(20)女王卑弥呼
倭族の言葉で筑紫と呼ばれる九州の北の地で「倭国大乱」を治めた邪馬台国の
女王卑弥呼は、倭族の各部族を臣下として倭族を代表する立場となっていった。卑弥呼は
各部族の訴えを常に公平に取り計らい、ますます各部族の長の信頼を得るようになった。
事ある毎に対立してきた呉系・越系の部族も女王卑弥呼の言葉には従い、その言葉を神の
お告げとして崇めるようになった。
こうして邪馬台国に無くてはならない女王となった卑弥呼だったが、内心では様々な心
配事を抱えており、それを相談できるのは数人の老齢の拝み人だけであり、その日常は孤
独なものだった。卑弥呼は生まれ故郷のヒタ国の人々の事を度々懐かしく思い出した。即
位してから十年後、卑弥呼は拝み人達を使者としてヒタ国に送り、幼い頃の友を邪馬台の
地に招くことを望んだ。
ヒタ国の山の中で鹿や猪の狩りをして暮らしていたナトという少年がいた。ある日ナト
の家に、邪馬台の拝み人たちがやってきた。そしてナトに、邪馬台国に来て女王卑弥呼様
の臣下になる事を勧めた。卑弥呼といわれる女王は、幼いころにナトの友だったミコだと
いう。ナトも、ミコが拝み人を引き連れて邪馬台の兵達の担ぐ輿に乗って去っていく姿を
覚えていた。そのミコが女王卑弥呼となって、ナトに邪馬台国に来て臣下になれと言って
いる。ナトはすぐさま承諾し、同じく卑弥呼に呼ばれた数名の男女とともに、邪馬台国へ
向うことにした。邪馬台の兵や輿に乗った拝み人に従って村から出て行くナト達一行を、
ヒタ国の人々は心配そうに見送った。
ヒタ国を出立したナト達一行は北に向かい、幾つもの峠と谷を越え筑紫の地に入った。
稲穂の実る田やそと人達で賑わう村々を通り、邪馬台国の中心にある大きな砦に到着した。
砦の周囲を囲んだ深い堀に架けられた木橋を渡り、高い柵で囲まれた砦の中に入ると、物
見櫓や高床式の家が建ち並んだ中の、ひときわ大きい館の前の広場に案内された。しばら
くすると、見上げる高い階段の上に輝くばかりに美しくなったミコ(卑弥呼)が現れた。
ヒタ国から来た一行を笑顔で出迎えた卑弥呼は、ヒタ国の者たちだけを館の中に招き入れ
ると、一人一人の手を取り「遠いところをありがとう、会いたかった、来てくれて嬉しい」
と涙を流し喜んだ。
邪馬台国の王宮に招かれたヒタ国の者達は、その後この館にとどまり、長く卑弥呼に仕
える事になった。女王卑弥呼はヒタ国から来た者たちを重用し、この側近たちを通じて、
邪馬台国の家臣や各部族の長に命を伝えることになった。中でもこのナト、後に難升米
(ナトメ)と呼ばれた男は、卑弥呼の右腕としての役割を担う事になった。こうして昔、
ヤマタイに国を奪われたヒタ国の人々は、女王卑弥呼の下で邪馬台国の政を
左右する重要な地位を占める事となった。
倭族達を代表する立場となった邪馬台国だが、倭族の中の越系と呉系の部族との反目は
残っていた。各部族の土地をめぐる争いは卑弥呼の調停でなんとか治めていたが、完全な
解決は難しくなっていった。その上筑紫の地には毎年のように更なるそと人の部族が渡来
し混雑を増していた。新来の部族の増加とともに、倭族達は新たな土地が必要となった。
北の海を渡った土地、内海を東へいった土地には、昔からの呉系・越系のそと人が治め
る国々が栄え、倭族たちの行く手を阻んでいた。そこで邪馬台国の女王卑弥呼が目を付け
たのが南のクマ族の地だった。卑弥呼にとって、球磨国を支配している秦人達は、
かつてわ人達の国であったワヒ国に侵攻し一日でワヒ国を攻め滅ぼした敵だった。秦人達
は村の砦を守るワヒ国の兵を皆殺しにし、城の前にその遺体を山のように積み上げた。そ
の残忍さは、幼かった卑弥呼の目に焼き付いていた。
女王卑弥呼が率いる邪馬台国は、狗奴国との戦いの準備を始めた。邪馬台国は倭(委)族
の中心だった委国を委奴国と呼んだように、球磨国を狗奴国と呼んだ。女
王卑弥呼は筑紫の地の倭族達に狗奴国に対する戦の準備を命じると共に、ヒタ国のわ人達
にも、いまは狗奴国にある旧ワヒ国を取り戻す好機として兵を出すことを呼びかけた。ヒ
タ国のわ人達は、喜んでこれに応じ、兵を出すことを承知した。
次の年、邪馬台国は筑紫の地で倭族の諸部族から一万五千の兵を集め、南の狗奴国に向っ
た。倭族の諸部族は越系の白旗、呉系の赤旗を並べ狗奴国の峠に攻めかかった。対する狗
奴国は、国境の峠に堅固な防衛線を構築し、黒旗を並べる精強な秦人兵を中心に八千の軍
を配置した。鐘が鳴り響き地響きのような歓声のなか戦いが始まった。
赤旗を掲げた呉系の倭人兵が狗奴国の陣に突撃をかける。待ち構える狗奴国の兵達は強力
な弓を放って、押し寄せる倭族の兵達を次々と射抜いて行く。峠を迂回した秦人達の騎馬
兵が倭族軍の後方に襲い掛かる。そこに越系の白旗を掲げた倭族の兵が放つ矢が周りから
降り注ぎ、馬を射られた秦人達の騎馬兵が撤退して行く。
ヒタ国から来援したわ人達の兵五百は、山を越えて旧ワヒ国の村の東の小高い丘にある
城を目指した。昔わ人達が造った城には少数のクマ族の兵しか残っておらず、わ人達の兵
が簡単に取り戻した。城の目の前に広がる倭族軍と狗奴国軍との混戦は倭族軍が優勢とな
り、狗奴国軍は退却を始めていた。わ人達も城から撃って出て狗奴国軍に襲いかかった。
わ人達の突撃に不意を突かれた狗奴国軍は総崩れとなり、戦う事もなく南へ撤退していく。
一方、北の峠に立て籠もって戦っていた狗奴国の兵達は攻めかかる倭族軍を何度も撃退し
ていたが、二日後に砦を撤収し、南の狗奴国の地を目指して撤退を開始した。
旧ワヒ国の戦場には狗奴国の兵と倭族の兵の死体が散乱した。
旧ワヒ国の地を回復した倭族軍は、この戦い以降幾度も狗奴国に攻めかかったが、狗奴
国の抵抗は激しく、倭族軍は狗奴国に一歩も攻め入る事が出来なかった。逆に秦人達の騎
馬兵や狗奴国兵が旧ワヒ国に侵入して戦いが起こる事も多かった。戦況は一進一退の状況
が続いていた。




