものだね。この状況で臆することなく私と対峙できるなんて」


「・・・・・・」


「だけどさ。ここじゃ、私に勝てないんだよ?」


「たとえあなたが、あのホワイトドラゴンであってもさ!」


その時だった。篠宮さん、いやターゲットの赤き眼が突然閃光を放ち、それに触発されるように側面の壁から黒い鎌のような刃が次々と有希に襲い掛かった。


「・・・!」


有希はすかさずチェーンソーを弾いて後方へジャンプ、尚も襲い来る刃をバク転でかわしながら俺達の元へと退いた。

しかし完全にかわしきれなかったのか。有希の髪先が僅かだが刈り取られ、銀の髪がふわりと宙を舞った。


「・・・これは厄介なことになりましたね」


「本来のこちらの場なら、彼女に相対することはそう難しいことじゃない。ただ空間を制御されている以上今はこちらが不利」


「あなたの空間制御魔法で上書きはできませんか?」


「不可能ではない。けれど今それをやればあなたや兄さんに影響が出る。特に兄さんは、衰弱している上に闇属性だから・・・」


そう言って有希は、いやいやと首を横に振った。

俺はその肩が本当に少し、上下に動いているように見えた。肩で息をしている。まだかろうじて気付けるかの程度だが、それがあの有希とわかれば並みの定規で測るわけにはいかない。


「真正面からぶつかるしかありませんか。こんなことなら、人員を残しておくべきでしたね」


工藤は肩をすくめて苦笑しながら、俺の右腕に手を添えて告げた。


「すみません。どうやら私も戦わねばならないようです。一之瀬さんは、そこの壁にもたれててもらえますか?」


「ああ、わかった・・・」


「助かります」


弱々しい俺の返事を聞いて、工藤は肩に回していた腕を解いた。

その手は俺の血で赤く汚れていた。小さく会釈すると、持っていた左腕を旧玄関の近くの床に置いてまた有希へと近づいた。


「リファイメント」


「あなたがここに来なくとも」


「まあそう言わないでくさい。我々は共犯者じゃないですか。援護しますよ」


「・・・そう」


再び有希が剣を構える。工藤もまた、その背後に立って新緑の弓を静かに構えた。

俺はフラフラとさまよいながら、玄関があったはずの壁に背中を預けてそんな二人の姿を眺めていた。


俺はなにをやっているんだ。有希に助けられ、工藤に助けられ。そして新たに現れた敵に対しても同じことを繰り返していた。

様々な葛藤が、鬱になるぐらい何度も何度も胸をつく。


俺は強く左肩を握りしめた。痛みは感じないが、血は流れ続けズタズタに破れた制服はぐしょぐしょに濡れていた。


もしも左腕があったら・・・と、たらればを考えるとなぜか笑えてきた。


「はは・・・戦えないよ。俺は」


どれだけ自虐を重ねても、結論は変わらなかった。

たとえ万全の状態でも、今の俺はターゲットとは戦えない。何度繰り返しても同じ回答が心の奥底から返ってきた。


なぜならそれが篠宮さんだから。俺の大切な友達で、クラスメイトで、隣の席である、篠宮 優奈さんだから。


ずっと彼女を守りたかった。ずっと守り続けてきた。

誰がための正義。それが俺の正義と、言えと言われれば胸を張って答えられた。そんな彼女をこの手で討てと言われてどうやって討てる?中身がどんな化け物だろうと、それが篠宮さんである限り剣を向けられるはずがなかった。


彼女を傷つける行為は、唯一無二の人としての自分を殺してしまうような気がした。

それがなにより嫌で怖かった。俺は自分の右手を見つめて、それから目一杯拳を握りしめた。


どれだけ甘いと、ヘタレと罵られようと。それが正真正銘俺の意志だった。

俺は、戦えない。有希も工藤も、それを知っていた。


この場所で、俺はとてつもなく要らない子だった。


「伊集院さん、あの側面からの攻撃は私が防ぎます。あなたは本体を頼みます」


「・・・了解」


「いきますよ!」


 再び、部屋に耳をつんざく金属音が戻ってきた。

今度は有希の他に、工藤の矢が風を切る音を織り交ぜて。


「二人で来ようと結果は変わらないよ?まあ、手間が省けるからいいんだけどね!」


俺は俺なりに気付いていた。工藤はともかく、有希は力を消耗している。

その太刀筋はいまだ衰えを知らない。けれど、有希は今日一度、本気で戦っているのだ。もちろんそれも俺のために。


しまった、という工藤の声が頭に蘇る。

戦うべきではなかった。必ず、あの時ここから脱出しなければいけなかったんだ。


「それはこっちのセリフですよ」


「・・・・・・」


壁からどんどん現れる刃を、工藤の矢が一つ残らず壊していった。そのおかげで事実上ターゲットと有希の一対一の構図が出来上がっていた。

けれどなかなか勝負は決しない。むしろ相手のチェーンソーの勢いが、有希の剣を押し返しているようにも見えた。


何度もつばぜり合いながら、片方が弾いて再び剣技の応酬に戻る。

さっきからこれの繰り返し。有希は、魔法を一切使っていなかった。


まさか、魔法が使えない状態にまで消耗してるんじゃ・・・?


「くそっ・・・俺は」


既に血で染まった拳を、思いっきり壁に殴りつけた。壁はびくともしない。残ったのは虚しさだけだった。

戦いたい。あいつらと共に戦いたい。そのためにはなにかが足りていないんだ。けど、なにが俺に足りていないというんだろう。


勇気?それとも非情さ?はたまた――――


「そんなものは、今を乗り越えてから考えろ」


「え?」


 ふと、頭の中に誰かが囁いた。いや、誰かじゃない。「俺」の声が聞こえた。


「自分の妹を助ける、では今のお前には大義名分が足りないか。ならば、俺が代わりにその大義名分を果たそう」


「お前の戦いは、ここじゃないだろ?一之瀬 蓮」


「お前は、フェンリ・・・」


全部の名前を言い終える前に、俺の体は俺によって乗っ取られた。

この感じ、忘れもしない。俺は感覚がなくなる寸前に、無意識に小さく呟いていた。


「すまない・・・」


「いいよ。俺はお前なんだ。一人で二つを取るのが辛いなら、二人で一つずつ分け合えばいい」


「この身体は、俺とお前でようやく一つなのだから」


ありがとう、フェンリル。ありったけの想いををこめて、心の中に吐露した。

絶え間なく乱れ飛ぶ火花が一層高く舞う。戦場に今、真のブラックドラゴンが降臨した。これからを、みんなを守るために。


「お前の守ろうとしているもの、今は全部守ってやる。俺の二の舞にさせはしない」


「しかし久しぶりの体が片腕なしとは。おもしろい。これは「あれ」をやるしかないよな」


フェンリルは右手を切り口にあてて更に血をつけてから、頬にあてゆっくりとなぞっていった。

俺が俺である証。ブラックドラゴンである証の刻印を、赤き鮮血は形作っていった。


「認証・・・。確かに受け取った。さあ、始めようか」


刻まれた刻印が紅く煌めく。妖しい黒い霧を飛ばしながら、背中から漆黒の翼がその姿を現した。

部屋に新たな風が芽吹いた。辺りを見回しながら、フェンリルは頬から離した右手を前へと伸ばした。


「左腕だけ、返してもらおう」


右手に力を込めると、小さな魔方陣が手先から現れ床に飛び散った血が一斉に水たまりへと集まっていった。やがて沸々と湧き出す血の水たまり。その光景に、最初に気付いたのは矢を一心に放っていた工藤だった。


「あれは・・・まさか」


「我、黒き竜ブラックドラゴンの名において命ずる。今ここにお前を遮るものはなくなった。死を司りし、破壊の化身たる我が真なる姿を、封印の時より解放せよ」


「竜体解放!」


その詠唱が部屋に響いた瞬間、血の水たまりが一斉に噴水のように噴き出した。


「なに?」


「これは・・・」


つばぜり合いになっている有希と篠宮さんの頭上を、渦を巻きながら束になった血が飛んでいった。赤い鮮血は徐々に黒く黒く濁っていく。フェンリルの元へ辿り着いた時には、もう真っ黒な液体と化していた。


「来い、俺の左手。たまにはお前も外に出たいだろう?」


飛んできた液体が切りとられた個所へと集まり、うごめきながら急速に収束していく。漆黒のオーラを放ちギリギリと音をたてながら、徐々に液体はある形へと変貌していった。


不気味に黒光りするごつごつとした表面、肩口には赤いなにかの紋様が刻まれていた。人の体には大きすぎるその先には巨大な漆黒の爪が生えて、シュウウっと、なにかが焼けるような音を響かせていた。


それは失ったはずの左腕。けれど、どう考えても人間の左腕ではない。

ドラゴンの腕、漆黒の巨竜、ブラックドラゴンの左腕だった。


「やはり、お前も外に飢えていたか。そりゃそうだな、もう何百年もこの身体に押し込められていたんだから」


漆黒の左腕は、フェンリルの言葉に呼応するように黒い霧を噴出してドクンと脈動した。

まるでこれ単体で生き物として成立しているようだった。数えきれない程の命を闇に消し去った体。封印されたフェンリルの体。


この世界で本来なら醜いはずのその体が、フェンリルは酷く愛おしく思えた。


「これは、一之瀬 蓮に感謝しなければいけないのかもな」


不思議とおかしくなって、眼を右手で隠してほくそ笑みながらフェンリルはゆっくりと壁へと足を進めた。

その時、ふとフェンリルは、右手の指先が湿っぽくなっていることに気が付いた。


血だと思っていたけれど、赤い液体はもうすでに皮膚に染み込んで乾いていた。

じゃあこの液体はなんだろう。よく見れば赤くない、無色透明の液体。


それが涙だと、気付いたのは壁に左手をあてた時だった。

フェンリルは泣いていた。涙が頬をつたって次々と零れ落ちていることに気付かずに、泣いていた。


「そうか。そうだったな」


フェンリルは竜体化した左腕に、右手を添えて目を瞑った。


「この手で、あいつの温もりを感じていたんだよな。そうだ。この手の先に、あいつが・・・」


一瞬、風に舞う彼女の髪が俺の目の前をよぎった気がした。

あの香り、あの煌めき。何百年と時を経ても忘れもしない。しばしの間記憶の彼方に浸り、頭の中にうっすらと映ったビジョンをそっと閉じてから、フェンリルは右手で涙を拭った。


「今はまだ早い。けれど、いつかは・・・。そのためにはまずは、こいつをぶっ壊してからだな」


左手で壁をさする。爪がひっかかって、耳障りな音を奏でた。


「確かによくできている。これはあれも予測していなかったんだろうな。・・・だが」


「0に帰れば、結局はただの壁だ」


左腕に力を込めると、周りを黒い筋が螺旋状にくるくると包みだして壁に吸い込まれていった。徐々にその筋の回転は速くなっていき、壁が段々黒ずんでいく。


「我、万物の死、0を司る者なり。貴様の忌々しい文字列を・・・破壊。新たに我が0で上書き。これより、貴様は我が力の配下となる」


「我に従え。貴様はただの壁だ。それもすぐに壊れるひ弱な、ただのガラスだ。それ以外のなにものでもない」


フェンリルは左手をゆっくり壁から引き離し、それから大きく振りかぶった。

いつのまにかフェンリルが手を当てていた壁一面は、塗りたくられたように真っ黒に染まっていた。


「空間を制御されているのなら、空間を破壊すればいい。もう一人の俺のため、ここは行かせてもらうぞ」


そしてフェンリルの左手は、漆黒の壁に鉄槌を与えた。


「エンシェントイムペリウム!(根底支配)」


グワシャーンッ!!


「俺はなにも生み出せないが。なにかを破壊し尽くすことはできる」


壁は見事に叩き割られた。黒い破片が騒々しい音を立てながら床に散らばり、その先になくなっていた玄関のドアが現われた。

急に背後で鳴り続けていた金属音が途絶えた。どうやら距離をとったらしい。


「まさか・・・私の空間を強制解除した??そんなことが、可能なの?」


「これは驚きましたね」


「やはり、あなたは・・・」


どうやら想像以上に意外なことだったらしい。あのチェーンソーを持った少女だけでなく、あの二人まで呆気にとられたようにこちらを眺めていた。

フェンリルはそんな二人に、左腕を何度か回してから叫んだ。


「おら、お前ら。今は一旦退くぞ!はやく来い」


「了解しました」


「・・・・・・」コクリ


すぐさま二人が、飛ぶようにフェンリルの横を走り抜けてドアの向こうへと消えていく。

フェンリルはじっと一人佇む少女を見ていた。幸いにも距離をとっていたおかげで脱出に難はない。けれど個人的に、少女に興味を抱いていた。


「お前の名は?」


「・・・あなたに名乗る名なんてないよ」


「そうか。俺の名はフェンリル。初めまして、と言っておこうか」


「今の俺がお前を滅することはない。まあ、名前だけ覚えておいてくれ」


「ではな。もう一人の俺をよろしく」


フェンリルがドアへと歩き出しても、背後の少女が動くことはなかった。

なるほど。あれが一之瀬 蓮の手が出せなかった相手か。確かにこれはかなり厄介な相手のようだ。


もしかしたらあいつは・・・と、少し似合わない不安を抱えながら、フェンリルはドアの向こうへと消えた。


「フフ・・・楽しい。ちょっと待っててね、一之瀬君。私はいつでも」


「あなたを見てるから」


 





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