面涅将軍:狄青(てきせい)⑧
〇恐怖と怒り(いかり)
1038年から1040年(宝元年間)、北宋と西夏の戦は激しさを増す一方だった。しかし、西夏軍の心には、戦への恐怖よりも、一人の(ひとりの)宋の武将に対する(たいする)畏怖が蔓延していた。その武将こそ、『面涅』と呼ばれる狄青である。
西夏の首都、興慶府の豪華な宮殿の中。西夏の初代皇帝である李元昊は、報告に耳を傾け(かたむけ)ていた。彼の(かれの)前には、先の戦場から戻った(もどった)ばかりの将軍が、青ざめた(あおざめた)顔でひざまずいている。
「陛下…まことに申し訳ございません。敵の兵は、あの狄青たった一人の姿に恐れ(おそれ)をなし、戦意を失って(うしなって)しまいました」
「何だと!? 狄青だと? またあの『面涅』の武将か!」
李元昊は、怒り(いかり)に満ちた(みちた)声で叫び(さけび)、玉座から立ち上がった。彼の目には、屈辱と苛立ち(いらだち)が宿っていた(やどっていた)。たかが一介の兵卒から成り上がった(なりあがった)宋の将が、自軍全体を恐怖に陥れ(おとしいれ)ているという事実が、彼の誇り(ほこり)を深く(ふかく)傷つけ(きずつけ)ていたのだ。
「あの異形の武将には近づくなと、兵士たちは噂し合って(あって)いると申す(もうす)か!? 愚かにも程がある! わが西夏の精鋭が、たった一人の男に怯えるとは!」
李元昊は怒り(いかり)のあまり、手に持っていた(もっていた)杯を床に叩きつけた。陶器の砕ける(くだける)音が、静寂な宮殿に響き渡った。
「よいか! 次の戦では、何が何でもあの狄青を討ち取れ(うちとれ)! 首を刎ねて、わが前に晒せ(さら)すのだ!」
しかし、李元昊の命令は、ことごとく失敗に終わった。何度も狄青を狙った(ねらった)が、彼は常に敵の攻撃を掻い潜り、その度に(たびに)西夏兵を斬り伏せ、あるいは捕虜としていった。狄青が身につける(みにつける)銅面と乱れ髪は、敵の目を眩ませ、彼の動き(うごき)を読ませない。まるで戦場を舞う鬼神そのものだった。
ついに、李元昊は決断した。このままでは、兵士たちの士気は尽き、戦に勝つ(かつ)ことはできない。自分が直接、あの「面涅」を討ち(うち)取るしかない、と。
「狄青! 出て参れ! この李元昊が、貴様に一騎打ちを挑む!」
戦場の真ん中で、李元昊は狄青を指名し、大声で叫んだ(さけんだ)。彼の(かれの)周りには、数多の西夏兵が控え、狄青の反応を固唾を飲んで(のんで)見守っていた(みまもっていた)。
やがて、宋軍の陣から、一人の武将が姿を現した。銅面にざんばら髪のその姿は、紛れもなく狄青だった。彼はゆっくりと馬を進め(すすめ)、李元昊の眼前まで来ると、その場で停止した。
李元昊は、狄青の放つ(はなつ)異様な気迫に、思わず(おもわず)息を呑んだ。しかし、帝王としての矜持が、彼を後退させることを許さなかった。
「ふん! 所詮、顔を隠した臆病者めが! 我が相手をしてやろう!」
李元昊は、そう言い放つと、手に持った得物(武将が戦場で使う武器のこと。刀や槍など、様々(さまざま)な種類がある)を構え(かまえ)、狄青に斬り(きり)かかった。
狄青は、それを冷静にいなした。彼の動き(うごき)は、まるで風のように速く、水のように滑らかだった。李元昊が繰り出す(くりだす)攻撃は、一切狄青に当たらず、まるで彼が最初からそこにはいなかったかのようだった。
そして、狄青は一歩踏み込み、一瞬にして李元昊の懐へと入り込んだ。彼の剣が、李元昊の喉元に突きつけられ(つきつけられ)る。銅面の奥から、低く(ひくく)唸るような声が響いた。
「次に刃を向ければ、命はないと思え(おもえ)」
李元昊は、全身に悪寒が走る(はしる)のを感じた(かんじた)。彼の目の奥には、銅面に隠された狄青の表情は見えない(みえない)。しかし、その気迫は、まるで氷のように冷たく(つめたく)、そして底知れない恐怖を孕んでいた。
『こ、こいつは…本当に(ほんとうに)人間なのか!?』
李元昊は、生まれてこの方、こんなにも強烈な恐怖を感じたことはなかった。身体中の血が凍り付く(こおりつく)ような感覚に襲われ(おそわれ)、彼の脳裏にはただ一言が響いた(ひびいた)。
『逃げろ(にげろ)!』
李元昊は、まるで何かに憑かれたかのように、必死で馬を走らせ(はしらせ)、その場から逃げ出し(にげだし)た。西夏の兵士たちは、自分たちの君主が、たった一人の宋の武将に恐れをなし、逃走する姿を呆然と見送るしかなかった。
この一件で、「面涅将軍」狄青の名は、西夏軍の間で揺るぎない恐怖の象徴として定着した。彼の武勇は伝説となり、宋軍の士気を大いに高める(たかめる)一方で、西夏軍の心に深い影を落とすことになったのだった。
〇雨宿り(あまやどり)の真実
1038年から1040年の宝元年間の冬、西夏との戦は小康状態に入っていた。冷たい(つめたい)雨が大地を濡らし、両軍は一時兵を引いて、それぞれ野営地で休息を取っていた。
狄青の陣営では、焚き火が赤々と燃え(もえ)、その周りに部下の張忠、李義、劉慶、石玉が集まっていた。そこへ、楊家将の楊文広と穆桂英も顔を出した(だした)。戦場の喧騒から離れ(はなれ)、わずかながら訪れた(おとずれた)静寂の中で、皆は火の揺らめきを眺めていた。
「しかし、小隊長殿のあの仮面、一体どういう意味があるんですかね?」
張忠が、素朴な疑問を口にした。彼らは、狄青の並々ならぬ武勇を尊敬しているが、その異様な装いの真意までは知らなかった。
狄青は、手に持っていた(もっていた)銅製の仮面、「銅面」を静かに膝に置いた(おいた)。火の光が、その冷たい(つめたい)金属の表面に反射し、複雑な陰影を作り出す(つくりだす)。
「……この仮面と、乱れ髪には、敵を威嚇する以外にも、もう一つ(ひとつ)の目的がある」
狄青の言葉に、皆の視線が彼に集まる(あつまる)。
「私は、元は貧しい(まずしい)農民の子だ。そして、ある事情で軍隊に入った時、顔に刺青を彫られた」
刺青とは、肌に針で墨などの色をつけ、模様や絵を描くことだ。我が北宋では、下級兵士や罪人の逃亡を防ぐ(ふせぐ)ために、顔に「涅」と呼ばれる青黒い(あおぐろい)印を彫る(ほる)習慣があった。一度彫られると、簡単には消せない一生の印となる。
「もし、私がこの刺青を晒したまま戦場に立てば、敵はどう思うだろうか?」
狄青は、皆の顔を一人ずつ見回した。
「『宋には、まともな将軍がいないのか? 一介の兵卒あがりの、刺青を入れたような男を将にするとは、宋も堕ちたものだ』と、侮るだろう」
彼の言葉に、部下たちはハッと(はっと)した顔をした。彼らの小隊長が、そこまで深く考えていたとは、思いもよらなかったのだ。
「私が侮られれば、それは宋の兵士全体が侮られることと同義だ。だからこそ、この銅面で顔を隠し、髪を乱すことで、敵に畏怖を与え(あたえ)、同時にわが軍の威厳を保つことを心掛けている」
楊文広が、感銘を受けたように言った。
「なるほど…敵を欺き、味方の士気を高めるための、貴殿なりの工夫であったか。その深慮には恐れ入る」
穆桂英も静かに頷いた。彼女は、狄青の言葉の裏に、貧しい出自ゆえの苦悩と、それでもなお国のために尽くそうとする、武人としての誇りを感じ取っていた。
「兵というものは、士気が何よりも大切だ。私一人の(ひとりの)姿が、お前たちの心を奮い立たせ、敵の心を挫くのならば、これ以上の幸いはない」
狄青の言葉は、雨音の中に静かに響き渡った。部下たちは、小隊長の顔にある刺青の理由を初めて知り、彼の覚悟と心遣いに、胸を打たれた(うたれた)。
石玉は、火の粉が舞い上がるのを眺め(ながめ)ながら、心の中で呟いた。
(僕もいつか、小隊長殿のように、誰かの心を奮い立たせるような武将になりたい…)
雨は、止む(やむ)気配を見せ(みせ)なかったが、狄青たちの心には、確かな温かい光が灯っていた。この夜の語らい(かたらい)は、彼らの絆をより一層深め、来るべき激戦に備える力となった。




