隻眼と刺青
イェレミアスとエリノアやストラの仲は良いとは言い難かったが、それでもガラナというらしいガラス細工職人の街までの距離が短かったのが幸いし、そこまで大きないざこざは起こらなかった。街の入り口で止まって感慨深げに門を見ていたイェレミアスに、何とはなしに声を掛ける。
「意外と近いんだな。オレ達が居るし3日で着くとは思わなかったよ」
「ここは王家や貴族が御用達の店が多くてな。だからこの街に繋がる道路は舗装されていて走りやすいんだ。にしてもお前……」
ストラとエリノアを乗せた馬を引っ張って、イェレミアスの馬と同じ速度で走ってきて尚若干息が上がっているだけのフォルクマール。最早突っ込む気も起きない、といった態でイェレミアスはため息をついた。
「お前の身体能力はどうなっているんだ? 普通の人間なら、馬と同じ速度でついてこられるはずが無いだろう」
「まぁ普通はな。……あぁ、先に言っておくけど、オレが特殊なんであって山向こうが皆こんな奴な訳じゃないから」
「……本当に、良く分からんなお前は」
呆れたように言いながら、イェレミアスも馬を下りて先頭に立って歩き出す。
「ここからは人も多いからな、歩こう。小僧共は……」
「小僧じゃないっ! おれも歩くよ!」
言うが早いかストラが馬の鐙を蹴って地面に着地した。教えたはずは無いのだが―――身体の記憶、という奴かもしれないな、とフォルクマールは一つ頭を振ってそれ以上の思考を打ち切り、エリノアに向き直った。
「ほら、お前も。歩いた方が良いだろ?」
「……そうね。腰も痛いし」
慣れていない馬の背にほとんど3日間乗り続けだったのだ、疲れるのも無理はない。オレが負ぶうか? と尋ねたがエリノアは鼻で笑っただけだった。
「そこまでやわじゃないしおばさんでもないわ。それよりほら、イェレミアスさん待たしてるわよ」
顔だけ振り向けると、エリノアの言葉どおりイェレミアスがフォルクマールたちから3歩ほど進んだところで立ち止まり振り返って待っていた。慌ててエリノアを馬から降ろし、馬を宥めながら追いつく。
「悪い」
「いや。……こっちだ」
イェレミアスはそう言うと、エリノアたちに気を遣ってかゆっくりめの歩調で歩き出した。
帰ってくるのは1年振りになる懐かしい街並みに、イェレミアスは目を細めた。時々この街に居る少女から手紙をもらってはいたが、正直任務を引きずったままの状態で帰って来たくはなかった。……それでもやはり、懐かしいものは懐かしい。
「……おや、シーカヴィルタさんとこの旦那さんじゃないか。もう落ち着いたのかい?」
「いえ……少し用があって。エレオノーラは家に?」
「あぁ、出かけたとこを見てないから居るはずだよ」
ありがとう、と声を掛けてきてくれた近所のおばさん(とはいえイェレミアスと年はそう離れていないのだが)に礼を言って、少しだけ歩調を早くした。
帰る、と連絡もしていないし、任務が残っている以上長居できるはずも無い。けれどイェレミアスの頭がいくらそう言い聞かせても、早くなる足は止まらなかった。
やがて見えてくる、こぢんまりとした小さな一階建ての家。その前にある花壇の手入れをしていた少女は、何かに気付いたようにこちらを向いて―――イェレミアスの姿を捉えた瞬間に、その琥珀色の目を見開いた。
「……イェレ……ミアス……?」
「……あぁ、そうだ。ただいま、エレオノーラ」
「イル……イルだっ!」
手に持っていた水桶も放り出して少女―――エレオノーラはイェレミアスに駆け寄ってきて首に抱きついた。イェレミアスも少女の身体に腕を回してそれに答える。しばらくそうしていたのだが……
「……なぁ、せっかくの再会を邪魔して悪いんだけど」
不意に後ろから声を掛けられて我に返り、ぱっとエレオノーラの身体に回していた腕を放す。一方の少女は名残惜しそうにイェレミアスの右手を握っている。
「その娘がお前の大事な奴か?」
「……そうだ。エレオノーラという」
「なんだよイル、客が居るんなら早く言えよな! おいらはエルだ。あんたは?」
「オレはフォルクマール。こっちの女がエリノアで、坊主がストラだ」
「坊主じゃないっ」
ストラとフォルクマールのやり取りを面白そうに見ていたエレオノーラは、ちょい、とイェレミアスの袖を引っ張った。
「なぁ、楽しいな、こいつら。泊めんのか?」
「あぁ、いや……フォルクマール、どう……」
「宿に行くよ、今日のところは」
ニヤリ、と笑うフォルクマールはそう言って、エリノア、と声を掛ける。知らない街のはずなのに何故か宿の方へ歩き出すエリノアを呆気に取られつつ見送っていると、エリノアの後ろについて歩き出していたフォルクマールが右に半分だけ振り返った。
「今日のうちに、エリノアを説得するからさ。お前もエルちゃん? に頼んどいてくれ」
「ちゃんじゃねーよっ! おいらはエルっつってんだろ!」
「エレオノーラ。……分かった。では明日、ここに」
荒い言葉遣いで言い返すエレオノーラをたしなめ、イェレミアスはそう返した。フォルクマールはただニヤリと笑うとこちらに背を向け、一度だけひらりと手を振ってみせる。承知した、の意だろう。
「……なぁ、イル。あいつも軍人?」
明らかに疑っているエレオノーラのその言葉に、イェレミアスは思わず噴き出しそうになった。寸でのところでこらえ、エレオノーラと共に久し振りの家に入りながら答える。
「軍人、ではないな。あいつは準騎士という、特殊な任務を受けた……まぁ、兵士か」
「文官っぽくは無かったもんな。でも空気読んでくれるし、良い奴だ。な、イル」
無邪気に向けられた笑みが胸に刺さる。それでも、上手くないと分かっている作り笑いを顔に貼り付けて、あぁ、と返した。
「あの子の所ね? あたしとストラを預けるのは」
宿を取って開口一番、エリノアは詰め寄るようにフォルクマールにそう言った。
「……姉ちゃん……兄ちゃんは、」
「ストラは黙ってて。……ねぇフォルクマール。あたしはやっと、あんたをこうやって呼ぶのに慣れてきたくらいよ。何回空、って言いかけたか分からないわ。それくらい、あたしは適応能力が低いの。なのにあんたは、さらに別の状況にあたしを置いていくって言うの?」
扉の前に仁王立ちするエリノアを、ベッドに腰掛けていたフォルクマールはまっすぐに見据えた。
「その通りだ」
簡潔な言葉だったが故に、聞き間違いかと思ったのだろう。視界の端にあるストラの表情までも怪訝のそれだ。
だからフォルクマールは再度言う。
「オレの意見は変わらない。お前はここに残れ。あの子なら信用できるだろ」
「……イェレミアスさんだってリーベルさんだって、あたしは信用してないわ。なのになんで、あの子だけ信用できるのよ?」
「目だよ。……リーベル殿もイェレミアスも何か隠してるのは分かる。だからオレも信用はしてるけど信頼はしてない。けど、あの子はまっすぐだったろ? 裏表もなさそうな、まっすぐな目だ」
何を言い出すのかと思えば……、とエリノアが呆れたような顔で首を振る。しかしフォルクマールとて別に血迷っている訳ではない。
リーベルやイェレミアスだってまっすぐだと言われれば確かにそうだ。しかしその瞳はどこか濁っていて―――否、淀んでいて―――ストラやエリノア、それにさっき見た少女の瞳のそれとは程遠い、どこか遠くを見つめているように、フォルクマールには思えるのだ。
「……そうだわ」
不意にエリノアが言って、いつの間にかぼんやりしてしまっていたらしいフォルクマールははっと瞬きをした。
「あんたに聞きたいことが二つあったの。それの答えによっては、あたしもあんたの判断を受け入れるわ」
内心たじろいだが、フォルクマールは無言で先を促す。長い話になると思ったのだろう、エリノアはテーブルの椅子を引いてフォルクマールの正面に座った。
ストラが居心地悪そうにフォルクマールの居るベッドとは別のベッドに座っているのと一瞬目が合って、良いからそこに居ろ、と目配せをする。……子供であるからこそ、そして村で迷子と呼ばれて“よそ者”であることを余儀なくされていたからこそ、もうこの少年を仲間はずれにしてはいけないだろうと、そう思ったので。
「……まず一つ目。あんた、城で何か言いかけたでしょう? リーベルさんと試合する前に」
「……どの話だ?」
正直思い出せなくて首を傾げると、焦れたようにエリノアが言い募った。
「悪い予感の話よ。今はどうなの?」
「……あぁ、何となく思い出した……けど、答えは変わってないな。この世界は独立していると同時に、オレのものでもある。オレが作者だから。……それは、分かるか?」
「……作者、って何?」
恐る恐るストラに尋ねられ、エリノアが瞠目し何か言いかけるのを目で制してからフォルクマールは答えた。……もう、少年には自分がこの世界の住人ではないと伝えてあるのだ。隠す必要はない。
「この世界、オレが目で見たものを真似て作った、本の一部なんだ。オレは本来、本を……それも作り話を作る仕事をしてたから」
「話を作るの? むかしむかし……みたいな?」
「まぁ似たようなもんだ。あながち間違いじゃない」
「そっか……ごめん兄ちゃん、続けて?」
申し訳なさそうにそう言ってくるストラに心配要らないと笑って見せてから、フォルクマールは再びエリノアに向き直った。
「……ストラにはもう言ってあったんだ。オレはこの世界の住人じゃないと」
「……先に言って欲しかったわね。またあたしだけ、仲間はずれ」
ふ、と鼻で笑って見せたエリノアの声はしかし驚くほど覇気が無い。本気で―――傷つけた、のだろう。
「……悪かった。すぐに言えばよかったのに、言わなかったのはオレだ」
「もういいわ。続けて」
ぶっきらぼうに、俯いたままそう言うエリノアの様子が気にかかったが、時間は限られている。ひとまずは隠し事をなくそうと、フォルクマールは一つ息をついて続けた。
「オレは作者だ。そして、オレが書いた剣の命とオレ達が進んでるルートは全く違う。これは聞いた話だからオレも詳しくは知らないけど……能力者は、本の通りに進んで終わりを迎えるらしい。例え能力者が本の中で怪我をしても、能力者が元の世界に帰る時にそれは治る。でも……」
ぎり、と奥歯が鳴ったのが二人に聞こえていなければいいが、と思いつつ、フォルクマールは努めてなんでもない風に続ける。
「作者は、その限りではない。……そう、聞いたよ」
「……まさか」
ぱっと顔を上げたエリノアの目が見開かれている。聡いエリノアのことだ。皆まで言わずとも察しているだろう。……そして、ストラも。
「オレがこの世界に来たことで、この世界の均衡は恐らく崩れてる。そして完全に崩壊してしまえば、オレ達はここから出られないまま消滅するし……そうでなくてもし帰れても、怪我はそのままだ。もしかしたらそれはオレだけで、お前や侑ちゃんには関係ないかもしれないけど」
部屋を静寂が満たした。それを破ったのは窓ガラスに当たった水滴だったが、それが激しくなってもしばらく誰も口を利かなかった。
「……それを、あんたは……最初から、気付いてたの……?」
「……最初は、半信半疑だったけどな」
そう苦笑で返すと、エリノアは突然椅子を蹴倒してフォルクマールに突進してきた。半ば呆然としながら―――むしろ他人事のようにそれを見ていたフォルクマールは、次の瞬間思い切り頬を張られていた。
「ふざけんじゃないわよこの馬鹿! なんであたしがっ……何でっ……!」
頬を張られた痛みなどより、床に座り込んで泣きじゃくるエリノアの声のほうが痛かった。
「何のためにあたしがついてきたのよ! 足手まといになるためだったっていうの!? ふざけんじゃないわ、分かってたんならどうしてっ……!」
「……分かってたから、だよ。拓磨さんや、お前の気持ちが」
明に言われて目が覚めて、初めて思い当たったのだ。
一体どんな気持ちで自分に付き合い、心配してくれていたのか。
分かったからこそ、フォルクマールは何をしてもそれに応えなければと、無意識下にそう判断していた、それだけだと。
「オレは今年の十一月に死ぬつもりだった。……オレの、誕生日に」
こうもはっきり言葉にされるとは思わなかったのか、びくり、とエリノアが肩を震わせストラも悲痛な表情を向けてくる。
「でも拓磨さんも侑ちゃんもお前も、それ以外にもファンの人たちとか……オレを惜しんでくれる人がこんなにたくさん居るんだ。なら……ここを乗り切って、帰るしかないだろ?」
自分でも驚くほど不敵に笑みを形作ったのを、ストラは何だか複雑な表情で、そしてエリノアは涙で濡れた頬を拭おうともせずに見つめる。また室内が雨の音で満たされて―――
「……頭良いくせに馬鹿ね、あんた」
知ってるよ、とフォルクマールが返すと、エリノアは少し呆れたような視線をフォルクマールに向けた後、蹴倒した椅子を元に戻して座った。
「で、次なんだけど」
「……切り替え早いね、姉ちゃん……」
ストラと同じ事をフォルクマールも思ったが口には出さず、フォルクマールはおぅ、と答える。
「……あんたが二十人殺した、って言ってたあの時。殺したその、本当の理由は?」
思ってもみない質問に絶句しつつ目を泳がせると、唇を噛み締め俯くストラが目に入った。ストラの前で言いたくは無かったのだが……しかし、エリノアのこの様子だと切り抜けるのは無理だろう。
せり上がってくる激しい嘔吐感に堪えながら、フォルクマールはゆっくりとエリノアに視線を向けた。
「……坊主の居た村を襲った、賊みたいな奴らで……坊主を、殺すから引き渡せって、そう言ってきたときに、化け物って、呼ばれたから、だな」
喉に空気が引っかかって出てこない。顔色が相当悪いと自覚している。しかしエリノアは容赦なく問いただしてくる。
「化け物と呼ばれた、それだけで?」
「……そうだ。それが正しい」
逃げてはいけない、とフォルクマールはきつく唇を噛み締めた。
激し易いのは生まれた時から変わらない。だがそれだけで人を殺めるなど、あってはならないことなのだ。
「……あんたも不安定だった、ってことね。分かったわ。ストラ、食堂か台所にここの店主が居るはずだから夕飯の準備頼んできてくれる?」
「あ、うん……分かった」
突然そう言ってストラを体よく部屋から出したエリノアは、先程とは打って変わった優しい手つきでフォルクマールの頭に手を置いた。うなだれたままのフォルクマールにはエリノアの靴と華奢な足しか見えないが、それでもなんとなく優しく微笑んでいるのだろうと、そう思って。
「慰めじゃないわよ」
慰めなどいらない、と言おうとしたのが分かったのか、エリノアはそう言ってフォルクマールの次の台詞を奪った。
「あんたは人と違う。前の世界でも、ここでもそれは変わらないわ。イェレミアスさんも呆れてたし」
よく分からん、と言い切ったイェレミアスを思い出したのか、エリノアは一人くすりと笑ってから先を続ける。
「でも、それとあんたの人柄は別だって、前にも言ったでしょ? あんたは確かに激し易いし、キレたら始末に終えないし前から大変だったわ。でも……もしあの時の理由が本当にさっき言ったとおりなら、あんたはストラの未来を守ったのよ」
「……オレが?」
違う、自分は壊しただけだ。と言い募ろうとしたフォルクマールの頭を軽く押さえつけて言葉を封じ、エリノアはさらに言う。
「あんたは壊し手でもあるけど、作り手でもあるわ。破壊を経験したからこそ創造できる物もあるでしょ? ……あまりして欲しくはなかったけど、覚悟が、できたんでしょ?」
他人を殺しても自分が生き残りたい。確かにそう思えるように……否、願えるようになったのはあの一件からだ。一度他人を殺めてしまったから開き直ったとも言えるが―――……
「それならあんたはもう、戦場で死んだりなんかしないはずよ。あたしやストラがここに残っても、きっと帰ってくるんでしょ?」
驚いて顔を持ち上げれば、すぐ近くにエリノアの顔がある。目の下の隈も泣いた後の赤い目も、フォルクマールを後悔の念で苛んでいくが……エリノアの表情は穏やかだった。
「それならあたしが言うことはもうないわ。大人しく、あのエルって子のところにお世話になるつもりよ。あんたが帰ってくると、あたしとストラと約束してくれるならね」
「……あぁ。約束する。必ず帰るよ」
顔を上げたまま呟くように、けれどはっきりした声で答える。上等、とエリノアはフォルクマールがいつもするようにやや乱暴にフォルクマールの髪を掻き回してから踵を返した。
「あたしもストラの手伝いしてくるわ。剣の手入れ、今のうちにちゃんとしておきなさいよ」
「あぁ。……分かった」
ぱたん、と扉が閉じる。それを待たずに、フォルクマールはベッドに倒れこんで両手で目を覆った。
「っあー……弱いなぁ、オレは」
これは、強い振りを生まれてから二十四年間続けてきたことのツケなのだろう。
泣かないことが、強さだと思った。膝を屈しないことが、頭を垂れないことが。
―――だがそれで救えたものなど、いくつあったのか数えられるほど少ない。傷つけたものの方が恐らく、いや確実に多い。
だがそれでも。
「……帰る、か……」
帰る場所ができたのなら、もうフォルクマールは後ろを振り返っている暇など持たない。時間は有限だ。それをどう使うかで、帰れるか否かが決まるのだから。
「見てろよ、明。オレのこれはもう癖だ。多分変わらない……でも、オレはオレの、やりたいようにやる。『やりたいようにやれ』……それが、お前の言いたいことだったんだろ?」
やっと気付いたの? と呆れたような明の声が聞こえたような気がして、フォルクマールはニヤリと笑うと身を起こして剣を手に取った。
一晩というのはあっという間だった。久し振りに帰ってきたのだからとベッドの中で夜通し話していたら、もう窓からは明るい日の光が差し込んできている。昨晩雨が降っていたはずだがいつの間に止んだのか、イェレミアスには分からなかった。
「……エレオノーラ。もう朝だ。起きるぞ」
「やだ。起きたらイル、行く準備始めるんだろ? あと一晩ここに居ろよ。久し振りなんだしさぁ」
エレオノーラがそう言って唇を尖らせる。その唇を軽く塞いだ後、イェレミアスは先にベッドを出た。
「……エレオノーラ、引き受けてくれるのはありがたいが……どこに寝かせるつもりだ?」
「あぁ、あの坊主と姉ちゃん? 別に、団長のとこから毛布とか借りれば良いだろ」
「……お前、まだ自警団の活動に参加していたのか」
呆れ半分、そしてこれは表に出さないよう気をつけたが―――恐れ半分で、イェレミアスは返した。対するエレオノーラはというと、心外だ、とばかりに頬を膨らませベッドに胡坐をかいている。
「当たり前だろ? おいらが頼りっぱなしになるのがいやだって言ったら、イルだって納得してたじゃん」
「それはそうだが……」
正確に言えば、イェレミアスは自警団の活動に参加するのに反対なのではない。ただ団長であるレヴァールという男に、今は会いたくないだけだ。
勘の鋭い奴ならばすぐに、イェレミアスがリーベルと謀って事故を引き起こしていることを見抜いてしまうだろうから。
「……まぁ良いけどさ。朝飯食っていくだろ? 作るよ」
ぴょん、とベッドから飛び降り軽快な足取りでイェレミアスの横を通り過ぎる少女に、イェレミアスはため息を吐きつつ後に続いた。
挨拶に行くぞ、と左隣に座っていたフォルクマールに声を掛けられた時、ストラはパンを頬張った直後で、思い切り喉に詰まらせた。咳き込んでいると慌てたように背中をさすってくれる。
「……けほっ。……それで、どこに?」
「あぁ……まずはエリノアと一緒に、昨日のエルって子のとこだな。それから、ガラス細工職人の誰かにお前の面倒を見てもらうように手配する、と。あーでも、自警団と近づいたが早いのか……?」
ま、考えとく。と半分以上考えがそっちに向いている様子でフォルクマールが言って、ごちそう様、と手を合わせる。
「……兄ちゃん?」
「ん、先に宿の精算してくる。まだ食ってて良いぞ」
「うん、分かった」
一瞬だけ。
覚悟を決めたような右目に宿る鋭い光に、フォルクマールがまた一人で危ない目に遭いに行くのではないかと心配したのだが……気のせいだろう、とストラは再び目の前の食事に没頭した。
宿屋の主人に一泊分の料金と少しの口止め料を払っていた時、どかどかと荒々しい足音と共に大柄な男が宿屋に顔を出した。
「おっさん、居るか!?」
「……あぁ、レーヴィか。どうし……」
「そいつか! 準騎士だって男は!?」
現れたその男―――レーヴィというらしい―――は、フォルクマールの姿を見つけるなりフォルクマールに詰め寄ってきた。何事かとこちらを振り向く宿の客達の視線が、主にフォルクマールに突き刺さって痛い。
「……そうですが、貴方は?」
とりあえずそう尋ね返すと、レーヴィは右の首から頬までの刺青を歪ませてニヤリと笑った。
「俺は自警団団長のレーヴィ=イスフェルド。リーベル=イスフェルドの弟だ」
「……リーベル卿の?」
リーベルのストレートの金髪とはまた違う短く刈り込まれ尖った金髪、そして何より目を惹く首から頬にかけての刺青。咄嗟には分からなかったが、言われてみれば面影がある。
「貴方の兄上にはお世話になりました。それで、今日はどういった御用件で……?」
「あーまどろっこしいな。敬語外せよ。お前24歳なんだろ? 俺と同い年なんだから別に敬語必要ねえよ」
レーヴィはフォルクマールの顔のすぐ前で掌を振り、それからまたニヤリと笑ってそれより、と言った。
「お前兄貴に勝ったんだってな。俺とも一戦やろうぜ?」
「団長! 見回り放り出して急に行かないで下さいよ! ……って、その人……」
「お、ちょうどいいとこに来たな。お前審判しろよ。こいつと一戦やるから。……良いだろ? 準騎士の兄ちゃん」
「……フォルクマール=ヴィル=エックハルトだ」
それだけ言ったのを肯定だと受け取ってくれたらしい。レーヴィは満足そうに笑って踵を返した。
「そういうこった。こいつ借りてくぜ、おっさん」
「……き、気を付けて……」
宿屋の主人は気弱そうにそう言って、フォルクマールを送り出した。
「……遅い!」
エリノアが怒鳴るように言って、食器の片付けをしていたストラはびくりと肩を強張らせた。それに気付いたらしいエリノアが慌てて謝ってくるが、またいらいらと部屋の中を歩き始める。
「……全く宿の料金払ってくるのにどんだけ時間かかってんのよ、いつもの行動あんなに早いくせにおかしいわ!」
「あのー……」
食器を引き取りに来たらしい宿屋の主人が、気弱そうな表情で扉の隙間から顔を覗かせた。ストラが重ねた食器を持っていくとありがとう、と受け取るが、なかなか立ち去ろうとしない。
「……どうしたんですか?」
仕方なくストラがそう助け舟を出すと、主人は困ったような顔で告げた。
「あなた方のお連れさん……準騎士さん、自警団の団長と一緒に外へ行かれましたよ」
互いに鞘を付けたままの剣で打ち合うこと10分。フォルクマールは短剣しか持っていなかったにも関わらず、一撃一撃の重さと的確な動きにレーヴィは降参の形に手を挙げるしか出来なかった。これで長剣まで持っていたら一体何秒でのされていたのか……と、すっと短剣をレーヴィの眉間からどかしたフォルクマールを見上げながら、バランスを崩して倒れたままのレーヴィは考える。
「降参。いやぁー……こんな簡単に負けるたぁ思ってなかったぜ。お前本当に強ぇんだな、フォルクマール」
「いや、たまたまだろ。オレも真剣だったら2回くらい死んでただろうし」
「……真剣だったら俺が5回死んでんだろーが」
仰向けになったままぼーっと空を見ていると、フォルクマールが横にきてすとんと腰を落とした。
「……しっかし、まさか隻眼だとは思わなかったぜ。しかもそれで反応できんだもんな」
「そうか? 別にこんなの慣れだろ」
空を見上げるフォルクマールの横顔に風が吹きつけ、前髪に隠されていた瞼がちらりと覗く。せっかく整った顔なのに少々もったいない気もするが、それはそれでこの男らしいとも思う。
初めて会ったような気がしない―――……
それはフォルクマールも同じだったのか、すぐにこうして軽口を叩き合えるようになった。敬語も堅苦しいのも嫌い、なのはお互い様だったようだ。
「なぁ……お前、グラドコフに何しに行くんだ?」
「平和交渉」
空を見つめたまま簡潔にフォルクマールは答えた。……自分は頭があまり良くないと知っているレーヴィは怪訝を隠さずに尋ねる。
「平和交渉って……文官の役目じゃないのか?」
「普通はな。でもこの3ヶ月で18人外交官が死んでるんだと。それで、腕の立つオレを派遣しようって話になったらしい」
「……そこで自分が腕の立つ、って言えるとこがすげぇよ、お前。嫌味にも聞こえねぇし」
軽い口調で茶化しながら、しかしレーヴィは内心で首を捻った。
ただ腕の立つだけで、あの兄や国王や大臣達が外交官のような役目をほとんど何も知らないフォルクマールに任せたりするだろうか?
いつの間にか顔に出ていたらしい。こちらを振り向いたフォルクマールが苦笑を頬に浮かべてレーヴィを見る。
「……おかしいと思うよな。オレも思うよ。でも他に、方法が無かったんだよな。準騎士を拝命してその任を受けなきゃ“山向こうの人間”を名乗る怪しい男でしかないし、銀髪の……オレの弟を探す目的なんかそっちのけで処刑されたかもしれない。あるいは戦場に行かされて戦死するか……とにかく、オレの同行者とオレの身を守ろうと思ったら他の手は無かったんだ。金の稼ぎようも無いし」
「……兄貴は、説明しなかったのか」
視線を合わせていられずに目を閉じて静かに問う。フォルクマールの僅かな逡巡の気配の後、まだ迷っている風情でフォルクマールは切り出した。
「……お前に言うのは、間違ってるかもしれないけど……リーベル卿の目は淀んでたよ。国王からの命だ、としかオレは聞いてないし……」
「フォルクマール!」
不意に後ろから女の怒鳴り声が聞こえ、レーヴィは何事かと起き上がって振り向いた。ゆるくウェーブした茶髪が印象的な美人だ。
「あんた一言くらい言って行きなさいよ! いつまで経っても帰ってこないから心配したじゃないの!」
「母親かよお前は……」
げんなりした表情でフォルクマールが返す。と、女の後ろから銀髪の少年がひょこっと顔を出して、レーヴィを見て少し怯えたように後ずさった。
「に、兄ちゃん、その人は……?」
「あぁ、こいつはレーヴィ。この街の自警団の団長らしい。……刺青入れてるけど別に怖くないぞ。オレだって片目だけどそんなに怖く無いだろ?」
「……最初怖かったけど」
「初めて会ったときはまだ片目じゃなかっただろーが。……っと、レーヴィ、ガラス職人で弟子を取ってくれそうな人、知らないか?」
急に問いかけられて、立ち上がろうとしていたレーヴィは中途半端な体勢のままいくつかの店を挙げた。
「お前らのいた宿の3軒先のオーディンって店、それから街の中心部にあるアルトラケって店、あとは……あぁ、エルの家の隣にサラがあるな」
「エルって、イェレミアスの奥さんの?」
まだ座ったままだったフォルクマールにそう問いかけられて、立ち上がったレーヴィは驚きを込めて見下ろした。
「イルを知ってんのか?」
「あぁ、この街まで連れてきてくれたのがイルだった。……ここから先は別行動の予定だから、もしかしたらもう出発したかもしれないけど」
「行くぞ!」
フォルクマールが立ち上がるのも待たずに、レーヴィは走り出していた。
……えー、まずお詫びを。
グラドコフへ入る予定だったんですが、予想外に寄り道をしてくれたものでまだ入れていません。次……の途中からは入れると思うのですが……
次までは春休み中に書けそうです。それ以降はまた亀になるかと思われますが、どうかお付き合い願います。
お読みいただきありがとうございました!