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藍色の疾風  作者: 黒詠
プロローグ
2/10

壊れゆくもの

 小さく押し殺した悲鳴が聞こえてくる。それに抱く罪悪感に明が慣れてしまったのはいつからだったか、明の記憶力をもってしても思い出せない。

「……くっ……けほっ」

 ふらりと姿を現したあかねは、廊下に突っ立っていた明を認めて痛々しい苦笑を頬に浮かべた。見た目はさっきと何ら変わりないが……相変わらず、父親役の狙うのは腹が胸らしい。あかねの右手が庇うように左の脇腹に添えられている。

「また聞いてたのか、明」

 悪い奴だな、と続けるあかねの頬は痛みに引きつり、苦笑と言うよりも泣くのを堪える顔に近かったけれど、明には何も言えなかった。

 ただ無言で、救急箱を差し出すしか。

「あぁ……ありがとう、助かるよ、明」

「……姉さん、やっぱり僕も」

 言いかけた言葉はあかねの手に遮られた。唇に微かに触れるあかねの指先は、中学生とは思えないほど荒れている。もちろん人に見られる立場にいるから、ある程度の手入れはされていたが……それに今更気付いて、明の自己嫌悪はさらに深くなった。

「これは私一人で十分だ。お前まで、これに巻き込む気は無いよ」

「……じゃあせめて、食器洗いくらい」

「手伝おうって気持ちだけで十分さ。気にしすぎだよ、明」

 尚も言い募ろうとした明の脇をすり抜けざまに軽く頭を撫で、あかねは自分の部屋へと入っていった。音もなく閉められた扉に鍵など付いていないが、明はそれを無理に開けられない。

 いや、以前一度だけ、あかねの怪我の処置をしようと開けたことがあった。……その時にあかねが上げた、殴られている時よりも余程悲痛な悲鳴が耳にこびりついて離れない。あかねが懸命に隠そうとしていた痣と火傷、蚯蚓ばれもやはり、明の網膜にはっきり焼き付いている。

 ……結局明は、こうして立ち尽くすしか出来ないのだ。そうでなければまた、あかねを傷つけてしまう。

「……理性なんて、なければ良かったのに」

 明はぽつりと呟くと、あかねの部屋の向かい側にある自分の部屋へと入って扉を閉めた。


「っ……あーもう、派手にやりやがって」

 低く小さな声で毒づきながら、あかねは殴られた場所に手早く湿布を貼った。気休め程度だし、父親役にバレればさらに殴られるか蹴られるかするので割とすぐに剥がさなければならないが、明の厚意を無碍にする気はあかねには毛頭ない。

「……悪い、明」

 優しい明が自分のこれのせいで苦しんでいるのは分かっていた。けれど、明までこれを受ける必要は絶対にない。

 何故なら明はあかねと違って、本当に何もしていないのだから。

「……っと」

 机の上に置いていた携帯が震える。服を元通りにしてから手に取ると、メールが二件届いていた。一通はあかねを芸能界へと導いてくれた人からお誘いのメール、もう一通は……、

「……理央君か」

 思えば彼らと最初に会ってからもう半年以上経っている。……寿命のせいなのか、それとも皆そうなのかは分からないが、最近は特に時が経つのが早い気がして仕方なかった。

『お久しぶりです。相変わらず人気者やし忙しそうやけど、調子どんな? 因みにこっちは皆元気やで!

今度の冬休みにまたそっち行けることになったさかい、色々話聞いて欲しねんけど……ええかな? 那由多もあかねさんと明さんに早よ会いたい言うて五月蠅いくらいや。ま、俺も母さんにあんたどんだけ楽しみなん? て呆れられてもうたけど。

とにかく俺らはすごく楽しみにしとる。早よ冬休みならんかな〜?

あかねさんも明さんも、風邪なんてひいて会えへんかったとか承知せんよ?(笑) ほなまた!』

「……随分長いメールだね」

 携帯だっていうのに絵文字もないし。とあかねは苦笑すると、部屋を出て明の部屋の扉をノックした。すぐに明の尖った髪が隙間から覗く。

「姉さん?」

「入って良いか? 理央君からメールが来たんだ」

「あぁ……僕にも那由多ちゃんから来たよ」

 まだ微妙に明は引きずっているようだったが、素直に扉を大きく開けてあかねを部屋に通した。……そういえば、あかねの部屋に明が来ることはよくあっても、あかねが明の部屋に入ることはあまりない。つまり有り体に言えば物珍しいのだ。

「……殺風景だな」

 想像はしていたが、あまりの物の無さにあかねは思わず苦笑した。しかし明は僅かに眉間にしわを寄せ、どことなく不機嫌そうに反論してくる。

「必要な物はあるし、姉さんだって似たようなものじゃない」

「ま、それは認めるけどね」

 同級生の部屋などにお邪魔すると、物の多さに驚かされる。というか、物の多さではなく色の問題かも知れない。あかねも明も基本持ち物はモノトーンだけだ。私服も緑や青などばかりで鮮やかなものはほとんどない。あかねは本好きだから本棚はいっぱいだが漫画は読まないし、明に至ってはほぼ無趣味に近い。かろうじて洋楽のCDを何枚か持っている程度で、そのカバーも黒が基調となっている。

「……まぁ、生活に支障ないし構わないんじゃないか?」

「だからさっきそう言ったよ。聞いてた? 姉さん」

「もっ、もちろんさ。……で、メールが」

「うん、僕にも来たよ。……こんなに懐かれるとは思ってなかったけどね」

「……そうか? 必然だろう」

 お前のは。と胸中で付け足す。あかねの自分でも分からないほどの微妙な表情の変化に、目敏い明は気付いたようだった。

「また姉さん悪い癖出してるでしょ」

「……そうだね。悪い癖だ」

 互いに補い合う存在である二人の間で、隠し事はまずできない。そもそも二人共に曲がったことが嫌いだから隠し事など滅多にしようとしないのだが。

「姉さんは自分を過小評価しすぎだよ。普通の中学生だったら、家事とか芸能活動とか両立できる訳ないもん。いくら姉さんの頭が良くて学校の心配が無いって言ってもさ」

 こういうときだけ、明は年上が諭すように話す。その口調もあかねはもちろん好きだったが、それ以上に明自身の感情が見える、やや子供っぽい口調が好きだった。理性が少しだけ外れ、本来の―――というよりは、生身の―――明と話している気になるから。

「……でも本当に、過小評価なんてしていないよ。周りの評価が高過ぎるだけだろう?」

「周りからの評価の方が冷静で客観的だよ。それに姉さん、あんまり言ってると姉さんを評価してくれてるあの人に失礼じゃない?」

 明の言うことは確かに正論で、その上あの人のことを持ち出されると、あかねはもう何も言えなかった。

 つかの間の沈黙が重い。

 居心地の悪い沈黙を破ったのはあかねでも明でもなく、あかねの手にあった携帯だった。

「……もしもし」

『あぁ、014だな? 私だが』

「所長さんが直々に実験体に? ……冗談だよ。何か?」

『質の悪い冗談だな。……015はそこに居るか? 少し話したいのだが』

「じゃあ明の携帯に掛ければ良いじゃないか……明、所長がお前に」

 あかねはそう言って明に携帯を差し出すが、明は怪訝そうな表情で首を傾げただけだった。

「僕に?」

「あぁ。お前に話があるらしい。……所長、私は席を外した方が良いのか?」

『……そうだな。頼む』

「だそうだ。明、私は部屋に居るから後で持ってきてくれるか?」

 電話向こうの所長の声が聞こえたはずはないが、あかねの話す内容だけで意味は分かるだろうと明に問いかける。案の定、明は一つこくりと頷いて携帯を受け取った。

「電話替わりました、明……015です」

 明の声を背に、あかねは静かに明の部屋を出た。


 所長と仲がよいのはあかねで、明とこうして電話で話すことなど無かったので軽い緊張を覚える。とはいえ、声が出なくなるなんてことはあり得ないから別に構わないが。

「姉さんを追い出してまで僕に話したいこととは?」

『……そう怒るな。済まない、あかねが聞いたらきっと話が進まないと判断したのでな』

「……姉さんに、何か?」

 嫌な予感を覚えて恐る恐る尋ねると、意外にあっさりした、予想外な返事が返ってきた。

『お前にも関係あることだ、明。……私は今度、結婚することになったんだが……そこを出て、私達と暮らす気は無いか?』

 どうして、と口をついて出かけた言葉は、その瞬間に飲み込んだ。

 所長は誰よりあかねの怪我が酷いことを知っている。同時に、その頑なさも明と同じように分かっているだろう。

「……確かに、姉さんは聞いた瞬間に断るでしょうね」

『そうだろう? だがここ最近特に、あかねの怪我が酷くてな……お前は知らないだろうが、あかねが前ほど動けていない。関節をやられているらしい』

 関節。

『確証は無いがな。……お前はどう思う? 私達と暮らすと言う案を』

 問いかけられて、ようやく明の金縛りが解けた。

「……姉さんのことを考えても、五分五分といった所でしょうか」

 率直にそう答えると、口には出さなくても、所長が不思議に思っているのがよく分かった。言葉を選びつつ、明は慎重に口を開く。

「父親役さんも母親役さんも、ベクトルは違いますがどちらも姉さんに強い執着心を抱いています。無理に引き離せば、姉さんを奪い返そうと躍起になり、ますます姉さんを危険にさらすことになるでしょう。だからといってここにこのまま留まるのも、姉さんのためになりません。……だから五分五分です」

『……なるほど。いや、そこまで考えが至らなかった……少し考えよう。明、今のところ、あかねには言わないでおいてくれ』

「分かりました」

 すぐにでも、と言いかねなかった所長を何とか立ち止まらせることができ、明はほっと息をついた。……本当に、親役さん達は何をしでかすか分かったものではない。

 しかも被害を被るのは、何も知らないあかねだ。

 理不尽な父親役の怒りを容赦なくぶつけられているあかねを想像し、明はぐっと唇を噛んだ。

『話はそれだけだが……明、お前も最近検査を受けていないだろう? 明日時間があるなら来て欲しいのだが』

「あぁ……そうですね。大丈夫ですよ」

 明日、あかねは確か新しいドラマの撮影だったはずだ。日頃は明がマネージャーのような役割を担っているが、一日くらい平気だろう。今回のはあの人と一緒だし、心配する要素はどこにもない。

 胸中のざわつきを無視して、明はそのまま電話を切った。

 ……関節は盲点だった。

 あかねに携帯を返そうと立ち上がった明は、それに思い至らなかった自分を激しく憎んだ。

 少し考えれば、いや考えずとも注意して見ていれば、言われる前に気がついたはずだ。一番近くにいて、且つ補い合う存在であるはずなのに、明はあかねに支えられ守られているしかできない。……姉さんこそ、僕を過大評価し過ぎだよ。と明は自嘲した。


「お疲れ様でした!」

 撮影は予定よりもスムーズに終わり、あかねは先輩たちに挨拶して回っていた。とはいえ今回のはそんなに大掛かりなものではないので人数も多くなく、早々に挨拶も終えてしまって若干手持ち無沙汰になる。

「お、嬢ちゃん。さっきの良かったぜ」

「あ。お疲れ様です、お兄さん」

 あかねを芸能業界に誘ってくれた恩人・海藤拓磨が背後に立っていた。あかねは海藤に向き直って一礼する。余談だが、あかねは彼のことをお兄さんとしか呼ばないので、一度本当に俺の名前覚えてる? と冗談混じりに尋ねられたことがある。

 人間的にも、その演技力もあかねの尊敬に値する貴重な人だ。

「嬢ちゃん今日は? つか、あの坊主今日は居ねぇのな」

「あぁ、明ですか? 今日はちょっと、研究所の方から呼び出されたらしくて。お兄さん居るし大丈夫でしょ? って言われましたよ。あいつ私を何だと思ってるんでしょうね?」

 笑わせようと思って言った台詞だったのだが、海藤は何だか複雑な表情を見せた。

「あー……とりあえず大事な姉ちゃん、じゃねぇの? 何だかんだ言って、嬢ちゃんも坊主のこと大事にしてるしなぁ」

「そりゃまぁ、明は私の自慢の弟ですから」

 そう言って胸を張ると、海藤は仕方ないなという風に苦笑してあかねの背に手を回した。促されるまま歩き出しながら、あかねは疑問を込めて海藤の顔を見つめる。

「今日俺一人だからさ。坊主も一緒なら飯にも誘えたけどちょっと無理だろ? とりあえず家まで送るよ」

「いや、大丈夫ですよ。コレがありますから」

 そう言って国の重要人物のみが持てる特別なカードを見せるが、海藤はそう言うことじゃなくてさ……とまた苦笑した。

「察しろよ。俺が一人が嫌だからドライブ付き合えって言ってんの。嬢ちゃんの家までだったら結構な距離あるから丁度良いし」

「……紳士も良いけど、そうやって無理に押し切るのどうかと思うけどな」

「ほらそれ、二人にならないと嬢ちゃん敬語はずさないし」

「当たり前。っていうか本来はずすもんじゃないでしょ、お兄さんもう三十じゃなかった?」

「……いつも容赦ねぇよな、嬢ちゃん」

 ぼやくように海藤が言っているのを聞きながら、海藤の車まで案内される。いつも通り後部座席に座ろうと扉に手を伸ばすと、先に運転席に座っていた海藤が内側から助手席の扉を開けた。

「たまにはこっちも良いだろ? 坊主居ないんだし」

「……お邪魔します」

「お邪魔されます」

 微妙に落ち着かなくてそう言うと、海藤は楽しそうに笑った。

 あかねがシートベルトを締めたのを確認してから、海藤は車をやや荒っぽいスピードで発進させる。

「そういや坊主の呼び出しって、何かあったのか?」

「さぁ……昨日所長から言われた、としか私は聞いてないから。何か隠してるっぽいけど、明自身が怪我とか病気とかじゃなさそうだったしそんなに追求しなかったしね」

「……ほんっと、仲良いよなー。俺一人っ子だし、結構羨ましいよ」

「そう? ……そうかも知れないな。もう半年くらい前になるけど、関西と九州の研究所の子達が遊びに来てね。そのときやっぱり、羨ましいって言われたんだ。私たち自身はこれが自然だから、羨ましいって言われてもアドバイスなんてできないんだけど」

「自然体でそこまで仲良いってのはなかなかねぇんだろ。……っと、この先どっちだっけ」

 もう一つ向こうの信号を右、と答えながら、あかねはふと窓の外に目をやった。

 街路樹の揺れ方が酷い。

 風が強いんだな、とぼんやりと考えたところでまた海藤が話しかけてきたので、それ以上の思考をあかねは打ち切った。


 三者面談ならぬ四者面談だ、と柄にも無く明は冗談を胸中で呟いてみる。

 所長に呼び出されたのは明だけだと思っていたのだが、家に帰ったときに母親役から、今日は私たちも一緒に行くわ。と告げられたのだ。014たら、今度は何したのかしら? とこちらが苛々するような台詞と共に。

 母親役の説明の間ずっと無言だった、父親役の車で研究所までたどり着き、今に至る。

「014と015を引き取りたいのだが」

 前置きも前座も(……同じものか?)一切無く、所長は親役さん達に切り出した。母親役も父親役も、豆鉄砲を食らった鳩のような顔で絶句する。

「本人達の意向もまだ聞いていないから正式な打診ではないが、お前達にとっても、014と015にとっても、そちらの方が良いと思ってな。……015、どう思う?」

「僕は構いません。誰が親役であろうと、僕も姉さんも実験体に過ぎませんから」

「まぁ……明、私はそんなこと思ってないわよ? 貴方を本当の息子だと」

「貴女はそう思っていたかもしれませんが、僕は貴女を“母親”だと思ったことは一度もありません」

 らしくなく感情的になっているのは自覚していた。あかねが側に居ないときにここまで明が感情を顕わにしたことは今までない。

 けれど、明の特化された理性を持ってしても、これだけは抑えきれなかった。

 明がそこまで言うと思っていなかったのか、所長の驚いた顔が視界に映る。しかしそれさえも、怒りに煮えた明への冷却水には到底なりえなかった。

「百歩譲って、僕が貴女の息子で、貴女が僕の母親だとして。僕の姉さんは、貴女の娘ではないのですか?」

「……あれは違うわ。あれは娘じゃない。だってあれ自身それで良いと言ったのよ? 私は実験体で構わない、と」

「では僕もそう言えば、貴女の息子ではないわけですよね」

「……明、どうしてそんなこと。私が悪いの?」

 当たり前だ! と叫びたい衝動を渾身の力で押し止め、明は静かに席を立った。

「015……?」

「……少し席を外します。僕の理性を持ってしても押さえきれない感情なんて、何をしでかすか分かったものじゃありませんから」

「……分かった。落ち着いたら連絡をくれ」

 さすがというべきか、所長の指示は冷静かつ的確で、それに少しだけ飛んでいた理性が戻ってくる。

 それでも絡みつくような母親役の視線に耐え切れず、明は逃げるように部屋を出た。


 夜のこの街は、街灯やネオンに照らされひたすらに明るい。特にクリスマスシーズンだからか、そこここに電飾の施された木々が見える。

 不意にがくん、と車が揺れ、窓の外を見ながらぼんやりしていたあかねは軽く舌を噛んだ。

「……地味に痛いよね、こういうの」

「あぁ、舌でも噛んだか? 悪いな、運転荒くて」

前を見据える海藤の口はそう言っているが、その声音は顔を見ずとも笑っていると分かる。あかねの表情は自然と仏頂面になった。

「悪いと思ってるんなら直しなよ。送ってもらってる身としてはそんな言えないけどさ」

「言ってんじゃん」

 だってお兄さん、私がそういう憎まれ口を叩いてるときの方が楽しそうだから。と言いかけたが、あかねは言わずに飲み込んだ。いつもなら言い返すところで言い返さず黙ったあかねを怪訝に思ったのか、海藤はちらりと横目であかねを見る。

「どうかしたか?」

「……いや、何でも」

 上手く嘘を吐けなかったのは自分でも分かった。海藤の声がはっきりと心配の色を帯びる。

「酔ったとかなら早めに言えよ。もうすぐ高速乗るから下手に止まれなくなるし」

「いや、平気。……ただ、妙な胸騒ぎがして」

 杞憂だろうけど。とおどけたように付け足す。今度はちゃんと演技できたと思ったのだが、海藤は苦笑して七十点だな。と言った。

「んじゃ、丁度高速乗ったし飛ばすか。……っつったって、この風じゃそこまでスピード出せねぇけど」

「うん、無理しなくて良いよ。きっと何とも無い」

 自分に言い聞かせるように呟いた声は、驚くほど覇気が無かった。


 男子にしては少し長めの黒髪が、風に煽られて顔や首筋を叩く。それに混じって冷たいものが頬に当たって、不思議に思った明が空を仰ぐと、曇天からぽつりぽつりと水滴が落ちてきていた。季節的には雪でもおかしくないのだが、落ちてくるのは雪でも霙でもなく雨の雫だ。

 まるで泣けない明や泣かないあかねの代わりに、空が泣いているかのように。

「……あぁ、空、か」

 これまでプロジェクトの個体の中で個体名を持つまでに至った―――有体に言えば無事に造りだされた―――成功体は、あかねと明を含めて四人だけだ(但し、同じプロジェクトとはいえ管轄が違う国立以外の研究所の個体、例えば理央や那由多は別だが)。そしてその四人ともが、何かしら空に関係ある個体名を持っている。

 一人目の<晴>に始まり、二人目の<雷>、三人目の<暁>、そして四人目の<夜>。

 それとこれと関係が無いことは分かっていたが、あまりのタイミングの良さだなとぼんやりと思う。

 と、不意に明が背を向けていた扉が開いた音がした。ここは屋上で、季節柄来る人間はほぼ皆無に等しい。だから別段慌てるでもなく明が振り返ると、案の定といおうか、原田が扉を閉めゆっくりとこちらに歩いてくるところだった。手には缶コーヒーが二本。……どうやら明を心配して来てくれたらしい。

「もう十二月なのにこんなとこに居たら風邪ひくよ」

 ブラックとカフェオレどっちが良い? と横に並んだ原田に問いかけられ、明は微かに苦笑を浮かべながらカフェオレを、と頼んだ。原田が甘いものが苦手だというのは大分前に聞いたことがあったせいもあるが……昨日から色々ありすぎて、脳に糖分が足りないような気がするから、というのが一番の理由である。

「はい、じゃあカフェオレね」

 言葉と共に手渡された缶は熱いくらいで、それでやっと明は自分の身体が冷え切っているのに気付いた。どれくらい長く居たのか、見れば指先はしもやけのように赤く染まっている。

 原田はといえば、くるりと身体を反転させてフェンスに背をあずけ、手の中のコーヒーを弄んでいた。

「……所長に聞いたよ。君達を引き取るつもりだ、って」

「……でしょうね」

 言葉少なに明は答え、缶コーヒーのプルタブを引いてそっと口をつけた。冷えた唇に温かなコーヒーが心地良い。

「……あかねちゃんのことを知ってる身としては、賛成だけど。君達の親役さんたちは本当に厄介だね。あれと明の世話が私たち以外に務まるとは思えないわ! だってさ」

 危うくむせてしまう所だった。

 なんとか最後の一口を飲み込んでから一息入れて、原田に向き直る。原田は何とも言えない顔で、手の中を踊る缶を見つめていた。

「……今のって冗談ですか?」

「そうだね。滑稽すぎて冗談みたいだ。……こんな笑えない冗談ないけどね」

「……ありがとうございます、原田さん」

 突然礼を言った明に驚いたのか、原田は手を止めて明を見た。相変わらずぽつりぽつりと降っている雨粒と、一向に止まない風に煽られ張り付く黒髪が鬱陶しいが、明に場所を変える気はまだない。恐らく原田もそれは同じだろう。

「僕達を普通に扱って、その上ここまで心配してくれて。……姉さんの居る芸能界なら何人もそういう人が居ましたが、ここでは原田さんと所長さんくらいしかそういう人、居ませんから。有り難いな、って」

「……こっちこそ光栄だよ」

 原田はぎこちない苦笑を頬に浮かべた後、もう大分冷めてしまっただろう缶を開け一気に呷った。ものの数秒で飲み干した後ぎゅっと缶を握りつぶして、さて。と切り替えた表情で言う。

「風が冷たいし、雨もそろそろ酷くなりそうだから中に入ろう。検査はまだ?」

「えぇ。先に所長さんの所に行きましたから」

「じゃあ検査室に行こうか。所長の手がまだ離せないっぽいし」

 言いつつ原田が指し示した空中に浮かぶ画面には、ヒステリックに叫ぶ母親役の姿が映し出されていた。原田の苦笑に明も微苦笑を返し、扉へと歩き出す。

 瞬間、嫌なものが明の背を駆け抜けていったが、明は立ち止まらなかった。


 あかねの家までの長い道のりをやっと半分ほど来たとき、ふと海藤が口を開いた。

「そういや嬢ちゃん、来年受験じゃねぇの?」

「あぁ……言われてみればそうかな。ま、私は国の所有物だから、また何か指示があると思うけど」

「……つくづく大変だよなぁ。俺だったら無理だ」

「私だって縛られるのは嫌いだよ。……でも逃げ場も無いし。その点は本当、お兄さんに感謝してる」

「俺?」

「そう。お兄さんが私に声を掛けてくれなかったら、私も……明も、きっと今以上に束縛されてたよ。下手をすれば監禁とか」

 海藤は分かり易く絶句したが、実際あかねの言ったことは何らありえないことではなく……むしろ、それでもまだマシな方だといえる。例えばあかねが受けている虐待の、さらに延長線上にある―――拷問に、あかねや明の身体も精神もどれほど耐えられるか。そんな実験が言い渡されることも、あるいは寿命が尽きる前に殺そうとしたらどうなるのか、という実験が言い渡されることも、当然、予想くらいはできる。

 何故ならいくらあかねや明が拒否し、所長や原田が反対してくれたとしても、国の決定は絶対に覆らないからだ。

 ただ幸いにも今は、あかねが芸能界で活動することを公式に認められているのである程度の自由が利く。あかねの補佐としてマネージャーのようなことをやっている明も同様だ。

「……だから常に、何か役をもらってくるのか?」

「まぁね。そうしていれば、私たちが成功体だっていう証明にもなるから国からもとやかく言われないし。それに楽しいから」

 ごく普通に言ったから逆に信憑性があったのだろう。海藤はなら良かったよ。と笑った。

「何だかんだ言って、俺が嬢ちゃんを無理やり引っ張ってきたことに変わりはないしな。まさか一発目であそこまで当てるとは思わなかったけど」

「言うほどじゃないよ。だいたいあれは他のキャストさんが良かったから、でしょ」

「嬢ちゃんのおかげもあったって、絶対。俺が保証する」

「……褒めすぎだよ、お兄さん」

「あ、照れた?」

 楽しそうな海藤の声音にちぇ、と小さく舌打ちをすると、ますます海藤は面白そうに笑った。

「でも本当、嬢ちゃんが笑ってねぇと調子狂うからな。胸騒ぎっての、少しは紛れたか?」

「……少しね」

 あかねの皮肉っぽい返事に少しかよ! と大げさに言った海藤は、その口調の強さと比例させるように、強風に転倒しないギリギリまでスピードを上げた。


「……あぁ、明。もう良いのか?」

 所長の部屋へ行くと、開口一番そういわれた。何でも明の検査も終わり時間も大分遅くなったので、所長の話はまた持ち越されることになったらしい。母親役との口論の疲れだろう、所長の表情には明らかな陰が見て取れる。

「えぇ。元々がそこまで感情的じゃありませんし、しばらく風に当たれば落ち着きますよ」

「風に当たるのは良いが、風邪をひいたら元も子もないからな。その辺は考えておけ。……まぁ、言うまでも無いだろうが」

 どうも過保護になるな、という小さな呟きは聞こえなかった振りをして、明はすっと目を伏せた。

「……いえ。お気遣いありがとうございます」

「羽狐の二人はもう車だ。明日……は急すぎて無理だろうが、また近々、今度はあかねも含めて話をしよう」

「分かりました」

 明はそう言って一礼し、何か言いかけた所長を振り切るように部屋を後にした。


「……、なぁおい、嬢ちゃん?」

 海藤のどことなく苛立って聞こえる声に、あかねは弾かれたように顔を上げた。窓の外を見ればもう見慣れた町並みで、ここからなら歩いてでも二十分とかからない。

「ごめん、何?」

「……本当に大丈夫か? もうすぐ着くけど」

「大丈夫。……なんでもないよ。本当に。大丈夫だから」

 ん、と短く返事をした海藤の眉間にはしかし、深い皺が刻まれている。それが苛立ちから来るものなのか、心配から来るものなのか、どちらにせよ、原因はあかねである。

「……ねぇお兄さん」

「あ? 何だ?」

「……私と明は、本当に補い合う存在なのかな」

 沈黙が、車内という狭い密室を満たした。

 当たり前だ。そんなことは、あかねに分からないのなら海藤に分かるはずも無い。

 だが本当にそうなのか。今まで少しも疑わなかったそれは、本当に事実なのか。

「……難しいことは分かんないけどな」

 赤信号で止まったときを見計らったように、海藤は後頭部をがしがしとかきつつ言った。

「嬢ちゃんも坊主もその形が一番似合ってるんだから、無理に変えなくていいんじゃないのか?」

「……そう、だよね。ありがと、お兄さん」

 でも無理にその形が変えられてしまうとしたら? あかねの中の一向に収まらない胸騒ぎはそう責め立てる。あかねは唇をきつく噛み締めて、窓の外の、そのとき吹いた突風に大きく揺れる街路樹を見た。

 ―――そして、ふらふらと危なっかしい運転をするトラックが赤信号を無視して交差点に突っ込んだ後、突風に煽られて横転し見慣れた車を押しつぶすのも。

 全てがスローモーションのようにはっきりと、あかねの瞳に写った。

「……!」

「っおい、嬢ちゃん!?」

 自分でも何を叫んだか覚えていない。ただ無我夢中で、身体に絡みつくシートベルトを外しドアを開け、海藤の制止も聞かずに横転したトラックと巻き込まれた車に駆け寄る。

「明! 明ッ!?」

 トラックはもちろん、乗用車の方も悲惨な状態だった。運転手は共にほぼ即死、その横に座っていた助手席の母親役さんの息も既に無く、後部座席の明は……

 かろうじて上半身は車の窓から見えているが、そこから下はトラックの下敷きになっているようだった。胸が上下しているから息はあると分かるが、今すぐ病院の治療室に叩き込まなければまず助からない。

「いやだ、明っ……!」

「嬢ちゃん、落ち着け。まずは119だろ」

「……お兄、さん……」

「しっかりしろ。今すぐ連絡すれば坊主は助かるかもしれない。嬢ちゃん以外にそれが出来る奴がいるか!?」

 海藤の暖かい手が肩に乗り、逆に頭はすっと冷えた。

 あかねはすぐさまポケットから携帯を取り出し119にコールする。中々相手が出ないことに苛立ちが募るが、唇を噛み締めて耐えた。

「はい、こちら119……」

「事故です。すぐに救急車を」

 そうして自分でも意外なほど冷静に、あかねは今居る交差点の場所を告げた。


 ―――明がそのとき目を開けたのは、奇跡としか言いようが無いだろう。

 救急車を呼んだのだろう、あかねが震える手で携帯を畳む。

「……ねえ、さん……」

「っ明!? 大丈夫か、もう少しで……っ!」

 改めて明の姿がどうなっているか見てしまったらしく、あかねは大きく息を呑んだ。その後ろでは、あかねを可愛がってくれている海藤が痛ましい表情でこちらを見つめている。

「……ねぇ、ぼく、さ。……ねえさんの、弟、で、良かった……」

「嫌だ、明っ、もうしゃべるんじゃない!」

 悲痛なあかねの声が曇天に吸い込まれる。それに耐え切れなくなったのか、海藤の手があかねに伸びて肩を抱いた。

「……生きてね、姉さん。僕の、理性と、記憶、力……あげる、から……僕の、分、まで……」

 あぁ、言いたいことはまだ山ほどあるのに。

 頑張りすぎるなとか、頑ななところを直せとか、何でも一人で溜め込むなとか、僕の死に囚われないでくれとか。

 出来ることなら生まれ変わったとき、また姉さんの傍に居られたらいいな、とか。

 ……もう、唇が動かない。

 意思に反して、瞼がゆっくりと落ちてくる。見えるあかねの顔が、これ以上無いほど苦痛の表情で、この人にだけはこんな顔をさせたくなかった、と思った。

 ……あぁでも、ちゃんと死ぬ前に姉さんに会えた。

 ふ、と明は唇を綻ばせた。それを見たあかねが、海藤が止めるのも聞かず半狂乱に叫ぶ。

「明ッ? おい、返事しろよ、してくれよ! 頼むっ……!」

 瞼が閉じきる。最後まで残った聴覚には、自分の名を呼ぶあかねの声と……

 遠くから聞こえる、救急車のサイレンだけが引っかかった。

 ここまでが、所謂プロローグ部分になります。こんな長いプロローグは作者自身見たことがありませんが、話の都合上、どうしても入れたい描写だったのであえて長くしました。

 1章と違い、視点がころころと変わって読みにくかったかと思います。

 もう少しここはこうしたら……などありましたら、辛口でも全く構いませんのでコメントをお願いします。

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