面涅将軍:狄青(てきせい)④
〇西夏という国
1037年。小隊長となって一年。狄青は、部下たちとの絆を深めていた。日々の訓練はもちろん、休息の時間にも、狄青は彼らに様々な話を聞かせた。故郷の村のこと、家族のこと、そして兄から教わった北宋の歴史や政治のこと。それは、彼らにとって、外の世界を知る貴重な機会だった。
ある日の夕暮れ(ゆうぐれ)時、焚き火を囲んで団欒している時のことだった。張忠が、腕組み(くみ)をして首を傾げた。
「小隊長殿、最近、よく耳にする『西夏』って国は、一体どんな国なんです?」
張忠の言葉に、李義が静かに頷いた。
「我々、北宋と、度々(たびたび)争っているようですが、詳しいことは存じません」
劉慶は興味津々といった様子で、石玉は真剣な眼差しで狄青を見つめている。皆、西夏という国が、自分たちの命に関わる存在であることを肌で感じていた。
狄青は、火にくべられた薪がはぜる音を聞きながら、静かに語り(かたり)始めた。
「西夏は、我々、北宋の西の果て、砂漠と山脈に囲まれた地に興った国だ。元は『党項』という民族が中心となって暮らしていた部族だったんだ」
「党項…?」石玉が小さく呟いた。
「そうだ。彼らは元々(もともと)、我々(われわれ)の祖先が築いた唐の時代から、その地で暮らしていた。遊牧を生業とし、勇猛な騎馬民族として知られていた」
狄青は、兄から教わった知識を、噛み砕いて話して聞かせる。
「そんな党項をまと(ま)め上げ、独立した国家として西夏を建国したのが、李元昊という男だ」
李元昊という名が出ると、兵士たちの表情が一段と引き締まった。彼らは、その名を、北宋の脅威として少なからず耳にしていたからだ。
「李元昊は、類稀な才覚を持った人物だ。彼は、それまで各々(おのおの)の部族でバラバラだった党項の民を、強力なリーダーシップで統一し、唐や我々(われわれ)北宋とは一線を画す、彼ら独自の文化と文字を持つ国を築き上げた」
劉慶が感心したように呟いた。
「へえ、自分たちの文字まで作っちまうとは、大したもんですな」
「うむ。それだけ、自国の独立と誇りを重んじていたということだ」
狄青は続ける。
「西夏の軍は、その地の特性を活かした戦法を得意とする。広大な砂漠や乾燥した大地を駆ける騎馬隊は、その速さと機動力で我々(われわれ)を苦しめてきた。彼らは、その気候に耐える強靭な体を持ち、弓の腕前も一流だ」
張忠が拳を握り締めた。
「つまり、一筋縄ではいかねえ、強敵ってことですか」
「その通りだ。だが、恐れる必要はない。我々(われわれ)北宋も、守るべき民と、守るべき故郷がある。それに、彼らにも弱点はある」
李義が鋭く問いかけた。
「弱点とは、何でしょう?」
「西夏の地は、自然環境が厳しい。農作物の収穫も限られ、食料や物資の補給が難しい場合がある。そして、彼らの国は、李元昊という強力な指導者の下で成り立っている。もし、彼に何か(なにか)あれば、国の勢いも傾く可能性もある」
狄青は、淡々と分析を述べた。兄は、北宋と周辺国との関係についても詳しく教えてくれていた。
「我々(われわれ)が西夏と戦うのは、単に敵を倒す(たおす)ためだけではない。我々(われわれ)の国境を守り、民の生活を守るためだ。そのためには、敵を知り、自分たちを知ることが何よりも重要になる」
狄青の言葉は、兵士たちの心に深く(ふかく)刻まれた。彼らは、これから戦う相手がどんな国で、どんな人々(ひとびと)なのかを理解し、戦への覚悟を新た(あらた)にした。石玉は、ひたむきな眼差しで狄青を見上げ、心の中で呟いた。
(小隊長は、何でも知っている。強いだけじゃない、頭も切れるんだ…!)
劉慶は、焚き火の炎をじっと見つめながら、思案に暮れていた。李元昊という人物の存在が、今後の戦にどう影響するのか。そして、自分たちが、この強敵とどう戦っていくべきか。
狄青は、自分の知識が、部下たちの役に立ったことに、静かな喜びを感じた。彼は、ただ武力で兵を率いるだけでなく、彼らに知識を与え、考える力を養うことも、小隊長としての務めだと考えていた。
西夏という強大な敵の存在を明確に意識した彼らは、やがて来る(くる)べき戦に備え、結束を強めていく。この地で、狄青とその部下たちは、歴史の荒波へと身を投じていくことになるのだった。
〇二人の将との出会い
1037年、北宋と西夏の国境付近は、依然として緊迫した空気に包まれていた。小隊長となった狄青は、部下たちを率い、哨戒任務に就いていた。偵察から戻ったばかりの劉慶が、駆け寄ってきた。
「小隊長殿! 西の方向から、見慣れない軍勢が接近しています! 我々(われわれ)北宋の旗印とは異なるようです!」
張忠が得物に手をかけ、李義が冷静に周囲を警戒する。石玉も緊張した面持ちで狄青を見上げた。
「敵か味方か、慎重に様子を探る。構え!」
狄青の指示で、兵士たちは一斉に武器を構えた。やがて、砂塵の向こうから現れたのは、意外な二人組だった。先頭を行く(ゆく)のは、若いながらも精悍な顔立ちの武将。そして、その隣には、凛とした風格を漂わせた女将軍が、馬に跨っていた。
彼らは、北宋の紋章とは異なる、見慣れない旗を掲げていた。しかし、その旗に描かれた楊の文字を認めた瞬間、狄青はハッと息を飲んだ。
『まさか、楊家将の者か……!』
楊家将とは、北宋を守り抜いた、伝説の武門の一族だ。彼らの武勇と忠誠心は、民の間で語り継がれている。
男が馬を止め、狄青の小隊を見据えた。
「お見知り置き願おう。私は楊文広。こちらは、わが母、穆桂英だ」
楊文広の声は若いながらも、確かな響を持っていた。そして、穆桂英。その名を聞いて、狄青の心に電撃が走った。
『穆桂英将軍! 伝説の女傑が、まさかこの地に!』
穆桂英は、かつて女だけの軍を率いて、宋の宿敵であった遼の名将、耶律休哥を討ち取ったという、恐るべき武勇の持ち主だ。その偉業は、北宋の兵士たちの間で、まるで物語のように語り継がれていた。
「狄青と申します。小隊長を務めております」
狄青はすぐに拱手して答えた。拱手とは、両手を胸の前で組む、敬意を表する挨拶のことだ。
「貴殿の隊は、なぜこの地に?」楊文広が問うた。
「我々(われわれ)は、西夏との国境警備のため、哨戒任務に就いております。貴殿方も、もしや西夏と?」
穆桂英が、毅然とした声で答えた。
「その通りだ。我々、楊家将は、長年、この地で西夏の侵攻を食止めてきた。だが、最近の西夏の勢いは増すばかり。我々(われわれ)だけでは、手に負えぬ状況になりつつある」
楊文広が続けた。
「父や祖父の代から、我々(われわれ)楊家は北宋のために戦ってきた。西夏は、民の生活を脅かす存在。何としても、奴らの野望を打ち砕かねばならぬ」
狄青は、楊文広の言葉に深く(ふかく)共感した。彼もまた、国のため、民のために戦うことを誓っていたからだ。
「我々(われわれ)も、同じ(おなじ)志を持っております。先日も、部下たちに西夏の脅威と、その建国者である李元昊について語ったばかりです」
狄青がそう言うと、楊文広の目に、わずかな驚きの色が宿った。
「ほう。貴殿は、ただの武辺者ではないと見受けたが、敵国の知識まで深いとは……」
穆桂英も、狄青を興味深そうに見つめていた。
「よかろう。楊家の者以外で、ここまで西夏の内情に詳しい者は珍しい。貴殿の力量、確かなものと見た」
その言葉に、狄青の胸に熱いものが込み上げてきた。伝説の将軍に認められた喜びと、西夏との戦いへの決意が、より一層強固なものとなった。
「楊文広殿、穆桂英将軍。もしよろしければ、我々(われわれ)の小隊も、貴殿方の力になりたい。共に西夏と戦わせてはいただけませんか!」
狄青は、真剣な眼差しで楊文広と穆桂英に訴えた。張忠や李義、劉慶、石玉も、狄青の言葉に無言で頷き、楊家将との共闘を望む気持ちを示した。
楊文広は、狄青と部下たちの顔を一人ずつ見て、力強く頷いた。
「願ってもないことだ! 貴殿の小隊の加勢は、我々にとって大いなる力となるだろう」
穆桂英も、静かに微笑んだ。
「ようこそ。我々、楊家将と共に(ともに)、この国境の守り(まもり)を固めてほしい」
こうして、狄青と楊文広、そして穆桂英の出会いは、北宋と西夏の戦いの歴史に、新たな一頁を刻むこととなる。貧しい(まずしい)農民出身の兵士と、伝説の武門の末裔が、手を取り合って共通の敵に立ち向かう。それは、やがて来る大いなる戦への、確かな序章となった。