梅の咲く頃
「あーもう、何で書けねーんだよっ!」
とある日曜の昼下がり。西城かおりが顔を出すなり青年のようなそいつは言った。その声の大きさに呆れ、かおりは盛大な溜め息を吐く。
「春にはまだ早いわよ」
「分かってるよんなことは。オレの筆の遅いのもな」
「確かにね〜……デビューしてもう5年だっけ? なのに出した本は3冊でしょ? 確かに遅いわ。ていうかあんたのは書き出しまでが長いのよ。……だからって今の質を落とされちゃ困るけど」
はいはい、と言いつつそいつはかおりの前に紅茶のカップを置いた。ありがと、と返してカップに口を付ける。
「……なまじファミレスとか行くよりここの紅茶の方が美味しいわね。プロには適わないけど」
「そいつぁどうも。……微妙に嬉しくねぇけどな」
乱暴な仕草でかおりの向かいに腰を下ろし、カップの紅茶を一口飲む。自分の紅茶に対して70点だな、と点数を付けてから、そいつはかおりに藍色の瞳を向けた。
この世にたった1人しか存在しない、その藍色を持つ人間―――言うまでもなく、かおりの目の前に居るこいつこそが、国のプロジェクトの個体―――名を羽狐あかねという、国立研究所が誇る成功体の1人だった。
もっとも、今は矢野空と名乗り、さらに麒麟雄の名で小説を書いている。本人曰わく、『体の起伏無いしガタイでけぇから見た目男だろ? それに人にオレが<暁>だってバレると厄介だしな。女の個体ってことになってるし、こうしときゃまずバレないから楽なんだよ』ということらしい。確かにどちらかと言えば空の顔立ちは男性っぽくやや精悍で、髪を短くし男物の服を着ていればまずバレない。……その分、男性モデルとして声がかかるそうだが。
中学の頃あんなにドラマや映画に出ていたのに、何もしないのはもったいない気もしないでもない。
「それより今日は? オレの書き出し遅いのは編集部も分かってんだろ」
「あぁ、今日はただのかおりで来ただけよ。空、あんたはこれ読んだ?」
「どれ? ……海藤拓磨自伝?」
ひどく驚いた空の表情に軽く優越感を覚える。何しろ空の読書スピードは並でなく、編集者であるかおりすらも読書量は適わない。
自然、かおりの口は軽くなった。
「何か、色んな人に支えてもらってここまで来ることが出来ました、ありがとうございます、みたいなことを要は言いたかったみたい。ゴーストライターにしたって少し拙いから、多分自分で全部書いてるわね」
「……ふーん。まぁ、あの人ならなぁ……」
「あ、やっぱり知り合いだったりする?」
「メアド知ってるくらいのもんで、しかももう5年以上連絡取ってないしなー……多忙な人だし忘れてんじゃねぇか?」
「そう、残念。サイン貰えるかなって思ったのに」
「自分でサイン会でも何でも行ってこい」
ピンポーン。
言い返そうと口を開いたかおりは、鳴ったインターホンを不思議に思いながら見た。こんな冬の日曜、空の家に来られる人間は極僅かだし、そもそも空に何らかの連絡が来ていておかしくない。見れば空も首を傾げていた。
「……まぁ良いや。はい、どなた……」
空はそう言いながら扉を開け、客を見た瞬間に固まった。何事かと扉を向こうをそれとなく伺い……かおりも硬直する。
「よぅ、嬢ちゃん。久しぶりだな」
ついさっき話題にしていたその人―――海藤拓磨と、中学生くらいの女の子1人がそこに立っていた。
硬直した空を面白そうに見ている海藤と、やや緊張気味に窺ってくる少女の視線に空ははっと我に返った。
「……狭いけど入ります?」
「敬語ナシな、嬢ちゃん。邪魔しても大丈夫か?」
「……嬢ちゃんって言わないならどうぞ?」
嫌みたっぷりにそう言ったのだが海藤は堪えた風もなく、むしろ楽しそうに笑った。
「今更。それならあかねちゃんって呼ぶか?」
「今は矢野空だよ、お兄さん? あ、もうおっさんか」
「……分かったよ、矢野ちゃんだな?」
おっさんはさすがに耐えかねたらしい、海藤は降参とでも言うように両手を挙げた。空はそれを見てニヤリと笑い扉を大きく開け、2人を招き入れる。
かおりの未だ解けないフリーズを、空は頭を軽く小突くことで無理やり解かして薬缶をコンロに置いた。椅子に、と言いつつ振り向くと、既に座っている海藤が目に入った。内心苦笑しつつ、完全に戸惑っている少女に空はにこりと笑って見せ、どうぞ、と促す。少女は頬を僅かに赤らめ急いで椅子に腰掛けた。
「……で? 拓磨さんは今日はどういったご用件で?」
再び三人に背を向け紅茶の準備をしながら問うと、手持ち無沙汰っぽくしていた海藤は苦笑した。
「久々に会いたくなってさ。こいつ、侑ってんだけど、矢野ちゃんに会いてぇっつーし」
「拓磨さん結婚してたっけ?」
「いや……ちょっと訳ありでな」
ふーん、と相槌を打ちつつティーカップを三人の前に置く。意外と甘党な海藤と少女のため、砂糖とミルク壺も出した。
空も空いていた席に着き、目の前に居た海藤と視線を合わせる。途端、海藤が気まずそうにあーっ、と叫びながら天井を仰いだ後、不意に真剣な表情をこちらに向けた。意識しなかったが自然と背筋が伸びる。
「……悪い、んだけど。もう一回で良いからカメラの前で仕事しねぇか?」
「……何で? オレもう十年やってないし錆び付いてるけど」
「俺は矢野ちゃんにしかやって欲しくない。……俺の自伝は知ってるか?」
「そいつにさっき見してもらったよ。ついでにサインしてやって欲しいんだけど。……で?」
「それを映画化してもらえることになってさ。作者権限で一通りのキャスト決めて良いって言われんだけど、肝心の俺役が決まんないんだ、コレが」
「……いきなり主役、しかも拓磨さんの役? オレには荷が重いよ。悪いけど」
「あぁ、矢野ちゃんの言いたいことも分かる。無理を言ってるのも分かるんだけど……そんでも俺は、矢野ちゃん以外が俺を演じるのは無理だと思う」
空が黙り込むと、家の中を沈黙が満たした。
と、それまで黙っていたかおりがテーブルの下で空の足を蹴る。痛くはなかったが驚いてかおりを見ると、明らかに怒っている表情でこちらを見つめていた。
そういやこいつは復帰推進派だっけなぁと思い至る。
「……あ、の」
沈黙を破ったのは意外にも大人しそうな少女だった。大人三人の視線が突き刺さってたじろいだがそれでも強い視線を空に向けてくる。
「あなたが、“麒麟雄って名乗ってる嬢ちゃん”なんですか?」
「……まぁ、一応。こうしてる方が楽だから男だって名乗るけど、性別的には女……かな。嬢ちゃんってのは不本意だけど。……つか、言わずに連れてきたのかよ拓磨さん」
「麒麟雄って名乗りそうな嬢ちゃんを一人知ってて、今から会いに行くけど一緒に来るか? って聞いただけだからな。侑は移動中ずっと本読んでたし」
「……車で? しかも拓磨さんので? よく酔わなかったな侑ちゃん」
ひでーな、と悪びれず笑う海藤の運転は空の朧気な記憶によるとかなり荒い。まぁ空はその辺強かったので酔ったことはなかったが、いくら高速でも本が読めるほどではなかったように思う。
「そこは慣れてるので」
にこりと笑った顔に疲れは見えないから本当なのだろう。慣れてる、と言っているしお父さんと呼んでいるから、多分かなり前から海藤の養子だったのかな、と見当をつけてみる。……もちろん憶測でしかないが、何だかとても嬉しくなった。五年のブランクなど無かったかのように振る舞う海藤と、その娘さんと会う機会なんてもう無いだろうから。
空に残された時間は僅かしかない。
……否、原田に言わせれば、後十年くらいは寿命が延ばせるらしい。けれどこれ以上、明の居ない世界に生き続けるのは嫌だった。
この十年は正に、空にとっての拷問でしか無かったのだから。
「……なぁ矢野ちゃん。とりあえずどっか行かねーか? 俺も侑もこの辺知らねぇし、案内してくれよ」
「あぁ、それも良さそうだね。……けど侑ちゃん明日学校じゃないのか? 拓磨さんもかおりも仕事有るんだろ?」
「別に泊まりゃしねぇよ。おし、決まったな。運転は?」
「オレがやるよ。じゃなきゃこいつが大変だろうし。十八になってすぐ免許取ったから腕は心配いらない、と思う」
珍しく弱気だな、矢野ちゃん。と笑いながら混ぜっ返した海藤は、かおりが驚いているのに目を留めて怪訝な顔をした。
「嬢ちゃん……かおりちゃんだっけか? この後何か予定でもあんのか? あるんだったら別に無理に付き合わなくても」
「とんでもないですっ! 是非ご一緒させてください!」
日頃のクールビューティーの顔はどこへやった、と本気でツッコみそうになったがすんでのところで堪えた。……というか、かおりが海藤に向ける視線と、侑が空に向ける視線が似ていて嫌な予感がする。
鞄を漁っていた侑がキラキラした目でこちらに差し出してきたのは、自分が書いた本の一冊、『剣の命』という小説だった。文庫化もされているしそちらの方が軽いから持ち運びに便利だと思うのだが、ご丁寧にハードカバーの重い本で、しかもかなり年季が入っていた。
それはすごく嬉しいのだが……
「これにサイン頂けませんか?」
やっぱりか、と空は内心頭を抱えた。ファンレターの返事ならまだしも、サインなどは書いたことがない。
しかし、ここで断るのもおかしい。
「……ちょっと待ってね」
空は一度席を立ち、手近にあったペンを手にとってペンの尻を顎に当てた。……作家のサインってどんなだ。
自分もかなりの本好きだがサインをもらったことはない。まぁ何とかなるだろうと受け取った本の裏表紙の内側にさらりと書いてみた。
「……さすが、矢野ちゃんは違うわな〜」
何故か固まってしまった侑の横から、空の手の中のサインを見て海藤が言う。……それはどっちの意味なのか、問い詰めたい衝動に駆られた。
「……嫌みな奴よね〜、あんたって。知ってたけど」
続いてかおりまでがそう言って、空は堪えきれず仏頂面になった。
「何がだよ。……しゃーねぇだろ、こんなん初めてなんだよ」
「その初めてでさらっと書けちゃうから嫌みな奴なのよ。そりゃあ、あんたは芸能界に居たんだしサインには慣れてるかもしれないけど」
「いや、サインとかは頼まれたこと無かったな……多分。拓磨さんがブロックしてくれてたし」
ちらりと海藤に確認の視線を投げる。海藤は笑いながら頷いて、空の記憶を肯定した。
「あの頃は未成年だったからなぁ。うちの事務所も無理は言わなかったはずだし」
「感謝してるよ、拓磨さん。……えーと、侑ちゃん?」
はっ、とした様子で侑は視線を空が差し出している本から空の顔へと移した。一拍おいて、やや慌てたように空の手から本を受け取って胸に抱いた。
「……ありがとうございます。家宝にします」
「いや。……気に入ってもらえて良かった。本も、サインも」
「……侑ちゃん、こいつこんなだけど女だからね。紳士だけど」
かおりの余計な一言に侑は顔を真っ赤にしてぶんぶんと首を振り、見ていた海藤は爆笑した。空は深くため息を吐くと静かに席を立つ。
「空?」
「……あれ、矢野ちゃん?」
「車出しとくよ。かおり、鍵頼む。カップそのままで良いから」
それだけ言いおいて、空は寝室の扉に乱雑に掛けてあったコートを羽織り外に出る。
穏やかで冷たい2月の風が、空の髪を靡かせて去っていった。
逃げるように出て行った空の広い背を見送り、かおりは一つため息を吐いた。あれ以来空は家に引きこもりがちで、自然、人との交わりも格段に減ったので付き合い下手になっている。以前の……事故前の空ならまず、かおりのからかい文句もさらりと切り返していたはずだ。最もそんなもの、今更持ち出したところで空が改められるとも思えないが。
と、不意に海藤が頬杖をつき侑を見据えた。
「……頼めるか、侑」
「平気。お父さんの頼みだもん、頑張るよ」
「……無理はするなよ。危険に晒すのは本意じゃないし」
その真剣な二人の表情に口を挟めずに居ると、海藤の目がこちらを見た。たじろぎつつも見返すと、微かに笑って、でも真剣な表情で言う。
「かおりちゃんは矢野ちゃんより年下なんだよな。……でも、頼む」
目的語が無くても分かったのは、きっとお互いに長年空と付き合ってきたからだろう。かおりは背筋を伸ばして海藤と侑、両方に微笑んだ。
彼らが何をしようとしているかはかおりには分からない。けれどきっと、それは空に必要な事なのだ。
ならば、かおりが止めたり拒んだりする必要もメリットもない。
「分かりました。出来る限り、空を支えます」
「……ごめんな、俺は行けないから、本当に申し訳ないんだけど。でも少し安心したよ。……あいつの人を見る目は今も一級品だ」
そんなに手放しに誉められたのは久々で、悪くないくすぐったさにかおりは相好を崩した。しかしその一瞬後、かおりは表情を引き締めて海藤を見据える。
「しかしこちらもお願いします。もし空が芸能界に戻ることになっても、」
「あぁ、矢野ちゃんが羽狐あかねだったなんて言わないよ。俺が見つけてきた期待の新星、とでも言やぁ通用すんだろ。嘘は言ってねぇしな。侑も、この事は他言無用だ」
「分かってる。この本も大切にしまい込んどくよ。他人の目に晒すとかもったいないし」
事もなげに侑までがそう答え、かおりは改めて空の影響力の大きさを知った。
空自身は自分が人造人間だからだと思っているようだが、そんなものは関係ない。ただかおりは―――そして恐らく目の前の二人も―――空が好きだから空と居るのだ。
かおりは家族だと思ってもらっても構わないとさえ思うのに、空は頑ななまま、事故の後十八まで過ごしたかおりの家を出てここに暮らしている。
「……さて行くか。侑、説明はざっとでいいから。矢野ちゃんのことだ、きっと香坂光の本の旅人も読んでるだろうし」
「うん。……かおりさん、心配しないでくださいね。矢野さんじゃありませんけど、慣れてますから」
侑の茶目っ気たっぷりな笑みにかおりは苦笑しつつ、海藤にならって立ち上がり背もたれに掛けていたコートを手に取った。
海藤と侑が空の車に歩いていくのを視界の端に捉え、頼まれた通り鍵を掛けながら、かおりはふとひとりごちる。
本の旅人って、漫画化までした本よねー……それとこれと、何の関係があるんだろ……。
まぁ良いか。と鍵をポケットに滑り込ませ、かおりは足早に空の車に向かう。
微かな風が長い髪を巻き上げたのに気づかないまま、かおりは空の車に乗り込んだ。
「遅い。行かないのかと思ったじゃんか」
「……矢野ちゃん、口調俺に似てきたねー。昔は俺も粋がってたからなぁ」
「……オレが現在進行形で粋がってるみたいに言うなよな、拓磨さん。確かに自覚してるけどさ」
「してんなら良いんじゃねぇの?」
減らず口を叩きながら、空は懐かしさに目を細める。
こんなにぽんぽんと小気味良い軽口を叩いたのはいつ以来だったか。最近はそうでもないと思うが、事故直後は誰にも話しかけて欲しくなくて、ひたすら周りを威圧し牽制していた。慰めも憐れみも、空には重いだけで何の救いにもなりはしなかったから余計に。
羽狐明。羽狐あかねと呼ばれていた、感情に特化した個体の理性。……私が代わりに死ねば良かったのに、と思ったことは数知れず、今からでも遅くないと実行に移したことだって一度や二度ではない。
ある意味自分がここに居ること自体が奇跡だろう。でなければこの胸の傷を自らつけたときに、空は死んでいるはずだから。
と、そのタイミングでかおりが助手席に滑り込んできた。
「お待たせしました。……空、どこ行くの?」
「んー……とりあえず梅の花でも見に行こうかと思うけど。この辺の梅はまた違うし」
言いながらゆっくりと車をスタートさせる。海藤はシートベルトを今更のように締めながらへぇ、と楽しそうに笑った。
「そういや丁度盛りだっけ。都会だと季節感とかってショーウィンドウくらいでしか感じらんないしなぁ……」
「都会ならではの弊害だよな。ここだってそこまで田舎じゃないけど、やっぱ野菜も空気も美味いし花も綺麗だし」
「まぁ確かにそうねー……あたしも今は一人で都会だけど、たまに無性にここの野菜食べたくなるもの。なんなら空、あんたの野菜食べてもらったら?」
自分の野菜、と言われて空はハンドルを切りつつ首を振って見せた。目的地はそこまで遠くないから、多分道を忘れてはいないはずだ。空の考えは当たっていたようで、卓越した空間把握能力を持ち道を間違うと即座に訂正してくるかおりは何も言わない。……会話に没頭していて気付かなかった、なんていうのは考えないでおく。
「あれはオレのじゃない、将平のだろ。オレは手伝いしかしてないし」
「手伝いってあんた半分くらい受け持ってるって聞いたけど? 将平の立場無くなるから、ちゃんとお金受け取りなさいよ」
「やっと作業とか覚えてきた見習いが金なんかもらえるか。実物支給してもらってるだけで十分」
不意にくすくすと笑い声が後ろから聞こえて、空は振り返らないまま尋ねる。かおりは助手席にいるので相手はもちろん侑だ。
「どうかしたか? 侑ちゃん」
「いえ……ふふ、やっぱり矢野さんはフォルクマールで、かおりさんはエリノアですね」
意外な侑の台詞に真っ先に反応したのは、これまた意外な海藤だった。……読んでくれていたという嬉しさに顔がにやけそうなのを必死にこらえる。
「へぇ、そうなのか。二人とも剣の命のキャラクターだったろ?」
「うん。お父さんも読んだでしょ? そんな感じしない?」
「言われてみればそうかもなぁ……作家って割と身近な人をモデルにするとか聞いたし」
そんなことを言われたのはかおりを除いて初めてで、しかもかおりがエリノアだというのは初耳だった。だが海藤の言うとおり、言われてみればそんな気がしてくるから不思議だ。
「多分無意識だからオレも言われるまで気ぃ付かなかったよ。……でもじゃあ、ギルは明がモデルか……」
空の呟きに答えるものは車中には存在しなかった。……当たり前だよな、と小さく頬に自虐的な笑みを浮かべた後、空は話題を変える。
「それより拓磨さん、この間の映画、また入場者数二十万越えだって? すごいよな。もしオレがあのまま続けてても絶対そんなん記録できなかっただろーし」
「当たり前だ。二十にもなってねぇようなガキに負けてたまるかよ」
「でも矢野さんも、三冊で五十万部とかって聞きましたよ。漫画化したぶんとかも含めたら、らしいですけど」
「……情報早いな侑ちゃん。突破したのって……何日前だっけ?」
「五日前よ」
律儀に答えてくれるあたり、かおりは空の特性をよく分かってくれている。だからこそこれ以上、空が巻き込まれるかもしれない厄介事に巻き込みたくはないのだが……何となく、かおりは自分から巻き込まれに来そうな気がしていた。
頼むから杞憂であってくれ、と思うも、空のこういう時の勘は外れた試しがない。
「……っと。着いた」
「どーも。……つか本当に丁寧な運転だなぁ。ここのドライバーは日本一気性が荒いとか言われてんのに」
「この県出身者としては一刻も早く返上したい汚名ナンバーワンだな、それ」
さっさと自分は車から降りて助手席側に回りドアを開けてやる。ちらりと海藤を見ると案の定、侑をエスコートする姿があった。
「……納得した。あんたの紳士は海藤さん譲りだったのね」
かおりの呟きは空はおろか海藤にまで聞こえたらしい。何となく顔を見合わせ互いに苦笑した。
「まぁ、あの頃の矢野ちゃん曰わく俺は“尊敬に値する貴重な人”らしいからなぁ。こっちとしちゃあ嬉しいやら恥ずかしいやら複雑だけど」
「じゃあ自分から暴露すんなよ、拓磨さん。オレまで恥ずかしいじゃんか」
空が車のキーをロックしつつ呆れ顔をすると、海藤は楽しそうにニヤリと笑った。
「それはそれ、面白ぇじゃん」
「……言うと思った。確かにオレもそう答えてたと思うし。……今でも拓磨さんは、オレの目標だから」
「はは、冗談でも嬉しいなぁ。こっぱずかしいけど」
「……よし、かおり、侑ちゃん、行こうか。ほとんど人のいない穴場があるからさ。かおりは行ったことあるんだっけか?」
「おわ、ちょっと待てって矢野ちゃん。俺だけ仲間外れは無しだろ」
「え? 拓磨さん居たっけ」
「……地味に傷つくなぁ。侑、何か言ってやってくれよ」
「今のはお父さんが悪いよ。矢野さん真剣に言ってくれてたのに」
「いや、拓磨さんもう大御所になっちゃったし、周りにいじってくれる人居ないかなと思ってからかっただけだよ、侑ちゃん」
「……えぇと?」
空の言葉に侑は首を傾げたが、海藤にもかおりにも分かったらしい。
「……ったく。昔からかなわねぇな、嬢ちゃんには」
「嬢ちゃんじゃないって」
久々の休日だ。海藤もかおりも侑も居ることだし、辛気臭い面をしているわけにはいかない。海藤の笑みにこちらもやはりニヤリと笑いながら、空はかおりと侑と海藤の前に立って歩き出す。
「ここの公園、梅も綺麗なんだけど何でかチューリップもいっぱいあってさ。あとはテニスコートとかバスケットコートとか、ガキでも遊べるとこは多いし」
「へぇ……そっか、矢野ちゃんの子ども好きは変わってねぇのな」
「まぁね。っつーか精神年齢が低いんじゃない? なぁ。かおり」
「……そこであたしに振らないでよ。でもそうね……小さい子とか、あんたの眼光で竦むんじゃないかと思うのに平気で寄って来るわね。あんたも大概子ども好きだけど、それ以上に好かれる性質っていうか」
海藤は興味深そうにへぇ、と言い、侑は自然いっぱいの山の風景に目を奪われているらしく生返事だった。空はそれに小さく笑ってから続ける。
「でもここ、その割には観光スポットには上がらないんだよな。まぁ、この辺だと流石に東京から遠いししょうがないんだろうけど」
「……そういえば、矢野ちゃん方言じゃねぇよな。生まれも育ちもここじゃなかったのか?」
「そうだよ。……でも生憎、生まれるさらに前に、精神の年令設定されてるから。多分そのせいだと思う」
居心地が悪い空気になったのに気付かない振りをして、空は坂を上り続けた。
かおりがそこに来たのは恐らく初めてで、夕陽に照らされた梅の花と、遠くにぽつぽつと見える街の明りのコントラストに目を細めた。小高い山の頂上から梅の花と街を見下ろしていると自分が大きくなったかのように思うが、藍色と紅の交じり合った空を見るとどれだけ小さいかを思い知らされる。
……藍色と紅という色の組み合わせに、一瞬だけ胸に痛みを覚えた。
「……この時間帯が一番、幻想的だろ? 昼も夜ももちろんなんだけど、空の色も相まってオレはこれが一番好きでさ」
「……すげぇな……ここ、矢野ちゃんが見つけたのか?」
「……正確には明が、な。覚えてて良かった」
「矢野ちゃん前から忘れっぽかったもんなぁ。っとそうだ、写真とらねぇ?」
「あ、じゃあオレカメラマンね」
「ここは年長者だろ、矢野ちゃん。侑も一緒に撮りたいだろうしさ」
あっさり言いくるめられて渋々侑の横に並ぶ空を微笑ましく見ていると、かおりは海藤に軽く背を押された。
「ほら、かおりちゃんも。せっかく一緒に来たんだから撮ろうぜ?」
「いや、でもあたし……」
「何してんだよかおり、早く来いって」
怒っている、というよりは寧ろ怪訝そうな空の声に引っ張られ、かおりは侑を挟んで空と反対側に立った。と、侑が不意にこちらを振り返る。
「……あの世界は、覚悟が要ります。キツイかも知れませんが……頑張って下さい。矢野さんも」
「……そう。分かったわ」
「何だ? おいかおり、何の―――」
空の台詞は、最後まで言われることができなかった。
「―――。じゃあお父さん、行ってくるね」
「おぅ、行ってこい。……頼むぞ」
海藤の少し心配そうな、しかし侑や空、そして今日初めて会ったかおりすらも信頼している声が最後となり、かおりの意識は完璧な暗闇に閉ざされた。
「……良い方向に、作用してくれると良いんだがなぁ……」
一瞬前まで三人が立っていた場所をぼんやりと見つめながら、海藤はひとりごちる。
海藤が思いついた荒療治。生きる望みを完璧に捨ててしまった空に、もう一度それを取り戻させるための最後の賭け。―――それが、侑の持つ能力を借りることだった。
頼む、ともう一度口の中で呟き、海藤はその場に座り込む。
仄かな梅の香を乗せた、まだ冷たい風が、海藤の傍を音も無く通り過ぎていった。
……こうして書いていて、つくづく季節がズレてるなぁと思いますが……もう諦めました。このまま突っ走ります。
そして、ここからが「本編」であり、これが本来の「一章」にあたります。
ここからがスタートです。
長くなりますが、あかね(空)の物語を楽しんでいただけましたら本望です。