48、樹上対話
「陛下?」
窓の向こう、今朝別れたきりだった陛下が立っている。
視界の端にわたしたちを認めたようで、淀みなく歩んでいた足をふと止めてこちらを見ていた。
当然といえば当然なのだろうけれど、豪奢な装飾の廊下に陛下の存在はほんの少しも遜色なく、
それが委縮しかけている自分をなんとなく、しかし否応にも思い出させた。
窓から射しこむ光が遠くの白亜に反射して、わたしの目には微かに眩しい。
彼は一度驚いたように目を開いて、それからすぐに顔をしかめる。
あれは恐らく、というか十中八九、わたしの現状に対する呆れの表情に違いない。
果たせるかな、陛下は「今度は何をしているんだ」と呟いた。やっぱり。
ところで
「今度はって・・・」
まるでわたしが色々やらかしているような言い回しじゃないか。
まだ、全然、なにもしてないぞ。
「よほど木の上が好きだと見える」
「事情があるんです」
運動下手の自負がある人間の誰が落下の危険性を加味した上で好き好んで気まぐれに木に登るものか。
「事情?」
訝し気に眉をひそめた陛下は、わたしの手元を見ると、一度瞬きをして渋面を解いた。
いつも通りの平静の顔は、けれどどこか困ったような表情にも見える。
だいたいの状況に見当をつけたらしい陛下は口を開く素振りを見せたのだけれど、
「陛下?いかがなさいました」
陛下が何かを発する前に声を出したのは、陛下の後ろに控えていた人物だった。
すっかり忘れていたけれど、耳に届いた足音は一人分のものではなかったのだから、陛下以外の誰かがいて然るべき、なのだ。
「あ」
陛下の背後からちらりと見えたその姿に見覚えがあって、わたしは思わず声を漏らした。
・・・なんだっけ、名前が出てこないや。
見覚えもなにも、記憶にある限りつい最近会ったばかりの人間のはず。
そもそもこちらに来たのがつい先日なのだ。
しかし顔はわかるのに名前が出ない。
思い出せそうなのに思い出せないというのはなんとなく気持ちが悪いなあ。
わたしがうんうん悩んでいる間に、その人もわたしに気付いたらしい。
わたしを見るなり露骨に嫌そうな顔をしたのがここからでも見えた。
いっそ見事な嫌われっぷりである。
よくよく見れば陛下の後ろには数人の人間が列を作っているようだった。
教科書で見た参勤交代がさりげなく頭を過っていく。
そこまでぞろぞろと人が並んでいるわけではないけれど、似ていなくもない。
一見して高価とわかる煌びやかな衣装の群れにわたしが若干気後れしていると、突然その人は口を開いた。
「これはこれは。特一級のお方が何故樹上に?」
彼の一言に、陛下の取り巻きよろしく後ろにいた人たちの何人かが小さく笑う。
人を馬鹿にするときの、あまりよろしくない類の笑いだ。
声をかけられたわたしはといえば、咄嗟になんとも言えずにただ曖昧に笑ってみるしかない。
「あー。・・・こんにちは」
彼の言葉は「まあ!おんなのこがはしたない!」的なニュアンスを含んだ嫌味と思われるが、
この時わたしの頭のだいたいを埋めていたのは
やっべ。名前出てこねー。
これに尽きる。
第一、異世界トリップは大抵色んな人の名前やら設定やらがいっきに飛び込んできて、不親切極まりないのだ。
ましてやこれが横文字だったりするとカタカナのオンパレードパニックだ。
人の名前を覚えるのがあまり得意ではないわたしにとっては不親切極まりない。
というかそもそも異世界トリップ自体が不親切極まりない。
なんて今更ともいえる不満を、脳内でぐちぐち呟いていたせいで、結果黙り込んでしまったわたしを、彼らから遮るようにさりげなく立ったのはサンファルさんだった。
「公爵閣下」
凪いだような静かな声。
身に纏う空気自体が変わったかのように、騎士然とした面持ちで立つサンファルさん。
そんな彼に驚いて、わたしはまじまじとサンファルさんを見てしまう。
サンファルさんの表情から量るに、彼が陛下を煩いと表現するはずがないから、先程の「煩いの」というのはつまりこの取り巻きなんだろうか。
何にせよ、少なくとも和やかな態度ではない。
「差し出がましいようですが、・・・こちらのお方は特一級でいらっしゃいます」
「・・・存じ上げているが、それが?」
「先程の閣下の振る舞い、礼を尽くしていらっしゃるとは言い難い」
「そのつもりはないが」
「そのようにも見受けられる、ということです。」
公爵・・・
トルナトーレ公爵!
と今更ながらに思い出せたことでもやもやが晴れてすっきりした気分にわたしが浸かっている傍ら、公爵とサンファルさんの間には不穏な風が流れている。
公爵は口の端だけを持ち上げ、冷笑に近いそれを浮かべると「なるほどな」と呟いた。
畳み掛けるようにサンファルさんが言葉を紡ぐ。
「公爵閣下とはいえ、欠いた態度はお控えください」
サ、サンファルさん。
公爵は微笑を、サンファルさんは無表情を。
で、ひやひやと肝を冷やしているのはそんなサンファルさんの背中を見ているわたしである。
わたしの認識がここで通用するなら、公爵というのは貴族のなかでも最も高貴な爵位だったはずだ。
そんな人に団長とはいえ騎士であるサンファルさんがここまで楯突いてもいいものなのだろうか。
わたしの懸念を横に、なおもサンファルさんは駄目押しのように付け加えた。
「ましてや陛下の御前です」
ぴりぴりとした空気が肌に触れた気がした。