名も無き苦悩
翌日。フォルクマールの滞在する客間に顔を出したリーベルは、フォルクマールが片刃の剣を手入れしているのを見つけた。こちらに気づいたフォルクマールが椅子から立ち上がろうとするのを手で制し歩み寄る。
「……不思議な剣ですね。昨日も思いましたが」
「そうですね。山向こうでも私しか使いませんでした。こう言ってはなんですが私はあまり力のある方ではありませんから、リーベル卿もお使いの一般的な両刃の長剣を長く扱えないのです」
その代わり鋭いので、突くことも切り裂くこともできますが。と言いながら、フォルクマールは剣を鞘へと収めた。その慣れた手付きから、フォルクマールとその剣の付き合いの長さが伺える。
「それよりもリーベル卿、昨夜の話ですが」
リーベルとしては剣の話をもう少ししたかったのだが、確かにリーベルが来たのもそれを聞くためだ。剣からフォルクマールの瞳へと視線を移し、静かに続きを待った。
「引き受けたとして、エリノアはどうなるのでしょうか?」
「……エリノア殿、ですか?」
リーベルとしては予想外だったというか、どちらにしろ戦場の場合と対応は変わらないのだが、考えてみれば確かに婚約者の安全は気になるところだろう。フォルクマールはやや物憂げな視線を窓の外に向ける。……そんな場合でも無いのだが、リーベルはその整った横顔に釘付けになった。こうも長い睫や整った鼻梁を持つ青年はそう居ない。
「敵国に乗り込むからには当然リスクも高いでしょう? 戦場だって死と隣り合わせですが……エリノアが無事なら、私は必ずエリノアのところへ帰りますから」
ふ、と笑ったフォルクマールの横顔は昨日見たどの笑顔とも違う、敢えて言うなら親のような笑みだった。リーベルはフォルクマールの横顔から目を逸らさず、ゆっくりと口を開く。
「ならば何故、貴方は彼女を連れて山を?」
フォルクマールははっとした様子でこちらを振り返った後、自嘲をその頬に浮かべた。
「山を越えたのは弟を探すためです。ヴィーの次期領主である弟を……ですがエリノアは、」
「私が無理を言ったのです、フォルクマールに。ですからイスフェルドさん、彼を責めないでください。……それに私は医師ですから、戦場でも後方支援くらいならできます」
「いえ、それは……」
「この軍は気性の荒いのが多い、でしょう? リーベル卿」
苦笑混じりで言ったフォルクマールだったが、目はにこりともせず鋭くリーベルを見据えている。……この御仁の前ではつくづく気が抜けない、とリーベルは内心舌を巻く。
「その通りです。それにこの国の外交官はこの三カ月あまりで十八人、代替わりしていまして……いわば貴方が最後の頼みの綱なのです。フォルクマール卿、お願いできませんか?」
「……了解しました。準騎士フォルクマール、総司令及び陛下の命に従います」
元々決めていたのだろう。フォルクマールは一分の隙もない敬礼をリーベルに向けてきた。右手の平を下にし指先を額に添える、この国の軍の敬礼。……いつ見ていたのか、とその鋭い洞察力にまた舌を巻きつつ、リーベルも敬礼を返した。
では三日後に出立を、と言いおいて出て行ったリーベルを何とはなしに見送り、エリノアはフォルクマールに向き直った。
「フォルクマール、もしこの城であたしが保護してもらえるって言われてたらあんた、あたしを置いていくつもりだったでしょ」
「あぁ。……だって戦場だろ? オレだって実際に戦場で戦ったことはないし、どんなに大変で怖いことか直接知らない。そんなとこにお前を連れてけないよ」
「……どうして?」
「どうして、ってそりゃ……お前にもし怪我とかさせたら、オレ叔父さん叔母さんに合わせる顔ないじゃんか」
少し困った風に言ったフォルクマールだったが、エリノアは知っている。フォルクマールがこんな言い方をするときこそ、他人を思いやっているのだと。
「……あたしだって分からないなりに覚悟は決めてるわ。これでも親は医者だし、応急処置くらいならあらかたできる。あんたの足手まといだけにはならないはずよ」
「足手まといだなんて思わないよ。ただ……これ以上、オレの無力のせいでお前が傷つくとか死の危険に曝されるとか、そんなのにオレが耐えられないだけだ。守るものがある奴は強いけど、同時に脆いからな」
言いたいこと自体はエリノアにも分かった。自分以外の誰かを守るという責任を果たすため、時に人は実力以上の力を発揮するが……同時にその誰かを人質にでも取られようものなら、いかに力があっても屈服してしまう。だから「強いが脆い」―――矛盾の最たるように思われるこの言葉は、ある意味最も真理に近いのかもしれない。
しかしだからといって、エリノアにフォルクマールを認めるつもりは全くなかった。
「とにかく、あたしはどこまででもあんたについて行くわ。おいてなんて行かせるもんか、ってのよ。大体あんた、見てる奴が居なかったらすぐ暴走するし無茶するじゃない?」
「それはそれ、これはこれだ」
フォルクマールはエリノアの鋭い指摘にも顔色一つ変えずにそう切り返してきた。そこまで即答されると思っていなかったのでエリノアは一瞬言葉に詰まる。
「オレはもう、オレの前で人が傷つくのを見たくない。人が傷つくなんてごめんだ」
「―――……え?」
自制よりも先に声が出た。
「……どうした? オレ何か変なこと言ったか?」
「フォルクマール、あんた兵士やれるの?」
兵士は人を傷つけること、ひいては人を殺めることが仕事だ。いくらフォルクマールが命じられた任務が外交という文官的なものであっても、それ以前にフォルクマールが無事にドラグノフにたどり着かなければ意味はない。現にそれで十八人、命を落としているのだ。刺客かそれとも戦場からの流れ矢かは分からないが、刺客であった場合は当然、身を守るために人に剣を向け、相手の命を取らなければならない。
もちろん逃げる者にわざわざ追いすがって殺すような真似はせずとも生き残ることは可能だろう。しかし……
「命のやり取りなんてあたしも知らないし積極的に知りたいとも思わないわ。でも……あんたの『傷ついて欲しくない』は、『傷つけたくない』と同義なんじゃないの?」
驚いた顔でエリノアを見下ろしていたフォルクマールは不意にニヤリと笑ってまたエリノアの髪を掻き回した。
「ちょっ、フォルクマール!」
「そうさ。だからこそオレはお前をここに……預けられるなら預けたかった。でもここに居てもお前には居場所がないし、何よりお前の安全だって保証される訳でもない。なら……覚悟、決めないとな」
フォルクマールの声音に自嘲が混じったのが分かったが、エリノアはただ黙って頭を撫でられるに留め、内心ため息を吐いた。
「いよいよですね」
明日の明け方に出発する、という日の夜。琥珀色の液体が入った瓶を片手に、リーベルが訪ねてきた。エリノアは微かに眉をしかめていたが見ないふりをして、フォルクマールはリーベルを部屋に招き入れた。
フォルクマールとしてはどうしてエリノアがリーベルを嫌うのかよく分からないのだが、エリノアはとにかく嫌、の一点張りだった。まぁその感覚も分からないでもないし、フォルクマールとしてはどちらにせよリーベルを尊敬している。
椅子に向かい合って座り、控えていた侍女に頼んでグラスを二つ出してもらいながら、ぽつりとリーベルが言う。
「こちらから護衛を出そうかとも思ったのですが……フォルクマール卿はどう思われますか?」
「必要ありません。少数の方が小回りが利きますし、そちらの戦況もあまり思わしく無いのでしょう?」
この二日間で仕入れた情報を元にそう言うと、リーベルは苦い表情で頷いた。
「お恥ずかしい話ですが、国境近くの激戦地でかなり圧されていましてね……近く、私も出ることになっています」
むしろ総司令官であったのに何故出ていないのか不思議に思ったが、ここでことを荒立てても面倒だと曖昧に頷く。と、不意にリーベルは真顔になりフォルクマールを見つめた。
「貴方の弟君の特徴を、教えていただけますか? ……考えたくないかもしれませんが、既に戦死している可能性とてないとは言い切れないのです」
「それは承知の上ですよ。……勿論、考えたくなんてありませんが」
グラスを傾けながら努めて穏やかにそう返しつつ、フォルクマールは窓を見やった。今日は風がないようで、木々のざわめきも聞こえない。
「銀髪に紅い瞳の、小柄な少年です。眼鏡を掛けていましたが本当は目が良いので、外しているかも知れません」
「……失礼、メガネ、とは?」
「あぁ……目の前に置く、小さな二つのガラスのことです。目が悪くても、それをするとよく見えるのです。但し私の弟がしていたものはそれに似せた偽物で、目が悪い人が掛けてもよく見えることはありませんが……」
「なるほど、この国にはそのようなものはありませんが……ガラスでできているのなら、作ることもできるやもしれませんね。……と、お名前などは?」
「ギルヴェント、といいます。ヴィーの次期領主、ギルヴェント=ヴィラ=エックハルト。もの静かながら頭も良く、弓の名手で……一三という年齢を感じさせない、大人びた子で」
こうして列挙していくと改めて、ギルヴェントが明をモデルにしたキャラクターだと分かる。
唐突に黙り込んだフォルクマールをどう思ったのか、リーベルはグラスの中身を一口口に含んだ後、ふっと短いため息を漏らした。
「……私にも弟が居るのですが……貴方の弟君とは似ても似つかない、割と乱暴者でしてね。……軍に入ることを断固拒否すると言って、今も街で自警団の団長をしています。確かにあいつがいないと自警団が成り立たなくなるので、軍としてもあまり無理は言えなくて……頑なで困りますよ」
「頑ななのは私も同じですし、弟もそうですから。……エリノアだってそうですし」
「……言われてみれば……?」
「言われるまでもないですよ、フォルクマールについては。何しろ余程のことがない限り自分の意見を覆さないんですから」
眠ったと思っていたエリノアが扉の所に立っているのをみとめ、フォルクマールは怪訝な顔をした。明日は早いし、決まった時間寝ないと起きられないエリノアはもう寝ないといけない時刻だと思うのだが。
「覆す必要があると判断したらしてるはずだけどな」
「その判断基準が高過ぎなのよ。ところで……イスフェルドさん、そろそろお引き取り願えますか? お二人とも楽しく呑んでいるのは分かりますが、フォルクマールは明日の出発も早いですし……」
「あぁ、これは……配慮に欠けていましたね。ではまた……フォルクマール卿。見送りには出られませんが、御武運を」
琥珀色の液体を飲み干した後そう言って敬礼し、リーベルは去っていった。
「……エリノア?」
「……底が見えないのよね。イスフェルドさんて」
どう答えるべきか一瞬迷ったが、結局フォルクマールは頷いた。
「それは分からんでもないな。物腰は柔らかいし誠実そうに見えるけど……どこか淀んでる気がして」
「淀み、ね……確かに。言い得て妙だわ」
感心したように頷きながら、エリノアはこちらに歩いてきてついさっきまでリーベルが座っていた椅子に腰を下ろした。
「そりゃ、一応専業作家だからな」
「それもそうね。……でも本当、どうなの? 兵士たちの支持とか」
「それはこれ以上ない。まぁ極稀に反対派が居るには居たけど、それでも全体の一割に満たない程度だ。……だからって良い人だと一概には言えないけどな」
「当たり前ね。……何にせよ、厄介なことにならなきゃ良いけど……フォルクマール、こんなストーリー無かったわよね?」
「あぁ、無かった。何が原因かは分からないけど」
もしかしたら自分がこの世界に入ってきたせいかとも思ったが、いたずらに不安にさせても損はあっても得はない。故にフォルクマールは立ち上がると、エリノアを促して寝室へと向かった。
海藤が侑に能力を使わせたのは自分のためかもしれないと薄々感じている。しかしここに来たところで……フォルクマールは変わりようがないようにも思うのだ。心配してくれたのだろう海藤や、侑やエリノアには申し訳ないが。
「……勘弁してくれ」
早々に寝息を立て始めたエリノアの横顔を何とはなしに眺めながら呟く。
「過大評価はもううんざりだ。……オレは、そんなに価値のあるもんじゃないよ」
暗い言葉は、同じく暗い部屋の影に溶けて消えた。
長居し過ぎたな。とリーベルは一人苦笑した。
エリノアというフォルクマールの許嫁から良く思われていないのは言動から感じていたが、フォルクマールと話す―――もしくは呑む―――時間は、リーベルにとって兵士たちの馬鹿騒ぎとはまた違った楽しみだった。
「……隊長、準備はいかがなさいますか」
部屋に戻り灯りを点けようと手を伸ばしたとき、不意に暗闇から声が響いた。咄嗟に手を剣に添えたが、廊下から漏れる光の中に姿を現した男をみとめてリーベルはふと力を抜いた。
「……イルか」
「はい。……一応、いつでも行けるようにはしてありますが……」
苦虫を噛み潰したような渋い顔で、イルは口を閉ざした。真面目なイルにこの仕事を強いているのは他でもないリーベルだ。そうでなければこの男はとっくに、反旗を翻していただろう。例え相手が国王であっても。
「……安心しろ、イェレミアス。彼が最後だ。……うまくいっても、いかなくても」
ぱっと顔を上げたイルの表情の中に、喜びと苦悩がないまぜになっているのをリーベルは見て取った。イルは恐らく無意識にだろうが、縋るように尋ねてくる。
「……戦争は、終わりますか?」
「あぁ。……きっと、もうすぐな」
リーベルはそう答えた後、明かりを点けてから侍女を呼びイルとも酒を酌み交わしたのだった。
欠伸をかみ殺しながら、エリノアはそっと下に立つフォルクマールを見下ろした。こうして見ると馬の背って高いなぁとつくづく思う。何せ普通に並ぶと二十センチメートルの差があるエリノアが、フォルクマールを見下ろす形になるのだから。
「―――では」
長ったらしい挨拶がようやく終わったらしく、フォルクマールが軽々とエリノアの後ろに飛び乗った。反対側にももう一頭馬が居るのだが、そちらは荷物を乗せている。今二人が乗る馬が疲れたら交代させるらしい。……馬に乗る練習しておけば良かった、とも思うが、そもそも馬に触れる機会がほとんど無かったので仕方ない、ということにしておく。
「出すぞ、エリノア。舌とか噛むなよ」
二頭の馬の手綱を捌きながら、フォルクマールは楽しそうに言った。横を通り過ぎる風は生ぬるく、エリノアは一瞬身を震わせたが、フォルクマールは気付かなかったのか気にしなかったのか、何も言ってこないまま馬を出した。
「……フォルクマール、そろそろ……」
「……そうだな、休むか。確かこの近くに村が有るはずだけど……分かるか?」
「地図はある?」
一つ頷いて地図を鞄から引っ張り出し手渡す。エリノアはしばらくじっと地図を見ていたが、不意に二キロ、と小さく言った。
「方角は?」
「このまま道なりね。もうすぐ見えてくるはず……あぁ、あれよ」
あれ、とエリノアが指し示したのは木の板で作られた簡素な家が建ち並ぶ割と大きな集落だった。微かにそちらから吹いてくる生ぬるい風に一瞬違和感を覚えたがひとまず村に着こうと馬を進める。
「ッ! 見るな、エリノア!」
あと三百メートルほどになったときだろうか。フォルクマールはエリノアの目を自らの左手で塞いだ。
「……何? 何かあったの」
「良いから見るな。ここは駄目だ。先に行くぞ」
「何が……っ!」
エリノアの息を呑むのを聞き、フォルクマールは顔を歪めた。視線は村の中にある何かの山に固定したまま、きつく唇を噛み締める。
「……な、に、あれっ……」
「……落ち着け、エリノア。お前は何も見てない」
「嘘よっ! ねぇフォルクマール、あれ死体でしょう!?」
手を振り解かれ、フォルクマールは咄嗟に反応できなかった。
覚悟していたつもりだった。戦場で戦った人の話を聞いたこともあったし、写真だって人の五倍は見たはずだ。しかし……それでも到底足りないほど、村の中の状態は凄まじかった。
腕や足、首が欠けている死体の山。別に転がされた首の鼻や耳は削ぎ落とされ、目はどちらも潰され、胴の腹からは赤黒い血にまみれたピンク色の腸が覗き、鳥がそれをせっせと突っついている。エリノアの視力はフォルクマールほどではないが、赤黒い山は視認できるのだろう。震えの収まらないエリノアの身体を抱き、耳に唇を近づけてそっと耳打ちした。
「……エリノア、ここで待ってろ。生き残りが居ないか見て来る」
「……分かったわ」
青い顔で震えているエリノアを馬から下ろし馬を手近な木に繋ぐと、フォルクマールは深呼吸してからゆっくりと歩き出した。
近づくにつれ強くなる鼻を突く腐臭に歯を食いしばって耐え、フォルクマールは村へと足を踏み入れた。鳥達が威嚇するように飛び立ちこちらに向かって鳴き声を上げたが、フォルクマールにそれを気にする余裕は無い。
赤黒い風景の中ちらちらと覗く銀色の髪。小柄な少年が無表情で死体をどこかに運ぼうとしていた。声を掛けることも出来ずにフォルクマールが立ち尽くしていると、ふと何かに導かれたように少年がこちらを向く。
「……っ!?」
抱えていた死体を放り出し慌てた様子でフォルクマールから距離を取る。と、少年はそこで石に躓き派手に尻餅をついた。咄嗟に駆け寄ろうとしたフォルクマールだったが、少年の鋭い悲鳴に動きを止める。
「今更この村に何の用だよ! おれを殺しに来たのか!?」
「……おい、ひとまず落ち着いて話を……」
「来るなぁっ!」
少年は丁度そこに落ちていたナイフを手に取りフォルクマールに向かって投げつけ―――しかしナイフはフォルクマールに届かず手前でカランと乾いた音を立てた。よく見れば少年の右の前腕に深い裂傷がある。
「嫌だ、死にたくない! 来るな! こっから出てけよぉっ」
手当たり次第に投げつけられる死体の欠片を避けながら、フォルクマールは少年に歩み寄る。フォルクマールが少年から三歩程しか離れていない場所まで来たとき、少年の瞳は恐怖で濡れていた。
「……嫌だよ……死にたくない、助けて……」
力を無くした声で呟く少年の前に、フォルクマールは剣を二本ともベルトから外しそちらへと放った。派手な音にびくりと身を震わせる少年と視線を合わせるために屈む。紅い透明な瞳に、一瞬言葉を忘れそうになった。
「……坊主、オレはお前を殺さない。でもどうしてもお前がオレを怖いなら、それを使ってオレを斬っても良い」
「……え……?」
「オレは兵士だけど、こんなやり方は大っ嫌いだからな。お前がオレをそんな風に思うなら、お前にはオレを斬る権利がある」
「……どうして?」
涙に濡れたままの瞳で、少年は真っ直ぐにフォルクマールを見据えた。
「言ったろ? オレは殺戮なんて嫌いなんだ。自分より弱い奴を襲って略奪するなんて、オレの信条に反するからな」
「……じゃあ、兄ちゃんはおれを殺さないの……?」
「あぁ。頼まれたって殺しなんかしない」
尤も、この少年が刺客でフォルクマールが剣先を向けられたのなら、殺さなければならないのだろうが……臆病者と言われても、自分の手が人の血に汚れるなど考えたくなかった。
「……どうする、坊主。ここに居たいか、それともオレ達と―――まぁ、隣町くらいまでだけど―――来るか、お前が選べ」
少年はしばし、元は人だったものの山に目をやった。つられるようにフォルクマールもそちらを見る。
「……おれね、どこから来たか分からないんだ。だからずっと“迷子”って呼ばれてて……世話してくれてたこの人達には感謝してたし今もしてるけど、でも最後まで……おれに名前をくれなかったなって」
「……そっか」
フォルクマールはそっと手を伸ばし、少年の髪をくしゃりとかき回す。驚いたように身を強ばらせた少年だったが、やがてフォルクマールに身を預けてきた。
「……おれは行きたい。ここにはもうおれしか、生きてる人間が居なくて……本当はすごく、怖かったんだ」
フォルクマールは無言で労うように軽く少年の頭を叩いた後、少年を肩に担ぎ上げた。わぁっ、と少年が声を上げたがフォルクマールは笑ったまま、足元に落ちていた剣を二本とも拾い上げるとそのまま歩き出す。
「“迷子”……ロストラプシ、だっけ? ならストラとかどうだ、坊主」
「坊主じゃないよ! ……ストラって、それ、おれの……?」
「そう。嫌ならまた考えるけど。……あ、因みにオレはフォルクマールな」
「フォルクマール? 面白い名前だね、兄ちゃん。でも似合ってる」
「そいつぁどうも。……エリノア」
うずくまっていたエリノアに声をかけると、青い顔をのろのろと上げた。焦点の合わない視線がフォルクマールの上をふらつく。
「エリノア、悪いけどこいつの傷、見てやってくれないか?」
「……フォルクマール? と、誰?」
「生き残りの坊主。名前は……」
「ストラ! 坊主じゃないよ!」
弾みをつけてストラがフォルクマールの肩から飛び降り、衝撃に腕が痛んだのか眉間にきつく皺を寄せた。
「……分かったわ、ストラね。腕以外に怪我は?」
怪我人を前にしたからかエリノアは表情を引き締めて真摯に問うている。ストラは逡巡の後、背中が痛いかも、と小さく言った。
銀色の髪に紅い瞳、小柄な体。だがギルヴェントだと断定するにはまだ早い。
「……とりあえずは様子見だな」
小さく呟いたフォルクマールの言葉は、消毒の痛みに対するストラの悲鳴にかき消された。
馬を引きながら歩く広い背中に、エリノアは小さく溜め息を吐いた。
「……大丈夫か? エリノアもストラも、きつかったら言えよ」
「……おれは、大丈夫……」
「……ストラが熱を出しそうよ。早めにどこかで休まないと」
「了解。……もう少しだから我慢してくれよ、二人とも」
振り向いたフォルクマールは、そう言って申し訳なさそうに眉尻を下げた。別にこれはフォルクマールのせいでも何でもないようにエリノアには思えるのだが、責任感が強いフォルクマールのことだし仕方がないのだろう。だからエリノアは文句を言うのをやめてただ溜め息を吐いた。
「……ねぇ、エリノアお姉ちゃん」
「呼びにくいでしょ? 姉ちゃんで良いわよ。どうかした?」
「うん。……兄ちゃん、兵士だって言ってたけど、姉ちゃんと二人だけ? 軍の兵士って、大体が……」
「団体で動くわね。それが軍の利点だし。でもフォルクマールはちょっと違って、国王の勅命だけで動く特殊な兵士なの。しかもあたしは戦えないしね」
「へぇ……危なくないの?」
「そりゃ危ないさ」
エリノアが答えるより前に、フォルクマールが前を向いたまま言った。何か言われるかと咄嗟に身構えたが、フォルクマールの声音はあくまで冷静だった。
「でもま、それ以外に働き口もやれることも無かったし、仕方ないっちゃ仕方ないからな。こうして二人でグラドコフに向かってるって訳だ」
正式名称グラドコフ帝国。その名の通り皇帝によって治められている国だが、現皇帝はまだ代替わりしたばかりの若者らしい。故にカイヤ王女が半ばさらうような形で連れて行かれたのだとか。
「グラドコフ……? 何で?」
「外交官の代わりだとさ。まぁこっちとしては下手に護衛とか命じられるよりは気が楽だし、前払いでかなりもらって」
不意にフォルクマールの言葉が途切れ足が止まったかと思うと、纏う雰囲気が鋭くなり、馬が小さく嘶いた。
「……予定変更だ。エリノア、辛いだろうけど頑張れよ。オレはストラの後ろに乗る」
「……何なの? 別に何も……」
「嫌な予感。……多分、尾行されてる」
エリノアとストラが息を呑むのとほぼ同時にフォルクマールはストラの後ろに飛び乗る。落馬すんなよ、とフォルクマールが言ったのを最後に、エリノアは激しく揺れる馬の背にしがみつくしか出来なくなった。
ようやく町までたどり着いたとき、ストラもエリノアも声すら出せないほど疲れ切っているようだった。フォルクマールももちろん疲れていない訳ではないが、それ以上に嫌な予感に対する緊張感が未だ消えておらず、そこまでの疲れは感じない。とはいえ撒くことは出来なかったとしても、町に入り人目がある場所に来たからには、そう易々と手は出せないだろう。
「とりあえずどっか宿を探そう。エリノア、坊主は大丈夫そうか?」
「……多分……でも念の為、ちゃんと医者に見せた方がいいわ」
「だろうな。となるとあんまりのんびりはできないけど……っと」
フォルクマールは一軒の家の前で馬を止めた。ぱっと見には普通の家屋のようだが、ちょうど馬からの目線の高さに宿と書いてある。
「ちょうどよさそうだ。坊主、少しだけ馬の上で……我慢できるな?」
「……坊主、じゃ、ないってば……」
弱々しいながらも返事を返したストラの頭を軽く撫でた後フォルクマールは馬を降り、扉をノックした。
第五章になります「名も無き苦悩」、いかがでしたでしょうか。
本格的に残酷描写が始まりつつあるのですが、私自身としてそんなに生々しく見えないというか……描写力がいまいちですね。精進します。
フォルクマールを取り巻く人たちが段々増えてきました。これからも増える予定です。個人的にそれぞれの名前にはかなり思い入れがありますので、よければそれも意識してみてください。
それでは、最後までお読みいただきありがとうございました!