剣の行く末
何が起きたのか分からなかった。
何かを知っているように見えたかおりの姿も、こうなった原因を持っているように見えた侑の姿も見えず、空はただ何もない場所に浮かんでいる。自分が目を閉じているのか開いているのかも分からない、真の暗闇。恐ろしくないと言えば嘘になるが、それはむしろ自分の状況が分からないことに対しての恐怖だ。
「声は……出るし聞こえるな。おいかおり、大丈夫か? 侑ちゃんも、居るなら返事してくれ」
「流石ですねー。矢野さん」
侑の声に振り向くと、白い道の上に立つ侑とかおりの姿があった。下を見ればいつの間にか、自分の足元にも白い道がある。そして、侑とかおりの背後にある木製の扉のプレートには……
「……剣の命、って」
「矢野さんの本です。矢野さんは、香坂光さんの本の旅人、ご存知ですか?」
「あぁ……香坂さんとは割と会うからな。それも読んだよ」
「なら話は早いですね。これから私がお二人を連れて行くのは矢野さんの本、剣の命の世界です。矢野さんがフォルクマール、西城さんがエリノア、私はカイヤで」
「ちょっと待て、何で……」
空が言葉を言い終える前に侑は扉の金の取っ手をひねり、扉の向こうの眩い光に思わず空は手を顔の前に翳した。目を細めたまま、空の足は勝手に扉の方へと歩を進める。
「ようこそ、剣の命の世界へ」
だから、ちゃんと説明っ……!
空の声は、やはり言葉になる前にかき消されて……
ざぁっ、と風が草原を駆け抜けた。小高い丘になっているそこから、灰色の壁に囲まれた城下町と、白鳥城に似ているような気がする白い城が見える。
「……草原に城。ってことは……」
独り言のように呟いたかおり―――エリノアの前には、新緑色のマントを纏った長身がある。空―――フォルクマールは訳が分からないながらも現状把握に努めているようだった。
「……うわ、確かにキツそう……」
フォルクマールが言ったことの意味が分からずエリノアが首を傾げると、フォルクマールの引きつった笑みが返ってきた。
「この世界は優しくない。戦争の話だし、年齢制限かかるくらい人死にが出るし。……オレは荒事にも多少慣れてるけど、お前は……」
気遣わしげなフォルクマールの視線に、エリノアはにこりと強気な笑みを浮かべて見せた。
「あたしを誰だと思ってるの、フォルクマール?」
「……はいはい。じゃあ行くか」
しょうがないな、とでも言うように苦笑され少しだけムッとしたが、歩き出したフォルクマールの歩調について行くのに次第に必死になり、エリノアの苛立ちは薄れていった。
「……で、これからどうするの?」
何度目かの休憩にと入ったオープンカフェで一息入れていたとき、エリノアが不意にそう尋ねてきた。フォルクマールはさーな、と投げやりに答えて足を投げ出す。
「んー、傭兵として雇ってもらうのが手っ取り早いけど、それだとギルヴェントを探しに行けなくなるしな……」
「傭兵って……あんた、剣なんて扱えないでしょ?」
「扱えないこた無いぜ? お前には見せてないけど、日本刀が一本と西洋の長剣が二本と短剣が一本、うちにあるし。我流だけどちゃんと太刀打ちは出来るさ」
「……何であるのよ。っていうかいつ指導受けたの? 銃刀法で指導が必要なはずでしょ?」
「大学二年のときかな。知り合いに剣が欲しいっつったら普通に使い方まで教えてくれてさ。……あ、ちなみに拓磨さんじゃないぜ」
一瞬納得顔になったかおりだったが、海藤ではないと言った途端にまた首を傾げる。フォルクマールはニヤリと笑いながら答えた。
「拓磨さん、ああ見えてすごい殺陣苦手らしくてさ。ガンアクションなら余裕でこなすのに、刃物の類は扱えないんだと。だからオレのは研究所の人に教わったやつだ」
三日で一通り会得し驚きを通り越して呆れられたのは何となく言わないでおく。そんなつもりがないのに嫌味かと問われるとどうしていいか分からなくなる、というのが主な理由だ。
今は誤魔化されてくれる気分だったらしい―――いや、もしかしたら単に疲れていて突っ込む気力も無かったのかもしれないが―――エリノアは頬杖をついて視線だけをフォルクマールに向ける。
「ふぅん……じゃあ傭兵って手もあるわけね。でもあたしはどうするの?」
「そりゃ……」
「失礼。少し、お時間をいただけますか」
何事かと二人して振り返ると、ストレートの金髪を後ろで束ねた精悍な顔の軍人と、その部下と思われる同じく軍人が二人、こちらはやや所在なげに立っていた。
「……何でしょうか、王国国軍総司令官殿?」
フォルクマールがそう言うと、目の前の軍人―――リーベルが驚いた顔をちらりと見せ、エリノアも驚いた風に息を呑んだ。
「……何故、私が総司令官だと?」
「勲章の数が後ろの二人に比べ段違いですから。それに貴方の後ろに控えている兵士と軍服が違います。基本的に軍隊というのは、司令官を一目で判別できるように軍服を変えるでしょう? その分危険に晒されますが、貴方はその心配も無いのでしょうから」
本当のことを言うなら、フォルクマールが書いた本の登場人物をフォルクマールが覚えていないはずがないのだが、説明が面倒になりそうなのでやめておく。
フォルクマールの台詞をどう受け取ったのか、リーベルは恭しく一礼した。
「その通り。私は総司令官、リーベル=イスフェルドと申します」
「山向こうの一都市ヴィーの領主、フォルクマール=ヴィル=エックハルトです。そしてこちらが……」
「エリノア=クレメンス。フォルクマールの婚約者で、医者をしていました」
「……やはり、山向こうのお方でしたか。ならばしばしご同行願います、フォルクマール卿、エリノア殿」
返事の代わりにフォルクマールが静かに立ち上がると、リーベルは目を細めフォルクマールを改めて見下ろした。鋭い視線は外套の不自然な膨らみに向けられている。
「剣を使われるようですね、フォルクマール卿」
「ええ。……ですがこれから参上するところは帯刀厳禁でしょう。今お渡しした方が宜しいですか?」
フォルクマールの問いに、リーベルが思案顔を見せたのは一瞬だった。
「いえ、構いません。代わりに、というのも変ですが……私と一試合、お願いできますか?」
「私で宜しいのであれば」
そう言うとリーベルは頬を緩ませて微笑し、エリノアも立ち上がったのを見て二人に背を向けゆっくりと歩き出した。
不思議な御仁だ、と、それが彼の第一印象だった。
見慣れない二人組が彷徨いている、と町民から報告が来たのはほんの少し前、リーベルが自ら町の見回りに出てすぐのことだった。今の情勢を考えるとスパイかとも思ったが、まさか山向こうの人間にお目にかかるとは予想していなかった。
あの山を越えた先に人が住んでいることさえ、定かでは無かったのだが……
「認めざるを得まいな、これは……」
右に曲がりつつちらりと後ろを見、フォルクマールの姿を視界に捉える。
こちらには有り得ない黒髪に、やはり有り得ない新緑色の外套。何よりその瞳は夜空のように深い藍の色だ。
「……リーベル卿、いかがされましたか?」
フォルクマールの怪訝そうな声にはっと我に返る。いつの間にかじっと見てしまっていたらしい。
「いえ、何でも」
山向こうの人間だからではないが、この青年はきっと何か途方もないことをしでかしてくれるのでは、とリーベルは小さく口角を上げた。久しくそんな人間には会っていない。あえて言うなら弟のレヴァールだろうが、喧嘩別れでもう何年も会っていない。
―――ただもし、フォルクマールの成し遂げようとすることがこの国に不利であれば、リーベルはこの手を汚してでもフォルクマールを阻止しなければならない。
そうでなければいいのだが、とこれは胸中で呟くに留め、リーベルは目の前まで来ていた城の門に手を掛けた。と、門番を務める兵士が恐る恐る話しかけてくる。
「総司令官殿、その者達は……?」
「私の客だ。異存ないな?」
門番はリーベルの視線に射抜かれただけで竦み、こくこくと首を縦に振った。……そういえばリーベルの視線は鋭いらしく、初対面の人には必ずと言って良いほど怖がられるのだが……フォルクマールが臆することなく真っ直ぐにリーベルを見つめてこれたのは何故か、後で訊いてみたくなった。
もちろん、国王陛下への謁見が無事に済んだらの話だが。
「こちらです、どうぞ」
フォルクマール達を案内しながら、最近輪をかけてヒステリックになったように感じる王を思い出し、リーベルは後ろの二人に分からないようにため息を吐いた。
「陛下、イスフェルドです。今時間はおありですか?」
リーベルが声を掛けたのは城の大分奥まったところにある、装飾のあまりない扉だった。扉から少し離れた場所に二人ほど控えているのを見ると、恐らく王の自室なのだろう。
部屋からの返事はなく、リーベルの声は自然と低くなった。
「……陛下、部屋に引きこもっていてもカイヤ様は……」
「分かっておるわ!」
突然扉が開き、中から激しい剣幕の怒声と共に王が顔を覗かせた。
「子の居ない貴様に何が分かる! カイヤは亡き王妃の忘れ形見なのだぞ!?」
「だからこそではありませんか。……しっかりなさってください、陛下。客人の前です。―――もしかしたら、この情勢を打開できる唯一の切り札になりえる者かもしれません」
王ははっと顔を上げ、リーベルの言う客人を―――すなわちフォルクマールを見た。
「……リーベル、それは真か?」
「私の見立てでは、ですが。……客間をお借りします。フォルクマール卿、エリノア殿、しばらくの間そこでお待ちください」
過大評価も大概にしてくれ、と言いたくなったが何とか飲み込み、フォルクマールはリーベルと入れ替わりにやって来た侍女の後に従った。その間ずっと苦虫を噛み潰したような顔をしていた自覚が十二分にある。
「……フォルクマール、大丈夫?」
案内された客間に二人になった瞬間にエリノアにそう聞かれ、どう答えるべきか迷った。僅かに逡巡した後、無難に苦笑するだけに留める。
「……にしても、意外とスムーズに進むのね。まぁストーリーは決まってる訳だし当たり前かもしれないけど」
「あぁ……そうだな。このまま、予定通りに行ければ問題ない。問題はないけど」
「……何、また嫌な予感?」
「当たって欲しく無いけどな」
判断基準を強いて言うなら風、だろうか。フォルクマールの周りで何かが起こるとき、必ず風が吹いていたように思う。フォルクマールが海藤と初めて会ったのも、初めて学校の同級生に偽人と呼ばれたのも、理央や那由多と初めて会ったのも、明が一三歳の若さで逝ってしまったのも、そして今日も―――良い悪い関係なく、何かが起きるときには風があった。
「……ま、なるようにしかならない。この話に干渉できるのは能力者の侑ちゃんだけだ。オレ達はただ、流れに逆らわなければ良いはずだ」
「ふぅん……? 珍しいわね、あんたが日和見な意見を吐くなんて」
日和見ね、とフォルクマールは苦笑した。確かに日頃の自分だけでなく昔の自分を知るエリノアならそう見るだろう。が、これはそう簡単では無いように思う。
「……あくまでオレの予想だけどな、」
切り出した直後に扉がノックされ、出鼻を挫かれたように思いつつもフォルクマールは返事をした。顔を覗かせたのはリーベルで、しかしその表情は先程にも増して固い。
「フォルクマール卿、お疲れの所申し訳ないのだが……」
「試合をせよと?」
先回りしたフォルクマールの言葉に驚いたようだったが、リーベルは渋い顔で頷いた。
「山を越えたばかりだと言うのに本当に申し訳ないのだが……諫めても聞き入れて頂けるのは随分と稀になってしまって……」
それでもきっとギリギリまで粘ってくれたのだろう。リーベルの表情には固さだけでない疲労が見て取れる。
「私は構いませんよ。……尤も、すぐに負けてしまっても苦情は受けられませんが」
「いや……私は私の目を真っ直ぐに見ることのできる人に、勝てた試しがないのでね……と、もう行けます
か?」
「ええ、良いですよ。……エリノアは、」
ここで休んどいた方が……と言いたかったのだが、フォルクマールの台詞はエリノア自身によって遮られた。
「私も行っても宜しいですか、イスフェルドさん?」
「あぁ……もちろんどうぞ。私も本意では無いのですが、ある種見せ物扱いですので。―――だからといって手を抜く必要はありませんよ、フォルクマール卿」
「……手を抜ける相手ではないでしょう、リーベル卿は」
見透かされた分ばつが悪く、フォルクマールの口調はいつも以上にぶっきらぼうになった。リーベルは面白そうに笑って、では、と踵を返す。
「……しかしリーベル卿、私が言うのも変かもしれませんが……どうして私を?」
「……どうして、と言うと?」
歩きながら、リーベルはちらりと半分だけ顔をこちらに向けた。その視線は鋭いが高圧的でも冷徹でもなく、刺さりそう、としばしば形容されるフォルクマールの視線とは雲泥の差だ。
「正直な話、私は―――私も、エリノアもですが―――山向こうの、得体の知れない輩であるはずです。それなのに国王陛下への直の謁見のみならず、総司令官であらせられるリーベル卿との試合を許される、その理由は何なのか……と思いまして」
「あぁ、勘ですよ」
事も無げに即答され、フォルクマールの目は点になった。
「……勘、ですか?」
「ええ。陛下もこちらの意見を聞き入れてくださることこそ稀になりましたが、私の勘については信頼を頂いていましてね。とはいえ……貴方が本当にこの国の利益になり得るか否かは分かりませんが。何かをしてくれそうだと、実は私は期待しているのです」
「……それはオレには荷が勝ちすぎます。オレは、」
「ちょっと、フォルクマール!」
隣を歩いていたエリノアにそう小声で言われると同時に肘でど突かれて、フォルクマールははっと我に返り慌ててリーベルに謝罪した。
「すみません、つい感情的になりまして……お見苦しい所をお見せしてしまいました」
「いえ、構いませんよ。……さすがに陛下の前では無理でしょうが、私は気にしませんから、楽にどうぞ。……もっと粗野な言動もよく聞きますし」
軍には幾つかの隊があり、それぞれに長が居るのだが、このうちの二つ程が賊上がりなどの質の悪い者達で構成されているため管理が難しい、とリーベルは語った。確かにその者達ならばもっと言動が粗野であっても違和感はない。ないが……
「私は賊上がりですか?」
微妙に拗ねた口調を抑えきれなかったフォルクマールに、エリノアは苦笑を見せ、リーベルは声を上げて笑った。
「意外と幼くていらっしゃるんですね、フォルクマール卿は」
「そうなんです。普段はすごく老成して見えるのに、ふとした瞬間に幼くなるんですよ。頑なですし」
「やはり面白い御仁ですね、フォルクマール卿。……お酒は大丈夫でしょうか?」
「……割と強いと思いますが」
「では今夜少し、部屋にお邪魔しても?」
「……エリノア、良いか?」
「お気遣いなく。私は飲みませんが、イスフェルドさんもフォルクマールも、自我をなくすまでは飲まないのでしょう?」
エリノアは微笑んでいたが、その姿は小柄な体躯とは裏腹に凄みがあった。思わずリーベルもフォルクマールも頷いてしまう程の。
「……着きましたね。エリノア殿は向こうへ。侍女がご案内します。―――フォルクマール卿、覚悟は出来ていますか」
振り返ったリーベルの視線は鋭く、真っ直ぐにフォルクマールを射抜いた。フォルクマールはただ黙ってそれを見返す。
三秒ほど見つめ合った後、リーベルはふっと口角を上げて目を細めた。
「やはり覚悟はおありでしたか」
侍女と歩き出していたエリノアが、何事かといった様子で振り返るのを視界の端に捉えながら、フォルクマールはニヤリと笑って頷く。自分でも分かる、自嘲まじりの笑み。
「殺される覚悟ならとうにしています。……けれど自分が人を殺める覚悟は、まだ決めていません。それでもリーベル卿は、私と試合をしてくださると?」
「……私が貴方にそれをお教えしましょう。この試合の中で」
リーベルはそう言ってフォルクマールに背を向け、扉を開け放った。
群集の歓声が身を包む。血気盛んな兵士達達にとって一二を争うほどの余興―――戦争中でも、この闘技場の役目は平和な時と変わらず決闘の場である。
「……静粛に!」
リーベルがそう言うだけで水を打ったように静まり返るのもいつもと変わらない。ただいつもと違うのは、後ろにフォルクマール一人しか居ないことと国王陛下が席に着いていることだろうか。
「これより私、リーベル=イスフェルドと、山向こうの領主、フォルクマール=ヴィル=エックハルトの決闘を開始する!」
兵士達が歓声を上げる。リーベルはそう声を張り上げた後、フォルクマールに向き直って剣を抜くように促した。フォルクマールは一瞬だけ迷いを見せた後―――見たこともない片刃の長剣を右手に、短剣を左手に握り、構える。その視線は真っ直ぐに、リーベルの瞳を突き刺している。
「―――では」
動いたのはこちらだったが、フォルクマールの攻撃の方が速かった。フォルクマールの視線と同じく鋭い刃を紙一重で避け、懐に潜り込もうとする。と、嫌な気配にリーベルは後ろへ思い切り跳躍した。頬の上を短剣が横切り、リーベルの髪が数本と血が宙に舞う。
「……驚きました。どちらも使いこなす人間になど、初めて会いましたよ」
「使いこなしてなどいませんよ。ただ、元の身体能力がおかしいだけです」
フォルクマールがそう言ってまたあの笑みを浮かべる。自虐的かつ勝ち気な、複雑な笑み。きっとこの青年以上にこの笑みが似合う人間はそう居ないだろう。
「……ですがリーベル卿、貴方こそまだ本気を出していないのでしょう? 手加減をしているのでなければ、私が貴方を負かすなどあり得ません」
「自らを卑下するのはよくありませんよ、フォルクマール卿。貴方は強い。下手をすると……人を殺す覚悟が要らないほど」
人を殺す覚悟などしないに越したことはなく、殺す機会もないに越したことはない。しかし今は戦争中で、この試合はフォルクマールがこの国の一戦力になり得るか否かを見るためのものだ。頭の回転も早く勘も鋭いフォルクマールは、それも承知した上でこの試合を受けたのだろう。―――このような青年と出会い打ち合えたことも、その青年に認められていることも誇りに思う。
「……行きますよ」
リーベルが言い、フォルクマールが構える。周りの兵士達など二人の前には存在せず、その歓声は欠片も二人に届かない。
互いに距離を詰めるのにかかるのは一瞬。リーベルの剣は寸分も違わずフォルクマールの首を狙い、フォルクマールの長剣はリーベルの剣を狙い、短剣は首の防御へと使われる。長身の割に細いフォルクマールの腕なら力押しで勝てるはずだ。故にリーベルの剣は軌道を変えずにフォルクマールの首目指して振るわれ―――……
金属の激しくぶつかり合う音の後、宙に待ったのは両刃の長剣だった。丸腰になったリーベルの首に、フォルクマールの長剣の切っ先が突きつけられる。
「……決着、でよろしいですか?」
フォルクマールの言葉に両手を挙げることで答え、その瞬間に目を疑うかのように兵士達の声が消えた。何千もの人間が居るとは思えないほどの静寂―――それを打ち破ったのは、一人の拍手だった。
「―――陛下」
「素晴らしい。リーベルを打ち破ったのは貴公が初めてだ。―――名を」
「……フォルクマール=ヴィル=エックハルト。山向こうの一都市ヴィーの領主です」
「……では汝、フォルクマール卿をこれより我が国唯一の準騎士の位に据える」
準騎士、という位は、総司令官の位に着いてもう五年になるリーベルですらも聞いたことが無かった。フォルクマールの表情が怪訝のそれに変わる。
「……準騎士、とは?」
「我が国特有の制度だ。国軍とは違う、国王直属の独立した機関。……表舞台には出ない、危険な任が多いが自由度が高い。……どうだね?」
「……カイヤ様を、取り戻させるおつもりですか」
リーベルの問いに国王は頷き、フォルクマールの瞳を見据えた。が、国王に彼の眼光は鋭すぎたのだろう。僅かに目を逸らし、結局フォルクマールの胸辺りで視線を固定する。
「……フォルクマール卿、我が国の姫を取り戻して欲しい。そのための経済的な援助は惜しまん」
「取り戻す、とは?」
フォルクマールの疑問ももっともだったが、それを説明する声は今更のように現状を把握した兵士達の歓声にかき消された。
「すっげぇな、あの黒いの! 総司令官殿に勝ちやがった!」
「おい見たかよあの剣さばき! あんなんどうやったら出来るようになんのかな!?」
「ちげぇって、あれは天才なんだろ」
ここまで聞こえる兵士達の褒め言葉に、しかしフォルクマールは視線一つ動かさなかった。普通なら照れるとか、居心地悪げに身じろぎをするとか、逆に嬉しそうに手を振るとかすると思うのだが―――リーベルが見た限りでは、彼は誉められることにうんざりしている気配すらあった。
「……陛下、また後になさってはいかがでしょうか? フォルクマール卿もお疲れのはずです」
「あぁ……そうであったな。今は休むが良い、フォルクマール卿。指示は追って出そう」
「御意」
フォルクマールは流麗な仕草で国王に膝を折った後、観客に向かってやはり流れるような仕草で礼をし、リーベルと国王に背を向けた。疲れとは違う明らかな拒絶の背中に声を掛けることもできず、リーベルはただ真っ直ぐに伸びたフォルクマールの背中を見送る。
「リーベル……彼は何故、山を越えたのだ?」
国王の言葉ももっともだったが、リーベルはそれに答える術を持たなかった。
「……はー」
胸に残るわだかまりを吐き出そうと吐いたため息は、むしろフォルクマールの気分を沈ませた。今、部屋に居るのはフォルクマール一人―――いや、正確にはエリノアもいるのだが、さすがに疲れたのだろう、声を掛けても起きないほど熟睡している。
「……なぁ明。もしお前だったら、お前はこの状況をどう判断してた?」
死者は何も言わず、何もしない。それでもこうしてことある毎に縋ってしまうのは、きっと自分がどうしようもないほど弱いからだろう。―――明の幽霊を映す紅い瞳と違い、フォルクマールの藍色の瞳はこの世界でない場所しか映さない。小説を書く上では重宝するが、それ以外に役に立つ場所を、フォルクマールは知らない。
―――あたかもフォルクマールが、戦場以外に活躍する場など持たないように。
卑下などフォルクマールがする必要もなく、したこともない。フォルクマールの価値はその程度のものなのに、周りの評価が高すぎるのだ。リーベルに勝ったことだって、絶対まぐれだと思う。
「……フォルクマール様、湯浴みの準備が出来ておりますが……」
「あぁ、ありがとうございます」
エリノアをさっき案内してくれた侍女が顔を出してそう告げたのに対し、笑顔を取り繕って答える。侍女が顔を赤らめ慌てたように引っ込めるのを何とはなしに見ながら、フォルクマールはまたため息を吐いた。
「……おいエリノア、風呂入れるってよ。オレ行ってくるけどお前は?」
「……ん~……? あとででいい……」
「はいはい。じゃあ行ってくる」
「うん……」
無防備なエリノアの寝顔に力が抜け、フォルクマールは一人苦笑しながら、扉の外で待っていた侍女の後に続いた。
約束通りに部屋を訪れたリーベルだったが、昼間の楽しみなような表情は今は見る影もない。この人も苦労人だなぁ、とエリノアは半ば他人事のように半歩引いた場所から二人を眺めていた。
「……単刀直入に言います。フォルクマール卿、貴方に戦場で戦う意志はおありですか?」
「戦場に行くのは別に構いませんが。……その場合、エリノアはどうなりますか?」 琥珀色の液体をグラスの中で揺らしながら、リーベルはフォルクマールの問いに静かに答えた。
「この城に留まって頂くことは出来ません。ですから共に戦場に行って頂くことになるかと」
「……では、先程の話を受けたら?
」
フォルクマールのその言葉をこそ、リーベルは待っていたのだろう。リーベルはグラスに向けていた視線をゆっくりとフォルクマールに向けた。
「グラドコフ帝国……私達が敵対し戦っている国に乗り込み、我が国の第一王位継承者であるカイヤ様を奪い返して頂きたい」
「……それは外交官の腕の見せどころでしょう? 私の出る幕など」
「我が国の外交官は、皆かの国で命を落としました。護衛をいくらつけても、外交官の本質は文官―――かといって国軍から割ける人材は多くありません。軍の人間は私も含め、戦場以外に活躍の場をちませんから……けれど、貴方は違う」
フォルクマールをちらりと見ると、無意識にだろうが唇をきつく噛みしめていた。フォルクマールの能力を考えたらリーベルの言葉は決して過大評価ではないのだが、フォルクマールには十分にそう聞こえるのだろう。
「……出来ればお早めに返事を私までお願いします。今日はこれで」
「……ええ、分かりました。お休みなさい、リーベル卿」
グラスの中の液体を一息に飲み干し、リーベルは一礼すると部屋を出て行った。
「……フォルクマール、あんたなら出来るんじゃないわ。あんたしか出来ないのよ」
「……何を?」
白々しい、空虚な問い返し。叫びたくなるのをすんでのところでこらえ、エリノアは静かにフォルクマールの向かいに腰を下ろした。
「カイヤ役をやってるのは侑ちゃんでしょ? 海藤さんもあんたにだから侑ちゃんを任せたんじゃないの?」
「そんなの過大評価にも程があるだろ。オレなら出来る? オレにしかできない? ……何でそんなこと分かるんだよ。実績をあげたことなんて一度もないのに」
「一度も、なんて有り得ない。じゃなきゃあたし、こんな何年もあんたに付き合ってないわ。それにあたしやイスフェルドさんが評価してるのは能力だけじゃない。あんたの人となりよ」
「……人となり?」
異国の言葉を聞いたように聞き返してくるフォルクマールに、やっぱり分かってなかったか、と内心ため息を吐く。エリノアの方が年は一つ下なのだが、こういうときのフォルクマールの精神年齢は著しく低い。まるで道に迷って途方に暮れている、小さな子供であるかのように。
「あんたには人を惹きつけるものを持ってる。そんな風に造られたんだから当たり前、とかあんたは言うかも知れないけど、違う。もしそれが本当なら、あんたは明君の事故の後、独りになってたはずよ」
フォルクマールの沈黙、それが答えだった。
「……あんたはあんたを信じられないかも知れないけど、あたしやイスフェルドさんなら信用出来るでしょ? ……できないとか言ったら殴るわよ」
非力なエリノアの拳がむしろ良いように作用したらしい。フォルクマールは苦笑すると音も立てず立ち上がり、エリノアに向き直った。
「……そうだな。過大評価じゃないってのは納得いかないけど、だからって何もしないってのは性に合わないし。やれるだけはやってみるか」
そう言ってニヤリと笑んだフォルクマールの笑みはまだ自虐的に歪んでいたが、それでも今までで一番マシな笑みだった。エリノアは小さく安堵のため息を吐くと、欠伸を始めたフォルクマールの後に続く。
「……そういやさ、オレ昼間風呂入ったときに軍人用の男湯に連れてかれたんだよな。普通に誰にも疑われなかったけど、久々だったし内心焦ったなー」
「え、男湯って男湯よね? ……ちょっと、笑ってないで否定しなさいよ!」
「何で? 向こうでも普通に男湯だったんだし、問題ないと思うけど」
「大有りよ! 大体あんたは―――」
フォルクマールにいなされつつ熱弁をふるっていたエリノアだったが、ベッドの魔力には勝てず、早々に寝息をたてることになった。
季節がいつなのか、これには明記されていませんね……意図的、というか、まだ自分の中でどういう世界に空=フォルクマールが行ったのかよく分かっていないせいです。落ち着いたら三話と合わせて書き直したい、なぁ……。