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第2話 フロストヘルムの領主

お読みいただきありがとうございます!

王都から馬車で七日。


 たどり着いたフロストヘルム領は——想像以上に、寂れていた。


 石造りの小さな城館。人通りのない広場。痩せた畑。冷たい風。空は鉛色で、遠くの山脈には万年雪が被さっている。


「……思ったよりも、荒れているのね」


 馬車を降りた私を迎えたのは、老執事のゴドフリーだった。白髪を丁寧に撫でつけた好々爺で、杖をつきながらも背筋をまっすぐに伸ばしていた。


「ようこそ、フロストヘルムへ。ウィンフィールド公爵家のご令嬢とお聞きしましたが……」 「アリシアで結構です。公爵令嬢の肩書きは、もう意味がありませんから」 「は、はあ……」


 ゴドフリーの困惑した顔の向こうから、一人の青年が城館の扉を押して出てきた。


 黒髪。灰色の目。背が高く、痩せているが肩幅は広い。無愛想な顔つきで、まるで彫刻のように整ってはいるものの、表情が全くない。


「あなたが、アリシア・ウィンフィールドか」


 低い声だった。不機嫌なようにも聞こえるが、目をよく見ると——敵意ではなく、ただ単に人と話すことに慣れていないだけのようだった。


「はい。あなたがフロストヘルム伯爵?」 「カイル・フォン・シュヴァルツ。……伯爵というほど立派なものじゃない。見ての通りだ」


 カイルは城館を親指で示した。壁のひび割れ、剥がれかけた屋根瓦。確かに、貴族の館というには少々厳しい。


「ここに住みたいというのは本当か」 「ええ。薬草を育てたいんです。辺境の気候に合う品種を研究して、村の人たちの役に立てればと思って」 「……薬草」 「はい」 「……ふうん」


 カイルはしばらく黙った後、ぼそっと言った。


「好きにしろ。空いてる部屋ならいくらでもある」


 愛想のかけらもない返事だったが、追い返されるよりずっとよかった。


「ありがとうございます! あの、さっそくですが、このあたりで薬草が自生している場所はありますか?」


 カイルはまた黙った。数秒後、無表情のまま口を開いた。


「……裏山にいくつか。案内する」


 ゴドフリーが目を丸くしていた。後で聞いたところによると、カイルが自分から他人を案内するなど、過去に一度もなかったらしい。


 翌朝。


 私は城館の裏にある広い空き地に立っていた。


 ここを畑にしよう、と思った。土の状態は見たところ悪くない。冷涼な気候は一部の薬草にとってはむしろ好都合だ。


「まずは、土を耕さないと」


 納屋から鍬を借りて、空き地に向き合った。  公爵家では庭の手入れしかしたことがなかったが、まあ、やれるだけやってみよう。


 鍬を振り下ろした。


 ——カッ!


 その瞬間、何か不思議なことが起きた。


 鍬が地面に触れた途端、土がふわりと柔らかくなった。まるで土自身が「耕されたがっている」かのように、鍬の刃が触れた範囲の何倍もの面積が、ふかふかの畝に変わっていく。


「……あら?」


 五分後。気がつけば、空き地全体——ざっと百メートル四方が、完璧に整地された畑に変わっていた。


「え、えっ?」


 慌てて周囲を見回したが、誰もいない。私しかいない。


 ……風のせい? いや、風で畑はできない。この土地は長年放置されていたから、もしかしたら地下の土壌が特殊で、少しの刺激で崩れるタイプだったのかもしれない。——うん、きっとそうだ。


「まあ、結果オーライよね」


 私は気を取り直して、持参した薬草の種を蒔いた。聖レノア草、月光蘭、氷雪薄荷。寒冷地向けの品種を選んできた。


 種を蒔いて、水をやった。


「大きくなあれ」


 純粋な気持ちで、そう呟いた。


 翌朝。


「アリシア様ああああ!!」


 ゴドフリーの叫び声で目が覚めた。


 窓を開けて下を見て、私も叫んだ。


 昨日の空き地が——満開だった。


 聖レノア草が腰の高さまで茂り、白銀の花を咲かせている。月光蘭が星のように光り、氷雪薄荷の清涼な香りが辺り一面に漂っている。普通なら三ヶ月かかる成長が、一晩で完了していた。


「な、何が起きたの……?」


 私は畑に駆け下りた。触ってみると、葉も茎も完璧な状態だ。品質としては、王都の最高級薬草園にも引けを取らない——いや、それ以上かもしれない。


「す、素晴らしい……! この寒冷地で、一晩でこれほどの薬草が……!」


 ゴドフリーが震える声で言った。


「きっとこの土地の力ですよ。フロストヘルムの土壌に、薬草と相性のいい成分が含まれていたんでしょう」


「い、いえ、アリシア様……この土地で百年以上農業を試みた者は皆失敗しております……」


「まあ、偶然って大事ですよね」


 私はにっこり笑った。


 その時、畑の向こうからカイルが歩いてくるのが見えた。相変わらずの無表情。しかし目は——大きく見開かれていた。


「……お前、何をした」 「種を蒔いて、水をやっただけですけど」 「…………」


 カイルは無言で薬草畑を見渡し、一株を手に取り、じっと観察した。


「……これは聖レノア草か。最高品質だな。王都で売れば一株で金貨十枚はする」 「えっ、そんなにするんですか? 嬉しい! これで村の人たちに薬を安く提供できますね!」 「………………」


 カイルは何か言いたそうにしていたが、結局「……ああ」とだけ呟いて城館に戻っていった。


 その背中が、いつもより少し猫背になっているように見えた。

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