50、樹下
陛下の手によって何事もなくバルコニーに下ろされたわたしは、彼の手が離れていくのを横目に、駆け寄ってきたアメリとサンファルさんの顔を交互に見た。
気付いたアメリが眉尻を下げて笑う。
「スィキ様、あまり驚かせないでください」
「うん。ごめん。悪気はなかった」
ほんとうだ。あんなに驚くとは思わなかった。
「せめて予告を」
「予告!?」
アメリの言葉に面食らうわたしの傍ら、陛下はさっと体を翻し、バルコニーを横切って廊下へ戻ろうとする。
その途中、サンファルさんとのすれ違いざまに発せられた淡々とした陛下の声がわたしには聞こえた。
「・・・おまえがなにを考えているのか、だいたいはわかるつもりだが」
そこで一呼吸を置いて、数瞬足を止める。
「あまり馬鹿正直に正面から喧嘩をするな」
憚る声量のそれは、すぐ傍にいたわたしには聞こえたけれど、公爵あたりには届いていないに違いない。
葉擦れの音ばかりが大きく鳴った。
サンファルさんが眉を寄せる。
それは不機嫌そうでもあるし、子供が拗ねたようにも見えた。
初めて見たその表情が意外で思わず口角が緩んだわたしをサンファルさんは目敏く見つけて小さく睨んでくる。おお、美人の睨みは怖い。
しかしそこはサンファルさん。
彼も囁くような音量でけれどしっかりと自国の国主へと言い返してみせる。
「笑顔で腹の探り合いなんて向いてません。誰かさんたちと違って器用ではないので。」
私は騎士よ
そう口にしたサンファルさんの声はそれこそ呟くようなものだったけれど、潜めた声とは裏腹に精悍な顔つきがちらりと見えた。
思わずわたしは人知れずに息を詰める。
陛下が口端を持ち上げた。
「そうだったな」
知己に与える笑みだった。
「・・・アメリ」
隣にいるアメリの名を小声で呼ぶとアメリが、はい、と返事をくれる。
「陛下とサンファルさんって、もしかして幼馴染とか何か?」
それはほとんど確信めいたものがあった問だったのだけれど、正解だったらしい。
案の定アメリはあら、と言わんばかりの顔で頷いた。
「そのように伺っております」
よくお気づきになりましたね、と柔和に微笑む彼女に返すわたしの笑顔はきっと苦笑めいている。
「ちょっとね」
見覚えがあるっていうか、身に覚えがあるっていうか。
零した声はほとんど独り言で、それでも真横に立っていたアメリにはしっかりと聞こえたらしい。
「何にですか?」
やはりにこやかに問いかけてくる彼女に、わたしは肩を竦める。
「わたしにもね、幼馴染がいるからね」
口にすれば途端に日本が懐かしくなった。
会いたいなあ、
顔を上げて空を仰げば、胸に去来するものとは裏腹に、異世界の空は高い。
依然として清々しいままで葉擦の音がすぐ近くで鳴っている。
雲は鮮明な白さでゆっくりと流れているようだった。
陛下へと視線を戻せば、タイミングが良かったのか、ぱちりと目があった。
そのまま、わたしと目を合わせたままで陛下が口を開く。
「それで、その鳥はどうするんだ」
まるっきり、今日の天気を聞くかのような声音だった。
やっぱりな、と咄嗟にわたしは思う。
怪我をした鳥をわざわざ木に登って拾ったのである。どうするのかなんて聞くまでもないはずだ。
しかし真っ先に手を出したのはわたしであって。
それを陛下が察してあとはどうにかしてくれるだろうと構える、なんてことをこの陛下は許さないだろう。そんな気がする。
ましてやわたしは監視をされる立場にあるのだ。
わたしたちの関係は、利害の末に協力こそすれ、守るべき身内じゃない。そんな感じのはず。
今回、責任を持つべき、はわたしにある。
大きくざっくり言ってしまえば、動いたからには口に出して意志と覚悟を見せろ。
途中で投げるな、つまりはだいたいそういうことなんだろう。
大袈裟だとは思うけど、強ち外れてもいない解釈のような気がするから嫌だ。
今、わたしは、異世界の、どこかの国の王宮の、
皇帝陛下の前にいるのだ。
甘えてきたことが許されていた馴染みに馴染んだ日本じゃない。
責任という言葉は、こんなにも馬鹿馬鹿しいほど身近で些末な事に、しかし如実に現れる。
ちらりとまだアメリの手の中にいる小鳥に視線を投げれば、痛々しい姿に反してキラリと奥底で何かが強く光る目と合った。
そうだ。少なくとも、命は大袈裟であるべきだ。
わたしはバルコニーの端から歩いて陛下の前に立った。
上にある顔を見上げる。
「・・・陛下、お願いがあるんです」
そこで妙な間が空いてしまう。色々考えたせいで、咄嗟に言葉が出てこない。
すると躊躇するわたしを前に、陛下がゆっくりと親が子供に諭すような温度で告げた。
「自然の力と恩恵は大きい。だからこそ、及ぼうが及ぶまいが気安く手を出しすぎてはならない」
言葉は陛下がわたしに伝えるというよりも、年長者が後の世へ語り継いでいく世界の条理を口でなぞったようなニュアンスでわたしの耳に届いた。
それが、この世界の理念ということなのだろうか。
日本にいた頃にも聞いたような話だ。
わたしの行為は、人の都合で捨てられた野良犬に、かわいそうだと都合をつけて餌を投げる様なものなのかもしれない。
この小鳥の死体を食べるはずだった蛇が、明日空腹で死ぬかもしれない。
考え込んで何も言えない私に、陛下が助け舟のようにするりと言葉を投げた。
「ひとつ、お前に聞きたいことがある」
「はい」
「お前は、飼うために拾ったのか、救うために捕らえたのか」
「・・・・」
彼の言いたいことは、漠然とではあったけれどなんとなく、わかるような気もした。
「・・・この子は、たぶん雛です。このままでは、一人で生きていけない。でも、人の匂いが移ってしまっているから、きっと母親は迎えに来れない」
ちゃんとした知識ではないから真実かどうか定かではないけれど、人の匂いがついた雛を親鳥は育てないという話を耳にしたことがある。
「多分、飼いたいわけでも救いたいわけでもないんです」
大いなる自然を前に、人の手を入れずに保たれなければならないと言われれば、ただの子供であるわたしにはどうにもできない。
それが正しいのかもしれないし、あるいは違うのかもしれない。
そういうのは、難しい。
「ただ、消えかけている命を前に、手を伸ばすことさえできないのが、怖いんです」
陛下は何も言わない。
顔を上げれば、静かな瞳と目があった。
ともすればそれはわたしをどこか試しているようでもあり、黙って見守っているようでもあった。
続きを促されているような気がして、不思議な虹彩の双眸を見上げていれば自然にするすると口は滑った。
「もしかしたらどうにかできるかもしれない選択肢を捨ててしまって、見ないふりでいたくはないんです。崇高な意志を、何もしない理由にしてはいけない。たとえそれが偽善でも。」
考え込めば難解でも、割り切ってしまえば楽になる。
一瞬の間が生まれる。
太陽が雲に遮られて、バルコニーがほんの少し翳ってみせた。
その向こう、陛下はふっと笑う。
気の抜けたような笑みだった。
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