面涅将軍:狄青(てきせい)⑦
〇野営地の語らい
1038年から1040年の宝元年間は、北宋と西夏の間で激しい戦が繰り広げられていた。戦に小休止が訪れたある夜、狄青たちは野営地で火を囲んでいた。今日の戦いでも、狄青は銅製の仮面をつけ、ざんばら髪をなびかせながら、まるで鬼神のように敵陣を駆け抜けた。その姿は、敵兵に恐怖を与えるだけでなく、味方の兵士たちにも強烈な印象を残していた。
「いやぁ、小隊長殿の今日の(きょうの)戦ぶりは、さすがに肝を冷やしましたぜ」
張忠が、大きな体を揺らしながら言った。彼の隣では、劉慶が苦笑を漏らしている。
「本当ですよ、小隊長殿。あの仮面と乱れ髪で絶叫しながら突っ込んでいく姿は、怖すぎる」
李義もまた、いつもの冷静さを少し崩し(くずし)て口を開いた。
「あれはもはや人間の域を超え(こえ)ています。戦場の悪鬼、とでも申しましょうか」
若き石玉は、火の粉が舞い上がるのを眺めながら、震える声で呟いた。
「僕も、最初は敵かと思いました…」
狄青は、皆の言葉に静かに耳を傾けていた。そして、手に持っていた(もっていた)銅面を膝に置くと、小さく(ちいさく)息を吐い(つい)た。
「そうか。お前たちにも、そう見えるのか」
彼は、遠くの闇を見つめた(みつめた)。
「戦というものは、ただ武器を振るうだけでは勝てぬ。敵の心を折り、味方の心を奮い立たせ(ふるいたたせ)ることが肝要だ。あの姿が、敵に恐怖を与え、お前たちの背中を押す力になるのなら、本望だ」
と、その時、楊家将の陣から、楊文広と穆桂英が狄青たちの火の側へとやってきた。楊文広は、狄青の姿を見る(みる)なり、感嘆の息を漏らした。
「狄青殿! 今日の貴殿は、まさに軍神そのものでしたぞ! 西夏の兵が蜘蛛の子を散らすように逃げ(にげ)ていく様は、見事としか言いようがない」
穆桂英は、一歩前に出て、狄青をまっすぐに見つめた。彼女の目には、武人として狄青を認める光が宿っていた。
「狄青小隊長。わたくしは、かつて遼の名将である耶律休哥と戦った(たたかった)ことがある。彼もまた、恐るべき武人であったが…貴殿の今日の(きょうの)戦いぶりは、彼以上かもしれぬ」
耶律休哥とは、かつて穆桂英によって打ち破られた(うちやぶられた)遼の勇猛な将軍だ。その彼以上と称賛されたことは、狄青にとってこの上ない誉だった。
「楊文広将軍、穆桂英将軍、過分なお言葉にございます」
狄青は、銅面を抱えながら静かに答えた(こたえた)。
「私はただ、与えられた(あたえられた)役目を全うしているだけ。これも、皆が私に付いてきてくれるおかげです」
謙遜する狄青の言葉に、楊文広は笑い、穆桂英は深く(ふかく)頷いた(うなずいた)。彼らは知っていた(しっていた)。狄青のその異様な姿の裏には、彼が一兵卒から這い上がってきた、並々ならぬ(なみなみならぬ)覚悟と、国を、民を守ろうとする強い心があることを。
野営地の火は静かに燃え(もえ)続け、星々(ほしぼし)が煌々(こうこう)と輝い(かがやい)ていた。明日からはまた激戦の日々(ひび)が待って(まって)いるだろう。しかし、この夜の語らい(かたらい)は、兵士たちの心に、確かな絆と、明日への希望を灯していた。狄青という一人の(ひとりの)武将の存在が、戦場の厳しさの中で、確かな光となって輝き始めていたのだ。
〇「あの顔の武将には近づくな」
1038年から1040年の宝元年間、西夏と北宋の国境では、血と硝煙が絶えなかった。中でも、西夏の兵士たちの間で、ある恐るべき噂が広まりつつあった。それは、「あの顔の武将」、狄青に関する噂だった。
その日もまた、狄青はいつもの異様な姿で戦場を駆け巡っていた。兜を被らず、顔には銅製の仮面、「銅面」をつけ、ざんばら髪をなびかせながら、まるで嵐のように敵陣へと突進していく。彼の口からは、獣のような咆哮が絶えず響き渡り、西夏の兵士たちは、その姿を見るなり、一斉に後退を始めた。
「ひぃっ! あ、あれは…あの化け物だ!」
一人の(ひとりの)西夏兵が、恐怖に顔を歪ませて叫んだ。
「そうだよ、あの銅仮面の武将だ! 近づけばたちまち命を落すぞ!」
別の兵士が震える声で応える。彼らの間では、狄青の姿はもはや人間の域を超え、恐怖の象徴となっていた。西夏の兵士たちは、狄青と目が合うことさえ恐れ(おそれ)、彼の(かれの)剣が振るわれる前に、我先にと逃げ出した。
「止まるな! 逃げるな!」
西夏の将が怒鳴る(どなる)が、兵士たちの足は止ま(とま)らない。狄青の銅面は、彼の顔の表情を完璧に隠し、西夏兵は、彼が次に何をするのか、何を考えているのか、一切読み取ることができなかった。その予測不能さが、彼らの恐怖を一層掻き立てた。
「奴は、まともじゃない。あんなやつと戦えるわけがない!」
「あんなやつは、鬼だ! 人間じゃない!」
戦場に西夏兵の悲鳴が響き渡る。彼らは、狄青という一人の(ひとりの)武将の存在によって、戦意を喪失し、次々(つぎつぎ)と崩壊していく。
狄青がこのような異様な装いをしていたのには、いくつか理由がある。当時、下級兵士には、逃亡を防ぐために顔に刺青を入れる(いれる)ことがあった。「涅」と呼ばれる青黒い(あおぐろい)印は、一度彫られると、ほとんど消す(けす)ことができない。狄青も軍隊に入った(はいった)際にこの刺青を彫られていた。狄青は、この刺青を隠すために銅面をかぶっていたのだ。
しかし、実は、狄青は、自身の刺青を恥だとは思った事はない。しかし、もし彼が刺青を晒したまま戦場に立てば、狄青が1つだけ危惧している「ある事」が起きるかも知れない。
その「ある事」が何なのかは、後に語られる事になる。
西夏兵たちの間に広まった(ひろまった)恐怖の噂は、狄青の名をさらに高めた。彼の存在は、一人の(ひとりの)武将という枠を超え(こえ)、まるで伝説のような存在になっていった。
「面涅将軍」――。顔に刺青のある将軍という異名は、彼の武勇とともに、西夏の兵士たちの心に深く(ふかく)刻み込まれていく。そして、この恐怖は、やがて西夏の君主である李元昊の耳にも届く(とどく)ことになるのだった。