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藍色の疾風  作者: 黒詠
ガラスの子馬
7/10

儚き契り

 ストラと共に風呂場までやって来たフォルクマールだったが、包帯を外そうと手を頭にやろうとしたとき、うっすらと血の跡が残る手のひらに気付いてぐっと拳を握った。

「……兄ちゃん? どうしたの?」

 ストラの怪訝そうな声にはっと我に返り、慌てて笑みを取り繕う。

「何でもない。それよりほら、背中痛いなら脱がしてやろうか?」

「いっ……良いよ! 脱げるもん!」

 脱がされてはたまらない、とばかりに服を脱ぎだした少年を微笑ましく見守りながら、フォルクマールも手早く服を脱ぎ腰にタオルを巻いた。

「わぁ……」

「意外と広いな」

 木製の引き戸を開けると、城のもの程ではないが男5人くらいなら軽く入れそうな浴槽が石で造られていた。その中には並々と湯が張られていて、隣に立つストラが楽しそうな声を上げる。

「ストラ、先に軽く体流すぞ。滑りやすいから気を付け―――」

 言いながら一歩踏み出したフォルクマールは、そこにちょうどあった水溜まりに足を取られて尻餅をついた。

「兄ちゃん! 大丈夫?」

「あぁ……ってて、派手に打ったな……」

 心配そうに覗き込んでくるストラに苦笑して見せながら、注意深く立ち上がる。と、ストラの何とも言えない表情が気になって視線を追った。

「……あぁ、この傷か」

 昔、明を失って一年経った日だったか、自ら心臓の上に付けた傷だった。その時は海藤がフォルクマールを研究所まで運んでくれて事なきを得たが、今思い出すととんでもないことをしたものだと思う。

「……兄ちゃん、これ、痛くないの……?」

「もう塞がってるし、痛くないよ。大丈夫」

 自分が刺されたかのような苦しげな少年の表情に、フォルクマールは思わず手を伸ばして頭を撫でていた。しばらくそうしているとストラの表情がふっと和らいで、赤い瞳がまっすぐにこちらに笑いかける。

「そっか。ならいいや」

 優しいな、お前は。そう思ったが、ストラに言えばまた激しく否定するだろうと、フォルクマールはストラの髪をかき混ぜるだけに留めた。


 ―――気が付いたら逃げていた。誰からかも、何故かも分からなかったが、何となく、捕まったら殺される、という予感がしていたからだと思う。あるいは逃げろと誰かに言われたからか。

 ―――誰に、だろう?

 そんな場合ではない、今は走れ、と指令を出し続ける脳に従って再び駆け出そうとしたとき、ふと後ろから熱い風に煽られて何事かと振り返った。

 まず目に飛び込んでくる、赤。響いてくる怒声と、悲鳴。

 知らないはずの見慣れた美しい街は、すべてが炎に包まれていた。

「……そ、んな……兄さん!」

 勝手に動く自らの唇から出て来たのはそれだけで、次の瞬間には自分は固く唇をひき結び腰に提げていた鞘から剣を抜き払っていた。

 間近まで迫っていた炎の中から出て来る無数の兵士。顔まで鎧に覆われているそいつらはまるで御伽噺に出て来る魔王の軍勢のようで、自分は剣を握ったまま震えを押し殺す。

 訓練ならいくらでもこなしてきただろう、と手の中の剣が主張しても、強張った自らの体はそれ以上動いてはくれなかった。

 迫り来る兵士にぎゅっと目をつぶった時―――

 火花の散りそうなほど激しい金属音に、自分はゆっくりと目を開けた。

 外套に包まれた長身、目立つ髪、見慣れた片刃の剣。

『とにかく走れ、―――!!』


「……誰……?」

「お、起きたか坊主。ちょうど飯だぞ」

 まだ痛々しい包帯を左目に巻いたフォルクマールが入ってきて、ストラはぼんやりとフォルクマールを見上げた。

「……まだ熱あるか?」

 フォルクマールが心配そうにこちらを覗き込みながらひたりと左手をストラの額に当てる。その手に一瞬、赤いものが見えるような気がしてストラは慌てて首を振った。

「もう熱は無いはずだけど……ストラ、何か夢でも見たの?」

 後から女主人と共にお盆を持って入ってきたエリノアにそう訊かれ、ストラは首を傾げた。

「見た、かも……。でもあんまり覚えてない」

「まぁ、うなされてたみたいだしあんまり良い夢じゃなかったんだろ。忘れとけよ、坊主」

「坊主じゃないっ」

 反射で噛みついてしまってから、微笑ましく見守る女主人に気付いてストラは頬を赤らめた。と、フォルクマールが不意に横から女主人に問いかける。

「この町にこいつでも着られそうな服を売っているところ、ありませんか? オレのじゃ大きすぎますし、エリノアのは女物ですし、流石に服は必要だろうと思うんですが」

 言われてみれば今着ているフォルクマールの服はかなりぶかぶかで袖も何度も折り返している。下も無理やりベルト代わりの紐でウエストを絞り、何度も折り返しているので非常に、何というか、格好悪い。

「そういうことならうちのを持って行くと良い。あたしの息子が着てた奴なんだけど、捨てられなくてね。着てくれるならむしろありがたいよ」

 女主人はそう言って快活に笑い、ストラの顔をのぞき込んでくる。

「お古で悪いけどどうだい、坊ちゃん」

「……えーと、ありがとうございます。いただきます」

 フォルクマールに目配せされてそういうと、女主人は満足げに笑んで手のひらをストラの頭に載せた。

「これくらいおやすいご用さ。しかしお礼が言えるなんて良い子だね、坊ちゃんは。最近じゃ滅多にそんな子見なかったけど、まだ居たんだねぇ」

 しみじみとストラの頭を撫でつつ言った女主人は、さて、と切り替えた顔でフォルクマールに向き直った。

「今日の晩まで泊まる予定だったけど、あんたも坊ちゃんもまだ本調子じゃないだろ? もうしばらく居たらどうだい?」

「そう言っていただけるのはありがたいですが、少々急ぎでして。……あぁそれか、エリノアとストラをしばらくお願いできますか?」

 ぴしりと音を立てて空気が凍りついた気がした。ストラの頭の中は半ばパニックになっていて、ストラは側に居た女主人を押しのけてフォルクマールに駆け寄り、その手に縋る。

「嫌だよ兄ちゃん! おれ、まだ兄ちゃんと居たいのに……!」

「あたしもストラと同意見よ」

「二人とも……」

 ストラとエリノアを交互に見た後、フォルクマールはため息を吐いてから女主人に苦笑して見せた。

「すみません、聞かなかったことにしてください。明日の朝発ちます」

「……そのようだね。さ、冷めちゃったから温め直そう。嬢ちゃん、手伝ってくれるかい?」

「……はい」

 一瞬だけ迷いを見せながらも、エリノアは頷いて女主人の後について行った。居心地の悪さに耐えかねて、ストラは俯いて唇を噛み締める。

「……ストラ、」

 部屋に降りた沈黙を破ったのはフォルクマールの低い声だった。俯いていたストラの前にすとんとしゃがみこんで、フォルクマールはストラを見上げる。

「一緒に居たいって言ってくれるのは嬉しいし、……オレもできるならお前と居たいよ」

「……っなら何で!? 何でおれが、兄ちゃんについて行っちゃ」

「危険だからだ。オレが引き受けた任務が」

 噛みつくように勢いよく視線を上げると、フォルクマールの整った顔が目の前にあった。もう必要ないからか、包帯の巻かれていない左目が嫌でも目に付く。……罪悪感に耐えかねて視線を下ろそうとしたが、フォルクマールがその前に言葉を続けた。

「……オレは、お前にこれ以上怖い思いはさせたくない。本当はオレだって怖いんだろ? ストラ。剣を握って、返り血に染まった外套を纏って。……だから、今すぐじゃないけどお前とはどこかで別れなきゃいけない。その時お前にはエリノアと居て、あいつを守って欲しい」

 思いがけないフォルクマールの言葉に、ストラは目を見開いた。だがフォルクマールの一つしかない瞳に宿る光はまっすぐで、偽りは見えなかった。

「……おれが、姉ちゃんを……?」

「剣を握れ、なんて言うつもりはない。けど、お前にしか頼めないんだ。……やってくれるか? ストラ」

「……ずるいよ、兄ちゃん」

 ストラはくしゃりと顔を歪ませた。

 今までよそ者の迷子だったストラに、頼むと言ってくれた者は居なかった。それは当然の事だと分かり切っていたし、少年兵として売られなかっただけでも感謝しなければならないくらいだったが、だからこそ辛かったのだ。村の子供達が皆、頼まれて、誉められているのを見るのが。

 なのに今、フォルクマールはストラと名を呼び、ストラを頼ってくれている。それだけで、今は十分な気がした。

「良いよ。分かった。おれが、姉ちゃんを守るよ」

 一瞬驚いた風に瞬きをした後、フォルクマールはにやりと笑って頼むぞ、とストラの頭をかき回す。

 少し痛いくらいのそれが、今のストラには心地良かった。


「……待つのは女の仕事だよ、嬢ちゃん」

 台所に来て作業をしていたとき、女主人が不意にそう言った。一瞬何のことか分からなかったが、すぐにさっきの話についてだと分かった。

「あの兄ちゃんは覚悟決めて、危険なのを承知で一人で行こうとしてるんだろ? なら、あんたはあの兄ちゃんの帰る場所になってやらなきゃいけないんじゃないのかい?」

 エリノアは答えずに、軽く焼き直したパンを皿に載せ差し出した。頑ななエリノアの態度に呆れたように女主人は苦笑する。

「……まぁ、あんた達は若い。そのくらいの年の時は悩んでなんぼだからね、しっかり悩みな。―――ただ一つだけ、忠告だ」

 女主人の声音が不意に真剣になり、エリノアは視線を上げる。その声音と同じくらい、女主人の瞳に宿る光は真剣だった。

「あの兄ちゃんは桁外れに強いみたいだけど、当然弱点もある。その弱点の一つがあんたであり、あの坊ちゃんだ。……分かってるんだろうけど、一応言っておくよ。後は自分で考えな」

 さ、持って行こうか。と盆を持って歩き出した女主人について歩き出しながら、エリノアはぎゅっと唇を噛んだ。

 どうすれば良いのかなんて分からない。ただエリノアは不安なだけだ。フォルクマールと離れて、自分もフォルクマールもやっていけるか分からないから。―――いや、フォルクマールは多分やっていけるのだろう。だったら問題はストラと、エリノアだけだ。

「……嬢ちゃん?」

 はっと顔を上げれば、怪訝そうにこちらを見つめる女主人がいて、片手が空いているエリノアは慌てて扉を開けた。中に入るとフォルクマールとストラが並んでベッドに座り、楽しげに笑い合っている。

「……へぇ、お前ガラス細工できんのか。凄いな」

「ほとんど兵士に投げつけちゃって、残ってないけどね。……兄ちゃんに投げつけたのもそれだし」

「気にすんなって。なら丁度良いな。次の街、ガラス細工職人の街らしいんだけど、そこで誰かに弟子入りさしてもらうってのはどうだ?」

「弟子入り……とか、できるかな。おれ、腕怪我したし最近やってないから下手になってるよ?」

 言いながらストラは立ち上がり、女主人から盆を受け取った。その表情は晴れやかで、ついさっきフォルクマールに縋った少年とは別人のようだ。

 何か納得したのだろう、と思って、置いて行かれたような気分が湧いてくるのを無理やり押し殺す。

「わざわざありがとうございます。……お疲れ、エリノア。ありがとな」

 フォルクマールに笑いかけられて、エリノアは俯きながらこくりと頷くしか出来なかった。


 無理をさせているのは分かっていた。元々の適応能力は決して低くないにしても、フォルクマール達の居た世界とは比べものにならない程低い技術力、かけ離れた常識、身近すぎる戦争、どれをとっても容易に受け入れられるはずがない。

 まして、頼りにしている相手は自分を置いて行こうと言うのだ。

「……鬼だな、オレは……」

「……まぁ、昨日のを見たらそう思うかもしれないがな」

 不意に後ろから声をかけられて、フォルクマールは振り向き様に短剣を抜いた。喉にぴたりと当てられた切っ先に驚いた顔をしつつ、落ち着け、とジェスチャーをする。言うまでもなく、昨日あの場に居合わせた兵士―――イェレミアスである。

「……悪い。気配無かったから焦って」

「いや。……というかよく止められるな。あのスピードなら普通は喉を一突きだろう」

「それを狙ってやってるからな」

 軽く返事をしながら、フォルクマールは短剣を鞘に収めイェレミアスに向き合った。

「で? 今日は何だ?」

「何って訳でもないんだが……お前の連れている子供と女、どうするつもりだ?」

 あまりに直球で、フォルクマールは一瞬目を泳がせた。それを見たイェレミアスが苦笑しつつ続ける。

「次の街、ガラナってガラス細工職人の街なんだがな。そこに知り合いが居る。そいつの所に身を寄せるっていうのはどうだ?」

「……見返りは?」

 安全もさることながら、イェレミアスがそう申し出てきた狙いが分からずフォルクマールは低く尋ねた。イェレミアスは瞬きの後苦笑して―――なんだか疲れたような、そんな笑みだったが―――何だろうな、と言った。

「俺にも分からん。分からんが……お前に恩を売っておいて損は無かろう?」

「……オレだけじゃ決めらんないな。しばらく考えて良いか?」

 エリノアは若くて美人な女だし、ストラも華奢ではあるが割と健康な少年だ。次の街でどこかに預けようと思ってはいたが、下手な所に預けて身を売られたとなったらそれこそしゃれにならない。

 フォルクマールの心配も尤もだと思ったのだろう、イェレミアスは一つ頷いた。

「俺も戦場まで行くのに寄りたかったからな。街まで案内する。それは良いか?」

「あぁ。助かるよ」

 それなら明日の朝にまた来る、と言ってイェレミアスは踵を返して去って行った。軍人らしからぬ丸い背中に違和感を覚えたが、寒いからだろうと半ば無理やり自分を納得させて自分も宿の中に入る。

 扉を閉めるときに微かに聞こえたか細い風の音が、まるで女の―――エリノアの心の悲鳴のようで、フォルクマールはぐっと唇を噛み締めた。


 日進月歩とはこのことかもしれないな、とイェレミアスは一人笑んだ。昨日話したときにも頭の回転の速さには舌を巻いたはずだったが、あの鬼のような強さをまざまざと見せつけられたせいか、力に任せて突っ走る印象を抱いていたことは否定しない。……たが今日改めて話してはっきりと、彼の完成度の高さを思い知らされた気がした。冷静に状況を把握する能力もあるし、連れているという少年と女を守ろうとするその姿勢は、この戦争に染まった世界では稀有だ。リーベルが一目置いているのも頷ける青年である。

 ―――思いながら、イェレミアスは次第に重くなる気分を持て余し、立ち止まって空を仰いだ。

「……隊長……」

 嫌だとは言えないし、もう血に汚れすぎた手でそんな事を言うつもりもない。ただ、リーベルもイェレミアスも認めたあの青年を斬らなければならない、その痛みをリーベルと分け合いたかっただけだ。

 だが今ここに居るのはイェレミアスのみで、空に浮かぶ大きな月は、冷たく突き放すような光をイェレミアスに向けていた。

「……仕方ない、か」

 ガラナで待つ愛しい少女のまっすぐな面差しをその中に見ながら、イェレミアスはゆっくりと歩き出す。

 墜ちる先の地獄は戦場よりもマシな場所であることを願おうにも、戦場しか知らないイェレミアスには想像する事すら叶わなかった。


「……兄ちゃん、」

 寝たと思っていたストラの声に、静かに部屋に入ってきたフォルクマールは固まった。油を差し忘れた機械のようなぎこちない動きで振り向くと、ストラの赤い瞳が僅かな光を反射してきらきらと輝いている。

 その宝石のような美しさと懐かしいまっすぐな視線に息が苦しくなるのを自覚したが、フォルクマールはそれを無理に抑えつけてストラに笑いかけた。

「悪い、起こしたか? ……あぁ、起きてたのか」

「後者だね。眠れなかったんだ。兄ちゃんは?」

「似たようなものかな」

 言いながら短剣を取り出してベッドの脇に置き、外套を脱いで椅子の背に掛ける。それ以上着替えるのが面倒でベッドに向かおうとすると、兄ちゃん、とまたストラが呼んだ。

「……どうした、ストラ。なんなら一緒に寝るか?」

 狼狽え躊躇するかと思ったストラはあっさり頷いてフォルクマールのベッドに潜り込んできた。フォルクマールは内心苦笑しつつ、若干狭くなったベッドに滑り込む。ストラの体温がベッドの中をじんわり温めていて、冷えて強ばっていた手足が感覚を取り戻していくのを感じつつ、フォルクマールはくしゃりと目の前の銀髪をかき混ぜた。

「ごめん、待っててくれたんだな。ありがとう」

「……ううん。おれが、訊きたいことあったんだ。兄ちゃんに」

 今日は風があったな、と頭の隅で思いながら、フォルクマールは無言で先を促した。

「―――兄ちゃんはどうして、人を今まで殺したことが無かったの?」

「……どうしてそう思ったんだ? って訊くのは狡いよな。分かった、話すよ。但し、エリノアには何も言わないでくれるか?」

「良いよ。分かった」

 今までで一番大人びた様子で頷いてみせるストラに、フォルクマールは今更のようにストラが十三歳の少年であることを思い出した。これまでずっと小さな子どものように扱ってきたことを少し申し訳なく思いながら、フォルクマールは静かに口を開く。

「……オレな、普通の人間じゃないんだ。別の世界から来てて。そこでもオレは特殊だったけど……早く言えば、どんなに強い奴が大勢かかってきても殺す必要が無いくらい、強く造られてるんだ」

「……ならどうして、昨日は……?」

「“化け物”って、呼ばれたからだ。我を忘れて、剣を抜いて……バカだよな。そんなので人を殺すだなんて。……オレは、人を殺めたくなんかなかったのに」

 伏せられたストラの視線がどこに向かっているかは分からなかったが、どちらにせよこちらには向きそうに無い。呆れて当たり前だよな、とフォルクマールは薄く笑んで……

 がくりとこちらに倒れ掛かってきたストラをぎょっとしつつ抱きとめた。慌てて顔を覗き込むと、あどけない顔ですうすうと寝息を立てている。なんとも言えない感情を持て余しながら―――しかし、さっきまでの重苦しい気分がどこかへ行っているのに気付いて苦笑した。

「お前に懺悔したって仕方ないよな。聞いてくれてありがとよ、坊主」

 布団の外に出ていた指が抗議するようにぴくりと動いたのにも少し笑って、フォルクマールは布団をストラと自分にかけて目を閉じた。


 出発を明朝に控えた夜。今日は酒も禁止令を出して兵士達を早めに休ませ、自分もそろそろ休もうかと考えていたリーベルは、国王に呼ばれて部屋へ訪れた。跪き国王が口を開くのを待つこと5分、ようやく国王は声を絞り出した。

「……戦況はどうだ、リーベル」

「……残念ながら、思わしくありません。グラドコフは騎馬槍術が基本の軍隊ですので、剣の歩兵中心の我が国軍はやはり圧されていると……それにグラドコフは、ヤールの援助も受けているようで」

「ふん……相変わらず人の手を借りねば立てぬか、あの若造めが」

 フォルクマールと引き合わせて以来だろうか、国王の口調が以前よりも高圧的になったような気がする。リーベルは内心苦笑しつつ、表面上は冷静を装って続けた。

「私は明朝に出立する手はずになっております。陛下はいかがなさいますか」

「……私にも出ろと申すか、リーベルよ」

「恐れながら。陛下に出て頂けるならば、兵士達の志気も上がりましょう」

 しばしの沈黙の後、国王は一つ頷いた。

「よかろう。リーベル、そなたと共に出る。準備をさせよ」

「御意」

「……グラドコフ帝国……積年の恨み、今度こそ晴らしてくれようぞ」

 反応に少し悩んだが結局何も言わないまま、リーベルは一礼して部屋を出た。

「……これで終わり、か……」

 この辺りは限られた人間しか立ち入ることができないため、通る人間も少ない。だからではないはずだが、吐息と共に吐き出した呟きは、日頃うるさいくらいに反響する廊下の壁にすらも届かなかった。


「……大丈夫か? エリノア」

 余程眠そうな顔をしていたのだろう、フォルクマールにそう声を掛けられた。大丈夫よ、と笑って見せようとするが、突然の欠伸に遮られてしまう。……ストラまでも心配そうにこちらを窺っていて、一人足を引っ張っている感覚にまた囚われそうになった。

 ―――ここで、フォルクマールに置いて行かれたくなど無いのに。

「大丈夫よ。……少し嫌な夢を見ただけ」

「なら良いけど……無理はするなよ」

 そういうフォルクマールの顔色だってあまり良くないのだが、本人は意地でも次の街へ今日出発すると言い張るだろう。エリノアはため息を吐いて立ち上がった。

「サキナさんの手伝いしてくるわ。テーブルの上、片づけておいて」

「あぁ、分かった。悪いな」

 フォルクマールの言葉に肩越しに苦笑して、エリノアは扉を開けた。

「……っと、失礼」

 目の前に立っていたのは、フォルクマールより若干背の低いくらいの長身の男だった。吃驚して固まったエリノアの後ろから、フォルクマールの声が掛かる。

「あぁ、悪いなイェレミアス。こっちは今から飯なんだ。もう少し待ってもらって良いか?」

「構わん。……この女か?」

「そう。それとこっちの坊主な」

 フォルクマール程鋭くはないが探るような目つきに、ようやく我に返ったエリノアは挑むように睨み返した。

「……悪くない目だ。流石はフォルクマールの女だな」

 皮肉かと思って更に強く睨むが、目の前の男―――イェレミアスというらしい―――はエリノアの向こうへと既に視線を向けていた。

「実は俺も食っていなくてな。分けてもらえるか?」

「一人分なら何とかなるんじゃないか? あーエリノア、オレも降りるよ」

 扉を閉めようとした所でそう言われて、エリノアは肩をすくめて見せた。

「あたしが言ってくるわ。ストラ、フォルクマールを手伝ってやってね」

「うん」

 ストラの元気な声に少しだけ元気づけられたような気がして、エリノアは小さく笑いながら今度こそ扉を閉めた。


 エリノアが出て行った後、最初に口を開いたのは意外にもストラだった。

「あの夜、兄ちゃんと一緒に居た人ですか」

 突然の発言にしばし目を瞬かせたイェレミアスは、ふっと笑うと頷いた。

「あぁ、そうだ。イェレミアス=シーカヴィルタという。……お前はあの村に居たそうだな」

 イェレミアス自身は略奪の際別任務に就いていたらしいが、それとこれとは別だと考えたのだろう。真面目なイェレミアスはストラに向かって頭を下げた。

「……済まなかった。あの村を襲ったのは俺の所属していた隊で……」

「顔を上げてください」

 静かな声でそう言ったストラの迫力に気圧されたように、イェレミアスは顔を上げた。傍観を決め込んでいたフォルクマールすらも圧倒するほどの存在感。……もしかしたら、もう思い出しかけているのかもしれない。自らが、ヴィーの街の次期領主であることを。

「兄ちゃんに聞きました。貴方は関係なかったと。……これから、お世話になります」

 そう言って、ストラは深く頭を下げる。しばらくそれを見ていたイェレミアスはまたふっと表情を和ませ、あぁ、こちらこそ、と言った。

 この場合の仕切り直しはオレの役目だろう、とフォルクマールはもたれかかっていた壁を軽く蹴ってまっすぐに立つ。

「……さて。そろそろエリノアも戻ってくるし、準備終わらしとこう。ストラ、荷物は大丈夫だよな?」

「うん、女将さんから貰った服もまとめたよ。シーカヴィルタさんは……?」

「イェレミアスで構わん。……荷物なら隊の者が持ってくれている」

「なら安心だな。よし、テーブル拭くぞ。イェレミアス、コート脱げよ、暑いだろ」

 フォルクマールの言葉に頷いたイェレミアスがコートを脱ぎ一つの椅子の背に掛けた所で、女主人と共にエリノアが入ってきた。

「朝ご飯持ってきたわ。テーブル空いてる?」

「あぁ、ストラが拭いてくれたし、大丈夫なはずだ」

 フォルクマールの言葉に頷いたエリノアが盆をテーブルに置き、女主人が後に続く。

「……粥は誰が食うんだ?」

 運ばれてきたパンと卵焼き、それにベーコンのような肉の切れ端とスープに混じってあった小麦を煮込んで粥にしたものに目を留めたらしいイェレミアスが尋ねてくる。オレだよ、と答えるとまじまじと見つめられた。

「……別に変じゃないだろ? 朝は苦手なんだよ」

「朝に食わずにいつ食うんだ? 戦場では食欲が無くとも詰め込まなければ生き残れんぞ」

「下手に食ったら吐くからな。食うときは食うけどそんなに日頃大食いじゃないし」

「それに目を失ったばかりだから、そのせいもあるんじゃないかと思いますが」

 エリノアの言葉に絶句したまま、またまじまじとこちらを見つめるイェレミアスにフォルクマールはニヤリと笑ってみせる。

「この間は夜だったし、今も顔は隠してたからな。―――ほら」

 前髪を掻き分け、眼球のない左目を曝す。エリノアとストラが辛そうに俯いたのを右目で捉え、前髪を手櫛で戻す。戻ったら眼帯かもな、と頭の隅で考えながら、努めて明るい声でテーブルに向き直る。

「せっかくの朝飯なんだ、美味しいうちに食わなきゃな。ストラ、並べんの手伝ってくれ」

「……うん、分かった」

 フォルクマールの努力を分かってくれたように、ストラも明るい声で答えてくれる。そんなストラの頭を一度だけぽんと叩いた後、フォルクマールもテーブルのセッティングに取りかかった。


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