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藍色の疾風  作者: 黒詠
ガラスの子馬
6/10

取り戻すもの

 熱で朦朧とする頭の片隅に、妙に冷静な考えが浮かんでくる。

 どうして、おれを村から連れ出してくれたんだろう……?

 フォルクマールと名乗った黒髪の青年は軍人で、ストラを助け、あまつさえ名無しの“迷子”だったストラに名前をやる義務などない。正義感が強いにしては雰囲気がアウトローだし、文官―――外交官にしては眼光が鋭すぎるのだが、ならばなおのこと分からない。

 しかしそれよりも、自分のことが分からないのが辛かった。

 “迷子”と呼ばれる度に覚えていた微かな胸の痛み。ならば何か思い出せばよいのかと必死に毎日考えていたが、本当に何も、浮かんでくるものは無かった。自分がどこから来たのかも、誰なのかも、何が出来るのかも分からない恐怖。

 ……もしかしたら、フォルクマールもそれを知っていて同情しているのかもしれない。

 そこに考えが至ったとき、ストラの胸はまた小さくうずいた。


「……フォル、ク、マール……? 変わった名だね」

 無事に宿が取れ、ストラを医者に診せてほっとひと段落着いたとき、遅まきながら名乗るとそう返された。軍の中で訓練させてもらったときに散々聞き返され妙なところで区切られていい加減慣れたので、フォルクマールは余計な訂正を要れずに曖昧に苦笑する。

「えぇ、よく言われます。こちら側には無い名前でしょう」

「そりゃ、たしかに聞かないけどねぇ。……ん? こちら側……? あんた、どっから来たんだい?」

「山向こうですよ」

 こちらでも向こうでも、山を越えてたどり着いた者はほぼ皆無で、お互いの存在すら疑問視されている。なので当然、フォルクマールのこれも笑い飛ばされることが少なくなかったのだが……どうやら、このサキナと言うらしい女将は信じてくれたらしい。なるほどねぇ、と納得したように頷いた。

「道理で見かけない髪と瞳のはずだ。ヤールには黒髪もいるらしいけど、藍色の瞳ってのはこちらにはないからね」

「……そう、ですか」

 ぎくりと肩を強張らせたフォルクマールだったが、サキナは気付かなかったようで、さて、と袖をまくりこちらに笑みを向けた。

「晩御飯の支度をしないとね。あの坊ちゃん、怪我してるんだろ? なにか精のつくものにしよう」

「ありがとうございます」

「いいよ、こっちは金もらってるんだ。その分きっちり働かなきゃね」

 あまり上手くないウィンクの後、サキナは厨房へと姿を消した。それを見届けて、フォルクマールは大きく息をつく。

「……藍色の瞳なんて、オレ一人だよ」

 この本の世界でも、現実の世界でも、こんな瞳を持つものは二人と居ない。“他人”と違うことが怖いとか嫌だとかそんなことはまったく無いが、人造人間だという“人”との違いは容赦なくフォルクマールを刺す。その痛みは生まれた瞬間からあったはずなのに、いつまでも新しい傷口を作り出してフォルクマールを苛むのだ。

 ……せめて明と一言言葉を交わせたら、と一瞬願った自分自身に対して、フォルクマールは嘲笑を浮かべた。


 ストラ、とフォルクマールが名付けたらしい少年の怪我は、エリノアがそれまでみたことのあるどんな傷よりもずっと酷いものだった。聞けば襲撃されたのは3日前で、それ以来ずっと一人だったというから、応急処置もできなかったのだろう。右腕の傷は膿み、赤い蚯蚓腫れは少年の白い背中を斜めにすっぱりと走っている。

「……こりゃあ酷い……特に背中のは、鞘付きの剣でやられたんだろう。骨までやっていなくて幸いだったな」

 本業の医者とはいえ、この世界はエリノアたちの世界ほど科学技術も医療技術も進んでいない。なので結局医者のやったことといえば、背中の傷用の薬と右腕の傷用の薬、それに大量の包帯を置いていくこと、それだけだった。

 知らず、大きなため息が出る。

「エリノア、大丈夫か?」

 丁度見計らったようにフォルクマールが部屋に入ってきた。ストラの穏やかとはいえない寝顔を確認した後、こちらに向き直る。

「……辛いって、こういうことだったのね」

 フォルクマールは苦い顔で、そうだな、とだけ返してくる。エリノアは頬が引きつらないように注意しながら、何とか笑みを浮かべた。

「でもあんたが心配するほどじゃないわ。あたし、そんなにやわじゃ」

「もういい」

 そんな台詞が聞こえるのとほぼ同時に、エリノアはフォルクマールの掌を頭に感じた。いつもとは違う、壊れ物を扱うようなその手に泣きそうになる。

「……巻き込んで、ごめん」

 あんたのせいじゃない、と言いたかったのに、エリノアの唇は涙をこらえるために噛み締められたまま、動いてはくれなかった。


 その日の夜。

「……あぁ、坊主。起こしたか?」

 暗闇に溶け込む黒い外套を身に纏い、フォルクマールはすまなさそうに笑った。

「……どこ、行くの……?」

「……夜の散歩かな。すぐ戻るよ」

 待って、おれも……と言いかけたストラだったが、フォルクマールが外套の腰に提げていた剣に身がすくみ動けなくなった。

 不自然に固まったストラを怪訝に思ったのか、フォルクマールはこちらに歩み寄ろうとし―――気付いたようにその場で足を止めた。

「……兄ちゃん……?」

「―――今日はやめとけよ、坊主。明日の昼、熱下がってたら散歩連れてってやるから」

 ふわりと外套の裾を翻し、フォルクマールは静かに部屋を出る。取り残されたストラは仕方なくベッドに潜り込んだが、フォルクマールが気になってしばらく寝られそうに無かった。


 バレずに出ようと思ったのにな、とフォルクマールは自嘲した。あの少年は記憶を無くしていても聡明で、上手くないフォルクマールの嘘など簡単に見破ってしまいそうだった。まぁ何にせよ―――……

「……お目にかかれて光栄です、フォルクマール卿」

 リーベルの一番弟子だというこの青年がフォルクマールに接触を謀ってきた意図を確かめるまで、ストラと共に出掛けるわけには行かなかったのだ。

「イェレミアス卿、と仰いましたね。何故この時間だったのでしょうか?」

 まどろっこしい前置きを一切言わずにばっさりと切り込んだフォルクマールに、イェレミアスは瞠目した。……この闇の中だから見えていないと思っているのだろうが、生憎フォルクマールの目は暗闇でも見えるのだ。無論、それをわざわざ知らせるような真似はしないが。それに闇とはいえ星も出ているし三日月も空にあるから、フォルクマールにとっては闇には程遠い。

 人が言うほど、自分は自分が優しくないと知っている。でなければ剣を握ることなどできるはずがない。

「……失礼、年を訊いても?」

「24です。イェレミアス卿は……」

「27ですが……てっきり貴方は私よりも年上だと思っていました」

「よく言われますよ。……でしたら、無理して敬語でなくて構いません。私は敬語を使われるのが嫌いなものですから、崩していただいた方が嬉しいのですが……」

 リーベルにも言った台詞だ。フォルクマールは偽りなく、自分に敬語を使われるのが嫌いだった。但しリーベルの場合はあれが素らしいので、仕方がないかとこちらが引き下がったが。

「……ならば失礼しよう。そちらも喋りにくいのであれば崩せ。それとイェレミアス卿、と言うのは呼ばれ慣れていないのでな、ご遠慮願いたい。呼ぶならばイル、と」

「……イルさん、とでも呼べば良いのか?」

「呼び捨てで構わん。俺もお前をフォルクマール、と呼び捨てにするが良いか?」

「話の分かる奴で助かったよ。……で? さっきの質問には答えてくれるんだろうな」

 ニヤリとフォルクマールが笑んだのは見えなかったはずだが口調で分かったのだろう。イェレミアスも面白そうに小さく笑った。

「特に理由はない。敢えて言うなら、お前の人となりをはかりに来た、ただそれだけだな。この時間に呼び出されて、素直に聞くか、無視するか、それをはかりたかったのだ。……隊長が信用しているからには相応の人物だろうとは思っていたが、やはり自分の目で見んと容易に人を信用するなどできんのでな」

「軍人らしいな。それともあんただけか? ……それはそうと、それを見届けてどうしようっていうんだ? 突き詰めればオレとあんたの仕事に接点はないだろ。もう二日前の情報だけど、あんたはこれから国境に行くって聞いた」

「……あぁ。だから俺の個人的な我が儘だ。俺の隊は柄の悪いのが多くてな、つい先日も村を一つ潰して」

 苦虫を噛み潰したような顔のイェレミアスの台詞を、フォルクマールは思わず遮った。

「村……って、ここから半日歩いた所のか?」

「何故知っている?」

 逆に詰め寄るように問いかけられ、フォルクマールは逡巡の後―――生き残りがいたんだ、とぼそりと言った。

「銀髪の、背の低い子供なんだけどな……多分、オレの弟なんだ」

「弟……多分? どういうことだ?」

「あんまし詳しくは聞いてないんだけど……記憶が無いらしい。それにできるなら記憶が無いままの方があいつにとって良いんじゃないかと」

 なんとなく察したのだろう、イェレミアスはただそうか、と言って空を仰ぐ。

「……生き残り、か……フォルクマール、ならば気を付けた方が良い。俺の居る隊は本当に、山賊と変わらない奴らが多いからな。その子供が生きていると知ったらきっと殺しに行く。……証拠隠滅の為にお前まで殺されかねん」

「……なら、こっちから行くよ」

 不敵に笑ってみせたフォルクマールを呆れたように見やり、イェレミアスは深いため息を吐いた。

「いくらお前が強くとも、一度に二十人など捌けるはずがないだろう。止めておけ」

「二十? なら平気だろうよ、きっと。昔三十人くらい束になってオレに向かってきたことがあったけど何ともなかったし」

 言った瞬間、化け物を見るような目を向けられた。刺さるようなそれを何気ない振りをして耐える。―――もう慣れているはずなのに、何故だか妙に視線が痛かった。

「……まぁいい。もしそうなったらお前に加勢してやる」

「あぁ。頼む」

 そのとき不意にイェレミアスが剣を抜いたので何事かと見守っていると、イェレミアスはこちらに向き直って剣を抜くように促してきた。イェレミアスにならって長剣を注意深く抜くと、イェレミアスはフォルクマールの剣に自らの剣を静かに当てた。

「お前は知らないか? これは剣士の誓いの略式の儀だ。加勢する、手を出さない、最後を見極める、などのときに使うのが一般的だが、それ以外にも無くはない。この場合は当然、加勢してやる、という意味のものだな」

「へぇ……なるほど。なら改めて、頼むぜ、イル」

「無論だ。……では、俺はそろそろ戻ろう。もし何かあれば」

 ばっと抜いたままだった剣を草むらに向けたフォルクマールに、イェレミアスの言葉が途切れた。我ながら固い声で、フォルクマールは問う。

「誰だ、出て来い」

「……おやおや、気付かれてしまいましたか」

 緩やかに波打つ金髪が夜闇に浮かぶ。横に居たイェレミアスの奥歯がぎり、と鳴った。

「……ユハナ=クーシ……」

「いけませんねぇ、イェレミアスくん? テントを無断で抜け出して準騎士サマとお会いするのはまぁ許すとしても―――」

 ニィ、とユハナと言うらしい男が笑む。

「生き残りを逃がそうとするなんて、我が隊の決まりを忘れたとしか思えませんよねぇ。リーベル殿もお可哀相に。こんな出来の悪い弟子を持って―――」

 みなまで言わせず、イェレミアスの剣がユハナのすぐ横の木に食い込んだ。それを一瞬で引き抜き、ユハナに向かって唸るような声を発する。

「お前が師を語るな、ユハナ=クーシ。俺はお前に付き従う気などないと言ったはずだ」

「ふふ……まぁ良いでしょう。それで、準騎士サマはいかがなさいますか?」

「……いかが、とは?」

 注意深く聞き返したフォルクマールに、ユハナは薄っぺらな笑みを返した。

「その子供を、私に引き渡して頂けるか否かのお話ですよ。生かしておけば我が隊にどんな仇をなすか……貴方とてこの国の軍人の一人、ご理解頂けると思いますがねぇ?」

「―――残念ながら、理解できませんね、私には」

「おやおや……準騎士サマはひどく幼稚でいらっしゃるんですねぇ。たった半日共にすごしただけの子供に、そんなに情を移しているだなんて。しかもほら吹きときていますし。リーベル卿もどうして」

 イェレミアスもフォルクマールも、みなまで言わせなかった。

 ガキィ、という鈍い金属音がして、イェレミアスの剣は止まった。フォルクマールの剣もまた、横合いから突如出てきた―――とはいえ気配はあったので驚きはしなかったが―――剣によって止められている。

「私が単独で来るとでも思っていたんですか? イェレミアスくん。我が隊の団結力は並ではない。貴方も一応は我が隊の一員なのですから、分かりますよねぇ」

 言いながら、ユハナもまた剣を抜く。他の者達とは違う、フォルクマールのものにも似つかないそれは、フェンシングで使われるもののように細く両刃だった。

「だからどうした? そんな華奢な剣一本で、オレに勝てるとでも?」

 両手にそれぞれ剣を持ち姿勢を低くしながら問うと、ユハナはこれ見よがしに鼻で笑う。

「まさか、私一人では高がしれていますよ。でもね……」

「……囲まれたか」

 舌打ちと共にイェレミアスが言うのにあぁ、と相槌を打ちつつも、フォルクマールはユハナを見据えたまま視線を逸らさない。―――睨みつけるような視線を。

「言ったでしょう? 我が隊の団結力は並ではありません。貴方がいかに化け物じみていても、一対多では貴方の方が圧倒的に不利ですよ」

 ―――ぷつりと、頭のどこかで音がした、ような気がした。


「……ひぃっ……た、助けてぇッ!」

 次々と薙ぎ倒されていく男達。広がる赤。倒れ伏す男達の、力を失った肉体から覗く薄桃色。闇のはずなのに妙に鮮明に、イェレミアスには見えるような気がした。

「……フォ、ルク、マール……?」

 最後の一人の眼球に深く短剣を押し込み絶命させたフォルクマールに声を掛ける。幽鬼のようにユラリと、フォルクマールはこちらを向いた。

「……フォルクマール、もう全員殺したはずだ。正気に戻れ」

 一拍おいて、フォルクマールの目にさっきまでの鋭い光が戻り―――フォルクマールは剣を取り落とし尻餅をついた。

「……あ、れ……イル、オレ……何、した……?」

 フォルクマールの問いかけに、イェレミアスは思わず絶句した。

「……本気か? フォルクマール」

「……こいつ、ら、オレが……?」

「そうだ。結局、俺は加勢し―――」

 イェレミアスが言い終わる前に、フォルクマールは突如として後ろを向き激しく嘔吐した。

「……っは、はぁっ、はぁっ……ぐぅっ……」

 背中を丸め、ただただ吐き続けるフォルクマールに、イェレミアスは掛ける言葉を見つけられなかった。

「……っは、はははっ」

 ユラリと立ち上がり、そのままずるずると歩き出すフォルクマールを、イェレミアスは止めることも出来ずに見る。

「……そっか、オレ、……人殺しになったんだ」

 自らの剣を鞘に収め、イェレミアスの横を通るときに聞こえたフォルクマールの声は……自分への侮蔑と憐憫に満ちていた。


 息を切らし、せり上がってくる胃液をどうにかやり過ごしながら宿にたどり着いたフォルクマールを出迎えたのは、無表情のエリノアとフォルクマールの姿に恐怖するストラだった。

「……悪い、な」

「待って」

 エリノアに呼び止められて、この姿のままストラの前に居るのは良くないだろ、と言外に告げながら振り向く。と、相変わらず無表情のエリノアの後ろに―――何かを振りかぶるストラの姿を認めた。

「……ッ」

 いつもなら訳もなく避けられたのだろう。しかし、今のフォルクマールにはエリノアを庇うことが精一杯だった。

 ガシャン、と自らの左上で剣呑な音がした後、フォルクマールの左目に激痛が走る。

「っく……」

 唇をきつく噛んで痛みをやり過ごそうとするも、血流が巡る度に熱い痛みが走る。たまらず、フォルクマールは膝をついた。

「……ル、フォルクマール!?」

 エリノアの声が遠い。目を閉じているのか何も見えない。痛みまでもがどこか自分のものではないような気がしてくる。

 フォルクマールの意識はふつりと途切れ、ただ不思議と、最後まで気になったのは自分ではなくストラのことだった。


 ギィ、と音がして、心配顔の女主人とストラが扉から顔を出す。

「……えぇと、その……」

「その兄ちゃんは大丈夫かい?」

 口ごもったストラを見かねた女主人の台詞に、エリノアは小さくため息を吐きながら首を振る。

「……まだ、何とも言えないそうです」

 一夜明け、フォルクマールはベッドで静かに眠っていた。その整った顔の三分の一を占めるのは、厳重に巻かれた痛々しい包帯だ。

 唇を噛み俯いてしまったストラに、エリノアは言葉を選びつつ口を開いた。

「……ストラ、気にしちゃ駄目よ。フォルクマールは必ず目を覚ますわ。だから……」

「……だから?」

 縋るように尋ねてきたストラに、精一杯の強気な笑みを見せる。

「もしフォルクマールが目を覚ましたら、どうしてこんなに遅いの、って、二人で文句を言ってやりましょう」

 エリノアの言葉は効を奏したらしい。ぽかんと口を開けたストラとは対照的に、女主人は面白そうに笑った。

「ふふ、なんだかんだ言ってもそっくりだね、嬢ちゃんは」

 その比較対象が誰かなんて聞くまでもない。故にエリノアはにっこりと笑って、そうでしょう? と答えた。


 ふわふわと浮いているような感覚に、フォルクマール―――空はゆっくりと目を開けた。薄く靄のかかったように自分の輪郭がぼやけていて、何故だろうとやはりぼんやりと考える。

「……ねえ、さん……?」

 驚いたような、随分懐かしい声に顔をそちらに向けると、夜明けの太陽の色の瞳とかち合った。ずっと会いたかった、自分の半身の瞳と。

「……あぁ。オレ、死んだのか」

 我ながら乾いた声でそう言うと、明は苦しげに唇を噛みしめ視線を外そうとし……何かに気付いたのか目を見張る。

「何で……目が」

「……目?」

 明の言葉に操られるように手を左目にやると、あるはずの眼球がなく、赤と透明の液体が手に付いた。若干驚きつつもこれか? と問う。しかし明は目を見開いたまま小さく首を振った。

「違うよ。姉さんの目はまだ、光を宿してる。瞳孔も開いてない。今なら……戻れる。姉さんを待つ人達の所に」

 真っ先に、エリノア―――かおりの怒った顔が浮かんだ。次いで海藤の心配顔、侑の本当に嬉しそうな笑み、将平の土にまみれた、真剣だが活き活きした表情などなど―――……

 不意にびくっと明が身を竦ませ、空の意識は引き戻された。さっきよりもややはっきりした頭が、明を引き寄せろと命令を下す。しかし、

「触れちゃ駄目だ!」

 明の鋭い声に、空の手は空中で止まった。

「……駄目です。姉さんはまだ死んでなんかいない。ここに来たのは何かの間違いです」

 赤く光る明の目が、そこに何かが居ることを示している。だが空にそれが見えない理由が、自分が明の言葉通りまだ死んでいないからか、それとも空が赤い瞳を持たないからなのか、空には判断出来なかった。

「……良いですよ。分かりました。僕から言っておきますよ」

 明はそう言うと、こちらに向き直り微笑した。

「見逃してくれるって。だから姉さん、早く戻りなよ。こんな所に長くいたら、戻れなくなるよ」

「どこに?」

 海藤やかおりには申し訳ないが、空の帰る場所は明の居る場所だったはずだ。そう思って言ったのだが、明は微笑を引っ込めて険しい顔をした。

「姉さん、僕にこれ以上言わせないで。……もう、自分を傷つけたりしないでよ」

 つ、と明の指が差したのは、明が居なくなって丁度一年経った冬の日に付けた胸の傷だった。どうして知っているのか、と瞠目する空に、明は力ない笑みを向ける。

「僕にはもう、姉さんを支えることはできない。ただ見守るだけ。だから……海藤さん達によろしくね」

 明がそう言って、空を突き飛ばす。唐突なその衝撃にたたらを踏んだ空の意識は不意にそこで途切れ―――……


「兄ちゃん……?」

 ぴくりと右の瞼が動いたような気がして、ストラは恐る恐る声をかけた。声に反応してベッドの側に歩み寄ってきたエリノアと二人で、フォルクマールの整った顔を覗き込む。

 二人の視線の先で、フォルクマールはゆっくりと一つきりの藍色の瞳を覗かせた。

「……スト、ラ?」

 多少掠れてはいても変わらないフォルクマールの声音に、ストラの涙腺は決壊した。

「兄ちゃ……ん、ごめ……っ」

 エリノアはああ言ってくれたが、ストラのせいでフォルクマールの左目はもう見えないのだ。ごめんなさい、なんて言葉では絶対に足りない。

 泣き止まないストラの頭をぽんぽんと軽く叩いた後、エリノアがフォルクマールに向き直った。

「……遅いわよ、馬鹿」

「……ははっ。あぁ、悪い」

 快活に笑うフォルクマールは、目を失う前の彼とは別人のようだ。何とも言えない感情を持て余し顔を上げたストラに、フォルクマールは優しい笑みを向ける。

「ストラも、ごめんな。辛かったろ」

 くしゃりと髪をかき混ぜるフォルクマールの手は相変わらずで、ストラの視界はさらに歪んだ。

 ―――不意に襲う既視感と、違和感。これと似た風景を、見たことが……?

 だがそれも一瞬のことで、痛々しい包帯が巻かれたフォルクマールの整った顔立ちに浮かぶ笑みに対し、ストラは安堵と罪悪感のない交ぜになったような複雑な笑みを返した。


 普通、大怪我をした後はどちらかというと暗く変わるはずなのだが。

「……フォルクマール、あんたどうしたの?」

 左目を失ったというのにいつになく機嫌の良いフォルクマールに、エリノアは思わず尋ねていた。当たり前だが、フォルクマールの怪訝そうな視線が向けられる。

「どう、って……何が?」

「いや、機嫌いいな、と思って」

 あぁ、と納得したような空は、手入れしていた刀を取り上げた。反射する鋭い光と同様、フォルクマールの瞳に宿る光もまた鋭いが……何か、それだけではないような気がする。

「……多分、だけどな」

 再び刀を下に置き手入れを再開したフォルクマールは、呟くようにぽつりとそう言った。

「生死の淵をさまよってる時に、明に会ったんだ。こんな所に来ちゃ駄目でしょ、って怒られてさ……お前にもよろしく、って」

 ―――息が、止まったかと思った。

 フォルクマールの亡き弟、明。透き通る真紅の瞳を持つ、エリノア―――かおりの初恋の相手。何故、彼がここで出て来るのか。

 ―――聞くまでもないか、と一瞬で冷静さを取り戻したかおりは小さく笑んだ。

「それで、目が覚めたの?」

「あぁ。両方の意味でな」

 言いながら音もなく刀を鞘に収め、フォルクマールは短剣を手に取る。その淀みない一連の動きに、確かに以前の翳りは微塵もない。

「……だから、ほんとに気にしなくて良いんだぜ、ストラ。お前のお陰でオレは覚悟もできたんだし」

「「……覚悟?」」

 声が重なって振り向くと、もう寝たと思っていたストラと目が合った。フォルクマールはそれを見て微かに笑い、また視線を短剣に戻す。

「エリノアは聞いてたはずだ。オレは人を……殺す心構えとか、そんなのを持たないまま旅に出た。けどそれだとこの世界では生き抜けない。……前は、殺すくらいなら自分が死のうと思ってたけどな……。気が変わったんだ」

 なるほどね、とエリノアは頷いた。思い当たる節ならいくらでもあったからだ。

「……でもフォルクマール、それと昨日のは別よ。昨日、何で一人で行ったりしたの? 昨日の返り血は普通じゃなかった。……考えを改める前に、あんたは人を、殺めたんじゃないの?」

 ふ、と部屋の空気が冷える。ストラが怯えて身を竦めたのは分かったが、エリノアはまっすぐにフォルクマールを見つめたまま視線を逸らさなかった。

 フォルクマールはほんの一瞬暗い瞳をこちらに向けたが、すぐにどこが痛みを堪えるような苦笑を頬に浮かべる。

「……あぁ。二十人、かな。殺してきたよ」

 予想外に大きな数にエリノアは絶句し、ストラは息を呑んだ。

「元は一人の軍人に呼び出されたから出ただけだったんだけど、そいつの居た隊が……厳しいとこだったらしくて、隊長って奴が連れ戻しに来たんだ。その時に乱闘になって……」

 気が付いたらこの様だ、と自嘲のように笑むフォルクマールの頬はしかし、右だけ微かにひきつっている。―――昔から変わらない、嘘を吐いているときの癖だ。

 まあストラも居るし話したくないのなら無理に聞き出すのも良くないだろうと、エリノアはひとまず騙されておくことにした。


 次の朝、やって来た医者からストラもフォルクマールも心配ない、と診断され、ストラは小さく息を吐いた。が、それもつかの間、女主人が入って来るなりフォルクマールが発した言葉に、ストラは思わず固まる。

 ―――曰わく、風呂に入れるか、と。

 女主人は一時ぽかんと口を開け何を言われたか分からない風情だったが、一拍おいて腰に手を当て盛大に笑い出した。

「左目を失って死んだように寝てたときはどうしようかと思ったけど、若いもんの回復力は凄いね。良いよ、いれてきてやろうじゃないか」

 呆れながらも安心した表情を見せるエリノアと豪快に笑いつつ部屋を立ち去っていく女主人に気付かれなかったことに安堵しながら振り向くと、にやにやと楽しそうに笑うフォルクマールと目が合った。

「坊主、風呂嫌いか? ……あぁ、傷が痛むのか。なら無理しなくて良いぞ、別に。オレは気持ち悪いから入るけど」

 途中から急に真顔で言ってくるフォルクマールに、ストラは慌てて首を振った。

「違うよ、別に傷はもう痛くないし大丈夫。でも……」

 口ごもったストラに、エリノアまでもが心配そうな顔を向ける。居たたまれなくなって、ストラは俯いたまま半ば叫ぶように告げた。

「おれ、寒いの嫌いなんだよ!」

「……は?」

 呆れるだろうと思っていたフォルクマールの本気で怪訝そうな声に、ストラは恐る恐る顔を上げた。と、不意に納得したようにフォルクマールが笑う。

「あぁ、分かった。村での風呂ってのが水だったからだ」

「……え。水浴びってこと?」

 驚いた様子のエリノアに、むしろこちらが怪訝な顔になる。風呂といえば、川や湖などから汲んできた水を大きな木箱や樽に入れ、その中で布を使い体を拭くものだ。少なくともストラの居た村はそうで、それ以前の記憶は未だに戻っていないから分からない。

 何も言わないストラの様子を肯定と受け取ったらしいフォルクマールが、こちらにゆっくりと歩み寄り軽く手をストラの頭に乗せた。

「オレが言ってる風呂ってのは湯だから、むしろ暖かいよ。心配ない」

「……本当?」

「嘘吐いたってしょうがないだろ。な、ものは試しだ。一緒に入ろうぜ、坊主」

「……うんっ」

 ちょうどそのタイミングで女主人が戻ってきて、扉から顔だけ覗かせた。

「一応入ったよ。多少熱めにしてあるから、水入れて調節しとくれ」

「あぁ、ありがとう。……っと、エリノア、お前先の方が良くないか?」

「あたしは昨日の夜しっかり入ったから平気。ほら、ストラ頼んだわよ」

「おぅ。んじゃ行くか、坊主」

「坊主じゃないって、兄ちゃん!」

 微笑ましく見ている女主人とエリノアの視線を少しだけ意識しながら、ストラはゆっくりと歩き出したフォルクマールの右側に並んだ。


「……さみぃ……」

 同じ関東圏ならそこまで冷えないだろうと思っていたのだが甘かったらしい。風があんまりねぇのが救いか、と一人ごちつつ、かじかむ手をポケットに突っ込んで携帯を取り出した。

『……もしもし?』

「あぁ、俺、海藤だけど。お前今出て来られるか?」

『……いつも強引だよね、海藤は。どこ行けば良いの?』

「小城公園の山の上」

『……何でまたそんなとこに。まぁいいや、じゃあ十分で行くから待ってて』

「あぁ、頼む」

 呆れ声の原田にそう返して、立ち上がり様に空を仰ぐ。

 ―――ついさっきまで雲に覆われていたはずの空は、見事な三日月と藍色の夜空に変わっていた。その引き込まれるような美しさに海藤は息も忘れて見入る。

「……またお前は。風邪ひくよ、海藤」

 原田の声にはっと我に返って振り向くと、寒そうにコートの襟を寄せながらも苦笑を浮かべている原田の姿があった。もう十分経ったのか、と驚きながらもニヤリと笑っておぅ、と挨拶する。

「矢野ちゃんになってたんだな。知らなかったよ」

「あぁ、あかねちゃんの話? まぁあれからあかねちゃんも色々考えたんだろうね。“私”のままでは生きていけないから名前を変えたいって」

「……でもお前にはあかねちゃんって呼ばせんのかよ。ちぇ、俺が嬢ちゃんっつったら怒るくせに」

「……お前それ、恋人に対する愚痴だかノロケだか分かんない言い草だよ」

 原田はそう言って笑った後、身体半分を道に向け、顔だけこちらに向けてきた。

「で? ここじゃ寒いから早いとこ俺車行きたいんだけど」

「あー、そうだな。邪魔する」

「元々それが目的だろ? ……それはそうと、」

 海藤の前を歩いていた原田が不意に振り返って真剣な顔をする。海藤も茶化さずに黙って見返すと、原田は静かに口を開いた。

「下にあかねちゃんの車があったけど、あかねちゃんは?」

「……今は、いないよ」

「……今、は?」

「その前に一つ聞きてぇんだけどさ」

 海藤の強引な話の持って行き方に原田は若干不満げだったが、ひとまず黙って先を促してくる。

「本を旅する能力を使った場合って、向こうの世界の1日はこっちのどれくらいになるんだ?」

「……どの本かによるはずだよ。あかねちゃんの話?」

「あぁ。剣の命だ」

 言った瞬間、原田の目は驚愕で見開かれた。

「……冗談。よりにもよってあの本?」

「……どういうことだ?」

「お前だって読んだんだろ? 思い出せよ、フォルクマールの左目は戦場で無くすんだぞ!?」

 つかみかからんばかりに詰め寄られ、海藤は顔から血の気が引いていくのを感じた。

「……いや、でも、怪我は戻ってくるときに治るんじゃないのか?」

「普通の能力者とかならね。でもあかねちゃんは『剣の命』の作者だ」

 原田の言いたいことは何となく分かった。だからこそ、海藤は自責の念に耐えかねて強く唇を噛みしめる。

「……いつ、行ったの」

 静かな原田の声が痛い。しかしそれでも、海藤はぼそりと答えた。

「夕方の、五時半過ぎだ」

「……なら帰りは早くて夜明け前だよ。それまで付き合ってね、海藤」

 あえてのように軽い調子で付け加えられた台詞に、海藤はゆっくりと頷く。

 居心地の悪さに視線を逃がし―――救いを求めるように見上げた空には、相変わらず藍色の絨毯の上にぽっかりと三日月が浮かんでいた。


 第6章「取り戻すもの」いかがでしたでしょうか。

 視点がしょっちゅう変わって読みにくい方もいらっしゃるかと思いますが、これが私に書ける全てで彼(女)を取り巻く人間模様なので、今のところこのスタンスは変えない方向で行きます。

 兎にも角にも、お読み頂きありがとうございました。

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