面涅将軍:狄青(てきせい)①
〇永く語り継がれる英雄
狄青の物語は、北宋の時代、1008年、汾州西河――現在の山西省汾陽市にあたる――の小さな村から始まった。
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貧しき生と、秘めたる才能
その年、狄の家に、新しい命が産声を上げた。父と母は、生まれたばかりのその子を慈しむように抱き上げ、狄青と名付けた。しかし、喜びも束の間、一家を取り巻く現実は厳しいものだった。狄家は代々、貧しい農家であり、その日を暮らすことさえままならない有様だったのだ。
幼い頃から、狄青は他の子どもたちのように、書物を広げ、文字を習う機会には恵まれなかった。朝から晩まで、両親と共に畑を耕し、わずかな収穫を得るために汗を流した。しかし、彼の体には、生まれ持った並外れた才が宿っていた。それは、武術への天賦の才だった。
「青や、その構え、なかなか様になっているぞ」
父がそう言って笑ったのは、狄青がまだ幼い頃のことだ。畑仕事の合間に、狄青は木の枝を槍に見立てて遊んでいた。見よう見まねで覚えた型だったが、その動きには澱みがなく、鋭さがあった。
特に彼が非凡な才能を発揮したのは、騎馬からの弓術だった。村には古い弓が数張あり、狄青はそれを借りては、野を駆ける馬の上から的を射る練習に没頭した。
ある日のこと、村の長老が狄青の弓術を偶然見かける機会があった。的の中心に吸い込まれるように矢が次々(つぎつぎ)と突き刺さる様に、長老は目を見張った。
「おや、あの子は……狄の家の子か」
長老は感心したように呟いた。傍にいた若者が、長老の言葉を受けて言った。
「ええ、そうです。狄青といいます。あの子は、幼い頃から武術の才が並外れています。特に弓の腕は、村一番ですよ」
長老は深く頷いた。
「うむ。若くしてすでに、並外れた武勇を持っている。あれほどの才があれば、いつか大きなことを成し遂げるかもしれぬな」
人々(ひとびと)は口々(くちぐち)に、狄青の将来を語り合った。村の誰もが、貧しい出自にもかかわらず、彼の才を認めていた。
しかし、この時の狄青は、自分の運命が、この先どのように開けていくのか、知る由もなかった。ただひたすらに、己の武術を磨き、日々の糧のために懸命に働くばかりだった。
貧しいながらも、彼の心は、故郷の自然と、家族の温かい愛情に育まれていた。それが、後の彼の人生を支える、確かな土台となっていくことを、この時の彼はまだ知らなかった。
〇母の教え、故郷の彩
1018年、狄青が十歳になった年。汾州西河の村は、春の柔らかな日差しに包まれていた。畑仕事の合間、母は幼い狄青の手を引き、村の裏手にある小高い丘へと向かった。丘の上からは、汾河の流れがゆったりと蛇行し、広がる田畑と、その向こうに連なる山々(やまやま)が見渡せた。
「青や、あそこに古い祠があるだろう」
母が指差す方に、狄青は目を凝らした。石を積み上げただけの、素朴な祠がそこにあった。
「あれは、昔この地を治めていた、ある英雄を祀ったものだよ。私たちの先祖も、その人に守られて、ずっとこの村で暮してきたんだ」
母は、祠にまつわる古い物語を語り始めた。それは、汾州西河の歴史を彩る、様々(さまざま)な出来事だった。昔からこの土地で人々(ひとびと)がどのように生き、何を大切にしてきたのか。戦のこと、豊作の喜び、そして、人々(ひとびと)が織りなしてきた日々の暮らし(くらし)の営み。狄青は、母の語る物語に、じっと耳を傾けた。
「私たちの村ではね、毎年、春には豊作を願う『青苗会』というお祭りをするんだよ。村のみんなで集まって、歌を歌ったり、踊りを踊ったりするんだ」
母は、村の風俗や習慣についても語った。人々が互いに助け合い、共に生きるための知恵や、祭りに込められた願い。狄青の目には、知らなかった故郷の姿が、次々(つぎつぎ)と浮かび上がってきた。
「それからね、この村には自慢の料理がたくさんあるんだよ。特に、『麺食』といって、小麦粉から作る麺の種類は豊富でね。たとえば、『刀削麺』は、生地を刀で削って作るから、形が独特で、モチモチしてとても美味しい(おいしい)んだ」
母は、村で代々(だいだい)伝わる郷土料理の話も聞かせた。貧しいながらも、人々(ひとびと)が知恵を絞って作り出した、素朴で心温まる料理の数々(かずかず)。畑でとれた野菜や、わずかな肉を使い、工夫を凝らしたそれらの料理は、狄青の空腹を満たすだけでなく、故郷の味として、彼の心に深く刻まれていった。
「お母さん、僕もいつか、この村の歴史や、美味しい料理のこと、もっとたくさんの人に教えたいな」
狄青は、無邪気な笑顔で言った。母は、そっと狄青の頭を撫でた。
「そうかい。この村のことは、お前が大人になっても、ずっと忘れないでいておくれ。そして、いつか、この地を、もっと良い場所にしておくれ」
母の言葉は、幼い狄青の心に、故郷への深い愛着と、将来への希望を育んだ。学問を修める機会はなかったが、母の語る物語は、彼にとって何よりも貴重な学びとなった。故郷の歴史を知り、風俗を肌で感じ、郷土料理の温もりを知ったことで、狄青の心には、この地への誇りと、人々(ひとびと)への優しさが根付いていった。
この日から、狄青は、自分が生まれた汾州西河という場所が、単なる貧しい村ではなく、豊かな歴史と文化に彩られた故郷であることを、心の底から感じるようになった。そして、その故郷を守り、人々(ひとびと)が安らかに暮らせる世の中を作りたいという、漠然とした願いが、彼の心に芽生え始めたのだった。