面涅将軍:狄青(てきせい)②
〇兄の教え、国の姿
1022年、狄青は十四歳になっていた。背も伸び、体つきもしっかりしてきた彼は、畑仕事でも大人顔負の働きぶりを見せていた。しかし、彼の心の中には、故郷の歴史や風習だけでなく、もっと広い世界への興味が芽生え始めていた。そんな彼の様子に気づいたのが、年の離れた兄だった。
ある日の夕食後、囲炉裏を囲んで団欒している時のことだ。兄が、狄青に話しかけた。
「青よ、お前は最近、遠い都のことや、世の中の出来事に興味があるようだな」
狄青は、少し照れながら頷いた。
「うん。母さんから村の話を聞いて、もっと色々なことを知り(しり)たくなったんだ」
兄は微笑み、静かに語り始めた。
「そうか。では、今日は私が、この国、北宋のことについて話してやろう。私たちの国は、今から六十年ほど前に、太祖という偉いお方が作られたんだ。都は開封といって、世界中からたくさんの人が集まる、それはそれは賑やかな場所らしい」
当時は皇帝を中心とした中央集権体制が敷かれていた。兄は、そんな国の成り立ちや、政治の仕組み(しくみ)を、狄青にも分かりやすいように説明した。
「この国の政治はね、皇帝様が一番偉いんだ。その下には、文官と武官という役人たちがいて、国の仕事をしている。文官というのは、学問をよく修めて、国の決まりを作ったり、人々(ひとびと)を治めたりする役人のことだ。一方で武官は、軍を率いて国を守る者たちだ」
狄青は、自分が日頃から鍛錬している武術に関わる「武官」という言葉に、ひときわ興味を持ったようだった。
「じゃあ、兄さん、武官になれば、戦って国を守れるのかい?」
狄青が尋ねると、兄は優しい目で頷いた。
「ああ、その通りだ。だが、この国は、文官が武官よりも重んじられる傾向にある。学問を修めた者が、国を動かす中心なんだ。だから、立身出世を目指すなら、学問の道が一番の近道だとされている」
兄は続けて、北宋の文化についても語った。
「都では、詩や絵画、書といった芸術が盛んで、人々(ひとびと)はそれらを楽しんでいるそうだ。お茶の文化も発達していて、『茶館』というお店では、様々(さまざま)なお茶を飲みながら、世間話に花を咲かせると聞く。また、印刷術も進んでいて、たくさんの書物が作られ、人々(ひとびと)は知識を深めている」
狄青は、兄の話に聞き入り、目を輝かせていた。貧しい村で暮らす彼にとって、都の様子は、まるで遠い夢物語のようだった。
「そうか……この国は、そんなに広くて、色々なことがあるんだね」
「ああ、もちろんだ。そして、この国には、様々(さまざま)な風俗がある。たとえば、結婚の儀式一つ(ひとつ)とっても、地域によってしきたりが違う。だが、どこの地域でも、家族を大切にし、先祖を敬う気持ちは同じだ」
兄は、村の外の世界について、詳しく説明してくれた。教科書もなく、先生もいない狄青にとって、兄の言葉は、この国の全体像を知るための、貴重な手掛かりとなった。
兄の話を聞き終えた後、狄青の心の中には、新たな目標が芽生えていた。それは、自分の武術の才を活かし、いつかこの国のために役立ちたいという、漠然とした願いだった。学問の道は閉されていても、自分には武がある。もしかしたら、この体一つ(ひとつ)で、この広い国のどこかで、大きな力になれるかもしれない。
貧しい農家の子である狄青にとって、都や朝廷は遠い存在だった。しかし、兄の語る北宋の姿は、彼の視野を広げ、自分の未来への可能性を示してくれた。この日の教えは、やがて彼が軍人としての道に進むきっかけの一つ(ひとつ)となるのだった。
〇運命の転換点
1023年、天聖元年。狄青は十六歳になっていた。幼い頃から鍛え抜かれた体は、武骨ながらもしなやかで、弓を引く腕はますます力強くなっていた。このまま故郷の村で、畑を耕し、静かに生きていく。それが、彼の描くささやかな未来だった。しかし、運命は、彼に別の道を用意していた。
ある日の夕暮れ時、村に激しい怒鳴り声が響き渡った。何事かと狄青が駆けつけると、そこには村人たちと、兄が揉み合っている姿があった。どうやら、些細な土地の争いが、思わぬ大ごとに発展してしまったらしい。兄は生来の真面目さゆえに、相手の理不尽な言動に我慢がならず、手を出してしまったという。
「やめろ! 兄さん!」
狄青は間に入ろうとしたが、怒りに燃える村人たちの勢いは止まらない。争いは次第にエスカレートし、兄は相手に怪我を負わせてしまった。この時代、郷人――同じ村や地域の住民のこと――との争いは、時として村全体を巻き込む大問題となる。まして、相手に傷を負わせたとなれば、ただでは済まない。兄は捕えられ、役人の元へと連行されることになった。
家族会議が開かれた。父も母も、憔悴しきった顔でうなだれている。兄が罪を償うとなれば、一家は路頭に迷ってしまうだろう。貧しい農家にとって、働き手を失うことは死活問題だった。
その時、狄青は覚悟を決めた顔で、家族の真ん中に進み出た。
「父様、母様、どうか私に、兄さんの罪を被らせてください」
一家は驚いて狄青を見た。
「青や、何を言うか! お前には関係のないことだ!」
父が咎めるように言ったが、狄青の決意は固かった。
「私は武術の腕があります。体も丈夫です。もし軍隊に服役することになっても、きっと耐えられます。兄さんには家族がいます。私が代わりに罪を被れば、この家は守られます」
補足すると、当時の罪を償うための一つの方法として、軍に入ることがあったのだ。
狄青の目には、揺るぎない決意の光が宿っていた。家族は彼の言葉に胸を打たれ、やがて、その提案を受け入れるしかなかった。
かくして、狄青は兄の代わりに罪を被り、軍隊に服役することになった。役人に連れられて村を離れる日、母は泣き崩れ、父は無言で深々と頭を下げた。兄は、弟の犠牲に言葉を失い、ただ涙を流すばかりだった。
軍に入ると、狄青は衝撃的な慣習に直面することになる。当時の北宋では、下級兵士や、罪を償うために軍隊に入った者には、逃亡を防ぐ目的で、顔に刺青を彫ることが通例だったのだ。それは「涅」と呼ばれる青黒い印で、一度彫られたら、生涯消えることはない。
狄青も例外ではなかった。痛みに耐えながら顔に彫られていく刺青は、彼が一般の民ではない、罪を負う者であることを示す証だった。鏡に映る自分の顔を見て、狄青は唇を噛み締めた。この刺青は、彼の心に深い傷を残したが、同時に、彼の人生を決定づける転換点となった。
この服役こそが、狄青の軍人としてのキャリアの始まりだった。故郷を離れ、家族のために自ら険しい道を選んだ狄青は、武術の才を活かす場所を、図らずも見つけることになったのだ。顔の刺青は、彼にとって、生涯消えない烙印であると同時に、困難に立ち向かう決意の証でもあった。
これから彼は、この顔の印とともに、激動の時代を駆け抜けていくことになる。