面涅将軍:狄青(てきせい)③
〇刺青の理由
1023年、軍に服役して間もない狄青は、慣れない兵営の生活に戸惑っていた。同じく顔に刺青を彫られたばかりの同僚たちも、皆一様に沈んだ顔をしている。
「なあ、おい……」
一人の兵士が、おそるおそる狄青に話しかけた。彼の頬にも、まだ真新しい青黒い刺青が刻まれている。
「この印は、一体何なんだ? これを彫られた俺たちは、もう、まともな人間として扱われないのか?」
その言葉に、周囲の兵士たちも、不安な表情で狄青を見つめた。狄青自身も心の中では複雑な感情が渦巻いていたが、ここは皆の不安を鎮めるべきだと考えた。彼は、兄から聞いた北宋の知識を思い出しながら、静かに語り始めた。
「これは、刺青と言って、『涅』とも呼ばれる印だ」
狄青は、まず、この印の名称を教えた。彼自身、この言葉を口にするのは初めて(はじめて)だった。
「罪人がなぜ刺青を彫られるかというと、一番の目的は、逃亡を防ぐためだ。当時の兵士、特に下級兵士の中には、厳しい軍務から逃れようとする者もいた。顔に刺青があれば、どこへ行っても『元罪人の兵士』であることが一目で分る。だから、逃げ出そうにも、身分がバレて捕まりやすくなる、というわけだ」
兵士たちは、神妙な面持ちで聞き入っている。
「それだけじゃない。もう一つ(ひとつ)の理由は、罪を犯した者への罰という意味合いもある。顔という人目につく場所に印を刻むことで、その者が罪人であることを周囲に知らしめ、社会的な烙印を押すという目的もあるんだ」
狄青の言葉に、兵士たちは顔を伏せた。自分たちが、社会から疎外された存在なのだと、改めて(あらためて)突きつけられた気持ちだったのだろう。
「じゃあ、俺たちは、この先どうなるんだ? ずっとこのまま、罪人として生きていくしかないのか?」
別の兵士が、震える声で尋ねた。狄青は、彼らの目をまっすぐ見つめ、力強く言った。
「そんなことはない。確かに(たしかに)、この刺青は、簡単には消えない。だが、これを彫られたからといって、人生が終わりではないんだ」
狄青は、前を向くことの大切さを、自分に言い聞かせるように語った。
「この印は、俺たちが過去に何かあったことを示すかもしれない。だが、それだけだ。大事なのは、これからどう生きるかだ。俺たちは軍に入った。軍で功績を挙げれば、この印があったとしても、いつか報われる時が来るかもしれない」
彼は、兄から教わった北宋の政治体制と、わずかながら耳にした立身出世の例を思い出していた。文官が優遇される世ではあるが、武官にも道がないわけではない。
「軍で勇敢に戦い、国に尽くせば、この刺青を負った身でも、出世する道が開ける可能性はある。もちろん、簡単な道ではないだろう。だが、何もしなければ、何も変わらない」
狄青の言葉は、兵士たちの心に、微かな希望の光を灯した。顔に刻まれた印は、彼らが置かれた状況の厳しさを物語るが、同時に、それらを乗り越えようとする強い決意を、彼らに与えた。
「俺たちは、この体で、この顔で、国のために戦うんだ。それが、俺たちの生きる道だ」
狄青は、自分自身にも言い聞かせるように、力を込めて言った。この日から、狄青は単に罪を償うための兵士ではなく、顔の刺青を背負いながらも、自らの力で未来を切り開こうとする、一人の若き武人として、軍の中で生きていくことになるのだった。彼のこの言葉は、彼が後に「面涅将軍」として名を馳せる、その第一歩となったのである。
〇小隊長の誕生と新たな仲間たち
1036年。狄青が軍隊に入ってから、十三年の月日が流れていた。その間、彼は誰よりも真摯に訓練に励み、誰よりも勇敢に任務をこなした。騎馬からの弓術は卓越しており、その腕前は上官たちの間でも評判だった。顔の刺青は消えることなく、彼の身分を物語っていたが、それと同じくらい、彼の武勇と真面目な仕事ぶりもまた、周囲に知れ渡っていた。
ある日、狄青は上官に呼び出された。
「狄青、お前の働き(はたらき)は常に目覚ましい。その武勇、士気、そして何よりも兵を率いる才能は、もはや一兵卒に留めておくには惜しい。よって、本日よりお前を、この部隊の小隊長に任命する!」
小隊長とは、数十人の兵士を率いる立場のことで、彼にとっては初めての昇進だった。まさか自分が、このような役職に就けるとは夢にも思っていなかった狄青は、驚きと喜びで言葉を失った。顔の刺青がある身で、ここまで上がってこられたのは、自分の努力と、それを認めてくれた上官たちのおかげだ。心から感謝の念が湧き上がった。
「はっ! この狄青、微力ながら、全霊を尽して任務に励みます!」
深々(ふかぶか)と頭を下げ、狄青は新たな任地へと向かった。そこには、彼が小隊長として指揮を執る、初めての部下たちが待っていた。
整列した兵士たちの中には、一際大きな体躯の男がいた。彼の名は張忠。顔には傷痕があり、目つきは鋭く、まるで猛獣のようだ。彼は早速、狄青に声をかけた。
「あんたが俺たちの小隊長か。見たところ、ひ弱そうには見えねぇが、どれほどの腕前か、お手並拝見といこうぜ」
張忠は、武勇に優れた者を尊敬する豪放磊落な性格で、言葉は荒いが、根は真っ直ぐな男だった。狄青は不敵に笑った。
「いいだろう。望むところだ。だが、まずは名乗らせてもらおう。私は狄青。今日からお前たちの小隊長だ」
次に前に出たのは、思慮深そうな顔立ちの男、李義だった。彼は張忠とは対照的に、冷静で物静かな雰囲気を纏っている。
「李義と申します。小隊長殿の指揮の下、精一杯務めさせていただきます」
丁寧な言葉遣いと、淀みない態度から、彼が只者ではないことを狄青は感じた。李義は、弓術や槍術に長け、戦場での状況判断に優れた、まさに頼れる副官のようだった。
さらに、小柄ながらも機敏な動きを見せる男、劉慶も自己紹介をした。彼はどこか飄々(ひょうひょう)としていて、時折見せる笑顔には、底知れない思惑が宿っているようにも見えた。
「劉慶だ。小隊長殿の奇策、楽しみにしてますぜ」
劉慶の言葉に、狄青は僅かに眉をひそめた。奇策という言葉に、彼がただの武辺者ではない、頭の切れる男であることを悟った。彼は斥候や連絡役など、機動力を活かした任務を得意としているらしい。
最後に、一番若いと思われる兵士が、緊張した面持ちで前に出た。彼の名は石玉。まだあどけなさの残る顔には、正義感と功名心が同居しているようだ。
「石玉です! 小隊長殿に、認めてもらえるよう、精一杯頑張ります!」
石玉の真摯な言葉に、狄青は柔らかな笑を向けた。彼はまだ経験不足だが、その目の輝きは、確かな成長の可能性を秘めていることを示していた。
張忠、李義、劉慶、そして石玉。この四人が、狄青が小隊長として最初に出会った部下たちだった。彼らは、それぞれ異なる個性と能力を持っていたが、いずれも武術に秀でた者ばかりだ。
「よし、皆、聞け!」
狄青の声が、兵営に響き渡る。
「私は、今日からお前たちの小隊長となった狄青だ。俺の顔には、刺青が彫られている。だからといって、お前たちに劣るところは何もない。むしろ、この身でここまで這い上がってきたからこそ、お前たちの気持ちも、痛いほど分るつもりだ」
彼は続けた。
「俺たちは、この軍にいる以上、国のため、民のために戦う。生きるため、そして自らの誇りのために、戦い抜くんだ。俺はお前たちを信じる。だから、お前たちも、俺を信じてついてきてほしい。この部隊を、誰にも負けない強い部隊にするぞ!」
狄青の言葉は、兵士たちの心に響き、彼らの目に力が宿った。張忠はニヤリと笑い、李義は静かに頷いた。劉慶は面白そうに狄青を見つめ、石玉は憧れの眼差しで彼を見上げていた。
この瞬間、狄青の、そして彼を支える部下たちの、新た(あらた)な物語が始まった。彼らは、この小隊で、幾多の困難を乗り越え、やがて北宋の歴史にその名を刻むことになるのである。