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「それぞれの終わり」


赤黒い霧が、夜のトンネルに滲み出していた。空間がひずみ、明滅するように揺れている。壁には大小様々な手形が無数に浮かんでいる。

寒気を超えた何かが、肌を切るようにまとわりついてきて──ズル……ズルズル……カチャカチャカチャ……。トンネルの奥から“何か”が這うような音が響いてくる。


「……きゃあああああッ!!!」

肝試しカップルの悲鳴が、トンネルにこだました。振り返って逃げようとする彼らの足元に、ぬるりと赤黒い何かが這い出す。

見上げた天井には、吊り下がる無数の髪の束。男の方が何かにつまずいて倒れ、女がその腕を引いて立たせようとするも──

後ろから、澪がすうっと歩み寄ってくる。

その姿はもう、俺達が知っている“澪”じゃなかった。顔は青白く、ところどころ裂けた皮膚から黒い煙のようなものが滲み出ている。長い髪は濡れたように張りつき、目は虚ろに沈み、口元だけが笑っていた。


「ねえ……浮気って、そんなに楽しいの……?」

その声は、氷のように冷たいのに、震えるほど熱を帯びていた。


「ストップ澪、流石にやり過ぎ!!」

俺は声を張ったけど、届かなかった。まるで、空間そのものが俺たちの存在を遮断しているようだった。


「こいつら、人間を殺す気や……!」

「お、俺らも巻き込まれるんちゃうん!?」

「ウチ、まだ成仏する準備できてへんって!

後ろで、剛志達がうろたえてるのが聞こえた。でも、それ以上に大きな“圧”がこの場を支配していた。


そして──


頭上から伸びてきた髪の毛が、男の首に巻付き、ギシギシッ……と音を立てなが絞めあげた。

女の顔には恐怖が焼き付いている。もはや、肝試しとかそういう次元じゃない。

このままじゃ──本当に、誰かが死ぬ。


「澪──!」

鋭く、しおんの声が響いた。

次の瞬間。

トンネル全体が、ぐぐ、と音を立てた。何かが圧し潰されるような重苦しい気配が走って、全ての"怪奇現象"が動きを止めた。空間がピタリと凍りついたような静寂の中、澪の体がわずかに震えた。


「……やめて」

しおんが、すぐ背後に立っていた。その表情はいつものように冷静だけど、瞳の奥には、焦りとも悲しさとも取れる複雑な色が宿っていた。


「これ以上は、あなた自身が壊れるわ」

その言葉に、澪の動きが止まった。ぶつけようとしていた“何か”が、ぎりぎりで失速して、赤い霧が少しずつ後退していく。やがて、天井の髪も、地面の這う影も、すっと霧の中に消えていった。


「う……あ、あぁああ……っ!」

ようやく自由になったカップルの女が、声を上げて泣き出す。

「がはっ…!はぁっ……はや…にげっ…はぁっ……逃げ……!」

先程まで首を絞めあげられてた男は、必死に言葉を発しながら女の手を取って、よろめきながら必死で逃げ出した。

何度も振り返り、何度も転がりながら、トンネルの闇に、その姿は消えていった。


────


しばらくして。辺りは静まり返っていた。

誰もが、言葉を失っていた。剛志達は目を見開いたまま固まり、俺も動けなかった。

そんな中、澪は、その場にしゃがみ込んでいた。さっきまでの異形は消え、ただ静かに、震えていた。


「……ごめんなさい」

小さな声で、ぽつりとそう言った。

「ごめんなさい……ごめんなさい」

まるで壊れた人形のように繰り返しながら、涙が零れ落ちる。その手は、ぎゅっとスカートの端を握りしめていた。


「……わたし」

ぽつり、と、言葉が続いた。


「ある日……彼の姿を見かけたの。駅の近くで。仕事だって言ってたのに…知らない女の人と──腕を組んで、笑って、歩いてた」

声が震えていた。過去の記憶をなぞるように、でも、それが現在の痛みのように。


「見たことない女だった。でも、すごく仲良さそうで。なんかもう、頭が真っ白になって……」

涙がぽたぽたと落ちて、コンクリートに染みていく。


「呼び止めるのが怖かった。問い詰めたら、全部壊れそうで……でも、見てしまったから…」

俺は、息をのんで彼女を見ていた。しおんも、静かに隣に立っている。


「2人が歩いていくのを、ただその場で見つめる事しか出来なかった……なんかどうでも良くなって、気付いたら駅のホームに立ってて……」

静かな、でも重すぎる告白だった。


「浮気なんてするような人じゃないって信じてたのに……彼のこと、本当に、大好きだったのに……」

もう誰に届くわけでもない想いを、澪は言葉にした。しおんがそっと彼女の肩に手を置くと、澪はそのまま、その場に顔を伏せて泣き続けた。


……言葉にならなかった。


ここにいる幽霊達には、それぞれの"終わり"がある。それぞれの痛みや、理由がある。たとえどんな見た目になっても、怖がらせる側になっても──

みんな、本当は、哀しいままなんだ。そんなことを考えているうちに、ふと思い出した。


──「貞子だってツラい人生だったんですよ。可哀想じゃないですか。そりゃ呪いたくもなりますよ」


あのとき、鏡越しに笑いながらそんな事言っていたな。生きていた頃、美容室での何気ない会話。あの時は、半分冗談のつもりでいっていたけど。今は本気でそう思ってた。


──「もし僕が貞子だったら、自分よりだいぶ後に産まれてきたクソガキが呪いのビデオ〜とか言って、ビデオ観て笑ってたらブチギレですよ。ただ呪うじゃなくて、超呪います」

……いや、まさか本当に、悪霊みたいな立場になるとは思ってなかったけど。霊視点でホラー観るタイプだった俺が、死んで霊になって、心霊スポットで幽霊やってるなんて──


なんていうか、人生のオチとしては出来すぎてる。「応援したくなる」なんて言ってた自分が、今はこっち側にいる。そして、応援どころか、止めなければ誰かを本当に殺してしまうような場面に、今こうして立ってる。


……何が、可哀想だよ。

痛みを知った今、ようやく分かる。あのとき笑って語っていた“霊たちの哀しみ”は、思ってた以上に、ずっと、深かった。


──しおんが澪の顔を覗き込み、その額に手を当てる。澪は涙を流しながら、少し虚ろな目で、力なく呼吸していた。

「限界を超えて霊力を使ったわね。これ以上使っちゃダメよ、反動で存在が消えかかってる」


消滅してしまうのかと、思わず口を開きかけたが、しおんが顔だけを向けて制した。

「大丈夫。今はただ、存在が弱まっているだけ。だから少し特別な所へ連れていくよ」

「特別な所……?」

「霊は感情で生きてる。けど、感情で壊れることもある。だから定期的に“心をしまっておく場所”が必要なの。れんちゃんも……いつか来ることがあるかもね」


しおんが両手を軽く合わせると、空気が緩やかに回転を始めた。その中で澪の体がふわりと浮かぶ。澪の体をそっと腕に抱き上げ、れんに一瞥を向ける。

「もう少し、ここでの過ごし方や仕組みに慣れたら、また教えてあげるわ」

そう言い残すと、澪を連れて闇の中にすうっと消えていった。


俺は、トンネルの入り口に立ち、しおん達が消えていった暗がりの奥をしばらく見つめ続けていた。

何かを言いかけて、やめる。ただ、胸の奥にぽっかりと穴が空いたような感覚だけが残った。

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