もやもやと僕とバルセロナ
僕は旅をしていた。
ここは暗い。空気も水も濁っていてはっきりしない。
気分はもう最悪だ。固く凝り固まったそれは輪郭を失った空気や水を際限なく呑み込み、骨の髄までいやな気分を染み込んでくる。
ここいらで僕の人生が行き止まっているのでは、という考えが頭の片隅を通り過ぎる。
洞窟の中なのか、空の下なのか見分けがつかないほど暗がり。
ここはどこなのか――そう、そうだった。わからないのだ。何もわかっていない。僕の目的やこの場所のことやここにいる経緯まで。
流石に思い出そうと思う。そして、うーんと悩んでやっとそれらしいことを見つけた。
ここはスペインのバルセロナだった。
バルセロナといえばサッカーで、毎日でも祭りを催している陽気な町だと思っていた。しかし、いざ来てみると穏やかで落ち着いたところだ、と思った。ここの空気をめいっぱいに吸い込めば、絵画から出てきた聖母様にふわりと抱擁してもらったような心地よさを感じて体が震える。僕はこの街が好きになった。
僕はその辺にいる観光客の一員であった。しかし計画性と甲斐性が欠けている僕は、特にどこを回るかなんてことを考えたくなかったので旅の計画書は白紙のまま。
そんなことだから空港を出てすぐ暇になった。仕方なく行先はサグラダファミリアに決めた。
正直とても疲れていて気分は落ち込んでいた。途中のバスでは外の景色を見ながら、ぼおっとしようと思ったのに何か変なもやもやが邪魔をしてうまく気を散らすことができなかった。
仕方がないからもやもやと格闘しようとするのだけど、こっちもうまくいかなかった。どうしようもなくなってバスの中を見回していると、バスが止まったのでそこで降りてやってあとは歩くことにした。
ドアが開き、冬の地中海の乾いた空気に浸る。
一足遅れて日の光がさして僕のことをやわらかく包み込む。急に僕は故郷で家族とよく行っていた露天風呂の、あの温かさを思い出した。ホカホカと体の芯が温かくなる。
しかし、いやなこと――病気と借金のことも思い出した。
バッグの中に入った薬の束がやけに気になる。
幸せだった気持ちはどうしたことだろう。一瞬にして見る影もなくなってしまった。冷たい風が身に染みてぶるりと体を震わせる。
先程までもやもやしていたものが徐々に形を成してきて、怪物のような塊が出来上がっている。
塊から逃げよう、という気持ちが瞬時に僕のすべてを支配した。
急いでスマホを取り出す。方向を確認する。足早に歩を進める。
振り切らないと。息を切らす。
僕は尻をついていた。倒れたようだ。困惑して何をすればいいのか分からず頭が真っ白になった。
ゆっくり見上げると一人の女性が僕を見ていた。心配そうな顔だった。
彼女は僕が異国のものであることを感じて身振りでどうにかコミュニケーションをとろうとしていた。
僕は起き上がり、大丈夫だということを伝えて会釈を繰り返しながら彼女のもとを離れる。
再び歩き始めるとだんだんと恥ずかしくなってきた。
羞恥心を振り払いたくて、空を見て、落ち着いた足取りになるように努めた。
バルセロナはきれいな街だった。
道路のわきに規則的に整えられた家並みはある種の爽快感を持っていた。ごうっ、と風が僕の体を強くなでて流れてゆく。
僕にはもやもやがいつもついて回った。どこに行っても、どんな時間でも、たとえ存在を忘れていたとしてももやは僕のことを常に捉えていた。
もやの原因は僕自身にある。それも僕のあらゆることがいけない。よくないものを溶かしてプールに流したようにそれは薄く広がっている。いったん広がってしまった水はもう戻らない。
僕はもやから逃げられないのだ。
それが分かった時、世界にあるいろんなものが嫌になった。
音楽やテレビや友人や恋人や、それらから何を受け取っても僕の感受は棘で突かれたと思い込む。
太陽の光も同じだった。
太陽の下を歩けば、いたたまれない気持ちになる。怒涛の日々をまるで普通のように毎日を過ごしている人達と同じ場所で生きている、ことを克明にさらされているような気がしてしまう。
そう思うともう何もかもがだめになる。
ここは太陽の光がよく透る。
それなのになぜだろう。この吹き抜けはむしろ堂々と開放的で嫌な気分にならない。僕はやっぱりこの街が好きだ、と思った。
身の内に小さな火照りが起こるのを感じる。
人々は皆どこか飄々としている。
足は面白いぐらいに動いた。
どれだけ歩いたのだろう。すっかり夜になってしまった。
さすがに歩いて行くには距離があった。ならばもう一度バスに乗ろうとも思った。しかし、そのたびにもやが顔を出すのでそれ以上考えるのはやめて、もやの顔を念入りに押し返してやるのだ。
今日泊まる宿を探す。拍子抜けなほど案外あっさり見つかった。
フロントの女性に部屋の鍵をもらいエレベーターで五階へ昇る。ドアについている非接触型のロックに鍵をかざす。ピッ、と音が鳴りドアノブの重りが外れた感覚がある。鈍い動作でドアを押し開け、中に入り、明かりをつける。
部屋はベッドや薄いクローゼット、トイレやシャワー室など質素なものだったがむしろ親しみがあって好きであった。
気が抜けて疲れがどっ、と来る。バッグを捨て置き、上着をクローゼットに放り、靴を脱ぎ捨て、靴下を引っ剥がす。
えも言えぬ期待と共に張りのあるベッドに飛び込む。心地の良い弾力に撥ねかえされるのを感じて全身の力を抜き去る。
布団の柔らかさを繰り返し確かめながら僕は目を閉じた。




