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「陛下、聞いてください」
とは、私室へ帰ってきた陛下が扉を開けた瞬間に、出迎えたというか、待ち受けたというか、とにかくわたしが矢も盾もなく放った第一声である。
陛下は片手で押し開けた扉をそのままに一瞬立ち止まり、少し眉を顰めた後、すっと部屋に入ってきた。
構わずわたしは話を続けるべく口を開く。
「明けゆく毎日を、おまえの最後の日と思え!」
その間、陛下は品良く華やかにまとめられた何やら重そうな上着をわりと乱雑に脱ぎ、いや、わたしなら恐ろしくて触りたくもないね、今朝書類と見つめあっていた机に放り投げるように置いた。
それからわたしに一瞥をくれる。
「誰の言葉だ?」
ほいきた。
「モンテーニュです!」
明けゆく毎日を、の名文を生み出したのはもちろんこのわたし、ではなく、過去の偉人である。なんだかかっこいいので引用させてもらったのだ。
日本じゃそう滅多にこんなこと口に出さないな!
「聞いたことがないな」
陛下はシャツの手首のボタンを外しながらそう言う。
そりゃそうでしょうよ。
「だって、わたしの世界で哲学者と文学者をやっている人のお言葉ですから。あ、ところで陛下おかえりなさい」
「・・・・・・」
陛下!なぜそこで溜め息をつくのか!
わたしは流れに乗って挨拶をしただけじゃないか。
「わたし、陛下がよくわかりません」
陛下を見上げて首を傾げると、陛下もわたしを見下ろしていた。
「私はおまえがよくわからん」
あら
「おあいこですね」
そもそも一日二日で出会ったばかりの人間を理解できるなんてそうそうあることじゃないんじゃないかな!
陛下がそのまま椅子に座ったので、わたしも机の前に立ち、机を挟んで陛下と向かい合う。
「まだありますよ。人生とは今日一日のことである。人間が持っている資産のなかで最も大切なのはお金ではなく時間である!」
と言ったのはD・カーネギーにロバート・シュラー。
指折り数えて紹介すると陛下はふうんというような仕種で椅子の背もたれに背を預けた。
「随分多くの言葉を知っているようだな」
わたしは腰の少し上くらいで両手を組む。
「わたしじゃありません。都です」
「ミヤコ?」
「わたしの幼馴染です」
目を細めて告げると、何故か陛下も少し目を細めてみせた。
「幼馴染、な」
そう。幼馴染。
わたしの親愛なる都ちゃんである。
しかし、わたしの幼馴染と侮ることなかれ!
「聡明で利発でだいたいいつも穏やかな笑みを浮かべていて、ひどく大人びた、面白いほど絵に描いたような人間なんです!」
あの小さな頭に驚くほどのありとあらゆる分野に精通する知識と見識を持っていて、しかしそれをひけらかすことは絶対しない。
恐らくこれは、神童ではなく天才なんだろうと幼心に思ったものである。
と、要求されたわけでもないのに、何故熱くわたしが都について語りだしたのかというと、もちろんそれはわたしが都について語らずにはおれなかったからだ。
「それで?」
長い足を組む陛下。
わたしは高そうな上着を避けるようにして机に両手をついた。
手のすぐ横、木製机の木目がやたらと優美な曲線を描いている。
「それで、わたしが言いたいのはですね。突然お城に押しかけてきて泊めていただいてなんですけど、ひとつの部屋に篭りっきりなのはちょっと退屈すぎます」
そう!今日という一日をわたしはアメリとふたりで静かにだらだらと過ごしたのだ!
なんと暇なこと暇なこと。
あまりに暇すぎて脳みそ溶けるかと思った!
付き合ってくれるアメリにだっていい迷惑って話だよね。
始終笑顔で相手をしてくれたアメリありがとう!
とにかく、わたしはこの暇さ加減に嫌気が差したのだ。
だらだらは日本では大好きだったけど、異世界に来てあのだらだらは度を行き過ぎるというか、逆にそわそわ落ち着かないというか!
曲解してしまえば、空がだんだんと色濃く夜へと向かっていくまで、わたしはただ陛下の帰りを今か今かと待っていたわけだ。
わたしゃ、あなたのカカアじゃないのよ!
想像していただきたい。
別に望んだわけではないけれど、異世界にやってきて、そりゃあね、牢獄にぶち込まれたりするよりはずっとましだけど、碌に読めもしない洋書に長時間目を通さなくてはいけないのだ。何故!
英語を勉強するいい機会だと頭ではわかっていても、残念ながらわたしの意欲と集中力はそんなに長くは続かない。
わからない単語に出会うたび、辞書がないのだから手当たり次第に文脈から見当をつけたりアメリに聞いてみたりするしかない。
立て続けに、それはもう立て続けに、人に訊きっぱなしというのはなかなか気を遣うものだったというのがわたしの今日学んだ成果である。
今まで英語の授業でわたしは何を学んできたのか。
英語の教科書を覗いている過去の自分に叫んできたいね。
君、本気になりたまえ!
と!
そんなこんなで後半にはもうほとんど本への情熱は薄れてしまっていた。
そう。本を逆様にしていても気づかない程度には!
で、何が言いたいのかというと。
「多くは望みません。ただ、せめて、人間として適度な範囲は歩き回らせてください。」
今日のじゃあ軟禁と変わらない。
うん?軟禁?
あ!軟禁されてたのか!
今気づいた!
うわあ。
じゃあ駄目かな?
・・・駄目かも。
疑いのある人間をひょこひょこ歩き回らせたりしないよね。
でもなあ、明日も今日のように過ごして、明後日も明日のように過ぎていくのかと思うと気が滅入るなあ。
机に手を置いたまま恐る恐る陛下の顔を見ると、彼は駄々をこねる子供を見るような顔をしていた。
あれ。
なんだか、ちょっと、拍子抜け。
わたしが机から両手を撤収させていく時、陛下はふう、と溜め息と共に言った。
「・・・わかった。明日から好きにしていい。」
「え!」
驚きを思わず声にすると、怪訝な目を向けられる。
「お前が言い出したんだぞ?」
「え、それはそうですけど」
だってこんなあっさり許可してもらえるなんて。
「ただし城内に限る。王宮の外へは出せん」
「充分です!」
だって今日は広々としているとはいえ一つの部屋にじいっと居たのだ。
折角の旅行に来たのに風邪を拗らせてホテルのベッドに横たわってるような気分を明日は脱出できる!
「陛下!ありがとうございます!」
明日のことを考えるとなんとなくわくわくしてきてつい、にまにましながら感謝の意を伝えると、陛下が少し目元を緩めたように見えた。