49、樹上人
そこでようやく思い出したわたしは陛下へと視線を向ける。
この場を収めるべきは陛下だと思ったからに他ならないのだけれど、当の陛下は何事もないような涼しげな顔をしている。
口を挿むつもりはさらさらないようだ。
え、これ、この空気どうするの
とわたしが内心密かに焦り始めたとき。
真っ先に動いたのはトルナトーレ公爵の方だった。
公爵は木の枝にいるわたしに愛想のいい笑みを向ける。
突然の笑顔にわたしが動揺したのは言うまでもないだろう。
ましてや彼の目だけが器用に笑っていないように見えたのだからなおさらだ。
ぎくりと身動ぎしたわたしを後目に、公爵は一礼を陛下に、そして再びわたしを一瞥すると頭を下げた。
「申し訳ございません。なにせ特一級のお方にお目にかかるのは初めてでして。年甲斐もなく舞い上がっておりました。非礼を、お詫び申し上げる」
つらつらと滑らかな口上に、戸惑うばかりのわたしの口からは「はあ」という生返事しか出ない。
ただ、ちらりと目に入ったサンファルさんの横顔が苦々しげに見えた。
最後にもう一度わたしを瞥見し、公爵はサンファルさんと向き合う。
やはり、口元は慣れたように曲線を湛えている。
それが嘲笑めいて見えるのは、わたしの性格が捻くれているからだろうか。
公爵の声は先程よりも小さめで、だからわたしの耳にも微かにしか聞こえなかった。
「さすがはサンファル家の令息、物怖じしないのは血統か」
「・・・申し訳ありません」
口に乗せただけのようなサンファルさんの謝罪を意に介さず、鼻で笑うようにして公爵は一歩下がる。
一瞬の微妙な雰囲気。
「・・・それで」
それを唐突に、かつどこか静かに存在感のある声が裂いた。
「おまえはいつまでそうしているんだ」
あえて空気を読まなかった陛下、その人である。
彼は何気ない所作で廊下からバルコニーへと足を進めて、サンファルさんの横に立った。
今の今まで押し黙っていた陛下が、このタイミングで話すということは、やはり先程のはわざと空気を読まなかったと思われる。
その目的がどこにあるのかわたしには知りようがないけれど、鶴の一声をお持ちのはずなのだろうから有効に使っていただきたい。
ところで「おまえ」というのはわたしで間違いないだろうか。
「ずっと木の枝にいるつもりか」
「・・・生憎、そんな趣味は持ち合わせてないですよ」
わたしで間違いないようである。
「それならさっさと降りて来い。落下を楽しむような趣味があるなら別だが」
「・・・サンファルさんと同じことを言いますね」
「カミュ?」
首を傾げる陛下に、なんでもないですと言葉を濁しながらサンファルさんに目を遣れば、小さく笑っているのが見えた。
短いながらも一応わたしの知っているサンファルさんの表情だ。
それを視界の隅に、再び陛下の顔に目を戻すと、ふつふつと小さな不満が湧いた。
「今降りるところだったんです。陛下がいらっしゃらなければ!」
そうだそうだ。
陛下がここを通ったおかげでわたしは予定より長くこの不安定な足場で堪え続けるはめになったのだ。
やつあたりもいいところだが、そろそろお尻が痛いのも本当だった。
「それは悪かったな。・・・降りれるのか?」
「自力でですか?そんなまさか」
「威張ることではないだろう」
このわたしが自力で飛び降りるとかそんなはずがないではないか!
と胸を張ったわたしに陛下の冷静なツッコミが入る。ですよねー。全くもってその通りだ。
しかし降りられないものは降りられない。
ぐっと詰まったわたしが苦し紛れにサンファルさんをもう一度見ると、彼は笑って肩を竦めてみせた。
仕方がないわね、という声が今にも聞こえそうだ。とはいえ、
「陛下、私が」
と名乗り出てくれたサンファルさん。
それに陛下は頷こうとして、
一瞬なにかを考えるそぶりを見せると、何を思い直したのか首を横に振った。
そしてわたしとしては少し予想外な言葉を放ったのだ。
「いい。私がする」
「へ?」
きっぱりと言った陛下にわたしは思わず間の抜けた声が出た。
一度助けてもらっておいて何だが、一国の王様と、その家臣の騎士がいたら、やっぱりこういったときに動くのは地位や立場的に自然と家臣の方になるのではないんだろうか。
というわたしの考えは強ち外れてもいないのだろう。
陛下の言葉に驚いたのはわたしだけではなかったらしい。
陛下の後ろにいた取り巻きの中の数人が露骨に戸惑いをあらわにする。
躊躇ったのはサンファルさんも同じだったようで、
「ですが」
と言い募ろうとする彼に、陛下はちらりと背後に目線を流した。
そこには公爵を筆頭に高価とわかる衣服を身に纏った人たちが並んでいる。
中には数人、動揺の表情が見て取れた。
つまりあれか。陛下には思うところがあるのだろうか。
わたしにはさっぱりだけれどサンファルさんはその思惑を正確に読み取ったらしくあっさりと身を引いてみせた。ということは、わたしも陛下に素直に手を伸ばしていいのだ。
わたしとしては、陛下だろうがサンファルさんだろうが降ろしてくれるならありがたい。
ということで。
人の目はこの際気にせずに、「手を」と言う陛下に従い、態勢を変えようとしたわたしはそこで自分の両手に血まみれの小鳥がいることをやっと思い出した。
今まで樹下で繰り広げられていたやりとりにすっかり現在に至る根本を忘れていたのである。
「あ」
「スィキ様、こちらに」
思わず呟いたわたしに、アメリがバルコニーの縁から目一杯両手を伸ばしている。
小鳥を渡せ、ということらしい。
このままわたしが抱いて木から降りるより、アメリに預けるのが小鳥もわたしも断然安全だ。
ぎりぎり人が乗れる太さの枝までにじり寄ってほとんど四つん這いになるようにするとなんとか手が届きそうである。
彼女の手にわたしも自分の手を伸ばしかけて、
けれどぴくりとその腕はほぼ無意識に止まってしまった。
伸ばされたアメリの細い腕は、木陰がゆらゆらと揺れている。
「スィキ様?」
彼女の白くて綺麗な手を見ると、言い知れない躊躇いと罪悪感が湧いた。
結局一瞬の迷いの後に他にどうしようもないので小鳥を彼女に頼んだものの、その躊躇は陛下の手を取る時にもちらついた。
なかなか手を伸ばさないわたしに陛下が不審げに目を細める。
「シキ?」
「あの、わたし、手が汚れてるんですけど」
「構わん」
あの時とは違って、今度は陛下の手が、わたしの手を掴むのがしっかり見えた。