45、ペンは剣よりも
「・・・え」
と虫の鳴くようなか細い声を思わず、といった感じで漏らしたのはユアンさんとやら。
そんな彼に、サンファルさんはにっこりと笑って、片手で、流れるように雅な仕種でもってわたしを示した。
「こちら、噂の皇帝陛下の拾得物であらせられるお方よ」
サンファルさんの笑顔は、それはもう、素晴らしいものだった。
今朝垣間見た、ドレスを両手に抱えたアメリの笑顔に通じるものがある。
そんなものを視界に受け止めざるを得なかったわたしが、「さっき通常勤務が云々ってその口で言ってたじゃないですか!」と反論できるはずもなく。
金魚のように口をぱくぱくとさせるだけのわたしに視線を向けて、いちはやく口を開いたのは元凶であらせられるサンファルさんでもなければ、いつだって細やかな気配りをくれるアメリでもなかった。
「も、申し訳ありません!」
動揺もあらわに、そう声を張り上げてわたしに頭を下げたのは、ユアンさん、とやらである。
突然赤毛が目の前に現れたわたしはといえば何事かと、ただただ唖然とするばかりだ。
咄嗟に思ったことは、あ、ユアンさんつむじ時計回りだー、くらいのものである。
その間もユアンさんの陳謝は続いた。
「特一級のお方がいらっしゃるとはつゆ知らず、御前でお見苦しいものを失礼いたしましたっ」
なおも頭を下げ続ける彼を前に、ようやくはっとしたわたしは大いに焦った。
心中は、また特一級か!いい加減にしてくれ!である。
「うわっ。やめてください!」
「ですが」
依然として言い募ろうとするユアンさんを遮って、わたしはぶんぶんと首を振る。
「気にしてませんから!だから顔を上げてください!」
顔を上げてくださいとか、人生で初めて使ったよ!
その事実にわたしが内心動揺していると、ユアンさんがゆっくりと顔を上げた。
笑みを覗かせながら
「お優しゅうございますね」
とおっしゃる。
なんか根本的なズレが多大に生じているようだが、わたしがそれを訂正する前に口を開いたのはサンファルさんだった。
「ということだから、ユアン」
「・・・致し方ありません。もちろん、特一級のお方のご命令が最優先です」
「悪いわね」
ふう、と小さく溜息を零したユアンさんにサンファルさんはにこにこと上機嫌である。
彼の機転と手腕には、全くもって舌打ち、じゃなかった。舌を巻く。
ここでわたしが「あらごめんなさい。お暇なようなら一緒にいかがかしら、と思っただけなのよ。お忙しいならそちらを優先してくださいな」とか言ってユアンさんの援護をできればいいのだが、サンファルさんは敵に回したくないというのが正直なところだ。
ごめんなさい、ユアンさん。でも、心はどちらかというとユアンさんの味方です。
うっかり口を滑らせて余計なことは言うまい、とだんまりを決め込んだわたしに、ユアンさんはふと気づいたように向き合って愛想良く微笑んだ。
「申し遅れました、第一騎士団団長補佐を拝命いたしておりますユアン=カリエドでございます。ご尊顔拝することが叶い光栄に存じます。」
「あ、いや、えっと、識 佐藤です。・・・こちらこそご迷惑をおかけします」
既に迷惑をかけているという後ろめたさが尾を引いて、若干カリエドさんから不自然ではない程度に視線を逸らしつつ挨拶に応じると、彼から返ってきた反応はかなしいかな、見覚えがある例のものだった。
侍従長であるハワードさんのあの反応を彷彿とさせられる例のあれ、特一級への異常なまでの敬意というか畏敬というか、
「なにをおっしゃるのですか!特一級のお方にお声をかけて頂くのは騎士にとって幸せなことでございます」
居心地の悪いこれである。
・・・なんだか、ほんと、わたしが特一級ですみませんって感じだ。
恐縮のあまり、今なら出会い頭に陛下の鳩尾へ拳を叩き込むことができそうだ。
まざまざと、なんだかとんでもないことに巻き込まれているのではないのだろうかとすら思えてくる。
いや実際異世界に放り込まれるなんてとんでもないことになっているわけだけど。
いまいち特一級の地位とか立ち位置とかをわたしは掴みあぐねているわけだが、これは早々に解決して自覚とかを持っておかないと知らないうちについうっかり大変なことをやらかしてしまいそうだ。
情報の把握、とわたしが頭のなかの「優先させるべきことリスト」に書き込んでいる間に、なにやらサンファルさんとカリエドさんで話をつけたらしい。
サンファルさんから再びわたしに向き直ってカリエドさんは軽く頭を下げた。
「申し訳ありません。職務に戻るため御前を失礼いたします。お許し頂けますでしょうか」
「あっ、はい、どうぞっ」
場を離れるのに許可を求められたことなんてそうそうない、というよりもそもそもこんなに丁寧な敬語を身に浴びた経験なんてわたしが持ち合わせているはずがないわけで、
思わずびくっと慌てて頷いたわたしだった。
カリエドさんの背中がうんざりするほど長い廊下の向こうへ小さくなっていく。
それをぼんやりと見送っていたわたしの隣にいつの間にか立っていたサンファルさん。なにやら上機嫌でいらっしゃる彼につい胡乱げな視線を向けてしまうのは仕方がない。
しかし、言うまでもなくカミーユ=サンファルはたかが小娘の批難を含んだ視線に動じるような人物ではない。
飄然と美の女神も怯むような笑みを浮かべてみせた。大人ってこわい。
「ねえ、シーキ。騎士の仕事って知ってる?」
「・・・さあ」
「剣を片手に体と命を張って国を守ることなのよ」
「要するにペンは苦手ってことですね」
「苦手じゃないわよ?ただまどろっこしいだけ」
「なおさら悪いですよ」
カリエドさんの苦労が偲ばれる。